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ざまぁをするにも力が足りず。されど私は勝利を目指す  作者: 初音の歌


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02 フロストマルクでの日々


 フロストマルクにやって来てから四日目の朝、私はロランドと共に庭に立っていた。

 時刻は早朝。肌寒い朝の空気は吐く息を白くし、寝起きの頭を冷たさで覚ましてくる。

 お客様気分で屋敷で過ごせたのは三日間だけ。四日目の朝から、この地の過ごし方を……貴族として北方を治める術を教わることになった。

 外套に身を包んだロランドが、木剣を片手に私を見据える。


「この地を治める貴族は、自らを守れるだけの力が無ければ恥とされます――これは実務としての現実です」


 第一声から、王都との違いを胸裏に刻み付ける。

 そうだ。ここは辺境の地。煌びやかな王都とは違う、厳しい北の理が存在する。


「獣の類は、北方の重要な収入源ですが、危険も大きい。特に、冬眠前の獣は凶暴です。領民を襲う事も少なくありません……そんな時、領民の前に立つのが貴族の役割です」


 この地において、男女の違いがあるのは民だけだ。貴き一族である私たちは男女問わず、緊急時には先頭に立って民を導く「義務」がある。

 北方には猪もいれば熊もいる。民を襲う最も原始的な暴力……それから守る術を持たぬ貴族は、この地では貴族と認められない。金や見栄だけでまかり通る都ではないのだ。


「そして野盗の類は、雪解けと共に街道に出ます。エルミーヌ様も来年以降、見回りに出る機会がありましょう……私は勿論、護衛の兵もつきますが、いざという時にご自身で凌げるだけの力が必要になります。それが北方の習いです」

「――」


 ……ここまでの話は、昨日の段階で聞き終えている。それなのにロランドが改めて言った理由は……私の覚悟を知るためと、退く機会を与えるためだと思っている。

 きっと、もしも本気で嫌がれば、私は屋敷の中で過ごしていくことも可能だろう。ただし、その時は貴族として見られることはない。王都で汚名を着せられた傷心の女として、屋敷の中だけで過ごすことになる。

 ……生憎、そういう扱いは嫌いなのだ。心底気に入らない。女だからと言って壊れ物でも扱うように接せられるのは、私の性分ではない。

 だから、私が取るべき行動はひとつしかなく。

 ただ感情の赴くままに――私は頭を下げていた。


「――ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」

「……」


 ……無言。何故だか分からないが、無言。

 不安に思って顔を上げると、きょとんとした顔のロランドが――何か可愛い。


「どうされましたロランド?」

「……いえ、王都育ちの御令嬢が剣の稽古を嫌がらないとは思わなかったもので……」


 なんだろう。ロランドの口調に、呆れのようなものが垣間見えている。

 実に遺憾。私は別に、剣の稽古に乗り気という訳ではないのだが。


「……念のために申し上げますが、好んでいるわけではありませんよ? 剣を振るわずに済むのならば、それに越したことはありません。この細腕ですし、鍛えたところで永遠にロランドと渡り合える日は訪れないでしょう」


 痩せても枯れても私は、王都で教育を受けた伯爵家の令嬢だ。剣の心得なんて当然無く、どんなに鍛えた所で強さの限界は、一般兵が精々だろう。

 先程ロランドが言ったように、自分の身を守るくらいが限界……そこから先に進むことはあり得ないと思っている。


「――けれど、貴族として成すべきことも成さぬまま、ただ城館にこもるだけの娘になりたくないのです。負けてこの地に追放された小娘ですが、負けたままで終わりたくはないのです」


 思い浮かべてしまう。敗者になった私を嗤っていた妹の顔を。

 私は敗けた。確かに敗けた。でも負けたまま腐りたくはない。王都から離れたこの辺境の地であっても、貴族の価値観が馴染まないままであっても、心まで朽ち果てたくないんだ。

