第72話 旅支度と、残していくもの
出発まで、あと十日。
エリアスの家では、朝から玄関の扉が開け放たれていた。
「それじゃあ、長く留守にする間は、月に二度ほど家の中を確認するということでいいですね」
「はい。よろしくお願いします」
向かい合っているのは、エリアスと、家屋の管理を請け負う初老の男性だった。
名前はロベルト・ハイン。
フィオーレで長く建物の修繕や管理に携わっている人物で、マルタから紹介してもらった。
借家の所有者側にも確認を取り、管理を依頼することになったのだ。
ロベルトは家の中を一通り見て回り、壁や窓、雨戸の状態を確かめていた。
「この家はしっかり造られていますな。少し留守にするくらいなら、そう心配はいらんでしょう」
「それなら安心しました」
「ただし、雨の多い季節に入る前には、屋根と雨樋を点検しておきたいですね」
「お願いします」
ロベルトは手帳に何か書き込んだ。
「庭は、お隣のマルタさんが見てくださるとか」
「はい。水やりや花壇のことはお願いしています」
「それなら、こちらでは家屋の確認だけにしておきましょう。何か異常があれば、管理人を通してご連絡します」
エリアスは頷き、連絡先を記した紙を渡した。
リュミエールの滞在先は、すでに公爵家から案内されている。交流会が終わって別の宿へ移った場合には、改めて住所を知らせるつもりだった。
「それから、ひとつお願いがあるのですが」
「何でしょう?」
「二階の書斎には、古い本や資料が置いてあります。そちらは、できるだけ触れないようにしていただけますか」
「もちろんです。緊急の場合を除き、書斎には立ち入りませんよ」
「ありがとうございます」
エリアスは安堵した。
書斎には、王宮から持参した研究資料も保管している。
休暇中に扱ってよいものだけを持ってきているとはいえ、一般の人が不用意に触れるべきではない。
出発前に、保護術式を確認しておく必要もあった。
ロベルトは手帳を閉じ、玄関へ向かった。
「帰る日が決まりましたら、一報ください。戻られる前に、室内を整えておきますから」
「助かります」
「どうぞ、良い旅を」
エリアスは深く頭を下げた。
玄関の扉を閉めると、家の中が急に静かになった。
台所の方から、リュカがひょこりと顔を出す。
「家のことは、これでひと安心ですね」
リュカは床を歩いてきて、エリアスの足元に座った。
旅に連れていくことは、まだ本人に説明できていない。
もっとも、説明したところでどこまで伝わるのかはわからなかった。
「今回は、前より長い旅になりますよ」
エリアスがしゃがみ込むと、リュカは差し出された手に鼻先を押しつけた。
「馬車に乗る時間も長くなりますが、大丈夫でしょうか」
青い目がこちらを見上げる。
エリアスはその頭を撫でた。
「嫌だったら、無理はさせませんからね」
◇
午後、エリアスはセドリックの執務室を訪れた。
国外への渡航そのものは王都の承認を得ているが、フィオーレでの居住登録や長期不在に関する手続きは、領地側にも必要だった。
セドリックは書類に目を通すと、静かに頷いた。
「家屋管理の手配も済んだのですね」
「はい。マルタさんに紹介していただきました」
「ロベルトさんでしたら、信頼できる方です。以前、領内の公的施設の管理も担当されていましたから」
「それを聞いて安心しました」
セドリックは書類の一か所へ印をつけた。
「こちらの手続きは、これで完了です」
「ありがとうございます」
「それにしても、エルディア公爵家からの招待とは、随分と立派なお話ですね」
エリアスは少し困ったように笑った。
「研究会で知り合った方がいらっしゃるので、そのご縁だと思います」
「それだけで正式な招待をいただけるものではありませんよ」
セドリックは書類を揃えた。
「ご自身ではあまり意識されていないようですが、レインフォード殿のお名前は、国外でもよく知られています」
「……研究者の方々には、多少は知られていると思います」
「多少、ですか」
セドリックは苦笑した。
エリアスは自分の肩書きを理解していないわけではない。公の場で求められる振る舞いも、身分による責任も心得ている。
ただ、その名を聞いた相手がどれほどの期待を抱くのかについては、時々驚くほど無頓着だった。
「交流会では、王宮にいた頃とは違う立場で参加されるのですよね」
「はい。今回は個人的な訪問です」
「でしたら、その点だけは先方にも繰り返しお伝えになった方がよいでしょう」
「オスカーも同じことを言っていました」
「でしょうね」
セドリックは微笑んだ。
「何より、ご自身が楽しめる旅になるといいですね」
「ありがとうございます」
エリアスが立ち上がると、セドリックはふと思い出したように声をかけた。
