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平穏を望む宮廷魔導師は、自由気ままに暮らしたい  作者: nene
第1章 春風の街、フィオーレ

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第9話 白い小さな訪問者


 白い獣は、エリアスが近づいても逃げようとしなかった。


 正確には、逃げるだけの力が残っていないようだった。


 草の上に横たわった小さな体は、呼吸に合わせてかすかに上下している。雪を思わせる白い毛並みはところどころ土に汚れ、後ろ脚には赤黒い血が滲んでいた。


「カイル、少し周囲を見ていただけますか」


「わかった。お前も気をつけろよ」


 カイルは剣の柄に手を添え、近くの茂みへ視線を走らせた。


 エリアスは獣の前に膝をつき、手のひらを見せるようにゆっくり差し出した。


「怪我を見せてもらってもいいですか?」


 小さな耳が、ぴくりと動く。


 淡い青色の瞳がエリアスの手を追い、それから彼の顔へ戻った。


「少し触れますね」


 指先が白い毛に触れると、獣は一度だけ体を強張らせた。しかし、噛みつくことも逃げようとすることもなく、じっとしている。


 エリアスは慎重に後ろ脚を調べた。


 傷は深くない。けれど、血が止まらず、周囲の毛が固まってしまっている。


 それ以上に気になったのは、体内を巡る魔力だった。


 本来なら滑らかに循環するはずの魔力が、ところどころで途切れている。


「……妙ですね」


「どうした?」


 近くまで戻ってきたカイルが尋ねた。


「外傷はそれほどひどくありません。ただ、魔力の消耗が激しいようです」


「魔力?」


「ええ。何か大きな力を使ったあとにも似ていますが……」


 エリアスは言葉を切った。


 獣の体から感じられる魔力は、これまで見てきたどの魔物とも異なっていた。


 澄んだ水のように静かでありながら、その奥には複雑な流れがある。


 古代の魔法書で読んだ、精霊の魔力に近い。


 しかし、確信するには情報が足りなかった。


「治せそうか?」


「傷は治せます。ただ、魔力については少し様子を見たいですね」


 エリアスは片手を傷口へかざした。


 淡い光が指先に集まり、白い毛の上へ静かに広がっていく。


 傷口を清め、損傷した組織の回復を促す。


 治癒魔法は得意分野というほどではないが、この程度の怪我なら問題はない。


 やがて出血が止まり、傷口がゆっくりと塞がった。


「これで歩けると思います」


「相変わらず手際がいいな」


 カイルが感心したように言う。


「そうですか?」


「ああ。治癒術師に頼んだら、それなりに時間がかかるぞ」


「傷が小さかったですから」


 エリアスは獣から手を離した。


 小さな鼻先が動き、白い獣はゆっくり顔を持ち上げる。


「少し楽になりましたか?」


 その問いかけに答えるように、獣は短く鳴いた。


 声は驚くほど小さく、鈴を指先で弾いたような音だった。


「……変わった鳴き声だな」


 カイルがしゃがみ込む。


「こんな魔物、見たことないぞ」


「私も初めてです」


「エリアスでも知らないのか?」


「ええ。狐に似ていますが、耳の形と尾の長さが少し違いますね」


 エリアスは獣の背を優しく撫でた。


「ただ、魔物と決めつけるのは早いかもしれません」


「ほかに何がいるんだ?」


「精霊の一種という可能性もあります」


「精霊?」


 カイルの声が少し高くなった。


「おいおい、精霊って、昔話に出てくるあの精霊か?」


「ええ」


「そんな簡単に見つかるものなのか?」


「普通は難しいでしょうね」


「……普通は?」


 エリアスは獣の瞳を覗き込んだ。


「ですが、こうして目の前にいるのですから」


 カイルは何か言おうとして、やめた。


 確かに、そのとおりではある。


 だが、そんなに落ち着いて受け入れていい話なのだろうか。


 彼が考え込んでいる間に、白い獣はよろよろと立ち上がった。


 そして二歩ほど進んだところで、前脚を折ってしまった。


「あっ、おい!」


 カイルが手を伸ばすより早く、エリアスが獣を抱き上げた。


「まだ無理はしない方がよさそうですね」


