01 エルミーヌの追放
――前世である日本の裁判が、長い歴史の果てに作られた奇跡のような制度なのだと……私、エルミーヌ・エーレンファルトは身を以て知ることになった。
「エルミーヌ様は孤児院への支援金を着服し、その事実を隠蔽いたしました。この改竄された書類が動かぬ証拠です」
王都の法廷に立つ私の耳に、見知った使用人の「証言」が届いた。
身に覚えのない話。孤児院の支援金に手をつけた記憶などないし「証拠」として広げられている書類は今日初めて目にするものだ。偽造されたものだと、私にはすぐに解った。
「リザミーレお嬢様のお茶に、何か液体を垂らしているのを目撃しました。……あの晩、リザミーレお嬢様は体調を崩されました。嫌がらせにしては悪質すぎます」
だが、次いで更なる「証言」が法廷に響く。
リザミーレ――妹のお茶会に同席した事実がそもそも無い。いつも私を除いて茶会を開いているというのに、どうやれば妹の茶に薬を混入できるというのだ。
どれもこれも馬鹿馬鹿しい発言ばかり。
けれど……それを否定するだけの「証拠」を、私は持ち合わせていない。
「わたくしも見ました。エルミーヌお嬢様は、リザミーレお嬢様をいつも疎ましく思っておいででしたから」
更に、顔見知りの使用人が「証言」を口にする。
彼女の顔に視線を向ければ、相手は僅かに顔を逸らす。私が知っているのは、彼女は最近金の羽振りがよくなっていることだけ。誰から握らされた金銭なのか……想像するまでもなく、金の出所は一人しかいない。
「酷いですわお姉様。どうしてこのような……」
白い頬に涙を伝わせる私の妹が……リザミーレ・エーレンファルトが庇護欲を誘うように、声を震わせていた。
見事な演技だと思う。何も知らぬ者からすれば、純情可憐な少女が悪辣な姉に虐められていたようにしか見えない。おまけにその姉は、孤児院の資金まで着服するような悪徳ぶりときた。傍聴人や裁判官の心象は、間違いなく妹寄りのものになっていることだろう。
……この世界の裁判は、見た目だけならかつての日本の裁判となんら変わりない。社会関係における利害の衝突を解決して、調整するためのものだ。
ただ――違う。この世界の裁判は「真偽を問いたださない」。正確には、法廷の場において事の正否を明らかにするわけではないのだ。
物事の成否は、真偽は、罪の在処は……裁判が始まる前に決まっている。
……私の視線の先には裁判官が立っている。確たる証拠はないが、彼には多額の「心付け」……いわゆる「賄賂」が渡されていることだろう。裁判が始まる前、妹の従者が用意した包みを彼に渡しているのを見たことだし。
でも、この世界ではそれを「賄賂」とは言わない。御足労願った裁判官に対する「感謝の意」だ。むしろ、感謝の形を示さなかった私が悪徳とされるような世界。
違うのだ。何もかも。
私の中に在る朧げな前世の記憶……日本で培った常識なんて、この世界では通用しない。
この世界の「証拠と証言」は、金と権威で幾らでも調達可能。平民は金貨を渡されれば見ていなくても見たと証言するし、地位の高い者に脅されれば言われるがまま証拠を用意する。
だからこの世界の裁判は戦う場ではない。
ここは、事前に準備された結果を出力するだけの空間。
……そのことは、私の婚約者も重々理解している。
だから彼も……私の弁護などせず、まっすぐに私を見据えるのみ。
侯爵家嫡男、ヴァルフルク・グラウベルク。私が十歳の頃からの婚約者。蒼銀の髪と、常に緊張を携えた切れ長の瞳。自分にも他人にも厳しく……何より、品格と身分差を重要視する正統派の貴族令息だ。
そんな彼は静かに席を立ち、法廷の場で朗々と発言する。
「妹君の証言により、真相は明らかになった。エルミーヌ嬢との婚約破棄を申し出る」
感情が一切乗っていない。淡々と結果のみを置く言葉。
彼は私を侮蔑しているわけではなかった。ただ――価値を認めていないだけ。
「エルミーヌ嬢の不正は看過できない。だがエーレンファルト伯爵家との縁を捨てることは望まない。よって――」
