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平穏を望む宮廷魔導師は、自由気ままに暮らしたい  作者: nene
第3章 湖の街と、初めての旅

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第72話 旅支度と、残していくもの


 出発まで、あと十日。


 エリアスの家では、朝から玄関の扉が開け放たれていた。


「それじゃあ、長く留守にする間は、月に二度ほど家の中を確認するということでいいですね」


「はい。よろしくお願いします」


 向かい合っているのは、エリアスと、家屋の管理を請け負う初老の男性だった。


 名前はロベルト・ハイン。


 フィオーレで長く建物の修繕や管理に携わっている人物で、マルタから紹介してもらった。


 借家の所有者側にも確認を取り、管理を依頼することになったのだ。


 ロベルトは家の中を一通り見て回り、壁や窓、雨戸の状態を確かめていた。


「この家はしっかり造られていますな。少し留守にするくらいなら、そう心配はいらんでしょう」


「それなら安心しました」


「ただし、雨の多い季節に入る前には、屋根と雨樋を点検しておきたいですね」


「お願いします」


 ロベルトは手帳に何か書き込んだ。


「庭は、お隣のマルタさんが見てくださるとか」


「はい。水やりや花壇のことはお願いしています」


「それなら、こちらでは家屋の確認だけにしておきましょう。何か異常があれば、管理人を通してご連絡します」


 エリアスは頷き、連絡先を記した紙を渡した。


 リュミエールの滞在先は、すでに公爵家から案内されている。交流会が終わって別の宿へ移った場合には、改めて住所を知らせるつもりだった。


「それから、ひとつお願いがあるのですが」


「何でしょう?」


「二階の書斎には、古い本や資料が置いてあります。そちらは、できるだけ触れないようにしていただけますか」


「もちろんです。緊急の場合を除き、書斎には立ち入りませんよ」


「ありがとうございます」


 エリアスは安堵した。


 書斎には、王宮から持参した研究資料も保管している。


 休暇中に扱ってよいものだけを持ってきているとはいえ、一般の人が不用意に触れるべきではない。


 出発前に、保護術式を確認しておく必要もあった。


 ロベルトは手帳を閉じ、玄関へ向かった。


「帰る日が決まりましたら、一報ください。戻られる前に、室内を整えておきますから」


「助かります」


「どうぞ、良い旅を」


 エリアスは深く頭を下げた。


 玄関の扉を閉めると、家の中が急に静かになった。


 台所の方から、リュカがひょこりと顔を出す。


「家のことは、これでひと安心ですね」


 リュカは床を歩いてきて、エリアスの足元に座った。


 旅に連れていくことは、まだ本人に説明できていない。


 もっとも、説明したところでどこまで伝わるのかはわからなかった。


「今回は、前より長い旅になりますよ」


 エリアスがしゃがみ込むと、リュカは差し出された手に鼻先を押しつけた。


「馬車に乗る時間も長くなりますが、大丈夫でしょうか」


 青い目がこちらを見上げる。


 エリアスはその頭を撫でた。


「嫌だったら、無理はさせませんからね」


     ◇


 午後、エリアスはセドリックの執務室を訪れた。


 国外への渡航そのものは王都の承認を得ているが、フィオーレでの居住登録や長期不在に関する手続きは、領地側にも必要だった。


 セドリックは書類に目を通すと、静かに頷いた。


「家屋管理の手配も済んだのですね」


「はい。マルタさんに紹介していただきました」


「ロベルトさんでしたら、信頼できる方です。以前、領内の公的施設の管理も担当されていましたから」


「それを聞いて安心しました」


 セドリックは書類の一か所へ印をつけた。


「こちらの手続きは、これで完了です」


「ありがとうございます」


「それにしても、エルディア公爵家からの招待とは、随分と立派なお話ですね」


 エリアスは少し困ったように笑った。


「研究会で知り合った方がいらっしゃるので、そのご縁だと思います」


「それだけで正式な招待をいただけるものではありませんよ」


 セドリックは書類を揃えた。


「ご自身ではあまり意識されていないようですが、レインフォード殿のお名前は、国外でもよく知られています」


「……研究者の方々には、多少は知られていると思います」


「多少、ですか」


 セドリックは苦笑した。


 エリアスは自分の肩書きを理解していないわけではない。公の場で求められる振る舞いも、身分による責任も心得ている。


 ただ、その名を聞いた相手がどれほどの期待を抱くのかについては、時々驚くほど無頓着だった。


「交流会では、王宮にいた頃とは違う立場で参加されるのですよね」


「はい。今回は個人的な訪問です」


「でしたら、その点だけは先方にも繰り返しお伝えになった方がよいでしょう」


「オスカーも同じことを言っていました」


「でしょうね」


 セドリックは微笑んだ。


「何より、ご自身が楽しめる旅になるといいですね」


「ありがとうございます」