 白い獣は腕の中で小さく身じろぎしたが、やがておとなしくなった。


 首を伸ばし、エリアスの胸元に鼻先を押しつける。


「……ずいぶん懐いてないか?」


「そうでしょうか」


「いや、どう見てもそうだろ」


「安心してくれたのでしょうか」


「さあなあ」


 カイルは腕を組んだ。


「それで、どうする?」


 エリアスは抱いている獣へ目を落とした。


 傷は治っても、体力は戻っていない。


 このまま森に置いていくのは、少し心配だった。


「宿へ連れて帰ろうかと思います」


「宿?」


「はい。元気になるまで、様子を見られればと」


「……ミラさんが許してくれるかな」


 その言葉に、エリアスは動きを止めた。


 確かに、宿に動物を連れて入っていいかどうかは、まだ確認していない。


「そうですね。まず相談しなければ」


「駄目だったらどうする?」


「そのときは、別の場所を探します」


 エリアスは少し考えてから続けた。


「小さな家を借りるというのも、よさそうですね」


「……家?」


「ええ。いずれ長く滞在するつもりでしたから」


「いや、ちょっと待て。そいつのために家を借りるのか?」


「それだけが理由ではありませんよ。庭のある家なら、植物も育てられますし」


 カイルはしばらく黙っていた。


 どうにも話の進み方が早い。


「……まあ、お前がいいならいいけどさ」


 結局、そう答えるしかなかった。


     ◇


 帰り道、二人は来たときよりもゆっくり歩いた。


 エリアスの腕の中で、白い獣は目を閉じている。


 時折、耳が小さく動くところを見ると、眠っているわけではないらしい。


「そういや、エリアス」


「はい?」


「そいつ、何を食うんだろうな」


「……何でしょうね」


「知らないのかよ」


「種類がわかりませんので、食性も判断できません」


「そりゃそうか」


 カイルは少し考えた。


「狐なら肉を食うだろうけど、精霊かもしれないんだろ?」


「ええ」


「じゃあ、肉を食うとは限らないよな」


「そうですね。植物の魔力を糧にする種類もいるようです」


「……食わせるのが難しそうだな」


「まずは、本人に聞いてみましょうか」


「本人?」


 エリアスは腕の中の獣を見た。


「何か食べたいものはありますか?」


 白い獣が片目を開ける。


 しかし、すぐに閉じてしまった。


「……今は眠いようですね」


「いや、そういう問題なのか?」


 カイルは笑った。


「エリアス、お前って本当に変わってるな」


「そうでしょうか」


「ああ。普通、動物に食べたいものを聞いたりしないぞ」


「でも、好みがあるかもしれませんから」


「まあ、そりゃそうだけど」


 カイルは笑いながら歩き出した。


 エリアスも後に続く。


 森を抜ける頃には、午後の日差しが少し傾き始めていた。


 草原を渡る風は暖かく、遠くにフィオーレの鐘楼が見える。


 途中、カイルが足を止め、街道脇の木を指差した。


「ほら、あそこ」


「何でしょう?」


「野生のルミナの木だ。実がなってる」


 エリアスが見上げると、枝の間に薄紫色の小さな果実が揺れていた。


 数日前、市場で買ったものと同じ種類だ。


「ああ、ルミナの実ですね」


「知ってるのか?」


「ええ。市場で購入しました。少し酸味があって、おいしかったです」


「そうそう。俺も好きなんだよ」


 カイルは低い枝から熟した実を数個摘み取った。


「ほら、土産に持って帰ろうぜ」


「いいのですか?」


「この辺りは誰でも採っていい場所だからな。採りすぎなきゃ問題ない」


 エリアスは受け取った実を眺めた。


 自然の中で採れたものだからだろうか。市場で買った実よりも、わずかに魔力が強い。


 そのとき、腕の中で白い獣が動いた。


「……おや?」


 小さな鼻先が、エリアスの手にある果実へ向けられている。


 青い瞳が、じっとルミナの実を見つめていた。


「もしかして、これが欲しいのですか?」


 獣は短く鳴いた。


「……食うのか?」


 カイルが覗き込む。


 エリアスは果実をひとつ、獣の鼻先へ近づけた。


 小さな口が開き、実を器用に咥える。


 そして、あっという間に食べてしまった。


「おお、食った!」


