幕間 宮廷魔導師が休暇を取った結果
オスカー・リードは、壁に掛けられた時計へ目を向けた。
午前中に終わる予定だった会議は、正午の鐘が鳴っても結論が出ていなかった。
長い会議机には、何枚もの術式図と報告書が広げられている。
「第三系統の魔力を増幅すれば、必要な出力は確保できるはずです」
「しかし、それでは主回路への負担が大きくなります」
「補助回路を追加する方法はどうでしょうか」
「その補助回路が、ほかの系統に干渉する可能性があります」
議論が、また振り出しに戻った。
今回の議題は、王都北部に設置された大型防護魔導具の改修についてだった。
古い設備ではあるが、差し迫った危険があるわけではない。ただ、長年の使用によって魔力の変換効率が低下しており、次の定期整備に合わせて術式を見直すことになっていた。
参加しているのは、いずれも宮廷魔導院で十分な実績を持つ者たちだ。
意見に根拠がないわけではない。
むしろ、それぞれが専門分野をよく理解しているからこそ、簡単には妥協できないのだろう。
「……いったん休憩にしましょう」
オスカーが声をかけると、張り詰めていた空気が少し緩んだ。
魔導師たちは資料を置き、各々の席で身体を伸ばし始める。
「まさか、ここまで長引くとは思いませんでした」
「去年の改修会議は、もっと早く終わりましたよね」
「去年は……」
そこで一人が口を閉じた。
ほかの者たちも、何かを思い出したように顔を見合わせる。
オスカーには、その理由がわかっていた。
昨年の会議には、エリアス・レインフォードが参加していたのだ。
◇
エリアスが休暇に入った直後、宮廷魔導院は意外なほど落ち着いていた。
それもそのはずである。
休暇に入る前、エリアスは担当していた仕事を丁寧に整理し、必要な引き継ぎを済ませていた。
進行中の研究には詳細な記録が残され、定期点検の予定も組み直されている。
緊急時の対応についても、複数の魔導師が判断できるよう手順が整えられていた。
オスカーも当初は、これなら問題なくやっていけると考えていた。
実際、日々の業務に大きな支障は出ていない。
研究も点検も、それぞれの担当者が責任を持って進めている。
ただ、一つだけ予想と違ったことがあった。
会議が、なかなか終わらないのだ。
複数の研究部門が関わる案件では、意見をまとめるまでにかなりの時間を要するようになった。
誰もが自分の専門分野についてはよく理解している。
しかし、それぞれ異なる理論を一つの術式に組み合わせるとなると、話は別だった。
以前は、その役割をエリアスが自然に担っていた。
意見が食い違えば、双方の問題点を整理する。
複雑な術式図でも、少し眺めれば改善できる箇所を見つけ出す。
しかも、それを特別なことだとは思っていなかったらしい。
オスカーは、以前の会議で交わした会話を思い出した。
『エリアス様。少しお聞きしてもよろしいですか?』
『はい。何でしょう?』
『先ほどの術式ですが、どうしてあんなに早く問題点がわかったんですか?』
エリアスは不思議そうに首を傾げた。
『それぞれの術式が、どこで影響し合っているかを確認しただけですよ』
『その確認に、普通はかなり時間がかかるんですが……』
『……そうなんですか?』
本人は、本当に不思議そうだった。
あのときは、オスカーも思わず笑ってしまったものだ。
しかし今なら、会議室に残された全員が同じことを言うに違いない。
その「確認しただけ」が、どれほど難しいことだったのか。
オスカーは机上の術式図を見つめた。
エリアス様なら、どこから手をつけられるだろう。
そんな考えが頭に浮かび、すぐに苦笑する。
休暇中の本人に尋ねるわけにはいかない。
そもそも、それでは何のために引き継ぎを済ませたのかわからなくなってしまう。
オスカーは資料を揃え、休憩を終えた魔導師たちへ声をかけた。
「では、続きを始めましょうか」
◇
会議が再開して間もなく、若い宮廷魔導師の一人が手を挙げた。
「あの、一つ提案があるのですが」
「ええ。聞かせてください」
青年は少し緊張した様子で、新しい術式図を机の中央に広げた。
「これまでは補助回路を増やす方向で考えていましたが、主回路へ集中する魔力そのものを減らしてはどうかと思いまして」
年長の魔導師が眉を寄せる。
「しかし、それでは結界の出力が下がるのでは?」
「はい。ですので、供給量を減らすのではなく、分配する位置を変えたいんです」
青年は図面の一部を指差した。
「変換前に魔力を分岐させれば、主回路への負担を減らせると思います」
オスカーは図面を引き寄せた。
悪くない案だった。
ただし、分岐した魔力を安定して制御する仕組みが必要になる。
「分岐後の制御については、何か考えがありますか?」
「はい。第二研究室の方にも相談してみました」
青年は別の図面を差し出した。
「こちらの制御術式を応用できないかと考えています」
第二研究室の魔導師が補足する。
