第73話 旅立つ前の食卓
鈴蘭亭の食堂には、夕方からいつもより多くの料理が並んでいた。
焼きたてのパンに、香草を使った鶏肉のロースト。春野菜の煮込みや、薄く切った燻製肉。窓際の小さなテーブルには、林檎の蜜煮を包んだ焼き菓子も用意されている。
「これ、全部食べきれるのか?」
カイルが大皿を見て声を上げた。
厨房から顔を出したミラが、笑いながら答える。
「あなたがいるんだから、足りないくらいかもしれないわね」
「俺、そんなに食べると思われてる?」
「違うの?」
「……否定はしないけどさ」
ノアが吹き出した。
その隣で、エリアスは料理を運ぶのを手伝っていた。
「ミラさん、このお皿はどちらへ?」
「そちらの大きなテーブルにお願い」
「はい」
食堂の一角には、今夜のために二つのテーブルをつなげた席が用意されている。
カイルが声をかけてくれた、旅立ち前の食事会だった。
エリアスは最初、いつものように数人で食事をする程度だと思っていた。
ところが、話を聞いたミラが張り切って料理を作り始め、ノアまで新しい焼き菓子を用意すると言い出したため、思いがけず賑やかな集まりになっていた。
「エリアスさん、座っててくださいよ」
ノアが皿を受け取りながら言った。
「今日はお客さんなんですから」
「でも、まだ準備が終わっていませんよね」
「それは僕たちの仕事です」
ノアは胸を張った。
「たまには、全部任せてください」
エリアスは少し迷った末に頷いた。
「では、お言葉に甘えます」
「はい!」
ノアは満足そうに笑い、厨房へ戻っていった。
その様子を見ていたカイルが、エリアスの肩を軽く叩く。
「いいから座ってろって。今日はお前のために集まるんだから」
「……ありがとうございます」
「まだ礼を言うには早いぞ。全員揃ってないからな」
◇
最初に到着したのは、レオンハルトだった。
普段の仕事着とは少し違う、濃い灰色の上着を着ている。
「こんばんは。遅くなってしまったかな」
「いえ、ちょうどいいところです」
エリアスが立ち上がると、レオンハルトは小さな包みを差し出した。
「出発前に渡しておこうと思って」
「何でしょう?」
「開けてみて」
包みの中には、薄い革表紙の手帳が入っていた。
表紙には飾り気のない模様が刻まれ、紙は少し厚手で、丈夫そうな作りだった。
「旅先で使えるものがいいと思ってね」
レオンハルトは言った。
「魔法のことでも、景色のことでも、何でも書き留められるだろう?」
エリアスは手帳を開いた。
滑らかな紙が、指先に心地よい。
「……ありがとうございます。大切に使います」
「気に入ってもらえたならよかった」
レオンハルトは穏やかに微笑んだ。
その後ろから、セドリックが現れた。
「遅くなりました」
「お疲れさまです」
「今日は早めに仕事を切り上げるつもりだったのですが、急ぎの書類が入りまして」
セドリックは肩をすくめた。
カイルが笑う。
「大変だなあ、役人ってのも」
「冒険者の方も、予定どおりに帰れないことがあるでしょう」
「まあ、それはそうだな」
二人が笑い合っていると、食堂の扉がもう一度開いた。
「こんばんは」
マルタが小さな籠を抱えて入ってきた。
「お邪魔するよ」
「マルタさん!」
エリアスが驚いて立ち上がる。
「来てくださったんですね」
「カイルに誘われてね。せっかくだから、顔を出そうと思って」
マルタは籠を差し出した。
「庭で育てた香草を少し持ってきたよ。料理に使っておくれ」
「ありがとうございます」
「旅先では、あんまり庭のことを心配しなくていいからね。ちゃんと見ておくよ」
「本当に助かります」
「その代わり、帰ってきたらたっぷり土産話を聞かせてもらうから」
「はい。喜んで」
こうして、全員が揃った。
ミラとノアが料理を運び終えると、食堂の一角は温かな笑い声に包まれた。
◇
「それで、ヴェルセリアまでは何日くらいかかるんだ?」
カイルが鶏肉を切り分けながら尋ねた。
「途中で宿泊しながら向かうので、一週間ほどを見込んでいます」
エリアスが答えると、セドリックが頷いた。