「気に入ったようですね」


 白い獣はエリアスを見上げ、もう一度鳴いた。


「まだ欲しいのですか?」


 今度は、はっきりと尾が揺れた。


 カイルが吹き出した。


「ははっ! わかりやすい奴だな!」


 エリアスは小さく笑い、二つ目の実を差し出した。


 獣は嬉しそうにそれを食べた。


 すると、体を包んでいた魔力の揺らぎが、ほんの少し落ち着いたように感じられた。


「……なるほど」


「どうした?」


「この実に含まれる魔力が、体力の回復に役立っているようです」


「へえ。じゃあ、もっと採っていくか?」


「そうですね。ただ、食べすぎてもよくないかもしれませんから、少しだけ」


 カイルは頷き、手の届く範囲から熟した実をいくつか摘み取った。


 エリアスはそれを受け取り、礼を言った。


「ありがとうございます、カイル」


「いいってことよ」


 カイルは肩をすくめた。


「それにしても、変わった一日になったな」


「そうですね」


「ちょっと散歩するだけのつもりだったんだけどなあ」


「私もです」


 エリアスは腕の中の獣を見た。


「でも、出かけてよかったです」


 その言葉に、カイルは笑った。


「ま、それは俺も同感だ」


     ◇


 鈴蘭亭に戻った頃には、夕食の準備が始まっていた。


 食堂の扉を開けると、ノアがカウンターの向こうから顔を上げた。


「あ、おかえりなさい!」


「ただいま戻りました」


「どうでした? 丘の景色、きれいだったでしょう?」


「ええ。とても素晴らしかったです」


「よかった!」


 ノアは嬉しそうに笑った。


 そして、エリアスの腕に抱かれている白い塊に気づいた。


「……あれ?」


 目を瞬かせる。


「エリアスさん、それ……何ですか?」


「森で見つけた子です」


「子?」


「怪我をしていたので、連れてきました」


 ノアはカウンターから身を乗り出した。


「わっ、かわいい!」


 白い獣が耳を動かす。


「狐ですか?」


「まだ種類はわからないんです」


「へえ……」


 ノアは興味津々といった様子で獣を見つめた。


「触ってもいいですか?」


「本人が嫌がらなければ」


「……本人?」


 ノアは少し笑った。


「エリアスさん、動物にも丁寧なんですね」


「そうでしょうか」


「はい。なんだか人と話してるみたいです」


 エリアスは白い獣の顔を覗き込んだ。


「ノアが触っても大丈夫ですか?」


 獣は、ぷいと顔を背けた。


「あっ」


 ノアが声を漏らす。


「……嫌われちゃいました?」


「まだ少し警戒しているのでしょうね」


「そっかあ。残念」


 ノアは少し肩を落としたが、すぐに笑った。


「まあ、仕方ないですね。早く元気になるといいな」


「ええ」


 エリアスは頷き、それから本題を切り出した。


「ところで、ノア。ひとつお願いがあるのですが」


「はい?」


「この子を、しばらく部屋で預かってもよろしいでしょうか?」


 ノアは少し考えた。


「うーん……。うちは動物を連れて泊まるお客さん、あんまりいないんですよね」


「そうですよね」


「母さんに聞いてみます!」


 ノアは厨房へ向かって声を上げた。


「母さーん! ちょっといい?」


 すぐに、ミラが顔を出した。


「何だい、騒々しいね」


「エリアスさんが、森で動物を拾ってきたんだって」


「動物?」


 ミラはエリアスの腕を見て、目を丸くした。


「まあ、真っ白じゃないか」


「怪我をしていたので、保護しました」


「そうなのかい」


 ミラは獣の様子を覗き込んだ。


「おやまあ。ずいぶんおとなしい子だねえ」


「今は少し弱っているようです」


「それはかわいそうに」


 ミラは腕を組み、少し考えた。


「部屋を汚したり、ほかのお客さんに迷惑をかけたりしないなら、しばらく預かってもいいよ」


「本当ですか?」


「ああ。ただし、ちゃんと面倒を見るんだよ」


「もちろんです。ありがとうございます」


 エリアスは丁寧に頭を下げた。


 ミラは笑った。


「いいんだよ。でも、無理はしないでおくれ。困ったら言うんだよ」


「はい」


「それと、その子に食べさせるものはあるのかい?」


「ルミナの実を食べるようです」