「試算では、負荷をかなり抑えられる見込みです。ただ、実際の設備で試す前に、もう少し検証が必要です」
「なるほど……」
オスカーは二枚の図面を見比べた。
青年は、自分の専門分野だけで答えを出そうとしていなかった。
別の研究室へ足を運び、意見を聞き、設備全体の構成を見直している。
かつてエリアスが何度も示していた考え方だった。
「いい案だと思います」
オスカーが告げると、青年はほっとしたように息を吐いた。
「ありがとうございます」
「ただ、まだ検証が必要ですね。今日はこの方針で進めることを決めて、試験は明日以降にしましょう」
ほかの魔導師たちも頷いた。
ようやく、会議の結論が出た。
壁の時計を見る。
午後二時を過ぎていた。
「……随分とかかってしまいましたね」
オスカーが苦笑すると、向かいに座っていた魔導師も笑った。
「明日はもう少し早く終わらせたいところです」
「そうですね。私もそう願っています」
会議室に、疲れを含んだ笑い声が広がった。
皆が資料を片づけ始めた頃、先ほどの青年がオスカーのもとへやってきた。
「リード様。少しよろしいでしょうか」
「はい。どうしました?」
「今日の提案についてなんですが……」
青年は少し迷ったあと、口を開いた。
「以前、レインフォード様に似たような考え方を教えていただいたことがあるんです」
「エリアス様に?」
「はい。ただ、そのときは説明が難しくて、正直、ほとんど理解できませんでした」
オスカーは思わず笑みを浮かべた。
心当たりがありすぎる話だった。
エリアスは、教えることを面倒がる人物ではない。
質問をすれば、どれほど忙しくても丁寧に答えてくれる。
ただ、その説明を理解するには、聞き手にも相当な知識が必要だった。
本人にとって当然の工程を、知らず知らずのうちに省いてしまうことがあるのだ。
「それが、今日の会議でわかったんですか?」
「全部ではありません。でも、あのときおっしゃっていたのは、こういうことだったのかもしれないと思って」
青年は恥ずかしそうに笑った。
「もっと早く理解できていればよかったんですが」
「今、理解できたのなら十分ですよ」
オスカーは穏やかに答えた。
「それに、ご自分で考えて答えを出されたんでしょう? エリアス様も、きっと喜ばれると思います」
青年の表情が明るくなった。
「次にお会いできたら、直接ご報告したいです」
「ええ。ぜひ、そうしてください」
青年が去ったあと、オスカーはしばらく会議室に残った。
エリアスがいた頃、若手たちは何かあればすぐに彼へ相談していた。
それが悪かったわけではない。
けれど、あまりにも早く答えが返ってくるため、考える途中の苦労を経験する機会は少なかったのかもしれない。
今は違う。
時間がかかっても、自分たちで答えを探している。
その姿を見ることができたのは、オスカーにとっても嬉しいことだった。
◇
数日後、オスカーの執務室にフィオーレからの手紙が届いた。
差出人は、エリアス・レインフォード。
オスカーは机の上の書類を片づけ、慎重に封を切った。
手紙には、ヴェルセリア王国への出発日が決まったことが書かれていた。
交流会への参加について、改めて礼が述べられている。
さらに、滞在先の住所と、交流会後もしばらく隣国を見て回るつもりであることが記されていた。
「……とうとう、国外へも行かれるんですね」
オスカーは小さく笑った。
エリアスが一年間の休暇を願い出たとき、まさかここまで行動範囲を広げるようになるとは思っていなかった。
最初の手紙には、静かな街で家を借りたことが書かれていた。
その次には、庭仕事を始めたこと。
そして、冒険者ギルドへ登録したという報告が届いたときには、思わず二度読みしてしまった。
王都では、研究室に籠もっているか、会議に出席しているかのどちらかだった人物だ。
それが薬草採取の依頼を受け、街の人々と知り合い、宿での食事を楽しんでいるという。
最近の手紙では、友人に魔力感知を教えていることまで書かれていた。
『私も、人に教えることについて学ぶことが多いです。』
オスカーは、その一文を読み返した。
以前、若手魔導師への説明がうまく伝わらず、エリアスが困っていたことを思い出す。
どうやら今は、相手に合わせて教え方を工夫しているらしい。
「……エリアス様らしいですね」
自分の能力については、驚くほど無頓着なところがある。
それでいて、知らないことを教わるのは好きで、人の話にも熱心に耳を傾ける。
オスカーは以前から、そんなエリアスを尊敬していた。
仕事の面でも、それ以外でも。
ただ、王宮にいた頃のエリアスは、常に誰かから頼られていた。
次々と持ち込まれる相談を断ることなく、研究の合間に処理していく。
本人がそれを苦にしている様子は、あまり見せなかった。
だからこそ、休暇を申し出たときには驚いたのだ。
そして同時に、少し安心した。
ようやく、ご自身のために時間を使おうと思ってくださったのか、と。