 エリアスが立ち上がると、セドリックはふと思い出したように声をかけた。


「そういえば、レオンハルト殿から聞いたのですが、向こうの研究院には古い知人がいらっしゃるとか」


「ええ。お手紙を預かっています」


「そうでしたか。良い再会になるといいですね」


 エリアスは頷いた。


「そう願っています」


     ◇


 ギルドの訓練場では、カイルが木剣を振っていた。


 いつもより鋭い動きだった。


 右足を踏み込み、身体をひねって横へ払う。そのまま木剣を引き戻し、素早く反対側へ構え直す。


 エリアスは邪魔にならない場所で、その動きを眺めていた。


 カイルは何度か同じ動きを繰り返してから、ようやくこちらに気づいた。


「お、来たな」


「こんにちは。今日は随分と熱心ですね」


「いつも熱心だよ」


「失礼しました」


 カイルは笑いながら木剣を置いた。


「剣の稽古をしてると、余計なことを考えずに済むからな」


「それは、少し羨ましいです」


「お前の場合、頭の中でいろんなことを考えてそうだもんな」


「……否定はできません」


 エリアスは鞄から小さな布袋を取り出した。


「今日は、先日の続きです」


「動いている魔力を感じる練習だな」


「はい。ただ、その前に一つ確かめたいことがあります」


 カイルは首を傾げた。


「何だ?」


「以前、魔力を感じたとき、人が近づいてくるような気配がしたとおっしゃっていましたよね」


「ああ」


「今日は、その感覚を利用してみようと思います」


 エリアスは訓練場の隅にある木製の標的を指差した。


「あちらへ向かって、ゆっくり歩いてください」


「それだけか?」


「途中で、何か変化を感じたら教えてください」


 カイルは頷いた。


 木剣を持たず、標的へ向かって歩き始める。


 エリアスは少し離れた場所から、訓練場の一角に魔力を流した。


 光も音も生じない、ごく小さな術式だった。


 カイルが三歩進む。


 四歩。


 五歩目で、わずかに足を緩めた。


「……ん?」


 エリアスは魔力を止めた。


 カイルが振り向く。


「今、何かしたか?」


「はい」


「やっぱりか」


「何を感じました?」


「うまく説明できないけど、右側に誰かいるような感じがした」


 エリアスはその方向を見た。


 確かに、魔力を流した場所と一致している。


「では、もう一度やってみましょう」


 今度は、魔力を流す位置を変えた。


 カイルが歩き出す。


 しかし、今度は何も感じなかったらしい。


 標的まで歩き切ってから振り返る。


「……わからなかった」


「そうですね」


「何もなかったわけじゃないんだろ?」


「はい。途中で魔力を流しました」


 カイルは悔しそうに顔をしかめた。


「難しいなあ」


「今は、感じられたり感じられなかったりする段階です。焦る必要はありません」


「わかってる。でも、さっきはできたんだよな」


「ええ」


 エリアスは頷いた。


 次は、魔力を流す場所を少し変えた。


 カイルは再び歩き出す。


 すると、途中で足を止めた。


「……左?」


 エリアスの目がわずかに見開かれた。


「正解です」


「おお!」


 カイルが嬉しそうに声を上げる。


 そのまま勢いよく振り向いた。


「今のは、結構はっきりしたぞ!」


「それはよかったです」


「何だろうな。風が吹いたような感じでもないし、音がしたわけでもないんだけど……」


 カイルは考え込んだ。


「誰かに見られてるような感覚に近いのかもしれない」


 エリアスは頷いた。


「それなら、剣士としての経験が関係しているのかもしれませんね」


「どういうことだ?」


「相手の気配を読む感覚が、魔力の変化にも反応している可能性があります」


「へえ……」


 カイルは感心したように自分の手を見た。


「剣の練習も、無駄じゃなかったわけか」


「もちろんです」


 エリアスは穏やかに答えた。


「むしろ、カイルだからこそ気づける感覚もあると思います」


 その言葉に、カイルは少し照れたように笑った。


「……そう言われると、悪い気はしないな」


     ◇


 練習を終える頃には、夕方の鐘が鳴っていた。


 カイルは木剣を片づけながら、エリアスに尋ねた。


「そういえば、出発まであと何日だ?」


「十日です」


「もうそんなに近いのか」


「ええ。準備を進めていると、あっという間ですね」


 カイルは少し考えた。


「それで、向こうにはどれくらいいるつもりなんだ?」


「交流会は数日間ですが、そのあとも街を見て回ろうと思っています」


「一人で?」


「はい。リュカも一緒ですが」


「そりゃそうだろうけどさ」


 カイルは笑った。


 それから、少し真面目な顔になる。


「知らない国なんだから、気をつけろよ」


「もちろんです」


「お前の魔法なら、そうそう危ないことにはならないと思うけど……」


 カイルはそこで言葉を切った。


 エリアスが首を傾げる。


「何でしょう?」


「いや。魔法が強いからって、旅先で何でも一人で何とかしようとするなよ」


 エリアスは少し驚いた。


 カイルは続けた。


