第8話 街の外へ
丘の頂上に辿り着くと、カイルは大きく両腕を広げた。
「どうだ、エリアス!」
目の前には、フィオーレの街が一望できる景色が広がっていた。
緩やかな丘陵地帯の向こうに、赤茶色の屋根が幾重にも連なっている。街の中央には鐘楼がそびえ、その先には青く澄んだ湖が見えた。
陽光を受けた湖面には、細かな光が散っている。
遠くの森は淡い緑から深い緑へと色を変え、山裾に沿ってどこまでも続いていた。
「……これは、見事ですね」
エリアスは思わず足を止めた。
「だろ?」
カイルは得意げに笑った。
「天気がいい日は、向こうの山まで見えるんだ。秋になると森が赤く染まって、それもまた綺麗なんだぜ」
「秋ですか。それも見てみたいですね」
「なら、その頃までいればいい」
「そうですね。少なくとも、しばらくは滞在するつもりですから」
エリアスは近くにあった平たい岩へ腰を下ろした。
風が心地よい。
王都にも美しい庭園や展望台はあったが、こうして誰にも急かされず、好きなだけ景色を眺めることは少なかった。
カイルも隣に腰を下ろす。
「なあ、エリアス」
「はい?」
「王都って、やっぱりすごいところなのか?」
「すごい、ですか?」
「ああ。俺、一度しか行ったことがなくてさ。しかも仕事だったから、ろくに見て回れなかったんだよ」
「そうなのですね」
「建物はでかいし、人は多いし、道も複雑だし。あれじゃ俺、三日もいたら迷子になるな」
エリアスは少し考えた。
「私も、城下の道はあまり詳しくありませんよ」
「……王都に住んでたんだろ?」
「ええ」
「何年くらい?」
「十四年ほどですね」
「十四年!?」
カイルは思わず声を上げた。
「それだけ住んでて、道を知らないのか?」
「普段は王城と魔導院を行き来することが多かったので」
「ああ、なるほど。仕事ばっかりだったんだな」
「そうですね。研究室にいる時間が長かったと思います」
エリアスは穏やかに答えた。
カイルはしばらく彼を眺めていたが、やがて首を振った。
「俺には無理だな。ずっと同じ場所にいるなんて」
「カイルは外に出るのが好きなのですか?」
「好きだな。知らない場所に行くのも、初めて見るものを探すのも」
カイルは遠くの山々を眺めた。
「冒険者になったのも、それが理由みたいなもんだ」
「そうだったのですね」
「ああ。ガキの頃から、いつか大陸中を旅してみたいと思ってた」
「素敵な夢ですね」
エリアスがそう言うと、カイルは少し照れたように鼻を擦った。
「まあ、今のところはフィオーレ周辺の依頼ばっかりだけどな」
「それでも、知らない場所をたくさんご存じなのでしょう?」
「そりゃまあ、この辺りならな」
「でしたら、私よりずっと旅の先輩ですね」
カイルは一瞬きょとんとした。
それから、声を上げて笑った。
「ははっ! 王都の魔導師にそんなこと言われるとは思わなかったぜ!」
「事実ですから」
「お前、ほんと変わってるな」
エリアスは不思議そうに瞬きをした。
「そうでしょうか?」
「うん。でも、話してて楽しいよ」
カイルは笑った。
「なんか、変に気を遣わなくていいしな」
その言葉に、エリアスは少しだけ目を細めた。
「それは、私も同じです」
春の風が、二人の間を通り抜けていった。
◇
丘の上でしばらく休んだあと、二人は北側の斜面へ下りることにした。
カイルによれば、そこには薬草の群生地があるらしい。
「今日は依頼を受けてるわけじゃないから、採取は少しだけにしておこう」
「ええ。必要以上に採るのはよくありませんね」
「そうそう。採りすぎると、次の年に生えなくなっちまうからな」
カイルは道端の草を指差した。
「ほら、これが月露草。夜露をよく吸うんだ」
