第10話 古書店の主人
翌朝、エリアスは小さな重みで目を覚ました。
胸の上に、白い毛の塊が乗っている。
「……リュカ?」
名前を呼ぶと、白い獣は片耳を動かした。
それきり、動く気配はない。
昨夜は窓際の長椅子に寝床を作ってやったはずだった。柔らかな布を重ね、水を入れた小皿も置いてある。
それなのに、いつの間にか寝台へ移動してきたらしい。
「そこでは寝苦しくありませんか?」
リュカは答えなかった。
エリアスが起き上がろうとすると、胸元の布を前脚で押さえる。
「……まだ眠いのですか?」
今度は、短い鳴き声が返ってきた。
どうやら、そのつもりらしい。
エリアスは枕元の時計を見た。朝の七時を少し過ぎている。
王都にいた頃なら、とっくに仕事を始めている時間だったが、今は急ぐ理由もない。
「それなら、もう少しだけ」
そう言って枕に頭を戻すと、リュカは満足したように丸くなった。
結局、起き上がれたのはそれから三十分ほど経ってからだった。
◇
「おはようございます、エリアスさん!」
食堂へ下りると、ノアがいつもの笑顔で迎えてくれた。
「おはようございます」
「あれ、今日は少し遅かったですね」
「ええ。寝坊をしてしまいました」
「珍しいですね。疲れてたんですか?」
「いえ、リュカが起こしてくれなくて」
「……リュカ?」
エリアスは腕に抱いていた白い獣を少し持ち上げた。
「この子の名前です」
「ああ! 名前つけたんですね!」
「はい。昨夜、相談して決めました」
「相談?」
「本人と」
ノアは一瞬だけ口を閉じた。
それから、リュカを見つめる。
「……気に入ってくれたんですか?」
「そうだと思います。返事をしてくれましたから」
「へえ……」
ノアは少し考えたあと、納得することにしたらしい。
「いい名前ですね。よろしくな、リュカ!」
白い獣はノアを見た。
しばらくして、小さく尾を動かす。
「あっ!」
ノアの顔が明るくなった。
「今、返事しましたよね?」
「ええ。昨日より慣れたようですね」
「やった!」
ノアは嬉しそうに笑った。
その声に、厨房からミラが顔を出す。
「朝から何を騒いでるんだい」
「母さん! リュカが返事してくれた!」
「そりゃよかったねえ」
ミラは笑いながら、エリアスへ目を向けた。
「その子、もう元気になったのかい?」
「はい。食欲もありますし、歩くのにも問題はなさそうです」
「なら安心だね」
ミラはリュカを眺めた。
「それにしても、ずいぶん綺麗な毛並みだこと。森にいたとは思えないねえ」
「昨日、少し汚れを落としましたので」
「洗ってあげたのかい?」
「いえ。浄化魔法を使いました」
「ああ、魔法でね」
ミラは何気なく頷いた。
その横で、ノアが不思議そうな顔をした。
「エリアスさん、動物にも浄化魔法って使えるんですか?」
「ええ。毛や皮膚を傷めないように調整すれば問題ありませんよ」
「僕が使う浄化魔法だと、服の汚れを落とすくらいしかできないんですけど……」
「魔力の流れを細かく調整すると、いろいろ応用できるんです」
「へえ……」
ノアは自分の手を見つめた。
エリアスはその様子に気づき、少し考えた。
「興味があるのでしたら、今度一緒に練習してみますか?」
「えっ、いいんですか?」
「もちろんです」
「やった! 僕、もう少し魔法が上手になりたかったんです!」
「では、簡単なところから始めましょう」
二人がそんな約束を交わしていると、ミラが朝食を運んできた。
「ほら、話はあとにして食べな。パンが冷めちまうよ」
「はい」
「それからエリアスさん、その子のご飯はどうするんだい?」
「ルミナの実を少し用意しています」
「それだけじゃ足りないかもしれないねえ」
ミラはしばらく考え、厨房へ戻った。
やがて、小さな皿を持ってくる。
「これ、味つけ前の蒸した鶏肉なんだけど、食べるかしら」
エリアスはリュカを見た。
「どうでしょう。食べてみますか?」
リュカは皿に顔を近づけ、匂いを嗅いだ。
それから、小さくひと口。
しばらく噛んでいたが、やがて満足そうに尾を振った。
「食べた!」
ノアが喜ぶ。
ミラも嬉しそうに笑った。
「よかったねえ。じゃあ、少し分けてあげるよ」
「ありがとうございます」
エリアスは礼を言い、リュカの前へ皿を置いた。
白い獣は夢中になって食べ始める。
その姿を眺めながら、エリアスはふと思った。
精霊であれば、必ずしも普通の食事を必要とするわけではない。
魔力そのものを糧にする種類も多い。
けれど、リュカは果実も肉も食べるようだった。
