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最終話 英雄と累との再契約

 雨は、もうインクの匂いさえもしなかった。

ただ冷たく、すべてを洗い流そうとする無機質な水滴が、全白紙化していく律の視界を叩く。


「……あ……、累……」


律の身体が、音もなく崩れようとしたその時だった。

雨音を切り裂くように、重厚な靴音が響いた。


「――そこまでにしろ、堂々。これ以上の衝突は、我々怪異の『定義』を完全に壊してしまう」


今の堂々と同じマッドブラックの漆黒のコート。全身を覆う呪いつくしたような黒い記号。

路地の奥から現れたその男の姿を見た瞬間、膝をついていた堂々廻の瞳に、初めて「恐怖」の色が走った。


「あなたは……何者だい? 僕の、組織の『法的執行』を、ただの足音一つで中和したというの?」


堂々は血を吐きながら問う。一年前、同じ雨の日に律という泥棒を見逃し、その責任を負って執行者へと成り上がった堂々。しかし、彼は自らが属する「組織」の頂点に座る者の顔を、今の今まで知らなかった。


「私の名は、ワニ。お前たちが崇める『法典』を綴った者だ」


「……っ、そんな馬鹿な……。あなたが……ボスだって……!?」


ワニと呼ばれた男は、堂々を無視し、意識が消えかけている律の元へ歩み寄った。

律にとっても、この男は「霧島家で予言を盗んだ相手」という認識しかなかった。まさか、自分を追い詰め続けてきた巨悪の正体そのものだとは、夢にも思わなかった。


「……ワニ……あんた、何をしに来た……」


「律と累、お前たち二人の契約を、見届けに来たのだ」


ワニの瞳に、一年前の「あの日」の情景が重なる。

その視線に導かれるように、堂々廻の脳裏にも、自身が人間を捨てた「あの日」の記憶が溢れ出した。


【回想:堂々廻の一年前】


 一年前。堂々は、まだ「堂々廻」という名の一人の人間に過ぎなかった。

だが、その平穏は、スマートフォンの画面越しに放たれた、たった数行の「言葉」によって崩壊した。


彼の妹は、SNSで繋がっていた顔も知らないフォロワーに対し、一時の苛立ちから残酷な言葉を投げ続けてしまった。匿名性の殻に隠れた、指先一つで放たれる毒。しかしその言葉は、受け取った相手にとって、世界を終わらせるのに十分な絶望となった。

翌月、そのフォロワーは自ら命を絶った。


その直後からだ。妹の周囲に「黒いノイズ」が漂い始めたのは。

妹を襲ったのは、自責の念という名の極上の餌を食らう「言葉の怪異」だった。


「お兄ちゃん、ごめんなさい……。私、あんなこと言うつもりじゃなかったの……」


妹の死に目に立ち会った堂々は、絶叫した。

妹の肉体は、彼女自身が放った罵詈雑言の文字に侵食され、ドロドロとした異形へと変じようとしていた。このまま死ねば、彼女の魂は救われず、罪を背負ったまま醜い怪異として永遠の地獄を彷徨うことになる。


「……行かせない。お前の罪も、呪いも、全部お兄ちゃん(僕)が持っていくから。地獄に行くのは、僕一人でいい」


堂々は、妹に取り憑いていた漆黒の文字の塊を、自らの胸へと無理やり引きずり込んだ。

肉体が内側から引き裂かれるような激痛。だが、その代償として、妹は兄の腕の中で人としての穏やかな顔を取り戻し、静かに息絶えた。


一方で、怪異を自らに封じ込めた堂々は、人間であることを捨てた。妹が犯した「言葉の罪」を一生背負い続け、怪異として生きるための、彼なりの血塗られた「罰」だったのだ。


「堂々。お前のその『身代わり』の精神は、組織を維持する良い歯車になった」


ワニの冷たい声が、回想を断ち切る。


「そして律。一年前、お前が脳死した青年・霧島律の器を奪ったあの日……。世界を記述する私のペンが、歓喜に震えたのを覚えているよ。死体に居座る名もなき怪異。その醜い執着こそが、決定された未来を壊すための『毒』になると確信した」