そこでヴァルフルク様は、一度言葉を切り視線を妹に向ける。
解っている。この裁判の判決の出口が、何処へ目指しているのかくらい。
「妹君であるリザミーレ嬢との新たな縁談を願い出るものである」
……涙交じりの妹の瞳に、一瞬だけ喜色が浮かんだ。
そう。これが目的。私を追いやり、新しい婚約者の立場に座る――リザミーレの策略。
「決闘裁判という手段もございますが……いかがされますか?」
裁判官が、事務的に私に聞いてくる。
互いに剣を交えて、勝った方が正しいと決める古くからの裁判法。
天が勝者を祝福するがゆえに……という理屈だ。私のような女性の場合、代理人として騎士や傭兵を雇うことが殆ど。多額の金を積み、より強い戦士を用意するのが決闘裁判の鉄則だ。
けれど私に、雇える戦士のあてなどない。金もなければ味方もいない。
父も母も私の味方はしてくれないだろうし、婚約者はもう妹の側。
ここで決闘裁判を選べば、剣の下での死だけが待っている。
「結構です」
私が短く答えると、裁判官は何も言わずに頷いた。
最初から決闘裁判を選ぶ者なんていないのだ。裁判官は、あくまで形式上聞いただけ。
……私が反論もせずに判決を受け入れると、傍聴人が少しだけどよめく。きっと私が醜く抗弁する姿を待ち望んでいたのだろう……この世界において裁判は、処刑に並ぶ娯楽のひとつ。罪人が虐げられる様子を見て楽しむものでしかない。
実際、妹も――不満げな視線を私に向けた。
すぐに視線で切ったため、誰もその様子を見てはいなかっただろうけど。
この世界に三審制など存在しない。
あるいはこれから先、長い年月の果てで洗練され、日本のような裁判制度が生まれる可能性はある。公的サービスとしての裁判に変わる未来はゼロじゃない。
でもそれは……決して今ではない。この時代では、一度下された判決は覆らず私の罪が撤回されることはない。私は弱者へ施すべき金銭を着服し、妹を虐げる卑劣な貴族令嬢――そんな烙印を押されてしまった。
こうして私は貴族令嬢としての死を迎える。年頃の令嬢にとって、この判決は実質的な死刑宣告に近い。もうまともな縁談は二度と望めないだろう。
私は――負けたのだから。
◇◇◇
閉廷後、法廷から立ち去る際に踏む廊下の石床は見た目の綺麗さとは裏腹に、冷たい音を響かせていた。私の歩む足音が、誰も居ない廊下に反響して耳に痛い音を届かせる。
まるで法廷という場所そのものが、私の愚かさを示しているようで……こうして歩くだけで、心の何処かが欠けていくような。
何と言うか……何もかも虚しく感じる。
ここは法廷とは名ばかりの屠殺場。まだ法整備が発展途上の世界に建てられた、平等とは程遠い権力者達の遊び場。この場で成されるのは、いかに世論に受けの良い裁定が下されるか、だ。分かってはいたけれど、知識と実感の間には埋めようのない溝があるのだと思い知らされた。
そのように、半ば放心状態で廊下を歩いていると――。
「エルミーヌ嬢」
背後から声が。
振り向けば、六年間婚約者として私の隣にいたヴァルフルク様がそこに。
誰一人傍に控えさせず、単身で私の跡を追って来たであろう彼は――。
「何故、抗弁しなかった」
そんな、今更な言葉を飛ばしてくる。
不思議と怒りは抱かない。
ただ、純粋な疑問の色が見えたから、彼の問いに落ち着いて答えることが出来た。
「抗弁したところで何も結果が変わらないからです。あの場は真実を問う場ではありませんでしたから」
私の返答に、ヴァルフルク様の眉が寄る。
あるいはそれは、彼にとって認めがたい事実であったのかもしれない。彼は真っ当な貴族だから……身分や制度というものを絶対視している人だから。
真実とは、上流階級である貴族が定めるものだと信じている人だから。
「君は……やはり貴族としては愚かだ」
「存じております。そのことでヴァルフルク様に疎まれていたことも」
「分かっていてなお、見識を改めることをしないのか」
そこで初めて、彼の目が鋭く細まった。
「何度も言ったはずだ。君は民との距離が近すぎると。君の考えは貴族社会において異端にしか成り得ないのだと。そして……」