「ルミナの実?」


「ええ。ほかにも食べられるものがないか、調べてみようと思っています」


 ミラは頷いた。


「じゃあ、必要なら言っておくれ。果物くらいなら分けてあげられるから」


「ありがとうございます」


 エリアスは改めて礼を述べた。


 その間、白い獣は彼の腕の中で静かにしていた。


 ただ、ミラが近づいたときだけ、わずかに鼻を動かした。


「……あら?」


 ミラは首を傾げた。


「なんだか、いい匂いがするねえ」


「いい匂い、ですか?」


「ああ。花みたいな香りがするよ」


 エリアスは獣へ目を落とした。


 確かに、ほのかに甘い香りが漂っている。


 森で見つけたときには気づかなかった。


「……不思議ですね」


「森の花の匂いがついたのかもしれないね」


 ミラはそう言って笑い、厨房へ戻っていった。


     ◇


 部屋へ戻ると、エリアスは窓際の小さな長椅子に白い獣を下ろした。


 柔らかな布を一枚広げ、その上へ寝かせる。


「ここなら、ゆっくり休めるでしょう」


 獣は部屋の中を見回した。


 窓から差し込む夕日。


 木製の机と椅子。


 棚に並べられた数冊の本。


 そして、机の端に置かれた銀色のランプ。


 その視線が、ランプのところで止まった。


「……?」


 エリアスは気づかず、旅行鞄からルミナの実を取り出していた。


「お腹は空いていますか?」


 獣はランプから目を離し、エリアスを見上げた。


 短く鳴く。


「そうですか。では、少しだけ」


 エリアスは小皿を用意し、実を二つ並べた。


 白い獣は顔を近づけ、器用に食べ始めた。


 その様子を眺めながら、エリアスは椅子に腰掛けた。


「……さて」


 まだ名前も知らない、小さな生き物。


 精霊なのか、魔物なのか。


 それとも、まったく別の存在なのか。


 わからないことは多かった。


 ただ、今は無事に回復してくれれば、それで十分だった。


 エリアスは手を伸ばし、白い頭をそっと撫でた。


「元気になったら、森へ帰りましょうね」


 その瞬間。


 獣の動きが止まった。


 青い瞳がエリアスを見上げる。


「……どうしました?」


 小さな口から、短い声が漏れた。


 先ほどまでとは少し違う、抗議するような響きだった。


「森へ帰りたくないのですか?」


 エリアスが尋ねると、獣は顔を背けた。


 そして、彼の膝へよじ登ろうとする。


「……おや」


 エリアスは慌てて抱き上げた。


 白い獣は膝の上で丸くなり、満足したように目を閉じる。


「困りましたね」


 そう言いながらも、エリアスの声には少し笑いが混じっていた。


「ここが気に入ったのでしょうか」


 返事はなかった。


 ただ、小さな尾が一度だけ揺れた。


 エリアスはしばらく考えたあと、優しく背を撫でた。


「まあ、今すぐ決める必要はありませんね」


 その言葉を聞いたかのように、獣はさらに体を丸めた。


     ◇


 夕食を終えたあと、エリアスは部屋で古い書物を開いていた。


 机の上には、王都から持ってきた魔物図鑑と、精霊に関する研究書が並んでいる。


 白い獣は長椅子の上で眠っていた。


 エリアスは何度かページをめくり、似た特徴を持つ生物を探した。


 白い毛並み。


 長い尾。


 青い瞳。


 そして、特殊な魔力。


 狐に似た魔物はいくつか見つかったが、どれも完全には一致しない。


「……やはり、精霊に近いのでしょうか」


 エリアスは研究書の一節に目を留めた。


『古き精霊は、時に獣の姿を取る。その姿は一定ではなく、宿す力や土地の性質によって異なるとされる』


 なるほど。


 少なくとも、今の姿だけで種類を特定するのは難しそうだった。


 さらにページをめくる。


 そこには、古代の精霊が好む食べ物についての記述があった。


 魔力を多く含む植物。


 清らかな水。


 特定の土地で採れる霊果。


「……ルミナの実も、その一種なのかもしれませんね」


 エリアスは小さく呟いた。


 そのとき、長椅子からかすかな物音がした。


 顔を上げると、白い獣が起き上がっていた。


 青い瞳が、じっとこちらを見つめている。


「起こしてしまいましたか?」


 獣は答えず、長椅子から軽く跳び下りた。


