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平穏を望む宮廷魔導師は、自由気ままに暮らしたい  作者: nene
第3章 湖の街と、初めての旅

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第75話 春の街道をゆく


 まだ朝露の残るフィオーレの街に、馬車の車輪が石畳を転がる音が響いていた。


 東門へ続く通りでは、商人たちが荷を積み込み、御者が馬の手綱を確かめている。街道を行き来する乗合馬車は早朝に出発するものが多く、門の周辺は日が昇りきる前から賑わっていた。


 エリアスも、二つの旅行鞄を持って停車場に来ていた。


 肩にはレオンハルトが教えてくれた店で購入した丈夫な鞄紐をかけ、手にはリュカの入った籠を提げている。


 昨夜のうちに荷物の確認は済ませた。渡航証明書と紹介状、エルディア公爵家からの案内状は、すぐ取り出せる内ポケットに収めてある。


「リュカ、窮屈ではありませんか?」


 籠を覗くと、柔らかな敷物の上で丸くなっていたリュカが顔を上げた。


 蓋は開けてあり、飛び出さないように軽い保護の術式をかけている。


 リュカは小さく鳴くと、鼻先をエリアスの手に押しつけた。


「よかった」


 エリアスが笑ったところで、背後から聞き慣れた声がした。


「おーい、エリアス!」


 振り返ると、カイルが人混みの向こうから歩いてくるところだった。


「カイル。おはようございます」


「おはよう。間に合ってよかった」


 カイルは少し息を弾ませながら、エリアスの荷物を見た。


「それで全部か?」


「はい。必要なものは揃えました」


 カイルが笑う。


 エリアスも少し笑って、肩にかけた鞄を持ち直した。


「見送りに来てくださったんですか?」


「当たり前だろ。しばらく会えないんだからな」


 カイルはそう言うと、懐から細長い布袋を取り出した。


「これ、持っていけよ」


「何でしょう?」


「小さな砥石と、丈夫な紐。あと、針と糸が入ってる」


 袋を開けると、確かに旅先で役立ちそうな道具が収められていた。


「街道を旅するなら、こういうものが意外と必要になるんだよ」


「ありがとうございます。助かります」


「魔法で何でも直せるかもしれないけど、毎回魔法を使う必要もないだろ?」


「それは、そうですね」


 エリアスは納得して頷いた。


 カイルは満足そうに笑った。


「それに、普通の道具で直す方が早いことだってあるしな」


「覚えておきます」


 そのとき、停車場の向こうから御者が声を張り上げた。


「東街道行き、まもなく出発するぞ! 乗る人は早く乗ってくれ!」


 エリアスは馬車へ目を向けた。


 乗客たちが次々と荷物を積み込み、座席へ向かっている。


「そろそろですね」


「ああ」


 カイルは少しだけ表情を改めた。


「気をつけて行けよ」


「はい」


「知らない土地なんだから、無理はするなよ。何かあったら、ちゃんと周りを頼れ」


「わかりました」


 エリアスは微笑んだ。


「カイルも、お元気で」


「俺は大丈夫だって」


 カイルはいつもの調子で笑った。


「魔力感知の練習も続けておくからな。帰ってきたら、また頼むぞ」


「ええ。楽しみにしています」


 エリアスが手を差し出すと、カイルは一瞬だけ驚いた顔をした。


 それから笑って、しっかりと握り返した。


「じゃあな、エリアス!」


「行ってきます」


 エリアスは荷物を持ち、馬車へ向かった。


     ◇


 乗合馬車の中には、すでに数人の乗客が座っていた。


 商人らしい中年の男性が二人と、旅装束の若い女性。それから、窓際には老夫婦が並んでいる。


 エリアスは空いていた席に腰を下ろし、リュカの籠を足元へ置いた。


 向かいに座っていた女性が、興味深そうに籠を覗く。


「可愛い子ですね。狐ですか?」


「狐に似ていますが、少し違うようです」


「そうなんですか?」


「はい。詳しいことは、まだよくわからなくて」


 リュカは女性を見上げた。


 女性が微笑むと、鼻先をひくひく動かす。


「人懐っこいんですね」


「慣れた方には、そうですね」


 エリアスが答えると、リュカは満足したように身体を丸めた。


 やがて御者の声が響き、馬車がゆっくりと動き始めた。


 車輪が石畳の上を転がり、東門へ向かって進んでいく。


 エリアスは窓の外を見た。


 朝のフィオーレが、少しずつ後ろへ流れていく。


 パン屋の前には、焼きたてのパンを買い求める人々が並んでいた。


 花屋の軒先には、春の花が色鮮やかに飾られている。


 いつも歩いていた道。


 何度も通った店。


 そのすべてが、今朝は少し違って見えた。


 東門を抜けると、街道の両側に広々とした畑が続いた。


 遠くには、フィオーレを囲む緩やかな丘が見える。


 エリアスは窓枠に軽く手を添えた。


 しばらく留守にするだけだ。


 それでも、次に戻ってきたときには、きっと季節が変わっている。


 庭の花も、街の景色も、今とは少し違っているのだろう。


 そんなことを考えているうちに、馬車は緩やかな坂道を上り始めた。


 丘の上から、湖が一度だけ見えた。


 朝日を受けた水面が、遠くまできらきらと輝いている。


 エリアスはその景色を目に焼きつけた。


     ◇


 昼前になると、馬車は街道沿いの休憩所へ到着した。


 馬に水を飲ませるため、しばらく停車するらしい。


 乗客たちは思い思いに馬車を降り、身体を伸ばしていた。


 エリアスもリュカを連れて外へ出た。


 休憩所には小さな食堂が併設されており、焼きたてのパンや温かなスープを売っている。