 祖父の下で、せめて魂くらいは気高くありたいと……そう願っている。


「よろしい。その負けん気があれば、一年後には賊を打ち据えられる剣士になれましょう」


 私が決意を胸で燃やしていると、ロランドが実に良い笑顔を浮かべていた。

 膝を何度も曲げて屈伸運動をして、何やら準備万端の様子。

 ……どうしよう。見るからに体育会系の気配が、ロランドの全身から漲っている。


「では、まずは走り込みから……エルミーヌ様の体力作りから始めさせていただきます」


 ――こうして、私の稽古が始まった。

 ちなみに初日は、走り込みだけで倒れ伏したことを記録しておく。

 どれだけ走ったかは覚えていない。ただ、おかげさまで村の地形は大体頭に入った――それくらいは走ったのである。





 ◇◇◇





 体と言うものは不思議なもので、疲弊や苦痛に慣れてくる。

 初日にどれだけ無理と思っていても、少しずつ順応して……走り込みを一週間も続ける頃には、倒れ伏すことはなくなった。別に足が速くなった訳でも、劇的に体力がついた訳でもない。ただ、体の使い方が慣れてきた……走る際の不要な力みが無くなったのだろう。今では筋肉痛も少ない。

 そうなると走りながらでも、周囲の景色に意識を向けられるようになる。

 本日もそう。ロランドと共に早朝のジョギング――城館のある村内を走りながら、民たちの顔が見えた。

 ――民の顔が見えれば、気がつく事柄もある。


「ねぇロランド。この地は、皆の距離が近いのね」


 村の中を軽く走りながら見渡すだけで、北の現実が確認できた。

 民同士の距離が近い……全員の仲が良いという訳ではなく、皆が親兄弟のような距離感なのだ。見知らぬ他人と接する感覚が、この村には見受けられない。

 私の隣を、流すように走るロランドは微笑を浮かべながら口を開く。


「北の大地は厳しい気候です。とくに冬季は、皆が団結せねば無事に春を迎えることが出来ないほどに。この距離感の近さは、自然に積み上げられた生存戦略に近いのです」


 確かに。まだ冬の初めだけれど、この地は随分と寒い。雪はまだ少なく、土の地肌が見えているが……震えるほどに冷たい地域だ。ここは王都とは違い、個人だけで生きられるような甘い土地ではないのだろう。冬を越す為に必要なものは山のようにあり、それらを個人だけで賄うことは不可能。

 結果として、役割分担――協力して生きる道が必然になったのか。


「……オズワルド閣下の影響も勿論ありますがね。あの御方は、身分で人の価値を見定めない。その働きを見て評価を下します」

「戦争の時もそうだったらしいわね。身分の境さえ飛び越えて混成軍を作り、敵国の侵略を防いだ……」

「ええ。閣下は言っておられました。戦の中では身分差など、薄紙のように破れてしまう儚きものだと。そしてその薄紙を後生大事に抱えているのが、王都の貴族だと」

「……」


 私の祖父は、実に物騒な台詞を語ったようだ。もしも王都でそのような発言をすれば、あっという間に村八分にされて、閑職に追いやられる。

 爪弾きにされ、追放され――ああ、そうだ。だから祖父は此処に居るのだ。

 知識では知っていたのに、今初めて実感できた。祖父はある意味で、私と同じように……でもそうなると、どうしてロランドは此処に居るのだろうか?

 隣を走る騎士は、とても精悍で礼儀正しく……王都の騎士団に引けを取らない。

 不思議に思って彼の顔を見上げる。黒髪の騎士は、遠い空を見つめるような憂いた顔で――。


「……実は私も、王都から追いやられてこの地に来たのですよ。五年以上前の話になりますがね」


 瞬間、息が詰まった。

 あまりに身に覚えがありすぎる話――まるで私自身のような。


「左遷です。当時の私は青かった。正しければ全てが守れると盲信していた」


 ロランドは前を向いたまま、足を止めぬまま、静かに語る。


「賄賂の受け渡しを告発したのです。騎士団の中にあった不正を見過ごすことができなかった……ですが王都では、多少の賄賂は潤滑油として認められる。高官への心付けは、むしろ礼儀のひとつとされていて……当時の自分は、そんな理屈に納得できなかった」