 傷ついていた後ろ脚も、今は問題なく動いているようだった。


 エリアスは安心して微笑んだ。


「ずいぶん元気になりましたね」


 白い獣は机のそばまで歩いてきた。


 そして、前脚を伸ばして何かに触れた。


 銀色のランプだった。


「……それが気になりますか?」


 エリアスはランプを手に取った。


 市場で古道具屋の店主からもらった、古い照明用の魔道具。


 表面には細かな模様が刻まれ、内部には少し変わった術式が組み込まれている。


「古いものですが、よくできているんですよ」


 エリアスはランプを獣の前へ置いた。


 白い獣は鼻先を近づけ、しばらく匂いを嗅いでいた。


 それから、小さな前脚でランプの表面に触れる。


 その瞬間。


 銀色の模様が、淡く青い光を放った。


「……?」


 エリアスは目を細めた。


 ランプの内部を巡る魔力が、ほんのわずかに変化している。


 それまで静かに眠っていた古い術式が、獣の魔力に反応したのだ。


「……これは」


 彼はランプを持ち上げ、慎重に調べた。


 光はすぐに消えてしまった。


 しかし、確かに反応があった。


 それも、通常の魔力供給では起こらない種類の変化だった。


「……面白いですね」


 エリアスは呟いた。


 白い獣は、じっと彼を見上げている。


「あなた、この魔道具を知っているのですか?」


 問いかけると、獣は短く鳴いた。


 肯定なのか、それとも単に声に反応しただけなのか。


 判断は難しかった。


 エリアスはしばらくランプを眺め、それから静かに笑った。


「……わからないことが増えてしまいましたね」


 研究書を閉じ、獣へ目を向ける。


「そういえば、あなたの名前もまだ聞いていませんでした」


 白い獣は耳を動かした。


「名前はありますか?」


 返事はない。


 エリアスは少し考え込んだ。


 名前がなければ、呼ぶときに不便だ。


 かといって、勝手につけていいものだろうか。


「……仮の名前でも、あった方がよさそうですね」


 窓の外では、月が昇っていた。


 淡い光が室内へ差し込み、白い毛並みを柔らかく照らしている。


 その姿を見て、エリアスはふと、古い言葉を思い出した。


「リュカ……」


 白い獣が顔を上げた。


「古い地方語で、柔らかな光を意味する言葉です」


 エリアスは微笑んだ。


「あなたに、よく似合う気がします」


 白い獣はしばらく彼を見つめていた。


 そして、静かに鳴いた。


「……気に入ってくれましたか?」


 小さな尾が、左右に揺れた。


「では、しばらくリュカと呼ばせてもらいますね」


 エリアスが手を差し出すと、リュカはその指先に鼻を寄せた。


 温かな感触が伝わってくる。


 エリアスは優しく頭を撫でた。


「よろしくお願いします、リュカ」


 その夜。


 鈴蘭亭の小さな客室では、一人の青年と一匹の白い獣が、静かな時間を過ごしていた。


 窓辺には、古い銀色のランプ。


 机の上には、開かれた精霊の研究書。


 そして、エリアスの膝の上では、リュカが安心したように眠っている。


 まだ何も知らない。


 この小さな獣が、どこから来たのか。


 なぜ森で倒れていたのか。


 そして、古い魔道具がなぜ反応したのか。


 けれど、エリアスは急いで答えを求めようとはしなかった。


 今は、目の前の小さな命が無事であることの方が大切だった。


 彼はランプの明かりを少し落とし、椅子の背にもたれた。


「……明日は、何をしましょうか」


 膝の上で、リュカの耳がぴくりと動いた。


 エリアスは小さく笑う。


「そうですね。まずは、朝ご飯からですね」


 すると、リュカの尾が嬉しそうに揺れた。


 どうやら、食べ物の話は理解できるらしい。


 エリアスはその様子を見て、ますますおかしくなった。


「……食いしん坊ですね、あなたは」


 小さな獣は、何も言わなかった。


 ただ、満足そうに目を閉じている。


 窓の外では、フィオーレの夜が静かに更けていった。


 エリアスが望んだ平穏な暮らしには、どうやら新しい家族がひとり、加わることになりそうだった。

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