「そういえば、レオンハルト殿から聞いたのですが、向こうの研究院には古い知人がいらっしゃるとか」
「ええ。お手紙を預かっています」
「そうでしたか。良い再会になるといいですね」
エリアスは頷いた。
「そう願っています」
◇
ギルドの訓練場では、カイルが木剣を振っていた。
いつもより鋭い動きだった。
右足を踏み込み、身体をひねって横へ払う。そのまま木剣を引き戻し、素早く反対側へ構え直す。
エリアスは邪魔にならない場所で、その動きを眺めていた。
カイルは何度か同じ動きを繰り返してから、ようやくこちらに気づいた。
「お、来たな」
「こんにちは。今日は随分と熱心ですね」
「いつも熱心だよ」
「失礼しました」
カイルは笑いながら木剣を置いた。
「剣の稽古をしてると、余計なことを考えずに済むからな」
「それは、少し羨ましいです」
「お前の場合、頭の中でいろんなことを考えてそうだもんな」
「……否定はできません」
エリアスは鞄から小さな布袋を取り出した。
「今日は、先日の続きです」
「動いている魔力を感じる練習だな」
「はい。ただ、その前に一つ確かめたいことがあります」
カイルは首を傾げた。
「何だ?」
「以前、魔力を感じたとき、人が近づいてくるような気配がしたとおっしゃっていましたよね」
「ああ」
「今日は、その感覚を利用してみようと思います」
エリアスは訓練場の隅にある木製の標的を指差した。
「あちらへ向かって、ゆっくり歩いてください」
「それだけか?」
「途中で、何か変化を感じたら教えてください」
カイルは頷いた。
木剣を持たず、標的へ向かって歩き始める。
エリアスは少し離れた場所から、訓練場の一角に魔力を流した。
光も音も生じない、ごく小さな術式だった。
カイルが三歩進む。
四歩。
五歩目で、わずかに足を緩めた。
「……ん?」
エリアスは魔力を止めた。
カイルが振り向く。
「今、何かしたか?」
「はい」
「やっぱりか」
「何を感じました?」
「うまく説明できないけど、右側に誰かいるような感じがした」
エリアスはその方向を見た。
確かに、魔力を流した場所と一致している。
「では、もう一度やってみましょう」
今度は、魔力を流す位置を変えた。
カイルが歩き出す。
しかし、今度は何も感じなかったらしい。
標的まで歩き切ってから振り返る。
「……わからなかった」
「そうですね」
「何もなかったわけじゃないんだろ?」
「はい。途中で魔力を流しました」
カイルは悔しそうに顔をしかめた。
「難しいなあ」
「今は、感じられたり感じられなかったりする段階です。焦る必要はありません」
「わかってる。でも、さっきはできたんだよな」
「ええ」
エリアスは頷いた。
次は、魔力を流す場所を少し変えた。
カイルは再び歩き出す。
すると、途中で足を止めた。
「……左?」
エリアスの目がわずかに見開かれた。
「正解です」
「おお!」
カイルが嬉しそうに声を上げる。
そのまま勢いよく振り向いた。
「今のは、結構はっきりしたぞ!」
「それはよかったです」
「何だろうな。風が吹いたような感じでもないし、音がしたわけでもないんだけど……」
カイルは考え込んだ。
「誰かに見られてるような感覚に近いのかもしれない」
エリアスは頷いた。
「それなら、剣士としての経験が関係しているのかもしれませんね」
「どういうことだ?」
「相手の気配を読む感覚が、魔力の変化にも反応している可能性があります」
「へえ……」
カイルは感心したように自分の手を見た。
「剣の練習も、無駄じゃなかったわけか」
「もちろんです」
エリアスは穏やかに答えた。
「むしろ、カイルだからこそ気づける感覚もあると思います」
その言葉に、カイルは少し照れたように笑った。
「……そう言われると、悪い気はしないな」
◇
練習を終える頃には、夕方の鐘が鳴っていた。
カイルは木剣を片づけながら、エリアスに尋ねた。
「そういえば、出発まであと何日だ?」
「十日です」
「もうそんなに近いのか」
「ええ。準備を進めていると、あっという間ですね」
カイルは少し考えた。
「それで、向こうにはどれくらいいるつもりなんだ?」
「交流会は数日間ですが、そのあとも街を見て回ろうと思っています」
「一人で?」
「はい。リュカも一緒ですが」
「そりゃそうだろうけどさ」
カイルは笑った。
それから、少し真面目な顔になる。
「知らない国なんだから、気をつけろよ」
「もちろんです」
「お前の魔法なら、そうそう危ないことにはならないと思うけど……」
カイルはそこで言葉を切った。
エリアスが首を傾げる。
「何でしょう?」
「いや。魔法が強いからって、旅先で何でも一人で何とかしようとするなよ」
エリアスは少し驚いた。
カイルは続けた。
