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第40話 二律背反の真実⑤

沈黙が死んだ街に、ノイズのような雨が降り始めた。

それは空を覆う文字の雲から滴る、黒いインクの雨だ。アスファルトを叩く音は、まるで無数の指がタイプライターを叩く音のように、規則正しく、そして無機質に街に響き渡っていた。


律は、意識を失いかけた累を背負い、力のない足取りで灰色の路地を進んでいた。

司教との戦いで、累の霊体は極限まで摩耗している。背中に感じる重みは羽毛のように頼りなく、時折、累の身体が透けて背後の景色が見えるたびに、律の心臓は冷たい手で掴まれるような錯覚に陥った。


「……累。寝ちゃダメだよ。……あのお店、まだ壊れてないはずだから。帰ったら、温かいスープも作るからね」


律の声は、完全にいつもの穏やかな響きに戻っていた。先ほどまでの、論理で世界を切り裂くような鋭い声は、もうどこにもない。安楽死を拒み、死体から人生を盗み取った「不法占拠者」であることを認めてなお、彼はこの優しい偽りの日常を維持しようと足掻いていた。


ようやく辿り着いた「二律背反アンチノミー」の店。

幸いなことに、周囲の建物が文字に侵食される中で、この古びた店舗兼事務所だけは、まるで時間の流れから切り離されたかのように、そのままの姿でそこに立っていた。律が扉を押し開けると、カランと乾いた鈴の音が響く。


「……ただいま」


返事はない。だが、カウンターの奥に漂う微かな珈琲の香りが、ここがまだ自分たちの場所であることを示していた。律は累を奥のソファへ横たえ、毛布を深く掛けた。累の寝顔は、かつて南米の神殿で数百年を過ごしてきた神霊とは思えないほど、ただの幼い少年のようにあどけなかった。


律はキッチンの水場に立ち、震える手で顔を洗った。

鏡に映る自分の顔を見る。

肌の下を這う黒い文字の痣は、司教との戦いを経て、さらに深く、強固に彼の肉体に根を張っていた。


(……予言の最後にあった、あの名前)


脳裏に、白紙の海で見えたあの一文が蘇る。

『……偽りの王、沈黙の果て、彼は真実の淵を歩む。その名は――』


霧島家の奥底に封印されていた、ワニの予言。

その最期の空白に書き込まれようとしていたのは、自分が奪った青年の名だったのか、それとも「背反ニ 律」という自分の不法な存在を指す言葉だったのか。


もし、自分のこの「盗奪」さえもが、何者かによって仕組まれた筋書きだったとしたら。


「……僕は、誰の手のひらの上で踊っているんだろう」


蛇口から滴る水の音が、時計の秒針のように響く。

律は、自分の胸元に手を当てた。そこには、盗んだはずの体が、まるで最初からそこにあるのが当然であるかのように、不気味な拍動を続けている。


その時、店の入り口の鈴が、再び音を立てた。

累ではない。律でもない。

このパンデミックの渦中にあって、あまりにも平然とした、規則正しい足音。


律は反射的に、解呪師としての冷徹な視線を入り口へと向けた。

そこには、純白の制服に身を包んだ、一人の小柄な少女が立っていた。

彼女の胸元には、組織の執行者であることを示す、金色の「J」のエンブレム。


「……お疲れ様です、不法占拠者さん。司教を落とすなんて、予想外のイレギュラー(誤植)でした」


少女は、感情の読めない人形のような微笑を浮かべ、店内の凄惨な空気など気にする様子もなく歩み寄ってきた。


「私の名は、J。……沈黙が去り、次に来るべきものは何か、分かりますか?」


彼女の手には、一本の真紅の「ペン」が握られていた。

それはミズキが使っていたような大量生産の凶器ではない。一つの世界を一筆で書き換えてしまうような、圧倒的な「決定権」を持つペンだ。


「……『沈黙』の次はですねぇ……『改竄』です♪」


律は、累を守るようにソファの前に立ちふさがった。

身体はボロボロだ。論理のストックも、もう底を突いている。

だが、律の瞳には、死に損なった者が持つ、暗く深い執念が宿っていた。


「僕からこれ以上、何も奪わせない。……たとえ、この世界がどんなに正しい終わり方を望んでいたとしてもね」


少女――Jは、楽しそうに目を細めた。

「いいですね、その生存本能。……では、次のページを開きましょう。……新しい物語のタイトルは、……そうですね……」


少女がペンを振るうと、店内の壁一面に、鮮血のような文字が躍った。


――【J:改竄される楽園】――


新宿の街に響いていたインクの雨が、一瞬で止まった。

代わりに降り始めたのは、真っ白な、雪のように美しい「偽りの記憶」の破片だった。


律は累の手を握りしめ、次なる絶望を睨みつけた。

二律背反の真実は、まだその深淵の入り口に過ぎない。


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