「月露草……」
エリアスはしゃがみ込み、細長い葉を観察した。
葉の先には小さな水滴が残っている。
「なるほど。水属性の魔力を蓄える性質があるのですね」
「そうなのか?」
「ええ。葉の内部に微かな魔力が見えます」
「……見える?」
「はい」
カイルは自分もしゃがみ込み、葉を覗き込んだ。
しばらくじっと見つめたが、当然ながら何も見えない。
「……俺には普通の草にしか見えないぞ」
「魔力を感知する訓練をすれば、わかるようになると思いますよ」
「剣士でも?」
「個人差はありますが、可能だと思います」
「へえ……」
カイルは少し興味を持ったようだった。
「今度、教えてくれないか?」
「私でよければ、喜んで」
「本当か?」
「ええ。ただ、私は教えるのがあまり上手ではないかもしれません」
「なんで?」
「以前、魔導院の後輩に魔力制御を教えたことがあるのですが、途中から全員黙り込んでしまいまして」
「……全員?」
「はい。説明が難しかったようです」
エリアスは少し申し訳なさそうに笑った。
カイルは何となく、その光景が想像できた。
この青年は、どうにも自分の知識を基準にして話す癖があるらしい。
「まあ、俺にもわかるように頼むよ」
「努力します」
二人は顔を見合わせ、笑った。
その後、カイルの指導を受けながら、エリアスも薬草を採取してみることになった。
葉を傷つけないように。
根元の新芽を残すように。
必要な分だけを、丁寧に。
エリアスは教えられたとおりに手を動かした。
「……こうでしょうか?」
「お、上手いじゃん」
「ありがとうございます」
「初めてにしては、ずいぶん丁寧だな」
「植物の構造を壊さないように気をつけていますので」
「そりゃいいことだ」
カイルは満足そうに頷いた。
そのとき、エリアスの手が止まった。
「……あれ?」
「どうした?」
「少し、変わったものがあります」
エリアスが指差した先には、白い花をつけた小さな植物が生えていた。
花びらは六枚。
中心には、淡い青色の模様が浮かんでいる。
周囲の草花とは違い、その植物だけが微かに魔力を放っていた。
「……これ、何だ?」
カイルも近づいてきた。
「見たことないな」
「そうですか」
エリアスは花を観察した。
形は、古い植物図鑑に載っていた霊花に似ている。
ただし、記憶にあるものよりもずっと小さい。
「もしかすると、星雫草かもしれません」
「ほししずくそう?」
「ええ。魔力の濃い土地に生える、少し珍しい植物です」
「へえ。薬草なのか?」
「薬にも使えますが、主に魔力の安定化に用いられます」
エリアスは慎重に葉へ触れた。
花は風に揺れながら、淡い光を放っている。
「……まだ若い株ですね」
「採らない方がいいか?」
「そうですね。このまま育てた方がよいでしょう」
エリアスは立ち上がった。
少し離れた場所にも、同じ花が数株咲いている。
どうやら、この辺りは魔力の流れが穏やかなようだった。
「いい場所ですね」
「そうか?」
「ええ。土壌の魔力も安定していますし、植物がよく育つ環境です」
「なるほどなあ」
カイルは周囲を見回した。
「そういや、この辺りは昔から薬草がよく採れるんだよな」
「そうなのですね」
「理由は知らなかったけど、そういうことなのかもしれないな」
エリアスは静かに頷いた。
土地と魔力の関係。
王都で研究していた頃にも、何度か調べたことがある。
ただ、実際にこうして自然の中で観察すると、書物だけではわからないことが多かった。
ふと、足元に小さな石が落ちているのが目に入った。
灰色の石。
表面には、薄い線のような模様が刻まれている。
エリアスは拾い上げ、指先で軽く撫でた。
「……これは」
「どうした?」