……知っている。私の根底にある価値観が、貴族社会では危険視されていることも。
物心ついた時から何故か持ち合わせていた前世の記憶。民主主義という、この世界では異質すぎる政治体制。問題は、生まれた時からその道理が私の内側を満たしていて――貴族として生まれた今世において、生き辛さを助長していたこと。
私の婚約者は、そんな私の思考に何度も注意を促していたのだ。
恨む気は無い。ただ、妹の側に立って私に罪を着せたことは哀しかったけれど。
「君の能力は買っていた……このような結果になって残念に思う」
少しだけ惜しむような視線を投げかけた後……彼は踵を返して去っていく。
真っ直ぐな背筋。どんな時だって品格を重んじる彼の背中。
……もう彼の中の私には、丁重に扱うだけの品格は無いのだろう。
遠ざかっていく後ろ姿を見ながらそう思う。
「さようなら。私の婚約者様」
別れの言葉を呟く。
きっと、彼の耳には届いていないだろうけれど。
それでも口に出さなければいけなかった。
――私自身が、彼と決別するために。
◇◇◇
屋敷に戻った後、私に待っていたのは実の父親の冷たく醒めた眼差しだった。
「今日中に荷物を纏め、明日には王都を出よ」
エーレンファルト伯爵家当主の平坦な声。
労わりの感情もなければ、慰めの色もない。
――他人に向けた言葉だ。
「醜聞を抱えた娘を家に置く訳にはいかん……勘当だ。準備が出来次第家を出て、二度と我が家の敷居を跨ぐな」
言葉の意味は単純明快。
家の評判を下げた娘の厄介払い。むしろ、今日一日待ってやるだけでもありがたいと思え……そんな言葉なき声が聞こえてくる。
反論する気は起きなかった。怒りとも悲しみともつかぬ感情が、胸の内にあるけれど。
深く頭を垂れた後、私は父に背を向けて自室へ向かう。
時間は多くない。早く荷物を纏めて旅支度をしなければ――。
「――すでに早馬を出してある。北へ行け。父の領地ならばお前にも居場所はあるだろう」
……背後から聞こえてきた父の言葉。
それは、裁判が始まる以前から結果が分かっていたという発言であると同時に……僅かに残っていた家族の温情でもある。こんな私にも、最低限の行き先だけは用意してくれた。
喜んでいいのか悲しんでいいのか分からない。
ただ――目の奥が少しだけ痛んだ。
自室へ戻り、手早く荷造りを開始する。
持っていける荷物など多くはない。ドレスの類も装飾品の類も、今の私には不要だ。着る場面もなく見せる相手もいない。そもそも維持管理ができない……今の私に供回りをする者はいないのだから。
だから数日分の下着の替えや、簡素な衣類を鞄に詰めていく。
そんな折――いつの間に立っていたのか。
部屋の入口に妹の姿が。
「ごめんなさいね、お姉様。でも、これもお姉様のためなのよ? お姉様みたいな変人は、この王都では居場所などないのだし……ヴァルフルク様が可哀そうだもの。私がお姉様の代わりを務めてあげるから」
法廷で見せていたしおらしさは、どこにも無い。
そこにあるのは愉悦と蔑みだけ。隠すことなく見下しながら、私を嘲笑っている。
……そんな妹の姿を確認したあと、再び鞄に向き直り荷物を詰め続ける。
なにか、苛立ったような声が飛んできた。
「……なによ。お姉様は悔しくないの? 私に全て奪われて、何も思わないの?」
「思ってはいるわ。けどそれは、悔しさとは違う」
こんな状況になって何も思わない訳ではない。
ただ――
「……負けたと思っただけ。見事だったわリザミーレ。あなたの六年間の勝利よ」
鞄を閉じ、再度妹の顔を見る。
不満げと言えばいいのだろうか……見たかったものが見れずに戸惑う顔の色。
私から妹に言える事はたったひとつだけ。
「気を付けなさい――もう王都に、私は居ないのだから」
その言葉を聞き、妹の顔が歪んだ。
きっと私の涙や罵倒を期待していたのだろう。惨めな敗残者の苦しみを愉しもうと。
けど求めたものと違うから……妹は憎々しげに私を睨むばかり。