オスカーは手紙を丁寧に畳んだ。
フィオーレへ移ってからのエリアスは、以前よりずっと自由に過ごしているようだった。
そのことが、何より嬉しかった。
◇
夕刻、オスカーは国王アルベルト三世への報告を終え、執務室へ戻ってきた。
王はエリアスの出発日を聞くと、満足そうに頷いていた。
『ようやく、あやつも遠出をする気になったか』
そう言って笑ったあと、少しだけ真面目な顔になった。
『王宮の仕事は、お前たちで何とかできているのだろう?』
『はい。以前より時間のかかることはありますが、皆よく働いております』
『ならば、それでよい』
アルベルト三世は穏やかに言った。
『エリアス一人が優秀であることと、ほかの者たちが育つことは、別の話だからな』
オスカーも、その考えには深く同意していた。
エリアスの能力は、宮廷魔導院にとって大きな支えだ。
だが、彼一人に頼りきっていては、組織として成り立たない。
自分たちも成長しなければならないのだ。
執務室へ戻ったオスカーは、新しい便箋を取り出した。
エリアスへの返事を書くためだった。
『エリアス様
お手紙、確かに拝受いたしました。
まずは、ヴェルセリア王国への出発日が決まったとのこと、何よりでございます。
交流会への参加だけでなく、その後も各地を訪ねて回られるご予定と伺い、私も楽しみにしております。
王宮のことについてもお気遣いいただき、ありがとうございます。
こちらは相変わらず慌ただしい日々が続いておりますが、皆それぞれの仕事に励んでおりますので、どうかご安心ください。
先日、王都北部の防護魔導具について改修会議がありました。
以前であれば、エリアス様が短時間でまとめてくださっていたような内容なのですが、今回は結論が出るまで随分と時間がかかってしまいました。
正直に申し上げますと、エリアス様がいらっしゃった頃のありがたさを、改めて実感しております。』
そこまで書いて、オスカーは思わず笑った。
苦労していると伝えたいわけではない。
ただ、少しくらいは王宮の様子も知ってほしかった。
オスカーは続きを書いた。
『ですが、嬉しいこともございました。
若い魔導師の一人が、自ら新しい術式を提案してくれたのです。
以前、エリアス様から教わったことを、今回ようやく理解できたのだと話しておりました。
本人も大変喜んでおり、次にお会いできた際には、ぜひ直接ご報告したいそうです。
以前に比べれば、何事にも時間はかかってしまいます。
それでも、皆が自分たちで考え、相談し合いながら答えを見つけようとする姿を見ると、頼もしく感じます。
エリアス様が残してくださったものの大きさを、日々実感しております。』
オスカーは筆を止め、しばらく便箋を眺めていた。
エリアスが休暇を申し出た日のことを思い出す。
いつものように穏やかな表情で、少し申し訳なさそうに、一年間の休暇を願い出た。
あのとき、もっと早く休暇を勧めるべきだったのではないかと思ったものだ。
エリアスは、誰かに必要とされれば力を尽くす人だった。
だからこそ、今度は自分がしたいことをしてほしかった。
オスカーは再び筆を取った。
『陛下も、エリアス様が隣国を訪問されることを大変喜んでおられました。
お戻りになった際には、ぜひ旅のお話を聞かせていただきたいとのことです。
もちろん、私も楽しみにしております。
リュミエールは美しい水の都と聞いておりますので、研究会だけでなく、街の散策やお食事も楽しんでいただけたら嬉しいです。
これから先、訪れる土地でどのような出会いがあるのか、私にも想像がつきません。
ですが、エリアス様でしたら、きっと素敵な時間を過ごされることでしょう。
王宮のことは、どうかお気になさらないでください。
私たちも、エリアス様が安心して休暇を続けられるよう、精一杯努めてまいります。』
オスカーは一度読み返してから、最後の言葉を考えた。
どうか、無事に旅を終えてほしい。
遠い土地でも、心から楽しめる日々を過ごしてほしい。
そして、いつか王宮へ戻ってきたときには、旅先での出来事を笑顔で聞かせてもらえたら嬉しい。
そんな思いを込めて、最後の一文を書き添えた。
『どうか、お気をつけて。
エリアス様の旅が、楽しく実りあるものとなりますように。
そして、これからも穏やかな休暇をお過ごしください。
オスカー・リード』
手紙を書き終えたオスカーは、静かに息をついた。
窓の外では、王都の街に夕暮れが訪れている。
明日も会議がある。
おそらく、予定どおりには終わらないだろう。
それでも、以前ほど気は重くなかった。
今日も若い魔導師たちが、自分たちの力で新しい答えを見つけてくれた。
エリアスが戻る頃には、今より少し頼もしくなった宮廷魔導院を見てもらえるかもしれない。
そう考えると、明日の会議も悪くない。
オスカーは手紙に封をし、翌朝の郵便に回す書類の上へ置いた。
遠く離れた土地へ向かう、敬愛する人の新しい旅が、どうか良いものになりますように。