「お前、困ってる人を見ると、すぐ助けようとするだろ。悪いことじゃないけど、知らない土地には、その土地の事情があるからさ」
エリアスはしばらく黙っていた。
確かに、リーヴェル村でも設備の故障を調べるうちに、古い水路の修理まで関わることになった。
結果的には無事に終わったが、カイルが現場を見てくれなければ気づかなかった危険もあった。
「……気をつけます」
「それならいい」
カイルはいつもの笑顔に戻った。
「まあ、向こうで面白いことがあったら手紙をくれよ」
「もちろんです」
「魔力感知の練習も続けるからな。帰ってきたら、また見てくれ」
「ええ。楽しみにしています」
カイルは木剣を肩に担いだ。
「そうだ。旅立つ前に、みんなで飯でも食わないか?」
「みんなで、ですか?」
「ああ。レオンハルトもセドリックも誘ってさ。ミラのところなら、集まりやすいだろ」
エリアスは思わず微笑んだ。
「いいですね。ぜひ」
「じゃあ、俺から声をかけておくよ」
「ありがとうございます」
カイルは片手を上げ、訓練場の出口へ向かった。
エリアスはその背中を見送りながら、久しぶりに王都のことを思い出した。
王宮にいた頃にも、同僚たちと食事をすることはあった。
けれど、こうして友人たちが自分の旅立ちを気にかけ、集まろうとしてくれるのは、どこか違う嬉しさがあった。
◇
翌朝、エリアスはレオンハルトの書店を訪ねた。
借りていた旅行案内書を返し、代わりに小さな地図帳を購入する。
「もう準備は整いそう?」
レオンハルトが尋ねた。
「だいぶ進みました。家の管理もお願いできましたし、必要な書類も揃っています」
「それなら安心だね」
エリアスは鞄を開け、中に入れていた封筒を確かめた。
「ユリウスさんへのお手紙も、忘れずに持っていきます」
「ありがとう」
レオンハルトは少し微笑んだ。
「ただ、彼は研究に没頭すると、周りのことが見えなくなる人だからね。訪ねても、すぐには会えないかもしれない」
「それは、少しわかる気がします」
「……君も似たところがあるからね」
エリアスは顔を上げた。
「そうでしょうか?」
「少なくとも、昨日までに返した本の中に、君が書き込んだ紙が何枚も挟まっていたよ」
エリアスは驚いた。
「……すみません。取り忘れていました」
「捨てずに取ってあるから、帰りに持っていくといい」
「ありがとうございます」
レオンハルトは笑った。
「それから、リュミエールには魔導書を扱う古書店も多いそうだ。気になる店があったら、覗いてみるといい」
「ぜひ行ってみたいです」
「ただし、買いすぎには注意して」
エリアスは小さく頷いた。
「……善処します」
その答えに、レオンハルトは少しだけ笑みを深めた。
◇
夕方、エリアスは家へ戻り、旅の荷物を広げた。
机の上には、渡航証明書と紹介状、宿泊先の案内が揃っている。
衣類は必要最低限。
旅先で使う筆記具と、読みかけの本。
リュカのための小さな敷物と、持ち運び用の籠。
それから、レオンハルトから預かった手紙。
エリアスは一つずつ確認し、鞄へ収めていった。
最後に、机の引き出しから小さな木箱を取り出す。
中には、フィオーレで暮らし始めてから集めたものが入っていた。
湖灯祭で買った小さな飾り。
アルトヴィアで手に入れた陶器の栞。
セレーネで購入した絵葉書。
旅の途中で見つけた、形の変わった小石。
どれも高価なものではない。
けれど、手に取るたびに、そのときの景色が思い出された。
エリアスはしばらく眺めたあと、箱を閉じた。
これからも、こうしたものが少しずつ増えていくのだろう。
遠い国の街角で見つけた品。
新しく知り合った人から贈られたもの。
思いがけない出来事の記念になるようなもの。
それらを持ち帰る場所が、今はフィオーレにある。
エリアスは箱を棚へ戻した。
リュカが鞄の中へ頭を突っ込み、何かを探している。
「……リュカ?」
声をかけると、白い身体がぴたりと止まった。
次の瞬間、リュカは鞄から小さな布袋を引っ張り出した。
中には、旅用に用意した乾燥肉が入っている。
「それは、まだ食べませんよ」
エリアスが取り上げると、リュカは少し不満そうに鳴いた。
「旅の途中で食べる分ですから」
リュカはじっと袋を見つめていたが、やがて諦めたように座り込んだ。
エリアスは笑いながら、別に用意していた小さな鶏肉を差し出した。
「こちらなら、どうぞ」
リュカはすぐに受け取り、満足そうに食べ始めた。
エリアスはその様子を眺めながら、鞄の口を閉じた。
旅立ちまでは、まだ数日ある。
その間に、カイルとの練習をもう少し続けよう。
そして、みんなとの食事も楽しみだった。
遠くへ出かけることが決まっても、フィオーレで過ごす時間の大切さは変わらない。
だからこそ、残された日々を慌ただしく終わらせたくなかった。