「国境の街道は整備されていますが、馬車の乗り継ぎによっては時間がかかりますからね」
「ええ。急ぐ旅ではありませんし、途中の街も見てみたいと思っています」
「いいじゃないか」
カイルは笑った。
「ただ移動するだけじゃ、もったいないもんな」
レオンハルトが口を開く。
「リュミエールへ着いたら、まず公爵家へ挨拶に行くんだよね?」
「はい。到着予定を先方に伝えてあります」
「公爵家の方々も、楽しみにしているだろうね」
エリアスは少し考えた。
「……研究会でお話ししたご令息に、またお会いできると嬉しいです」
「研究の話で盛り上がって、食事の時間を忘れないようにね」
「気をつけます」
レオンハルトは笑ったが、カイルは肩を揺らしていた。
「絶対忘れるだろ」
「そこまでではありませんよ」
「前に本を読んでて、昼飯を忘れたことがあったじゃないか」
「……あれは、少し夢中になってしまっただけです」
「ほらな」
セドリックまで笑い出した。
エリアスは少し困った顔をしたものの、結局は一緒になって笑った。
賑やかな食卓だった。
王宮で働いていた頃も、同僚たちと食事をする機会はあった。
しかし、これほど気兼ねなく話せる時間は、あまり多くなかったように思う。
仕事の内容も、立場も違う人々が、こうして一つのテーブルを囲んでいる。
そのことが、エリアスには嬉しかった。
◇
食事が進むにつれて、話題は自然とフィオーレでの出来事へ移っていった。
カイルが、エリアスと初めて薬草採取へ出かけたときの話を始める。
「こいつ、最初は薬草を見つけるのも早かったんだよ」
「それは、魔力で場所を調べたからです」
エリアスが答えると、カイルは頷いた。
「そう。で、俺が葉の採り方を教えたら、ものすごく真剣に聞いてくれてさ」
「大切なことでしたから」
「普通、宮廷魔導師が薬草の採り方を教わって、あんなに感心するか?」
レオンハルトが微笑んだ。
「エリアスらしいね」
マルタも笑った。
「庭の手入れを教えたときも、同じだったよ。難しい魔法は使えるのに、苗を植える深さは何度も確認するんだから」
「失敗したくありませんでしたので」
「だから、あなたの花壇はよく育ってるんだよ」
マルタは優しく言った。
エリアスは少し照れたように微笑んだ。
ノアが身を乗り出す。
「料理もそうですよ! 最初は卵を焼くのも慎重だったのに、今ではいろいろ作れるようになりましたし」
「ミラさんとノアのおかげです」
「でも、エリアスさんがちゃんと練習したからですよ」
ノアは嬉しそうに笑った。
カイルが腕を組んだ。
「そう考えると、お前、フィオーレに来てから随分いろんなことを覚えたな」
エリアスは少し考えた。
確かに、王宮では経験しなかったことが多かった。
料理。
庭仕事。
冒険者としての依頼。
旅先での出会い。
そのどれもが、今では大切な思い出になっている。
「……皆さんが教えてくださったおかげですね」
エリアスは静かに答えた。
セドリックが微笑んだ。
「私たちも、レインフォード殿から学んだことがたくさんありますよ」
「私から、ですか?」
「ええ。特に、古い水路の調査では」
セドリックは少し真面目な顔になった。
「わからないことを、わからないままにしない姿勢は、私たちも見習わなければと思いました」
エリアスは目を瞬かせた。
「……そう言っていただけると、嬉しいです」
カイルが横から笑った。
「お前、たまには自分が褒められてるって自覚しろよ」
「……していますよ」
「本当か?」
「はい。今は、ちゃんと」
その返事に、また笑い声が上がった。
◇
食後、ノアが林檎の焼き菓子を運んできた。
リーヴェル村で教わったものを、エリアスと一緒に作った菓子だった。
「今日は、ちゃんと形が揃いました!」
ノアは得意そうに胸を張った。
ミラが笑う。
「何度も練習したものね」
「うん!」
エリアスは焼き菓子を一つ取った。
表面は香ばしく、中には甘酸っぱい林檎の蜜煮が詰まっている。
「……上手にできましたね」
「エリアスさんが教えてくれた作り方のおかげです」
「私は、村で聞いたことを伝えただけですよ」