 横目で見続ける彼の顔は、全く揺らいでいない。刻まれた過去を淡々と伝えてくる。

 その過去は私と全く同一のもので……つまり彼は。


「――負けました。不正を行い騎士団の和を乱しているのは自分ということになっていた。正論だけを叫ぶ自分を、誰も味方してはくれなかった」

「ロランドも、私と同じ……」

「はい。ですが、あの日の敗北は自身の血肉になっております。告発するにもやりようがあったと今では解る。……味方を作ればよかった。独りで正しさだけを武器にしても、誰も付いて来てはくれない。若い新米騎士が声高に叫んだところで――打ち勝つことはできないのだと」


 身をつまされる想いとは、まさにこのことだろう。

 正しければ全てを守れるわけではない。自分一人が意地を張っても……それは単なる自己満足。正しければ結果が最良になるとは限らない――特に王都では。

 だからロランドは此処に居る。だから私は此処に来た。

 若い騎士と若い令嬢は、年も性別も違うけれど……同じ失態の下、同じ土地に飛ばされた。

 私は、何も言えない。彼に何を言うべきか分からない。

 きっと慰めは侮辱で、同情は怒りを誘う――私自身がそう思っている。

 何も言えずに沈黙し続けていると……ロランドは苦笑を漏らした。


「この地は己を鍛えるには絶好の場です。降り積もる雪は冷たく残酷だ。独りで戦えるような甘い相手ではありません……ふんぞり返っているだけの貴族はここでは生きられず、民草も不平不満を言うだけでは生きられない。互いに信頼関係を築く必要がある」


 ここが甘い土地では無いからこそ、独りよがりでは生きられない。

 己が自尊心だけを貫いたところで、ただ負けるだけなのだ。

 勝つためには手段を学ぶ必要がある。正しさの届かせ方を学ぶ必要が。

 それはきっと。


「とても単純なことです。極めて単純で――どこまでも難事なのです」


 ――ああ。そうか。この人は、ロランドは敗けたけれど折れていないのか。

 汚名を被りながらも折れずに、北方で鍛え直した人。

 濁を呑んだ上で、清を通す道を探し続ける……清濁併せ吞む騎士。

 

 この人のように成らなければならないと。

 前世の価値観が足を引っ張る? この世界の裁判が発展途上?

 そんなもの理由(いいわけ)にすらならない。無い物強請りをする暇があったら、正しさを通すための術を考えなければならなかったのだ。


 私は汗を滲ませながら走る。ロランドは平気な顔つきだけれど……少なくとも、どうにか着いていけるようにはなった。まあ、私に合わせてくれているのだろうけど。

 ジョギング中の話題も尽き、私は村からでも見える落葉樹の森に視線を移す。

 初日の走り込みは、森を眺める余裕さえなかったけれど、今では視界に映っている。

 そう。ちゃんと見えているからこそ――胸裏に浮かぶ事柄が。


「……この木々は木材にしかならないのかしら」

「と言いますと? 木を木材にする以外の用途があるのですか?」

「……いえ、ごめんなさい。まだはっきりとは言えないわ」


 少し、思い出したことがある。それは、北方に生えているカエデの樹の品種だ。

 あの独特な葉の形は確か――。

 ……もっとも、今この考えを口に出したところで、世界は何も変わらない。

 この考えが意味と価値を持つのは、冬が終わってからの話なのだから。





 ◇◇◇





 本格的に雪が降れば、ジョギングなど出来なくなる。

 大地は一面の銀世界に変わり、降り続ける雪が体温を奪っていく。寒いを通り越して、肌が痛くなるほどの冷たさ……実際に北方へ来なければ、実感できぬ厳しさだ。

 私は初めて味わった……うん。これは本当に、走り込みとか言っている場合ではない。何故、北方では皆の団結が必須なのか骨身で理解する。食料の準備、薪の準備、家屋の修繕、春を迎えるまでの防寒。その全てが必要で、個人で用意しきることなど不可能。距離が近くなければ生き抜くことが出来ないと、体で理解できた。