そうなると、やはり純粋な精霊とは違うのだろうか。
「……難しいですね」
思わず呟く。
「何がですか?」
ノアが尋ねた。
「いえ、食事の好みは個体差が大きいのだなと」
「そりゃそうですよ。僕だって母さんと好きな食べ物違いますし」
「……確かに」
エリアスは納得した。
種族ばかり気にしていたが、個体ごとの好みというものもある。
考えてみれば、当然のことだった。
「ありがとうございます。参考になりました」
「えっ、何がですか?」
ノアは首を傾げた。
エリアスは微笑んだ。
「いろいろと、です」
◇
朝食を終えたエリアスは、中央広場の北側にある古書店へ向かうことにした。
以前から気になっていた店だ。
ノアによれば、店主は少し無愛想だが、本のことなら何でも知っているらしい。
「レオンさんっていうんですけど、あんまりしゃべらない人なんですよ」
出かける前、ノアはそう教えてくれた。
「でも、悪い人じゃないです。本を探してると、ちゃんと教えてくれるし」
「それは楽しみですね」
「……無愛想って言ったのに?」
「本に詳しい方なのでしょう?」
「はい」
「でしたら、いろいろ教えていただけそうです」
ノアは少し笑った。
「エリアスさんなら、案外仲良くなれるかもしれませんね」
エリアスはその言葉を聞きながら、リュカを抱き上げた。
「では、行ってきます」
「いってらっしゃい!」
鈴蘭亭を出ると、街には穏やかな朝の空気が流れていた。
石畳の道を歩きながら、エリアスは周囲の店を眺める。
花屋の前では女性が鉢植えに水をやっていた。
パン屋からは焼きたての香りが漂い、通りの向こうでは商人が荷車を押している。
リュカはエリアスの腕の中から顔を出し、忙しそうに辺りを見回していた。
「初めての街は、珍しいものが多いでしょう?」
エリアスが話しかけると、リュカは小さく鳴いた。
「私も同じです」
そう言って笑う。
しばらく歩くと、人通りの少ない細い通りに出た。
通りの両側には古い石造りの建物が並び、窓辺には蔦が伸びている。
その一角に、小さな木製の看板が見えた。
『クロイス古書店』
飾り気のない、落ち着いた店構えだった。
エリアスは扉の前で足を止めた。
窓から覗く店内には、高い書棚がいくつも並んでいる。
「……いいお店ですね」
思わず声が弾んだ。
リュカが短く鳴いた。
エリアスは扉を開けた。
小さな鈴の音が、静かな店内に響いた。
◇
古書店の中には、紙と革の匂いが満ちていた。
天井近くまで伸びる書棚には、古びた書物がぎっしりと並んでいる。
歴史書、旅行記、植物図鑑、魔法理論書。
背表紙の文字は古いものが多く、王都の一般書店では見かけないような本もあった。
エリアスは思わず足を止めた。
「……これは」
目の前の棚には、百年以上前に出版された魔法理論書が並んでいた。
その中には、王立魔導院の書庫でも閲覧制限がかけられている古い研究書が含まれている。
もっとも、内容そのものに危険性があるわけではない。
希少なため、持ち出しが制限されているのだ。
「……珍しいですね」
エリアスは小さく呟いた。
「何か探し物か」
突然、低い声がした。
振り返ると、店の奥から一人の男性が現れた。
黒に近い濃紺の髪。
鋭さを帯びた金色の瞳。
年齢は三十歳前後だろうか。
細身の体に黒い上着を羽織り、片手には分厚い書物を持っている。
表情は落ち着いていたが、愛想のよい人物には見えなかった。
「こんにちは」
エリアスが声をかける。
「少し本を見せていただいてもよろしいでしょうか」
「好きにしろ」
短い返答だった。
男性はそれだけ言うと、カウンターの奥へ戻ろうとした。
しかし、エリアスが手に取ろうとしていた本を見て、足を止める。
「……それが読めるのか?」
「はい?」
「その本だ」
男性が指差したのは、古い革表紙の研究書だった。
背表紙には、現代ではほとんど使われていない魔法文字が刻まれている。
「古代魔法文字で書かれていますね」
「……知っているのか」
「ええ。王都で少し学びましたので」
エリアスは本を手に取り、表紙を開いた。
細かな文字と複雑な魔法陣が、黄ばんだ紙いっぱいに並んでいる。
「……なるほど」
数ページめくり、エリアスは興味深そうに目を細めた。
「これは、魔力循環の安定化に関する研究書ですね」
男性の表情が変わった。
「……何?」
「少し古い理論ですが、考え方は面白いです」
エリアスはページの一角を指差した。
「特に、この部分。魔力の流れを一定に保つのではなく、周囲の環境に合わせて変化させる仕組みになっています」