「それでも、教えてもらわなかったら作れませんでしたから」
ノアは笑った。
エリアスも微笑んだ。
カイルは焼き菓子を頬張りながら言った。
「これ、店で出せばいいんじゃないか?」
「本当ですか?」
「うまいよ」
ノアの顔が明るくなった。
「母さん、どう思う?」
ミラは菓子を一口食べ、少し考えた。
「そうね。まずは週末のお菓子として出してみましょうか」
「やった!」
ノアが喜ぶ。
エリアスはその様子を見ながら、嬉しくなった。
リーヴェル村で教わった料理が、鈴蘭亭の新しい菓子になるかもしれない。
自分が旅先で覚えたことが、誰かの楽しみにつながっていく。
それは、とても素敵なことのように思えた。
◇
夜が更け、食事会はお開きとなった。
レオンハルトとセドリックは、それぞれ翌日の仕事があるため、先に帰ることになった。
マルタも、エリアスへ声をかけて席を立った。
「出発前に、また顔を出すよ」
「ありがとうございます」
「庭のことは任せておきな」
「はい。よろしくお願いします」
マルタは微笑み、店を出ていった。
最後に残ったのは、カイルだった。
二人は食堂の隅で、冷めかけたお茶を飲んでいた。
「……楽しかったな」
カイルが言った。
「はい。とても」
「みんな、お前が旅に出るのを楽しみにしてるんだよ」
「そうなんですか?」
「ああ。寂しくないわけじゃないけどさ」
カイルは湯気の消えた茶器を見つめた。
「お前がフィオーレに来たばかりの頃は、こんなふうになるとは思わなかったな」
「私もです」
エリアスは微笑んだ。
静かに暮らせる場所を探して、この街へ来た。
最初は、誰とも深く関わらずに過ごすつもりだった。
けれど、気づけば多くの人と知り合い、こうして食事会まで開いてもらっている。
カイルはエリアスの顔を見た。
「向こうでも、友達ができるといいな」
「ええ。そうですね」
「でも、変な奴には気をつけろよ」
「変な奴、ですか?」
「お前を利用しようとする奴とか、面倒な仕事を押しつけようとする奴とか」
エリアスは少し考えた。
「……気をつけます」
「本当に頼むぞ」
カイルは苦笑した。
「お前、人が困ってると放っておけないところがあるから」
「そんなことは……」
言いかけて、エリアスは口を閉じた。
思い当たることが、いくつかあった。
カイルはそれを見て笑った。
「ほらな」
エリアスも、つられて笑った。
「……気をつけます」
カイルは頷いた。
「それならいい」
しばらくして、二人は席を立った。
鈴蘭亭の扉を開けると、夜の空気が頬に触れた。
街灯に照らされた石畳が、静かに続いている。
「じゃあ、また明日な」
「はい。おやすみなさい」
カイルは片手を上げ、通りの向こうへ歩いていった。
エリアスはその背中を見送り、家へ向かった。
◇
家に戻ると、リュカが玄関まで迎えに来た。
「ただいま」
エリアスはしゃがみ込み、白い頭を撫でた。
リュカは嬉しそうに尾を振る。
書斎の机には、旅の予定表と地図が広げられたままだった。
出発まで、あと七日。
王都へ送った手紙は、そろそろ届く頃だろう。
オスカーは、どんな顔で読んでいるだろうか。
エリアスは少し笑った。
国外へ行ってみたいと書いたとき、きっと驚いたはずだ。
それでも、必要な手続きを整え、背中を押してくれた。
王宮を離れていても、こうして支えてくれる人がいる。
フィオーレにも、同じように自分を気にかけてくれる人たちがいる。
エリアスは机の上の手帳を手に取った。
レオンハルトから贈られた、新しい旅用の手帳だった。
表紙を開く。
最初のページは、まだ真っ白だ。
エリアスはしばらく眺めたあと、そっと閉じた。
何を書くかは、旅先で決めればいい。
どんな景色を見るのかも、どんな人と出会うのかも、今はまだわからない。
それが、少し楽しみだった。
リュカが足元で小さく鳴く。
「……もう寝ましょうか」
エリアスは手帳を鞄へしまい、リュカを抱き上げた。
出発までの残りの日々も、きっとあっという間に過ぎていく。
けれど、慌てる必要はない。
旅は、これから始まるのだから。




