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平穏を望む宮廷魔導師は、自由気ままに暮らしたい  作者: nene
第3章 湖の街と、初めての旅

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第74話 フィオーレを発つ前日


 出発の三日前、フィオーレには久しぶりの雨が降った。


 朝から降り続いた雨は昼を過ぎてもやまず、白い窓枠を細かな水滴で濡らしている。


 エリアスは二階の書斎で、棚に並んだ資料を整理していた。


 持っていくものと、家に残すもの。


 旅先で必要になる術式の資料は、薄い冊子にまとめてある。王宮から持ち出した研究記録は鍵のかかる保管箱に収め、さらに簡単な保護術式を施した。


 ベネットに作ってもらった棚には、少しだけ空いた場所ができた。


 いつか旅から戻ったら、そこへ新しい本を並べることになるのだろう。


「……これは、置いていきましょうか」


 手にしていたのは、古い魔法理論の解説書だった。


 随分と読み込んだ本で、表紙の角が擦り切れている。


 参考になる箇所は多いが、今度の旅に直接必要なものではない。


 エリアスが棚へ戻そうとすると、足元にいたリュカが立ち上がった。


 白い前脚が、床に置かれた旅行鞄へ伸びる。


「リュカ、それはもう確認しましたよ」


 リュカは聞こえなかったように、鞄の留め具を鼻先でつついた。


 中には乾燥肉の袋が入っている。


 エリアスは笑って鞄を閉じ直した。


「出発したら、ちゃんとお渡ししますから」


 リュカは不満そうに一声鳴いた。


 そのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。


     ◇


 訪ねてきたのは、家屋管理を引き受けてくれたロベルトだった。


 雨除けの外套を脱ぎ、玄関先で水滴を払っている。


「雨の日にすみませんな。先日お話しした屋根の点検ですが、明日には職人を連れて来られそうです」


「ありがとうございます。出発前に確認していただけると助かります」


「ええ。今日はその前に、気になるところを見ておこうと思いまして」


 ロベルトは玄関から軒先を見上げた。


「ここの雨樋は古いようですな。詰まりがないかも確認しておきましょう」


 エリアスも外へ出た。


 雨は弱まっていたが、庭の土は十分に湿っている。


 ロベルトは壁際を歩きながら、水の流れを確かめていた。


「この家は以前から雨漏りが少ないと聞いていましたが、やはり造りがいいですね」


「そうなんですか?」


「ええ。昔の職人は、土地の水はけをよく考えて建てていましたから」


 エリアスは足元に目を向けた。


 石を敷いた小道の脇に、雨水を流す浅い溝が通っている。


 庭の奥へ続くその溝は、目立たないながらもよく整えられていた。


「確かに、水が溜まりにくくなっていますね」


「でしょう。こういう工夫は大切なんですよ」


 ロベルトは満足そうに頷いた。


「魔法で何でもできる時代になっても、建物そのものがしっかりしていなければ長持ちしませんからな」


「おっしゃるとおりです」


 エリアスは素直に感心した。


 魔法で建物を保護することはできる。


 しかし、最初から土地や気候に合った造りになっている方が、維持にかかる負担はずっと少ない。


 ロベルトの話には、長年の経験に裏打ちされた説得力があった。


 ひととおり点検を終えると、ロベルトは玄関で書類を取り出した。


「鍵は、こちらで一本お預かりします。立ち入りの記録も残しておきますので、戻られたら確認してください」


「わかりました」


「それから、留守中に修理が必要になった場合ですが、急ぎでなければ手をつけずに連絡します」


「はい。その方が安心です」


 エリアスは契約書を確認し、署名した。


 これで、家の管理に関する準備もほぼ整った。


「長旅になるそうですな」


 書類をしまいながら、ロベルトが言った。


「はい。初めて訪れる国なので、楽しみにしています」


「それはいい」


 ロベルトは外套を羽織った。


「家のことは気にせず、旅を楽しんできてください」


「ありがとうございます」


 エリアスは玄関先で見送った。


 雨に濡れた石畳を、ロベルトがゆっくり歩いていく。