 そして、そんな冬の間は、人はただただ耐えるだけの日々。

 しかし、まだ未熟な小娘である私は無為に時間を過ごせない。

 ゆえに。


「今日はお前に、我が領地の徴税記録を見せよう」


 暖炉の熱で温まった部屋で、祖父はフロストマルクの帳簿を開いた。

 そこには領内の税の流れが事細かに記されている。木材の売上、毛皮の交易、穀物の収穫……正直、王都と比べればどの項目も潤沢とは言えない。王都基準で見た場合、こんな税収でどうやって――そう考えてしまうほど、この領地は厳しい。

 ある年の毛皮の実入りがよくても、次の年もそうだとは限らない。

 ある年の穀物が豊作でも、次の年には不作になる場合がある。

 安定しない……安定を許さない厳しい大地。北方の血に塗れた記録が、何十年にも渡って刻まれている。


「エルミーヌよ、税とは何だ?」


 食い入るように帳簿を見つめる私に、祖父の厳かな声が届く。

 税とは何か。その答えは知っている――知識としてならば。


「……民から徴収し、国や領地を富ませるための資本です」

「そうだ。では正しい税金なるものが存在すると思うか?」

「……公平な徴税は目指すべきだと思います」

「その通り。目指すべきだ。だが――そんな都合の良いものは存在しない」


 ギロリと、私の中の「甘さ」を断ち切るような視線が落ちてくる。

 背筋が震えた――瞳だけで、体が両断されたかのように。


「どんな善良な民でさえ、多くは徴収されたくない。逆にどんな名君であれ、出来るだけ多く徴収したい。このふたつは必ず相反する」


 祖父は厳しい瞳のまま、帳簿の欄に指を添わせる。

 節くれだった武骨な指。だがその指は、長年民を導いてきた厚みを帯びている。


「狩人には多くの獲物を、木こりには上質な材木を、農民にはまとまった収穫を献上してもらいたい。儂とてそうだ。民の暮らしを安定させるためにも――税は多く取りたいと願う。私利私欲のためではないぞ? 豊かな領地経営を成すにはどうしたって金は必要になるのだ」

「ですがお爺様。民の暮らしを圧迫すれば、いずれ立ち行かなくなってしまいます」

「うむ。領主は多くの税が欲しく、されど求めすぎれば逆に民の生活が成り立たなくなる。どれだけ徴収するのが正しいのか……このバランスに、絶対の正解などない。狩人が、毎日同じだけの量の獲物を狩れるわけがないのと同じこと」


 私は改めて税の記録を見つめる。

 増えたり減ったり、毎年変動する税収の多寡。今の今まで漠然と「税」で片付けていた項目のどこにも、正解が見えてこない。

 あまりに繊細な「税」のバランス。


「今年は、狩人のダミアン一家が納めた毛皮が少ない。エルミーヌよ、理由が分かるか?」


 祖父は今年の記録を私に指し示す。

 たしかに狩人一家の納めた量が、例年に比べて少ない。

 でも、この帳簿からは何も見通せない――ここにあるのは数字だけだから。

 だから私に出来ることは、悔しくても素直に未熟を認めることだけで。


「……存じあげません」

「稼ぎ頭の息子が、夏に足を痛めた。狩りに出られる日が減ったのだ」


 祖父は淡々と語った。

 ただ館で座っているだけでは実現しない……観察の跡。


「税の数字を、単なる数として見るな。この数字の裏には、必ず人がいる。日々を生きる守るべき領民がな。ダミアン一家から例年通りの量を取り立てれば、冬を越せぬかもしれぬ。だが免除しすぎれば他の者が不満を抱き、いらぬ争いの種が生まれる」