ワニは、白紙に染まりゆく律の手を、宝物に触れるように優しく取った。


「霧島家に予言を与えたのも、予言を途絶えさせたのも、私自身だ。あの一族の繁栄など、お前という『最高傑作のバグ』を釣り上げるための、長大な年月をかけた餌に過ぎない。お前が人間の器を盗み出し、物語を逸脱し始めたその瞬間に、私の『予言』は役目を終えた。もはや未来を書き記す必要などなくなったのだから」


ワニの瞳の奥で、数多の文字が渦巻く。


「お前を育て、迷走した組織の正論を内側から食い破らせる。それが私の計画だった。だが、お前が築いた累との絆……それだけは、私の予言にもなかった唯一の『誤植』だ。神霊と泥棒が、地獄を共に歩むなど、誰が想像できたと思う?」


「……気づいていたか、律。お前の傍にいるその飢えた神霊は、私の剥製から分かたれた我が息子だということを。我らワニの血脈は、宿命的に何かを喰らわずにはいられない。

私は『未来』を喰らう。予言によって決められた未来の運命に抗う。だが、私の息子は違う。累が喰らうのは、常に『現在』だ。あやつは先のことなど考えず、ただ目の前の運命に、本能で抗う存在だ。

理屈で未来に抗う私と、本能で現在に抗う息子……。どちらが真に価値ある『嘘』か、お前が証明してみせろ」


ワニは律を見つめ、残酷なほど美しい笑みを浮かべた。


「律、どちらかを選べ。このまま一人消えるか。それとも、累と真の契約を結びこの世界に繋ぎ止める『真の依代』として……二人揃って地獄のような生を全うするか」


律は、累の震える手を見つめた。

自分がいなくなれば、この生意気な神霊は帰る場所を失い、消えてしまう。

自分が泥棒だとしても。嘘つきだとしても。

この温もりを現世に繋ぎ止めるためなら、どんな呪いでも飲んでやる。


「律、オレは当然オマエについていくぜ。地獄の底まで付き合ってやるって言っただろ」

実体を失いかけながらも、累の言葉には微塵の迷いもなかった。その不遜で、どこまでも純粋な言葉が、崩れゆく律の背中を力強く押し上げる。


「……ああ、……いいぜ、ワニ。……累、再契約だ。俺は、……この身体を最後まで使い切って、……累と、ハンバーグを焼く」


律の言葉が、物語の最後の一行を書き換えた。

「死体の占拠者」が、「神霊を愛する怪異」へと定義を再獲得した瞬間。律の首筋の刻印が、透き通った光を放ち、新宿を覆っていた法的執行をすべて吹き飛ばした。


ワニは満足げに、雨の中に消えていった。

残された堂々廻は、砕けた仮面の隙間から涙を流し、力なく空を仰いでいた。



【二匹のワニ:解説】

本作に登場する「累」と組織のボスは、実は「父と子」「未来と現在」という鏡合わせの存在です。

共通点と「剥製」の謎

どちらもワニの怪異ですが、累はボスの体の一部(剥製)から生み出された息子。同じ血を引きながらも、その性質は真逆の二律背反となっています。


喰らうものの違い

ボスが喰らうのは「未来」。予言で運命に抗う理屈の象徴です。


対する累が喰らうのは、今この瞬間の苦しみ、つまり「現在(呪い)」。本能で現在の運命に抗う、野生の象徴です。


未来に抗う父と、現在を抗う息子。

この二匹のワニの存在は、そのまま「どうやって決められた運命に抗うのか」という本作の核となるテーマに繋がっています。



■ 超越存在

組織のボス

予言のワニ

強制力:SS

解説: 霧島家を滅ぼし、世界を確定した絶望へと導く、抗いようのない「運命の体現者」。



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