「いえ、少し気になる石がありまして」
カイルが覗き込む。
「ただの石じゃないのか?」
「そう見えますね」
「……違うのか?」
「おそらく、自然にできたものではありません」
エリアスは石を陽光にかざした。
表面の線は、単なる傷ではなかった。
古い魔法文字の一部に似ている。
ただし、長い年月を経て風化しており、完全には読み取れない。
「……面白いですね」
エリアスは小さく呟いた。
「何かわかったのか?」
「いえ、まだ。ただ、少し古い術式の痕跡があるようです」
「術式?」
「ええ。どこかの魔道具の破片かもしれません」
カイルは首を傾げた。
「こんなところに?」
「不思議ですね」
エリアスは石を鞄へしまった。
今すぐ調べる必要はない。
休暇はまだ始まったばかりなのだから。
◇
昼を過ぎる頃、二人は森の入口近くまでやってきた。
木々の間から差し込む陽光が、地面にまだら模様を描いている。
森の中は、外より少し涼しかった。
カイルは歩きながら、周囲の木々を指差した。
「この辺りは比較的安全なんだ。街の人も、薪を拾いに来たりするしな」
「そうなのですね」
「ただ、奥の方にはあんまり入らない方がいい」
「魔物が出るからですか?」
「それもあるけど、昔から変な噂があるんだよ」
「変な噂?」
エリアスは興味を引かれたように顔を上げた。
「森の奥に、古い建物があるって話だ」
「……ああ」
エリアスは思い出した。
昨夜、ノアからも似たような話を聞いている。
「石造りの建物があるとか」
「そうそう。知ってたのか?」
「ノアから少し聞きました」
「なるほどな」
カイルは頷いた。
「実際に見たって奴もいるらしいんだけど、場所がはっきりしなくてさ」
「見つからないのですか?」
「ああ。地図にも載ってないし、森の奥は道が複雑なんだ」
エリアスは少し考えた。
古い建造物。
魔力の濃い土地。
そして、先ほど拾った魔法文字の刻まれた石。
偶然かもしれない。
けれど、何かつながりがあるようにも思えた。
「……一度、調べてみたいですね」
「おいおい」
カイルは笑った。
「休暇で来たんだろ?」
「ええ」
「だったら、わざわざ危ない場所に行かなくてもいいんじゃないか?」
「そうですね」
エリアスは素直に頷いた。
「今日はやめておきましょう」
「今日は、って……」
カイルは苦笑した。
どうやら、完全に諦めたわけではないらしい。
「まあ、行くなら声かけろよ。案内くらいはしてやるから」
「ありがとうございます」
エリアスは嬉しそうに微笑んだ。
二人は森の入口近くにある小さな空き地で休憩することにした。
カイルは鞄から水筒を取り出し、エリアスにも座るよう勧めた。
「結構歩いたな」
「そうですね」
「疲れてないか?」
「大丈夫ですよ」
エリアスは木の根元に腰を下ろした。
周囲には柔らかな苔が生え、風が吹くたびに木の葉が揺れる音が聞こえる。
遠くでは、小鳥が鳴いていた。
カイルはパンを取り出し、半分に割った。
「ほら、食うか?」
「ありがとうございます」
「ノアのとこのパンだ。朝、持たせてくれたんだよ」
「そうだったのですね」
エリアスは受け取ったパンを口に運んだ。
中には、少し塩気のある燻製肉と野菜が挟まれていた。
「……おいしいですね」
「だろ? あいつ、こういうの作るのうまいんだよ」
「ええ。本当に」
二人はしばらく、静かに食事を楽しんだ。
森の中で食べるパンは、宿の食堂で食べるものとは、また違ったおいしさがあった。
「……こういうのも、いいですね」
エリアスが呟く。
「ん?」
「外で食事をするのは、久しぶりなので」
「王都じゃしなかったのか?」
「仕事で野営をしたことはありますが、こうしてのんびり食べることは少なかったですね」