 ……私はこの地に来てからしばらく、ロランドと共に領地を走った。正確には村落に近い、この領内を。そして多くの民と顔を合わせ、村の様子も見て回った。

 それなのに何も気付かなかった。注意深く観察していれば、掴めるものがあった筈なのに。


「……お爺様は、どのように判断されているのですか?」

「経験と観察だ。近道などない」


 そう言い切り、祖父は帳簿を閉じた。

 次いで私に、聳え立つ山脈のような視線を落としてくる。


「貴族たる者、民の顔色を窺ってはならぬ」

「……私は王都に居た頃、民の顔色を窺う貴族の恥さらしと嘲られました。お爺様も、民に思慮してはならぬと仰るのですか?」

「違う。お前の目指すべきものと、似て非なるものなだけだ」


 祖父は窓の外を見やる。

 見える物は吹雪く白い世界のみ。けれど祖父の眼差しは、真っ白な視界の奥で確かに生活している、領内の民を見守る瞳だった。

 ――厳しくも優しい目。


「顔色を窺うとは、上の者が下の者の機嫌を見るということ。それをすれば、下の者はかえって不安に駆られる。頼りない主だと侮られたら貴族は終わりだ」

「では、どうすれば」

「心を汲めと言っている」


 祖父は視線を切り、静かに私の方を向く。


「民の上に立ちながら、民が何を求め何を恐れているのか。それを推し量れる目を養えエルミーヌ。居丈高に振舞うのではなく、民の機嫌を窺うのでもない。彼らの心の在りようを、正しく見極められる目を持てということだ」


 その言葉を、私は反芻する。

 民の顔色を窺うのではなく、民の心を汲むこと。

 似ているようで、まったく異なる姿勢。貴族として、あるべき形の姿。

 下の目を気にして、評判を恐れて動くのは……ああ、確かにそうだ。それは弱者の在り方。

 けれど下を見据えた上で、他者の考えを判断して動くのは――強者の在り方。

 それはあまりに、あまりに――。


「……簡単なことではありませんね」

「簡単であってたまるか」


 私はそこで初めて、好戦的とも言える祖父の笑みを見た。

 かつて戦火から国を護り抜いた将軍の笑顔――戦い続ける貴族の破顔。


「これは永遠の課題だ。終わりなどない。生涯が修行であり、学びだ。貴族の研鑽に、終着点などないと知れ」


 ――これは、金を積んで受けられる講義ではない。書物にさえ書いていないだろう。

 理屈ではなく、実際にこの厳しい領地で長年民を導き続けた者だけが語れる……生きた理。


「肝に銘じます」


 自然と、頭を下げる自分が居た。

 この教えを直接受けられる幸運を、胸に刻み込んで。

 私の深い礼を見たからなのか……祖父から苦笑の気配が。

 ……何だか、子猫を見つめるような、妙に生温かい視線を感じる。


「話は変わるが……お前の妹、リザミーレは王都で上手くいくと思うか?」


 本当に急に変わった話題に、思わず私は首を傾げる。

 いきなりの転換に頭を捻るが……妹の「今後」のことならば、ある程度推測できた。


「しばらくは保つでしょう。あの子、取り繕うのだけは上手ですから」


 この地に来てから、リザミーレのことは殆ど思考の隅に追いやられていたけれど――寝起きが辛い寒さとか、走り込みの苦しさとか諸々の理由で――今でも妹の手管については、簡単に口から出てくる。


「他人の足を引っ張り、根回しをして他者の評判を落とす。そして自分は美しいドレスや装飾品を纏い見事な猫かぶり……あの子の年齢を考えれば、恐ろしいほどです。印象操作の術はいっそ天才の部類でしょう」