男性は黙った。
エリアスは気づかず、続きを読んでいる。
「ただ、この術式には少し欠点がありますね。魔力の供給源が不安定になると、循環が途切れてしまう」
「……お前」
男性が低い声で言った。
「その本を、以前に読んだことがあるのか?」
「いえ。初めてです」
「初めて?」
「はい」
エリアスは顔を上げた。
「何か問題がありましたか?」
男性はしばらく彼を見つめていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……それは、百五十年前に書かれた研究書だ」
「そうなのですね」
「内容を正確に読み解ける者は、ほとんどいない」
「……そうなのですか?」
エリアスは少し驚いた。
「文字そのものは、初期古代魔法文字に近い構造ですが」
「その文字を読める者が少ないんだ」
「なるほど」
エリアスは納得したように頷いた。
「では、翻訳書を作れば便利かもしれませんね」
男性は無言になった。
それから、深く息を吐く。
「……お前、名前は?」
「エリアス・レインフォードと申します」
「……レインフォード?」
男性の眉がわずかに動いた。
エリアスは気づかず、穏やかに続けた。
「こちらの店主さんでしょうか?」
「ああ。レオンハルト・クロイスだ」
「レオンハルトさんですね。よろしくお願いします」
「……ああ」
レオンハルトは短く頷いた。
そして、エリアスの顔をじっと見つめた。
レインフォード。
その名には、聞き覚えがあった。
王立魔導院にいた頃、何度も耳にした名前。
若くして宮廷魔導師となり、数々の古代術式を解明した天才。
だが、まさか本人がこんな辺境の古書店に現れるとは思えない。
同姓の別人かもしれない。
レオンハルトはひとまず、その考えを胸の内にしまった。
◇
「ところで、レオンハルトさん」
「何だ」
「この本は購入できますか?」
エリアスは手にしていた研究書を見せた。
「……買うのか?」
「はい。とても興味深い内容でしたので」
「安くはないぞ」
「そうなのですか?」
「ああ。希少本だからな」
「では、おいくらでしょう?」
レオンハルトが値段を告げると、エリアスは財布を取り出した。
「わかりました。いただきます」
「……即決か」
「はい」
「少しは迷わないのか?」
エリアスは不思議そうに首を傾げた。
「欲しい本でしたので」
あまりにも当然のような返答だった。
レオンハルトはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……そうか」
エリアスは代金を支払い、本を受け取った。
そのとき、腕の中のリュカが動いた。
「……?」
小さな鼻先が、本の方へ向けられている。
エリアスは視線を落とした。
「リュカ?」
白い獣は、じっと研究書を見つめていた。
その様子に、レオンハルトも気づいた。
「……その獣は?」
「森で保護した子です」
「森で?」
「ええ。怪我をしていたので、連れて帰りました」
レオンハルトはリュカを見つめた。
その金色の瞳が、わずかに細められる。
「……珍しい毛色だな」
「そうですね。私も初めて見る種類です」
「魔物か?」
「まだわかりません。精霊に近い魔力を感じるのですが」
その言葉に、レオンハルトの表情が変わった。
「……精霊?」
「はい」
エリアスは穏やかに答えた。
「ですので、少し調べてみようと思っています」
レオンハルトは黙った。
しばらくして、カウンターの下から一冊の薄い本を取り出した。
「……これを見てみろ」
差し出されたのは、古びた革表紙の小冊子だった。
表紙には、淡い金色の模様が刻まれている。
「これは?」
「リュネリア地方に伝わる、精霊の伝承をまとめたものだ」
「そんな本があるのですか」
エリアスは興味深そうに受け取った。
ページをめくると、古い挿絵がいくつも描かれていた。
森の奥に佇む巨大な木。
湖のほとりに立つ白い影。
そして、小さな獣の姿。
「……」
エリアスの手が止まった。
挿絵の一角に、白い狐に似た生き物が描かれていた。
長い尾。
細い耳。
そして、淡い青色の瞳。
「……リュカに、似ていますね」
思わず呟く。
腕の中のリュカが、ぴくりと耳を動かした。
レオンハルトは静かに頷いた。
「その絵は、古い精霊の伝承に出てくるものだ」
「詳しく教えていただけますか?」
エリアスが尋ねると、レオンハルトは少し考えた。
「……ここでは話しにくいな」
そう言って、店の奥へ目を向ける。
「時間はあるか?」