 その姿が通りの角を曲がったところで、エリアスは扉を閉めた。


     ◇


 翌日は朝からよく晴れた。


 ロベルトと職人による屋根の点検も無事に終わり、雨樋に溜まっていた枯れ葉が取り除かれた。


 エリアスは午後、冒険者ギルドへ顔を出した。


 受付にいたエマが、書類を整理する手を止める。


「あら、エリアスさん。もうすぐ出発ですね」


「はい。明後日の朝に発つ予定です」


「カイルさんから聞きました。ヴェルセリア王国へ行かれるんですよね」


「ええ」


 エマは受付の奥から一冊の薄い帳簿を取り出した。


「では、長期不在の登録をしておきましょうか」


「お願いします」


「冒険者としての登録はそのまま残しておけます。ただ、しばらくフィオーレの依頼は受けられなくなるので、その確認だけさせてください」


 エリアスは頷き、必要な欄へ記入した。


 エマは手際よく処理を進めながら、ふと思い出したように言った。


「そうそう。リーヴェル村から、経過報告が届いているんです」


「リーヴェル村から?」


「はい。先日修理した水路の件です」


 エマは封筒から一枚の報告書を取り出した。


 水路の水量は安定しており、貯蔵庫の冷却設備も問題なく動いている。


 ただし、北側の畑については、地盤の調査が終わるまで新たな掘削を控えることになったらしい。


「よかった……」


 エリアスは安堵した。


「村の皆さんも、お変わりありませんか?」


「ええ。畑仕事も順調だそうです。秋の収穫を楽しみにしてほしい、と書いてありましたよ」


「それは嬉しいですね」


 エマは笑った。


「エリアスさんが旅から戻る頃には、林檎の季節になっているかもしれませんね」


「そうですね。できれば、その頃にも訪ねてみたいです」


「村の人たちも喜ぶと思います」


 エリアスは報告書をもう一度眺めた。


 水路の修理が終わったときも、これで完全に安心とは言えなかった。


 設備は直っても、土地の状態を確かめるには時間が必要だったからだ。


 こうして村の人々が自分たちで状況を見守り、必要な作業を続けていると知れたのは、何より嬉しかった。


「ところで、向こうでも冒険者ギルドを利用されますか?」


 エマが尋ねた。


「必要があれば、そのつもりです」


「でしたら、登録証を忘れずにお持ちくださいね。国によって手続きは違いますが、こちらの登録記録が役立つこともありますから」


「わかりました」


 エリアスは鞄の中を確かめた。


 登録証は、渡航書類と一緒にしまってある。


「お気をつけて。帰ってきたら、またお話を聞かせてください」


「はい。ありがとうございます」


 エリアスは頭を下げ、ギルドを後にした。


     ◇


 出発前日の午後。


 エリアスは鈴蘭亭へ向かっていた。


 店の前では、ノアが小さな木箱を抱えて待っている。


「あっ、エリアスさん!」


「こんにちは。何を持っているんですか?」


「これ、旅のお供にと思って」


 ノアは木箱の蓋を開けた。


 中には、小さく焼いた菓子がきれいに並んでいた。


 林檎の蜜煮を使った焼き菓子だった。


「昨日、母さんと一緒に作ったんです。普通のより水分を少なくして、日持ちするようにしてあります」


「こんなにたくさん……ありがとうございます」


「馬車の中でも食べられますよ」


 エリアスは一つ手に取った。


 いつもの焼き菓子より少し硬めだが、表面は香ばしく仕上がっている。


「美味しそうですね」


「味見もしました。ちゃんとできてます!」


 ノアは得意そうに笑った。


 そこへ、ミラが厨房から出てきた。


「ノアったら、昨日からずっと張り切っていたのよ」


「母さん!」


「本当のことでしょう?」


 ミラは笑いながら、エリアスへ小さな布袋を渡した。


「こっちは干した香草と塩を混ぜたもの。旅先で料理をするときに使えると思うわ」


「ありがとうございます。大切に使います」


「なくなったら、また帰ってきたときに作ってあげる」


 エリアスは二人を見た。


 フィオーレへ来たばかりの頃、料理はほとんどできなかった。


 鈴蘭亭の厨房で卵の焼き方を教わった日のことを、今でも覚えている。


 それが今では、旅先で覚えた料理をノアと一緒に作るようになった。


「……本当に、お世話になりました」


 エリアスが頭を下げると、ミラは少し驚いたように眉を上げた。


