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第39話 二律背反の真実④

「……馬鹿な。罪を、弱さを認めてなお……なぜ、その記述が崩れないのですか」


沈黙の司教の声に、初めて動揺の色が混じった。

彼が展開した「白紙」の領域は、対象の正当性を剥ぎ取り、存在価値をゼロにするための処刑場だ。安楽死を控えた死体の器を奪い、生への執着から不法に居座り続ける背反ニ 律。その「醜悪な真実」を突きつけられれば、存在は自己崩壊し、沈黙の中に霧散するはずだった。


しかし、律の輪郭は崩れるどころか、累の放つ黄金の光を吸収し、不気味なほどの質量を持って再構築されていた。


「司教……。あんたは、記述の正しさにこだわりすぎた」


律の瞳は、片方が累の黄金、もう片方が痣の黒に染まり、歪な輝きを放っている。


「俺が泥棒なのも、不法占拠者なのも……あんたが指摘するまでもなく、一年前から、この一分一秒まで、ずっと俺自身が一番よく分かっていたことだ」


律は一歩、司教に向かって踏み出した。

その足跡には、どす黒い言葉の泥がこびり付き、司教の「空白」を物理的に侵食していく。


「正しいから生きてるんじゃない。……死ぬのが怖くて、生きたくて、誰かの場所を奪ってでもここにいたい。その『汚れ』こそが、俺がこの器を動かしている唯一の燃料なんだよ!」


律の背後で、累が吠えた。影となった累の爪が、司教が展開していた術式の結界を内側から引き裂く。


「そうだ! 綺麗なだけの記録なんて、クソ喰らえだ! 律、全部ぶちまけてやれ! オマエがこの一年、どれだけ必死にその『嘘』を守り通してきたか、その重さを教えてやれ!!」


二人の意志が完全に融解し、律の右手に「概念を殺すための剣」が形成される。

それは、かつて累の予言で喰らった怪異の断片を、累の神霊としての波動で練り上げ、律の絶望で研ぎ澄ませた、世界に一振りだけの「矛盾の刃」。


「術式・二律背反――『未完の呪縛エンドレス・ログ』!!」


律が剣を振り抜くと、司教が守護していた「絶対沈黙」の壁が、ガラスが砕けるような音を立てて崩壊した。

空白の領域に、新宿の喧騒、犠牲者たちの断末魔、そして律と累が過ごしてきた静かな朝の物音……あらゆる「音」が、濁流となって流れ込んだ。


「……あ、……ああああああ!!」


司教の胸の空洞から、耐えきれないほどのノイズが噴き出す。

世界を静寂へと還元しようとしていた彼にとって、定義不能な「生きる音」の氾濫は、存在の根本を腐らせる猛毒に他ならなかった。


「ありえない……! こんな、不純な、……矛盾に満ちた物語が、……世界の福音を……っ!」


「あんたの言う福音は、誰もいない墓場と同じだ。……俺たちは、どれだけ醜くても、……名前のないこの地獄を選ぶ!」


律と累の声が重なり、刃が司教の仮面を真っ二つに叩き割った。

司教の法衣が弾け飛び、その中から溢れ出したのは、彼がこれまで吸い込んできた膨大な「言葉」の残骸だ。

それらは自由を求めて司教の身体を内側から食い破り、沈黙の支配者は、自分が拒絶してきた言葉の海に溺れながら、塵となって霧散していった。


衝撃波が収まり、灰色の街に、ようやく「まともな音」が戻ってきた。

遠くで響く救急車のサイレン、風に揺れる看板の音。それはパンデミックが収束したわけではないことを告げる非情な音だったが、律たちにとっては、自分たちがまだこの世界に繋ぎ止められている証明でもあった。


バサリ、と二人の身体がアスファルトに転がった。

律の呼吸は荒く、全身の毛細血管が浮き上がり、首筋の刻印からは煙が立ち上っている。


「……ハァ、……ハァ……。累、……大丈夫?」


もう一つの穏やかな性格に戻った律が隣に横たわる少年に手を伸ばした。

累は、今にも消えそうなほど希薄になっていた。司教を打倒するために、彼は自分の根源的な霊力のほとんどを使い果たしてしまったのだ。


「……ヘッ。……死ぬかと思ったぜ……。……律、……オマエ、……本当に、不味い飯……作れよ……。……次は、……もっとマシなのを……」


累の手が、律の手を弱々しく握りしめる。

その温もりは驚くほど小さかったが、律にとっては、どんな予言よりも確かな「真実」だった。


「うん。……帰ったら、……一番高い肉を買ってあげるから。……だから、……寝ないでよ」


律は、震える手で累を抱き上げた。

司教を倒した。自らの正体を知られた。

だが、二人の関係は、壊れるどころか、逃げ場のない「運命の共同体」へと変質していた。


ふと、律は自分を飲み込もうとしていた白紙の海の中で、最後に見えた映像を思い出していた。

霧島家にあったワニの予言。その最後の行に記されていた、意味深な一文。


『……偽りの王、沈黙の果て、彼は真実の淵を歩む。……その名は──』


それは、自分が不法占拠することさえも予見されていたかのような、不気味な符号。

ワニは、あの日、自分という泥棒が来ることを知っていたのではないか。


「……まだ、終わらせてくれないのか」


律は、文字の雲に覆われた空を見上げた。

パンデミックは止まらない。組織の次なる刺客(執行者)も、すぐに現れるだろう。

それでも、律はもう迷わなかった。


たとえこの身体が、誰かから奪った殻であっても。

たとえこの名が、呪いから始まった嘘であっても。

隣にいる累が「律」と呼んでくれる限り、彼は不法占拠者として、世界の調律を狂わせ続ける。


律は、静かに目を閉じた。

次なる地獄――の足音が、沈黙の消えた街に響き始めていた。


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