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14-双子の兎は優しくて

 最初に意識へ戻ってきたのは匂いだった。



 木がゆっくりと燃える甘い煙の匂いと、美味しそうな湯の匂い。

 その温もりの気配で、暗い水底に沈んでいた意識がゆっくりと上へ引き上げられた。



 薪が小さく爆ぜる音がして、まぶたの裏に橙色の光が透けて見えた。

 焚き火だと理解するまでに少し時間がかかった。



 なにしろ身体はひどく重く、まるで自分のものではないようだった。



 だが、背中に感じるのは石の固さと冷たさではなく柔らかな弾力と暖かさだった。

 毛皮か厚手の布に包まれているらしいと、ぼんやりした頭の隅で考える。



 凍りついていたはずの指先に、わずかな熱が戻っているのがわかった。


 ゆっくりと目を開くと視界はまだ滲んでいて、火の向こうに影の塊があるようにしか見えなかった。

 それでも、そこに2つの輪郭があることだけははっきりしている。


 細身の体つきで、膝を折ってこちらを覗き込んでいるらしいとだけわかった。



「……目、開いた」



 影から声がした……柔らかくよく通る声。

 そこにもう1つ、少しだけ低めの声が重なった。



「ほんとだ。起きた」



 焦点が少しずつはっきりとして、顔の輪郭がわかり、目が見えて、そして頭の上にはっきりとした長いものが見えた。



 耳だ。

 人の耳ではなく、長くてすっと立っている耳だった。



 自分がどこにいるのか、なぜ生きているのかという理解が追いつかないまま、視線を動かそうとして身体の異変に気づいた。



 胸元に風が当たるのでふと視線を落とし、はっと息を呑んだ。

 身体には包帯が巻かれているが、服を着ていなかった。


 思わず毛皮を掴み寄せてしまった。



「あ……」



 片方から声にならない声が漏れた。



「ごめん」



 もう1人の柔らかな声のほうが、すぐに謝った。



「濡れてたし、血もついてたから脱がせた。いま洗って乾かしてる」



 視線を追って焚き火の横を見ると、枝にかけられた外套と麻袋で作った服もどきが湯気を立てていた。

 泥と血で固まっていた布も、きちんと洗われているのがわかる。



「もう少し待ってね。乾いたら返すから」



 そこに言い訳めいた調子はなく、ただ淡々と事実を述べるだけの声だった。

 喉がひどく乾いているのがわかり、随分と寝ていたことを理解した。



「……ここは」



 かすれた声がようやく自分の喉から出た。



「渓谷から少し離れた森の中……崖から落ちたの、覚えてる?」



 橋が崩れ、落ちた。

 衝撃と跳ね上がる感覚。


 抱き締められた腕。

 記憶が断片的に戻り、胸が強く脈打つ。



「生きてる……どうやって……?」



 自分でも情けない問いだと思いながら、口をついて出た。


 耳の先がわずかに揺れたのが見えた。

 柔らかな声が静かに肯く。



「生きようとしてたから助けた」

「それだけ」



 もう一人がぶっきらぼうに言った。

 鍋の中で、湯がふつふつと音を立てる音が聞こえる。



「食べられる?」



 片方が質問をして、もう片方が自然な調子で続ける。



「食べながら話そう……お腹、空いてるでしょ」



 そう言われて、やっと体が空腹を思い出したかのように腹の奥が、きゅうと鳴った。



 牢を抜けてから、まともな食事を口にした記憶がない。

 小屋を離れる時に焼いた小魚を1匹口にした時以来だろうか。


 虫や木の実、生の魚を機械のように処理してきただけの胃が、温かさを欲していた。


 手渡された木の椀を受け取る。

 湯気が立ち上り、塩気のある匂いが鼻をくすぐる。

 薄い肉と野草が煮込まれ、干しパンが浸されているのが見えた。



(ご……はん……)



 震える手で椀を持ち、ひと口すする。

 温かさが口内に広がり、喉を通って胸の奥へ落ちていった。



 その感覚だけで視界が歪んだ。



 気づいたときには、涙がぽたりぽたりととめどなく椀に落ちていた。



「あ……」



 慌てて腕で目を拭うが、次から次へと涙が溢れてくる。



「ごめん、まずかった?」



 ぶっきらぼうな声がするが、そこに嘲りはなく申し訳なさそうな声だった。



「ちが……」



 私は必死に首を振って否定した。



「おい……しい……っくて……」



 声が震えて言葉がうまく続かない。

 そんな私を2人は無言で見つめ、しばらく火の音だけが続いた。



 そして柔らかな声が言った。



「私たちは双子。私がルナリア・アイゼン」



 自分を指し、それから隣を見る。



「こっちはシルヴィア。シルヴィア・アイゼン」

「妹よ」



 シルヴィアが短く言い、耳をわずかに揺らした。



「見ればわかると思うけど、兎人族(ラピス)よ」



 その言葉にあらためて長い耳とルビーのような瞳見た。


「旅をしてるの……あちこち調査しながら」


 ルナリアが穏やかに続けた。


「あなたは?」


 話を振られて椀を握る指が強くなる。


「……エレオノーラ」


 名を口にした瞬間、胸が痛んだ。


「ライゼンヴェルグの……」


 言葉が途切れ……呼吸が乱れる。


 父の顔。地下三階。鎖の冷たさに処刑の宣告。

 記憶の断片が、途切れ途切れに口からこぼれる。



 投獄。遺物。実験。夥しい遺体。逃走。森。地下の暗闇、橋。

 話しているうちに気持ちが沈み、思い出したくない記憶が鮮明になり、声が細くなる。



 うまく伝わっているだろうか。



 そんな心配をしながら、涙を堪えながら自分のことを精一杯伝える。

 視界の端で何かが揺れるのが見え、視線を向けると、シルヴィアの肩が震えていた。



「……なんで」



 彼女は唇を噛み、涙を堪えきれずにボロボロと溢れさせていた。



「……なんでそんな目に遭うの」



 その言葉とともに、シルヴィアは堰を切ったようにわんわんと泣き出した。


 耳が伏せられ、肩が小刻みに震える。

 なぜ彼女の方が泣いてしまうのか。



「ご、ごめんなさい……」



 思わず謝った。


「違うでしょ」


 謝ったのに、シルヴィアが涙のまま顔を上げて叱られた。


「キミは謝るところじゃない」


 その声は強いが、震えているた。

 そんなシルヴィアをみかねたのか、姉のルナリアが静かに息を吐いた。


「2人ともまずは落ち着こう? ね?」


 火の明かりが、3人を柔らかく包む。


「ここには敵はいないから……ね?」


 その言葉が、驚くほど温かく胸に落ちていく。


 私は椀を抱えたまま、声を殺さずに泣いた。

 今度は隠そうとせず、ただ温かさとともに溢れるままに。


 焚き火の向こうで、2つの長い耳が寄り添うように並び、静かに揺れていた。


次話→このあと20時頃に投稿予定です

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