「……相変わらずおかしな人。どうしてあなたみたいな人が、この家に生まれたのかしら」
吐き捨てるように言い放つと、妹は背を向けて私の前から去っていった。
私はその背を見送りながら……妹の最後の言葉を思い返す。
――本当にね。どうして私なんかが、この世界に生まれたのかしら。
◇◇◇
王都を出て、馬車に揺られること、はや十日。
見慣れた景色は遠ざかり、樹々の種類も王都とは様相を変えていく。見慣れぬ景色――いや見慣れた景色――私自身、どう表現していいか解らぬ樹々が視界に入り込むようになった。
あれは……広葉樹か。どうして見慣れた気になったのか分からない。多く落葉していることが関係あるのだろうか。
もしかしたら前世で見たことのある樹なのかもしれない……よく思い出せないけれど。
私はいわゆる「異世界転生」なるものの体現者なのだろう。だけど、前世の記憶なんて大して役に立たない。幼い頃は、他の子供よりも聡明で「神童」なんて呼ばれた時期もあったけれど。年月が進むにつれて、子供の頃の称賛なんて遠く儚く消えていく。
そもそもの価値観が、前世と大きく違うのだから。かつての記憶が然程あるわけではない。
――むしろ前世があるから、私が排斥される一因になったのだ。
物思いに耽っていると、御者が声をかけてくる。
「エルミーヌ様、お加減はいかがですかな?」
「大丈夫。問題ないわハインツ……でも、少し雪が目立ってきたわね」
「そうですなぁ……時期も時期なので致し方ありません」
エーレンファルト家に長く仕える熟練の御者ハインツ。しっかり手綱を引いているから、彼の顔は見えないけれど……懐かしむような、けれど見慣れたものを見るような、なんとも形容しがたい響きの声を発する。
「今がぎりぎりの季節ですな。これ以上冷え込めば、降雪量も増えて馬車が立ち行かなくなります」
「裁判が早く終わったのが、不幸中の幸いかしらね」
ちらちらと地面を白く染める雪を見つつ、皮肉めいた言葉をあげてしまった。
どう答えていいか解らぬのだろう――ハインツは沈黙する。
私は苦く笑って、話題を変えた。
「……ハインツは、何度もこの道を通ったのよね」
「はい。若い頃から数え切れないほど……旦那様が戦争で名を轟かしていた頃からですので。もう何十年にもなりますなぁ」
ハインツの言う旦那様……それは私の祖父だ。
オズワルド・フロストマルク・エーレンファルト。かつては「北方の獅子」とまで呼ばれた将。私自身、幼い頃から何度も祖父の武勇を聞いた事がある。祖国が敵国に襲われた時、正規兵だけでは戦力が足りず、平民や傭兵、さらには神官まで掻き集めた混成軍で護り抜いた護国の将。
ただ、貴族の掲げる身分制度から外れた考えを持っていた祖父は異端とされ、功績を挙げたにも関わらず北の辺境に追いやられたのだとか……一応は、新たに領地を戴いたという体裁だけれども。
……父も母も、祖父を忌避していた。この世界において、身分差を無視するような考えはやはり……異常なだけなのだろう。
でも、ハインツの声色は明るい。彼は祖父を忌避するどころか……心から慕っている。
「旦那様は厳しいお方ですが、身分に関係なく皆を対等に扱われる御方です。荒くれ者の傭兵に、血気盛んな武闘派神官、負けん気だけは凄かった農家の倅……いやぁ懐かしい。厳しい戦でしたが、旦那様の下で皆が同じ方向を見て戦いました」
声の調子だけで、信奉の念が掴めてしまう。
今でこそ御者としてエーレンファルト家に仕えているけれど、若い頃は祖父と同じ戦場を駆けていたと聞く……きっとあるのだ。直に触れた者にしか結ばれない絆が。
「あの戦争を再び味わいたいとは思いません。ですが、あの日の思い出は今も胸に残っています」
懐かしむその声は、大切な宝物を眺めるような……少年じみた声色。
掛け替えのない思い出がハインツの胸の内にあるのだと、その響きだけで伝わってくる。遠い遠い記憶が、今なお輝いて……私には無い、宝石のような過去。