「何か食べておきましょうか」


 リュカは元気よく尾を振った。


 エリアスは食堂の前に並び、野菜のスープとパンを注文した。


 リュカには、持参した乾燥肉を少し与える。


 近くの木陰に腰を下ろすと、春の風が心地よく吹き抜けた。


 街道には、荷馬車や旅人が絶えず行き交っている。


 フィオーレにいた頃も、街道の様子を見ることはあった。


 けれど、自分がその道を通って遠くへ向かうのは、何だか新鮮だった。


「……旅というのは、思っていたより賑やかなものなんですね」


 エリアスが呟くと、リュカが顔を上げた。


 隣国までの道のりは、まだ始まったばかりだ。


 それでも、知らない景色を見るたびに、新しい発見があるように思えた。


「お兄さん、どちらまで?」


 声をかけてきたのは、同じ馬車に乗っていた商人の一人だった。


「ヴェルセリア王国へ向かっています」


「おお、隣国までか!」


 商人は驚いたように笑った。


「それなら、結構な旅だな」


「はい。初めて行くので、楽しみにしています」


「ヴェルセリアはいいところだよ。特にリュミエールは賑やかな街だ」


「行かれたことがあるんですか?」


「ああ。何度も商売で行ってる」


 商人はパンを一口食べてから、楽しそうに話し始めた。


「川沿いに市場が並んでいてな。朝になると、船から直接品物を売る店も出るんだ」


「船から、ですか?」


「そう。橋の下を小舟が行き交って、街じゅうが市場みたいになる」


 エリアスは興味深く聞き入った。


「それは、ぜひ見てみたいですね」


「なら、朝早く行くといい。昼には人が増えて、ゆっくり歩けなくなるから」


「ありがとうございます。覚えておきます」


 商人は嬉しそうに笑った。


「研究のために行くのかい?」


「はい。魔法研究の交流会に招かれまして」


「へえ、魔導師さんだったのか」


 商人は少し驚いた顔をした。


「それなら、リュミエールは面白いだろうな。あそこは魔法道具の店も多いから」


「そうなんですね」


「俺なんかには、何がどうすごいのかさっぱりわからんけどな」


 二人は笑った。


 やがて、御者が出発の合図を出した。


 エリアスは礼を言い、リュカを抱き上げた。


     ◇


 午後の街道は、なだらかな丘陵地帯へ入っていった。


 畑の向こうには小さな村が点在し、家々の煙突から薄い煙が立ち上っている。


 馬車が村を通り抜けるたびに、子供たちが道端から手を振ってきた。


 エリアスも、窓から小さく手を振り返す。


 隣に座っていた老婦人が、それを見て微笑んだ。


「子供は好きかい?」


「ええ。元気な子供たちを見ると、こちらまで楽しくなります」


「そうかい。うちにも孫がいてね」


 老婦人は嬉しそうに話し始めた。


 孫は今年で七歳になること。


 最近、庭の花を育てるのに夢中になっていること。


 そして、手紙に描かれた絵が届くたびに、夫婦で楽しみにしていること。


 エリアスは、その話を穏やかに聞いていた。


「素敵ですね」


「ええ。本当に」


 老婦人は微笑んだ。


「あなたも、誰かに会いに行くのかい?」


「……そうですね」


 エリアスは少し考えた。


「以前お会いした方に、また会えるかもしれません。それに、これから新しく知り合う方もいると思います」


「それは楽しみだねえ」


「はい」


 エリアスは窓の外へ目を向けた。


 知らない街へ向かう途中で、こうして見知らぬ人と話している。


 旅というのは、目的地へ着くまでの時間も楽しいものなのかもしれない。


     ◇


 夕方、馬車は街道沿いの宿場町へ到着した。


 ここで一泊し、翌朝に次の馬車へ乗り継ぐ予定だ。


 エリアスは荷物を降ろし、宿の受付へ向かった。


 小さな宿だったが、手入れが行き届いている。


 受付にいた女将は、リュカを見て少し驚いたものの、すぐに笑顔になった。


「小さな子も一緒なんですね」


「はい。部屋に連れていっても大丈夫でしょうか」


「もちろんですよ。おとなしくしてくれるなら、問題ありません」


「ありがとうございます」


 エリアスは部屋の鍵を受け取り、階段を上った。


 案内されたのは、二階の小さな部屋だった。


 窓からは宿場町の通りが見える。


 夕暮れの街では、馬車の車輪の音と人々の声が絶えず聞こえていた。


 エリアスは荷物を置き、リュカを籠から出した。


 リュカはすぐに室内を歩き回り、ベッドの下を覗いたあと、窓際へ向かった。


「今日は疲れましたか?」


 リュカは振り向き、短く鳴いた。


「明日も馬車に乗りますから、今夜はゆっくり休みましょう」


 エリアスは窓を少し開けた。


 春の夜風が、部屋へ流れ込んでくる。


 遠くには、街道を行き来する馬車の灯りが見えた。


 エリアスはレオンハルトから贈られた手帳を取り出し、机の上に置いた。


 最初のページを開く。


 今日は、何を書こうか。


 少し考えてから、筆を取った。


『フィオーレを出発。


 東街道を進み、最初の宿場町へ到着。


 途中、リュミエールの市場について教えていただいた。川の上から品物を売る店があるらしい。


 ぜひ訪ねてみたい。』


 そこまで書いて、エリアスは筆を止めた。


 そして、もう一行書き加える。


『馬車での旅は、思っていたよりも楽しい。』


 エリアスは手帳を閉じ、小さく微笑んだ。


 まだ一日目だというのに、すでにいくつもの新しい景色を見た。


 明日は、どんな街を通るのだろう。


 そんなことを考えながら、エリアスは窓の外に広がる夜の街を眺めていた。


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