第41話 改竄される楽園 ①
屋根や天井すらもすり抜けて降ってくる真っ白な「偽りの記憶」の破片。
それは、空から舞い落ちる美しい雪のようでありながら、肌に触れた瞬間に意識の輪郭をチクリと刺し、書き換えていく冷徹な情報の礫だった。
カラン、と。
事務所の扉を、誰かが外側から閉めた。いや、それは扉が閉まった音ではなく、この店を包む「世界」が物理的に隔絶された音だった。
「……改竄、だと」
律は解呪師の顔になると、累が横たわるソファの前に立ち、Jと名乗った少女を見据えた。
彼女が手にする真紅のペン。そこから溢れ出すインクの香りは、甘く、人を陶酔させるような毒の気配を孕んでいる。
「ええ。司教が目指したのは『空白』。何もない静寂です。でも、それじゃあ面白くないでしょう?」
Jは、小柄な身体に不似合いなほど重厚な足取りで、店内のカウンターへと腰を下ろした。まるでそこが最初から自分の指定席であったかのように。
「組織の新しい方針は『再定義』。壊れた世界を、誰も悲しまない、完璧に幸福な記述で塗りつぶすこと。……不法占拠者さん。あなただって、本当は望んでいるはずですよ。自分が犯した『盗奪』も、この累くんの衰弱も、すべてがなかったことになる……優しい嘘を」
Jが宙でペンを走らせる。
その軌跡が空中で文字となり、店内に降り注ぐ「雪」と混ざり合う。
すると、律の視界が微かに歪んだ。
(……温かい?)
不意に、律の鼻をくすぐったのは、淹れたての珈琲の匂いと、朝の陽光のような柔らかな空気だった。
さっきまで耳の奥で鳴り止なかった「文字の雨」の音も、累の苦しげな喘ぎ声も、霧が晴れるように消えていく。
気づけば、ソファに横たわっていたはずの累が、あくびをしながら起き上がっていた。
「……ふわぁ、……おはよ、律。……今日のご飯、何?」
その瞳に、摩耗した霊体の影など微塵もなかった。
そこにあるのは、パンデミックが始まる前、いや、律がこの身体を奪うよりもずっと前のような、一点の曇りもない「幸福な日常」の断片。
「……累? お前、身体は……」
「身体? 何言ってんだよ、律。寝ぼけてるのか?」
累は笑っていた。
だが、律は自分の首筋に走った、強烈な拒絶反応に息を呑んだ。
累が笑えば笑うほど、痣が、刻印が、焼けるように熱い。
この光景は「正しい」。だが、この光景を維持しているのは、律が知る「累」という魂の重みではなく、Jが書き込んだ「都合の良い記述」だ。
「……やめろ」
律は、自身の脳を直接侵食してくる幸福感に、歯を食いしばって抗った。
「やめてくれ、J! これが……これが、あんたの言う『改竄』か!」
「あら。不満ですか?」
Jは首を傾げた。その瞳は、深紅のインクを湛えた湖のように無機質だ。
「見てください。東京中の街という街が、今や幸福な祭りの真っ最中ですよ。……英雄さん。あなたがワニの予言で霧島家に行ったあの時、堂々くんは言いませんでしたか? この世界には救いが必要だって」
Jの口から飛び出した「英雄」という単語。
それは、律が最も自分にふさわしくないと感じている言葉だった。
「ワニの予言は、まだ終わっていません。あなたがその身体を維持し続けていること自体が、組織にとっては一つの『予定された英雄譚』なんです。……さあ、その刻印を消しましょう。累くんとの歪な共鳴も、あなたが盗んだ過去も。すべてを私のペンで、美しいポエムに変えてあげます。……そうすれば、あなたはもう、鏡を見て震える必要はない」
律の指先が、誘惑に震えた。
消したい。忘れたい。
自分が、安楽死するはずだった青年の器を奪い、その未来を貪っているという地獄から、今すぐにでも逃げ出したい。
だが。
律の背後で、幸福に笑っているはずの累が、ふと真顔で呟いた。
「……律、……それ、本当に不味いんだよな」
「え?」
累は、テーブルの上に置かれた豪華な朝食を指差して、ひどく悲しそうに笑った。
「……こんなに高そうな飯、オレ、頼んでない。……オレが食いたいのは、オマエが作る、……不味くて(美味くて)、……家庭的な飯なんだよ」
その一言が、Jの魔法を内側から爆破した。
律の意識の中で、偽りの色彩が剥がれ落ち、灰色の現実が再びその牙を剥く。
「……そうだ。……綺麗なだけの嘘なんて、……俺たちには似合わない」
律は、首に絡みつこうとしていた赤い糸を、素手で引きちぎった。
手のひらから血が滴る。だが、その痛みこそが、自分が「生きている」という、盗んででも手に入れたかった現実の証だ。
「J。……君のペンじゃ、僕たちの『矛盾』は書き換えられないよ。……ワニの予言が何であれ、……今の僕を決めるのは僕だ」
律は再び穏やかな人格に戻り、倒れそうになる身体を無理やり立たせた。
右手に、再びあの「矛盾の刃」の残火を宿す。
司教との戦いで限界を超えていたはずの器が、累の、あのか細い魂の声に応えて、再び駆動を始めた。
「……僕たちは、……誰からも祝福されない、……最低な物語の続きを歩む。……例えそれが、……真っ白な空白よりも絶望的な、……書き損じの地獄だったとしてもね」
Jの顔から、笑みが消えた。
彼女は手に持った真紅のペンを、今度は戦士の槍のように強く握りしめる。
「……校正不能なエラー。……それがあなたの答えですか。……残念です。……ならば、その歪な文脈ごと、物理的に『削除』するしかありませんね」
店内の壁に躍っていた血文字が、実体を持って律に襲いかかる。
律は累の手を握りしめ、自分を縛り付ける「英雄」という運命の檻をぶち壊すために、最後の一歩を踏み出した。