……ああ、でもこの世界に生まれる前ならば……掠れている前世の記憶には、僅かながら残っている。もう顔も思い出せないけれど、笑い合っていた父と母。その間で同じように笑っていた、遥か彼方の自分自身。日本で過ごしていた頃は、家族で旅行に出掛けたこともあったっけ。
ふと、視界に映る景色を見つめて、遠い記憶が蘇る。
「――カエデの木」
寒冷な地域にも自生する落葉樹。特徴的な紅い葉先と葉脈の樹が、馬車に揺れる私の視線に絡んでくる。少しだけ、日本で見たカエデとは異なる気もするけれど。
ただ、王都には生えていない樹であることだけは明白で。
――思ってしまった。ようやく自覚してしまった。
本当に、戻れぬ地まで追放されたのだと――今になって、ようやく。
◇◇◇
フロストマルクの領地に入り、最初に馬車が向かった場所は重厚な佇まいの城館だった。
華美な装飾はひとつもない。簡素で武骨な外観。貴族が住まう屋敷というよりも、戦場の将兵が待機している砦のような、実用性を重視した造り。
けれど何故か――今まで見たどんな建造物より「清潔」に感じられた。
そんな城館の前に、白髪の老人が立っている。齢を重ねてなおその背筋は真っ直ぐで、杖を突いているのに纏う空気は大剣のよう。かつて戦場を駆け抜けたという歴史と事実が、立ち姿一つで表されている。
あの方こそオズワルド・フロストマルク・エーレンファルト。国の危機を護り抜いた、護国の英雄。
「エルミーヌ」
一言……たった一言だけ名を呼ばれた。けどその一言は、酷く重くて厳しい響き。王都の法廷で受けた判決の言葉よりも、重石のように胸に落ちた。
私は自然と、僅かに雪の積もる地面に膝を折り、深く頭を垂れる。
――恥ずかしくて、頭を上げてなどいられなかった。
「……申し訳ございませんお爺様。生き恥を晒して、この地に来ることになりました」
「うむ」
低い、地鳴りのような声が届く。
頷きだけで、自分と祖父の「格」の違いというものが示されてしまう。
「詳細は既に聞き及んでおる。その上で……儂はお前を、貴族として叱らねばならぬ」
剣の切っ先のような鋭い声。
甘さはなく、そこにあるのは厳しい極寒のような重圧だけ。
「面を上げい」
赦しを得て顔を上げる。改めて見れば祖父の他にも、数名の兵が居た。その中でも黒髪の若い騎士が目立つ。歳は二十半ばだろうか。精悍な顔つきと隙の無い姿勢。王都でも騎士を見たが、彼ほど見事な佇まいは数える程しか目にしていない。それだけ立派な貴公子じみた青年。
でも、そんな騎士に目を奪われる余裕はなかった。
祖父が猛禽のような眼で、私を見下ろしているのだから――ただただ息を呑む。
「裁判の場に立たされたこと自体が、お前の落ち度だ。証拠を揃え、味方を作り、根回しをして盤石の備えを築き上げる――それが出来なかった時点で、お前は甘い」
言葉のひとつひとつが、北方に降る雪よりも冷たく、私の心に積もっていく。
「おそらくはリザミーレの策略だったのだろう……だが、それもひとつの戦術。敵を正面から斬り殺すことだけが戦ではない。偵察し、罠を張り、流言を広め、敵の中に疑心を生ませ、失墜させる――あくどい手法も、領民を守るために貴族が持つべき手札ではある」
反論の余地のない言葉。
相手を褒める訳でもなく、私を蔑む訳でもなく――私の未熟を叱る声。
「悪意に対して悪意で対抗しろとはいわん。だが悪意の裏工作に対応できず敗れるのなら……それは貴族としては未熟者とそしられる」
……厳しい言葉は、何故だか私の中に安堵を齎した。
同情ではない。憐憫ではない。誹謗でもなければ中傷でもない。
祖父は私が何を間違えたのかを、正確に切り分けてくれた。
ただ愚かと非難した王都の人たちとは違う。厄介者を追放した家族の顔とも異なる。
私自身を真っ直ぐ見て……私の至らなさを言葉にしてくださった。
数度しか会った事がないのに。汚名を被った孫娘だというのに。
寒空の下で私が来るのを待ち――本当の親のように、叱ってくれた。
「……はい。私は妹に、負けました」
だから、なのだろうか。胸の奥が軽くなった気持ちになり、張り詰めていた心が表に出た。