 思い出すだけで末恐ろしくなる。妹は息を吸うように他人を貶めることができた。

 それでいて猫かぶりも滑らかで、家の外だけの付き合いならば、裏の顔は生涯解るまい。


「ですが……あの子のやったことは、相手を貶めて相対的に上位に立つやり方。あの子の中身そのものは一切磨かれていないのです」

「なるほど。自らを鍛えない――向上心が無いのだな?」

「はい。妹の才は見事。ですが『それだけ』なのです。……私のかつての婚約者は、品格を重んじる正統派の貴族です。いずれ必ず、妹の性根に気づくでしょう」


 ……ヴァルフルク様と過ごした時間を思い出す。

 あの方は最終的に私を見限ったけれど……正直、それほど嫌いにはなれないのだ。民を見下してはいたけれど、自分の感情だけで民を傷付けることは一度もなさらなかった人だから。

 そして、そんな人だからこそ。


「妹の本質と、ヴァルフルク様の本質は一致しません。あの方は、私のことを『貴族として愚か』と断じましたが……私の能力や研鑽を見下した事は、ただの一度もなかった。誇り高き貴族が自らを磨くこと、それを当然の責務だと考えている方ですので」

「……ふむ」

「一年後かもしれません。五年後かもしれませんし十年後かもしれません……ですが必ず妹はボロを出します。だって分かりやすい『姉』という敵がもういないのですから」


 それが妹の欠点。

 きっと本人は気付いていない、致命的な欠落。


「誰かの足を引っ張ることで、結果的に自分を高く見せる妹……私という排除すべき相手が消えた今、どうやって己の本性を隠し通すつもりなのか」


 そして隠し通せなくなった時……ヴァルフルク様は妹を嫌う。

 いや、嫌うだけで済むならまだいいが、それ以下の感情を抱かれる可能性がある。


「私の婚約が決まったのは十歳の頃です。それから六年間――あの子はずっと私を排除することだけを考えていたのでしょう。多くを味方につけ、証言や証拠を集め、私の評判を落とし、地道に勝利への道を築き上げた。見事なものです。実際、私は敗れて婚約者の座さえ奪われた」


 本当に、これだけは凄い。私なら六年間誰かを貶めること「だけ」に専念することなんて出来ない。どこかで必ず息切れを起こして、計画は破綻する。


「でも……姉一人、こんな小娘一人を追いやるのに六年もかけたのですよ? まさか今後も、自分を高く見せるために同じだけの時間をかけて、周囲を陥れていくとでも?」

「……無理な話だな。そもそも、そこまで見境なく周囲を敵にすれば、孤立していくのは自明の理。亀裂が刻まれるのも時間の問題という訳か」

「はい。なので妹は、勝手に転落していくでしょう……私が復讐を考える必要もない」

「ほう?」


 興味深そうに、祖父が眉を上げた。

 面白いものを見つけたような……期待に満ちた瞳。

 私は、その瞳を真っ向から見返す。


「私がするべきことは、この北の地で『勝つ』ことです。この地で功績を挙げ、民を守り、国に利益を生むこと……それこそが私の勝利であり――」


 ――私が遂行する復讐(ざまぁ)だ。

 祖父は、見返した私の視線だけで、私が何を目指しているのかを悟ったのだろう。

 堪えきれぬような不敵な笑みを浮かべて、私を見下ろす。


「良い顔になった。そうだ、それが貴族の顔だ」


 その声には、腹の底から響く祖父の「承認」があった。

 今、私は少しだけ祖父に認められた。単なる未熟な小娘ではなく……勝ちを目指す貪欲な貴族として。

 だが、言うは易し行うは難し、だ。この北の大地で勝利を目指すには、常識的な手法では到底届かない。祖父の手腕であっても現状維持が精一杯。それが北方の現実。

 ならば別の知識――前世の知識を使うしかない。


「そこでお爺様。少し相談があるのですが」

「む?」

「王都に居た頃、異国の書物を読んだことがあるのです……カエデの樹が生む『樹液』に、着目したことはありますか?」


 それは冬の終わりに訪れる。

 春の始めに生まれ出る――甘い甘い蜜の素。

 メープルシロップの作成だ。



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