「そんな、改まらなくていいのよ」


「でも、ちゃんとお礼を言いたくて」


 ミラは柔らかく笑った。


「じゃあ、帰ってきたらまた一緒に料理しましょう。それで十分よ」


「はい」


 ノアが勢いよく頷いた。


「次はヴェルセリアのお菓子を教えてくださいね!」


「美味しいものを見つけてきます」


「絶対ですよ!」


「ええ。約束です」


     ◇


 夕方、エリアスは湖のほとりへ向かった。


 出発前に、一度ゆっくり歩いておきたかった。


 湖面には、傾き始めた陽の光が反射している。


 桟橋では漁師たちが網を片づけ、岸辺には小さな舟が何艘も並んでいた。


 風は穏やかで、水辺に生える草が静かに揺れている。


 リュカは足元を軽やかに歩いていたが、波が岸へ寄せるたびに少し距離を取っていた。


「濡れるのは嫌なんですね」


 エリアスが笑うと、リュカは不満そうに鳴いた。


 湖沿いの道を進んでいると、見覚えのある人影があった。


 カイルだった。


 桟橋の端に腰を下ろし、湖を眺めている。


「カイル」


「お、エリアス」


 カイルが振り向いた。


「こんなところで会うとはな」


「少し散歩をしていました」


「俺もだよ」


 エリアスは隣に腰を下ろした。


 しばらく、二人は湖を眺めていた。


 遠くを進む舟の帆が、夕陽を受けて白く光っている。


「明日だな」


 カイルが言った。


「はい」


「準備はできたか?」


「ほとんど終わりました。あとは、明日の朝に荷物をまとめるだけです」


「そっか」


 カイルは湖へ小石を投げた。


 石は水面を二度跳ね、沈んでいった。


「……お前がこの街へ来てから、いろいろあったよな」


「そうですね」


「最初は、静かに暮らしたいって言ってたのにさ」


 カイルは笑った。


「気づけば水路の調査をしたり、村へ行ったり、今度は外国だろ?」


「自分でも、少し不思議です」


「でも、楽しそうだ」


 エリアスは隣を見た。


 カイルは湖を見たまま続けた。


「王宮の仕事をしてた頃のお前は知らないけど、今はずいぶん楽しそうにしてると思う」


 エリアスは少し考えた。


 確かに、王宮にいた頃とは毎日の過ごし方が違う。


 仕事に追われる日々も、嫌いだったわけではない。


 魔法の研究も、人の役に立つことも好きだった。


 ただ、何も考えずに街を歩いたり、友人と食事をしたり、知らない土地へ出かけたりする時間は、ほとんどなかった。


「……そうかもしれません」


 エリアスは微笑んだ。


「今の暮らしが、とても気に入っています」


「それならよかった」


 カイルは立ち上がり、軽く伸びをした。


「じゃあ、次の旅も思いきり楽しんでこいよ」


「ありがとうございます」


「帰ってきたら、また魔力感知の練習を頼む」


「もちろんです」


「それと、旅先で困ったことがあったら手紙を寄越せよ。すぐには行けないかもしれないけどさ」


 エリアスは少し驚いた。


「……ありがとうございます」


「友達だろ?」


 カイルは当たり前のように言った。


 その言葉に、エリアスは自然と笑顔になった。


「ええ。そうですね」


     ◇


 その夜。


 エリアスは家の中を最後に一周した。


 台所の火元を確認し、窓の留め具を確かめる。


 書斎には必要な保護術式を施し、留守中に使わない魔導具の魔力供給を止めた。


 庭の管理はマルタに、家屋の確認はロベルトに任せてある。


 必要な書類も、荷物も揃っていた。


 階段を下りると、リュカが旅行用の籠の中で丸くなっていた。


「明日は早いですよ」


 声をかけると、リュカは片目だけを開けた。


「……もう寝ているんですね」


 エリアスは小さく笑った。


 玄関には、旅用の鞄が二つ並んでいる。


 一つは衣類や日用品。


 もう一つは本と書類、それにレオンハルトから贈られた手帳。


 明日の朝、街道を走る乗合馬車に乗れば、いよいよフィオーレを離れることになる。


 エリアスは灯りを落とし、寝室へ向かった。


 春の夜風が窓を揺らしている。


 明日は、きっと良い天気になるだろう。


 そう思いながら、エリアスは静かに目を閉じた。


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