敗北を認める言葉。此処に来るまでにも何度か口にした筈なのに……今初めて、心の底から言葉に出来た気がする。自分でも気付かなかった澱みのようなものが、排出されていくような。
祖父が、歩み寄ってくる。雪の残る大地を掻き分けるように、振り払うように。
そして、膝を突く私の前に屈み込み――
「辛かっただろう……お前のような清廉な者に、あの悪意の巣窟は」
太い両腕で、華奢な私の身体を抱きしめてくれた。
寒空の下なのに、外套越しに伝わる体温が、まるで暖炉のように温かくて。
「……っ」
堪えた――堪えようとした。でも到底堪えられなかった。
裁判の時は平気だったのに。両親に追い出された時も平静だったのに。
婚約者に見捨てられた時でさえ、我慢できたのに。
「う……うぁ……」
肩が震える。喉の奥が苦しい。頬を伝うものが、一向に治まってくれない。
私は堰が切れたように――泣いた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁあん……」
「今は泣くがよい……安心せい。ここにお前を蔑む者はいない。いるのは孫娘を叱る、偏屈な爺だけじゃ」
先程まで巌のようだった祖父の声が、毛布みたいに優しい。
大きな手で、幼子をあやすように、背を叩き続けてくれる。
ああ、そうか。そうなのか。
ずっとずっと忌避され続けて。ずっとずっと異端扱いされて。最期の時までずっと――私を抱きしめてくれる人が、一人も居なかったから。
だから苦しいことに気付けなかった――心はずっとずっと辛かったのに。
「泣け。存分に泣け。……爺の胸でよければ、幾らでも貸してやる」
冬の風は冷たい。膝から伝わる雪は寒い。
でも、祖父の胸は温かかった。
丸太みたいに太い腕で、岩みたいに硬い胸に抱かれているのに。
心の奥まで溶けるくらいに……温かかった。
……それからしばらく、祖父の外套を握り締めながら泣いていたけれど。
流石に時間が経てば、涙は治まる。喉は痛いし鼻声だけど……感情は静まる。
ただ、その、何て言うか……とんでもなく頬が熱い。
「ご、ごめんなさいお爺様! 私ったら、なんて恥ずかしい……!」
顔から火が吹きそうとは、よく言ったものだと思う。こんな人前で、祖父に縋りついて号泣するだなんて……あ、あああああああ、もう! 恥ずかしすぎて取り繕えない!
思わず祖父から後ずさってしまう。そしてそのまま両手で顔を覆って、蹲って――!
「どうぞ、エルミーヌ様」
……そこへ、静かに降る雪のような声が落ちた。
深くて澄んだ新雪のような声。今まで聴いた事のない、低い男性の声。
顔を上げると、精悍な顔つきの黒髪の騎士が、私にハンカチを差し出していた。
私のすぐ近くで膝を折って……労わるような優しい顔で。
……そこで、ようやく泣いていた事実を思い出す。頬が濡れたままだった。
おそるおそるハンカチを受け取り――顔が妙に熱く感じる。
「あ、ありがとう……えっと、貴方は……?」
「申し遅れました。閣下に仕えるロランドと申します」
恭しい一礼。王都の騎士にも見劣らない見事な礼を、私に向けてくれる。
そんな騎士に、祖父は目配せを――何故だか小さく笑いつつ。
「ロランド。しばらくの間、エルミーヌの供回りを任せる。孫娘は北の地に来たばかりだ。この地の過ごし方を教えてやってくれ」
「畏まりました閣下」
ロランドと名乗った騎士は、祖父に対して深い礼をした後……そっと手を差し出してくる。
「お荷物をお持ちします。参りましょうエルミーヌ様」
……ああ、そうか。荷物か。うん、そうよね。荷物よね。
――私の手じゃなくて、私の荷物よね。
……どうして、そんな勘違いをしてしまったのか、自分でも良く解らないけれど。とにかく私は、ロランドに手荷物を渡す。簡素な衣類しか入っていない、小さな鞄を。
そして導かれるように、領主の城館の中へ足を進める。
不思議と、妙に動悸が激しい胸を押さえながら。
――それが、白き北方フロストマルクにやってきた最初の一日目だった。
――私がロランドと出会った、最初の一日目。