「そっか」
カイルは頷いた。
「じゃあ、これからいくらでもできるな」
「そうですね」
「今度は湖の方にも行こうぜ。魚を焼いて食うとうまいんだ」
「それは楽しみです」
エリアスは微笑んだ。
カイルも笑った。
二人の間には、初対面の頃のような遠慮がなくなりつつあった。
◇
食事を終え、そろそろ街へ戻ろうかと話していたときだった。
エリアスは、ふと森の奥へ視線を向けた。
「……?」
何かが、微かに揺れた気がした。
風ではない。
木々の間を流れる魔力が、一瞬だけ不自然に乱れたのだ。
「どうした?」
カイルが尋ねる。
「いえ……」
エリアスは少し考えた。
気のせいかもしれない。
けれど、今の魔力の動きは、自然のものとは少し違っていた。
「何か、いるようですね」
「何か?」
カイルの表情が変わった。
すぐに腰の剣へ手を添える。
「魔物か?」
「わかりません。ただ、少し弱った魔力を感じます」
「弱った?」
「ええ。何かが傷ついているのかもしれません」
エリアスは立ち上がった。
森の奥へ目を向ける。
木々の間には、薄暗い道が続いていた。
その先から、微かな気配が伝わってくる。
「……少し、見に行ってもいいですか?」
カイルは眉を寄せた。
「危ないかもしれないぞ」
「そうですね」
エリアスは静かに頷いた。
「ですが、もし困っている生き物がいるのなら、放っておくのも気になります」
その言葉に、カイルは一瞬黙った。
それから、大きく息を吐いた。
「……わかったよ」
剣の柄を握り直す。
「俺も行く。お前一人じゃ危なっかしいからな」
「ありがとうございます」
「ただし、無茶はするなよ?」
「はい」
エリアスは微笑んだ。
カイルはその顔を見て、少し不安になった。
どうにも、この青年は自分の言う『無茶』と、他人の考える『無茶』が違うような気がする。
「……本当に頼むぞ」
「もちろんです」
その返答を聞き、カイルは半ば諦めたように笑った。
二人は並んで森の奥へ歩き始めた。
足元には柔らかな落ち葉が積もり、歩くたびに小さな音を立てる。
木々の間を抜ける風が、遠くで枝を揺らしていた。
エリアスは静かに魔力の流れを辿る。
弱々しい気配は、確かに存在していた。
それも、ただの魔物とは少し違う。
「……不思議ですね」
小さく呟く。
この魔力には、どこか懐かしい響きがあった。
遠い昔、古い書物の中で読んだことがあるような。
そんな、奇妙な感覚。
やがて、木々の向こうに小さな空き地が見えてきた。
その中央に、白いものが横たわっていた。
「……あれは?」
カイルが足を止める。
エリアスも静かに目を向けた。
草の上に倒れていたのは、雪のように白い毛並みをした、小さな獣だった。
狐に似た姿。
長い尾。
そして、淡く青い光を宿した瞳。
小さな体は、微かに震えていた。
「……どうやら、怪我をしているようですね」
エリアスはゆっくりと近づいた。
白い獣が、弱々しく顔を上げる。
その瞳が、エリアスを捉えた。
ほんの一瞬。
森の空気が、静かに揺れた。
エリアスは足を止める。
獣の瞳に宿る光が、微かに強くなった気がした。
「……?」
不思議そうに瞬きをする。
そして、穏やかに微笑んだ。
「こんにちは」
小さな獣は、じっとエリアスを見つめていた。
まるで、何かを確かめるように。
その姿を見て、カイルが小さく呟いた。
「……なんだ、こいつ」
エリアスは答えなかった。
ただ、白い獣から目を離さず、静かに膝をついた。
春の森に、柔らかな風が吹き抜ける。
その日、エリアスはまだ知らなかった。
この小さな出会いが、彼の穏やかな休暇に、思いがけない変化をもたらすことになるなど。