「お前、困ってる人を見ると、すぐ助けようとするだろ。悪いことじゃないけど、知らない土地には、その土地の事情があるからさ」


 エリアスはしばらく黙っていた。


 確かに、リーヴェル村でも設備の故障を調べるうちに、古い水路の修理まで関わることになった。


 結果的には無事に終わったが、カイルが現場を見てくれなければ気づかなかった危険もあった。


「……気をつけます」


「それならいい」


 カイルはいつもの笑顔に戻った。


「まあ、向こうで面白いことがあったら手紙をくれよ」


「もちろんです」


「魔力感知の練習も続けるからな。帰ってきたら、また見てくれ」


「ええ。楽しみにしています」


 カイルは木剣を肩に担いだ。


「そうだ。旅立つ前に、みんなで飯でも食わないか?」


「みんなで、ですか?」


「ああ。レオンハルトもセドリックも誘ってさ。ミラのところなら、集まりやすいだろ」


 エリアスは思わず微笑んだ。


「いいですね。ぜひ」


「じゃあ、俺から声をかけておくよ」


「ありがとうございます」


 カイルは片手を上げ、訓練場の出口へ向かった。


 エリアスはその背中を見送りながら、久しぶりに王都のことを思い出した。


 王宮にいた頃にも、同僚たちと食事をすることはあった。


 けれど、こうして友人たちが自分の旅立ちを気にかけ、集まろうとしてくれるのは、どこか違う嬉しさがあった。


     ◇


 翌朝、エリアスはレオンハルトの書店を訪ねた。


 借りていた旅行案内書を返し、代わりに小さな地図帳を購入する。


「もう準備は整いそう?」


 レオンハルトが尋ねた。


「だいぶ進みました。家の管理もお願いできましたし、必要な書類も揃っています」


「それなら安心だね」


 エリアスは鞄を開け、中に入れていた封筒を確かめた。


「ユリウスさんへのお手紙も、忘れずに持っていきます」


「ありがとう」


 レオンハルトは少し微笑んだ。


「ただ、彼は研究に没頭すると、周りのことが見えなくなる人だからね。訪ねても、すぐには会えないかもしれない」


「それは、少しわかる気がします」


「……君も似たところがあるからね」


 エリアスは顔を上げた。


「そうでしょうか?」


「少なくとも、昨日までに返した本の中に、君が書き込んだ紙が何枚も挟まっていたよ」


 エリアスは驚いた。


「……すみません。取り忘れていました」


「捨てずに取ってあるから、帰りに持っていくといい」


「ありがとうございます」


 レオンハルトは笑った。


「それから、リュミエールには魔導書を扱う古書店も多いそうだ。気になる店があったら、覗いてみるといい」


「ぜひ行ってみたいです」


「ただし、買いすぎには注意して」


 エリアスは小さく頷いた。


「……善処します」


 その答えに、レオンハルトは少しだけ笑みを深めた。


     ◇


 夕方、エリアスは家へ戻り、旅の荷物を広げた。


 机の上には、渡航証明書と紹介状、宿泊先の案内が揃っている。


 衣類は必要最低限。


 旅先で使う筆記具と、読みかけの本。


 リュカのための小さな敷物と、持ち運び用の籠。


 それから、レオンハルトから預かった手紙。


 エリアスは一つずつ確認し、鞄へ収めていった。


 最後に、机の引き出しから小さな木箱を取り出す。


 中には、フィオーレで暮らし始めてから集めたものが入っていた。


 湖灯祭で買った小さな飾り。


 アルトヴィアで手に入れた陶器の栞。


 セレーネで購入した絵葉書。


 旅の途中で見つけた、形の変わった小石。


 どれも高価なものではない。


 けれど、手に取るたびに、そのときの景色が思い出された。


 エリアスはしばらく眺めたあと、箱を閉じた。


 これからも、こうしたものが少しずつ増えていくのだろう。


 遠い国の街角で見つけた品。


 新しく知り合った人から贈られたもの。


 思いがけない出来事の記念になるようなもの。


 それらを持ち帰る場所が、今はフィオーレにある。


 エリアスは箱を棚へ戻した。


 リュカが鞄の中へ頭を突っ込み、何かを探している。


「……リュカ?」


 声をかけると、白い身体がぴたりと止まった。


 次の瞬間、リュカは鞄から小さな布袋を引っ張り出した。


 中には、旅用に用意した乾燥肉が入っている。


「それは、まだ食べませんよ」


 エリアスが取り上げると、リュカは少し不満そうに鳴いた。


「旅の途中で食べる分ですから」


 リュカはじっと袋を見つめていたが、やがて諦めたように座り込んだ。


 エリアスは笑いながら、別に用意していた小さな鶏肉を差し出した。


「こちらなら、どうぞ」


 リュカはすぐに受け取り、満足そうに食べ始めた。


 エリアスはその様子を眺めながら、鞄の口を閉じた。


 旅立ちまでは、まだ数日ある。


 その間に、カイルとの練習をもう少し続けよう。


 そして、みんなとの食事も楽しみだった。


 遠くへ出かけることが決まっても、フィオーレで過ごす時間の大切さは変わらない。


 だからこそ、残された日々を慌ただしく終わらせたくなかった。


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