エピローグ 二律背反の新たな一日
神保町の古い雑居ビルの二階。かつてインクの雨が街を飲み込んだ惨劇など嘘のように、解呪屋・二律背反の店内には平和な珈琲の香りが漂っていた。
「……あ、ちょっと累。ハンバーグを焼く前に、ちゃんと手を洗った?」
律は、キッチンでエプロンを締め、かつての温厚な微笑みを浮かべていた。眼鏡を外した今の彼は、どこにでもいる世話焼きな青年にしか見えない。
「るせぇな。オレ様は神霊だぞ。菌なんて寄り付かねぇよ」
「そういう問題じゃないんだ。……あ、陽菜ちゃん。悪いけど、そっちのレタスを洗っておいてもらえるかな?」
「はい! 了解です、先生!」
カウンターの向こうで元気よく返事をしたのは、新人アルバイトの一ノ瀬 陽菜だ。
彼女は、少女漫画から飛び出してきたような、一見すると「健気な看板娘」である。だが、その背中には大きなリュックを背負い、中には古今東西の怪異を記録した「自作の図鑑」が詰まっている。
彼女は、重度の「怪異の断末魔フェチ」だった。
「私、律先生の解呪の瞬間が一番好きなんです。特に、怪異が論理的に追い詰められて、最後に『あり得ない!』って絶叫しながら消えるあの瞬間の周波数。……あれ、録音して寝る前に聴きたいくらいです」
「……陽菜ちゃん、また物騒なことを言ってるね」
律は苦笑いしながら、ハンバーグの形を整える。温厚な律と、傲慢な神霊の累。そこに「怪異の死に際」を愛でる陽菜が加わった『二律背反』は、以前よりもずっと賑やかで、そして少しだけ狂っていた。
その時、カランと鈴が鳴った。
「……あの、助けてください」
入ってきたのは、震える手でスマートフォンを握りしめたサラリーマンだった。
彼の背後。スマートフォンの画面から溢れ出した無数の「赤い文字」が、鎖となって男の全身に巻き付いている。
律は、キッチン台に置いてあった眼鏡を、ゆっくりと、しかし迷いのない動作で手にした。
カチリ、とフレームが耳に掛かる。
「ようこそ、解呪屋『二律背反』へ」
「あ……が、あ……っ」
「救いますと言いたいところだが。……さて。あんたがその『呪い』を立派に育てるために、一体どんな質の良い嘘を重ねてきたのか。まずはそこから教えてもらおうか」
律はペンを握る男の耳元で、死神のように囁く。
「報酬は、あんたの全資産の三割。そして……」
「あ、先生ー! あと今夜のハンバーグの高級合挽き肉代も、経費で落とさせてもらっていいですか?」
陽菜が、まったく空気を読まずに伝票を差し出す。
一瞬、凍りつくような沈黙。
「……ああ、それも追加しておいてくれ」
律は小さく溜息をつき、再び怪異を射抜いた。
文字の鎖が蛇のように鎌首をもたげ、牙を剥いて男の喉元へ食らいつこうとした。
首を縦に振った男が絶叫しようとした瞬間、文字の鎖が蛇のように鎌首をもたげ、鋭い牙を剥いて男の喉元へ食らいつこうとした。
「――出た。SNSの『炎上(物理)』系怪異。捕食の瞬間、いい波形が出そうです!」
陽菜が、嬉々としてボイスレコーダーを取り出す。
その瞬間、それまで鼻歌を歌っていた律の空気が、一変した。
「陽菜、下がれ」
「……累も、遊びは終わりだ。契約通り、力を貸せ」
「ヘッ。待ってたぜ、その冷たい声」
累が影から飛び出し、律の右腕と一体化する。
律の首筋にある「再契約」の紋章が、虹色のノイズを放ち、周囲の空間を「法典」の縛りから解き放っていく。
「さて。……そのデタラメな怪異、俺が根底から否定してあげようか」
律が右手を掲げる。その先には、どんな正論も届かない「矛盾の刃」が、月光のような鋭さを伴って顕現していた。
「術式・二律背反――解呪、開始」
閃光が走り、律の一振りが怪異の喉元へと吸い込まれていく。
不条理な世界の片隅で、彼らの戦いは、これからも続いていく。
(完)
※本作はここで『完結』になります。
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