「はい。今日は特に予定がありませんので」
「なら、奥に来い」
レオンハルトはカウンターを出た。
「少し、見せたいものがある」
エリアスは小冊子を閉じ、リュカを抱き直した。
「ありがとうございます」
その声には、隠しきれない期待が滲んでいた。
◇
店の奥には、小さな書斎があった。
壁一面に書棚が並び、机の上には古い文献や筆記具が置かれている。
窓際には小さな鉢植えがあり、淡い緑色の葉を伸ばしていた。
「ここは、普段は人を入れないんだが」
レオンハルトはそう言いながら、机の上の書類を片づけた。
「今日は特別だ」
「ありがとうございます」
エリアスは椅子へ腰を下ろした。
リュカは膝の上で丸くなり、静かにしている。
レオンハルトは書棚から一冊の古い記録集を取り出した。
「この地方には、昔から精霊に関する言い伝えが多い」
「ええ。少し聞いたことがあります」
「その中でも、特に古いのが『白き導き手』の伝承だ」
レオンハルトは本を開いた。
そこには、森の中を歩く小さな白い獣の挿絵が描かれていた。
「古い記録によれば、森が大きく乱れたとき、白い獣が現れるという」
「……森が乱れたとき?」
「ああ。魔力の流れが変わったり、古い結界が弱まったりしたときにな」
エリアスは挿絵を見つめた。
「なるほど……」
「ただし、これはあくまで伝承だ。実際に見た者の記録は、ほとんど残っていない」
「そうなのですね」
エリアスは静かに頷いた。
リュカは膝の上で目を閉じている。
まるで、話など聞こえていないかのようだった。
「……この子が、その『白き導き手』だと思われますか?」
エリアスが尋ねると、レオンハルトは少し考えた。
「断言はできない」
「そうですね」
「だが、少なくとも普通の魔物ではなさそうだ」
「私も、そう感じています」
二人はしばらく黙っていた。
窓の外から、街の人々の声が微かに聞こえてくる。
やがて、レオンハルトが口を開いた。
「……ひとつ聞いてもいいか?」
「何でしょう?」
「お前、その獣をどこで見つけた?」
「街の北にある森です」
「詳しい場所は?」
「丘を越えて、薬草の群生地を通った先です。森の入口から少し入ったところでした」
レオンハルトは眉を寄せた。
「……あの辺りか」
「何か心当たりが?」
「いや」
レオンハルトは少し間を置いた。
「まだ、はっきりしたことは言えない」
エリアスは頷いた。
「わかりました」
それ以上、無理に聞こうとはしなかった。
レオンハルトは少し意外そうな顔をした。
「……気にならないのか?」
「もちろん、気になりますよ」
「なら、なぜ聞かない?」
エリアスは穏やかに答えた。
「まだ確かなことがないのでしたら、急いで結論を出す必要はありませんから」
レオンハルトは黙った。
それから、かすかに口元を緩めた。
「……変わった奴だな」
「最近、よく言われます」
エリアスは少し困ったように笑った。
その返答に、レオンハルトは思わず小さく笑った。
初めて見る表情だった。
◇
古書店を出た頃には、陽が少し傾き始めていた。
エリアスの鞄には、新しく購入した研究書と、レオンハルトから借りた伝承の記録集が入っている。
帰り際、レオンハルトはこう言った。
「読み終わったら返しに来い」
「もちろんです」
「それと……」
少し言い淀む。
「何かわかったら、教えてくれ」
「はい。こちらこそ、またお話を聞かせてください」
レオンハルトは短く頷いた。
エリアスは礼を述べ、店をあとにした。
石畳の通りを歩きながら、腕の中のリュカへ目を向ける。
「……あなた、ずいぶん珍しい子なのですね」
リュカは短く鳴いた。
「自覚はありますか?」
白い獣は顔を背けた。
エリアスは小さく笑った。
「……まあ、いいでしょう」
今日は、思いがけず興味深い話を聞くことができた。
精霊の伝承。
古い結界。
そして、リュカに似た白い獣。
気になることは多い。
けれど、今は急ぐ必要はなかった。
エリアスは空を見上げた。
淡い雲が、ゆっくりと流れている。
「……さて、帰りましょうか」
そう呟き、歩き出した。
その腕の中で、リュカが静かに目を開けた。
青い瞳は、しばらく古書店の方へ向けられていた。
やがて、小さな尾が一度だけ揺れる。
エリアスは、その変化に気づかなかった。
フィオーレの街には、まだ彼の知らないものがたくさんある。
そのひとつが、今日訪れた古書店の奥に眠っていることも。
そして、無口な店主が彼の名前を聞いた瞬間、何を思い出していたのかも。
今はまだ、知る由もなかった。




