第71話 旅立ちまでの日々
フィオーレの朝市は、春を迎えてますます賑やかになっていた。
石畳の通りには色とりどりの布屋根が並び、野菜や焼き菓子、花の苗を売る店から威勢のよい声が飛び交っている。
エリアスはその中を歩きながら、手元の買い物メモを確かめていた。
保存の利く食料、旅行用の筆記具、替えの靴紐。それから、リュカのために使う柔らかな布も必要だった。
隣国ヴェルセリア王国への出発は、十二日後に決まっている。
エルディア公爵家からは、招待を正式に受け入れたことへの礼状と、宿泊に関する案内が届いていた。交流会の前後も滞在できるよう、公爵家が懇意にしている宿を紹介してくれるという。
エリアスは、会期中だけ公爵家の用意した客室を利用し、その後は街の宿へ移ることにした。
どれほど長く滞在するかは、まだ決めていない。
せっかく国境を越えるのだから、リュミエールだけでなく、周辺の街も訪ねてみたかった。
とはいえ、その前に済ませることがある。
「お兄さん、旅行かい?」
革小物を並べていた店主が、エリアスの手元を見て声をかけた。
「はい。少し遠くへ」
「それなら、こっちの鞄紐も見ていくといい。長旅で切れると困るからね」
差し出されたのは、幅の広い革紐だった。
エリアスは縫い目を確かめる。
「丈夫そうですね」
「荷物が重くても、肩に食い込みにくいよ」
試しに鞄へ取り付けてもらうと、確かに持ちやすくなった。
「では、これをいただきます」
「毎度あり。いい旅を!」
店主の声を背に、エリアスは次の店へ向かった。
旅をするために必要なものは、思っていたより多い。
だが、不思議と面倒には感じなかった。
◇
昼前、エリアスはマルタの家を訪ねた。
庭の手入れについて、改めて相談するためだった。
「今度は十二日後に出発するんだって?」
マルタは花壇の土をほぐしながら尋ねた。
「はい。今回は少し長く留守にすると思います」
「隣国まで行くなら、そうだろうねえ」
マルタは立ち上がり、エリアスの庭を見渡した。
春先に植えた苗はすっかり根づき、いくつかは蕾をつけ始めている。
白い花を咲かせる木も、去年より枝が伸びたように見えた。
「水やりくらいなら、これまでどおり見てあげられるよ。でも、ひと月もふた月も留守にするなら、ほかのことも考えないとね」
「そうですね。マルタさんにばかりお願いするのも申し訳ありませんし」
「そこは気にしなくていいんだけどさ。家の風通しとか、雨の日の窓の確認とかね」
エリアスは頷いた。
花の世話だけなら、簡単な魔導具を使うこともできる。
しかし、家そのものの管理となると話は別だ。
「出発前に、管理をお願いできる方を探してみます」
「それがいいね。大家さんにも連絡しておくと安心だよ」
「はい。契約のこともありますから」
エリアスが借りている家は、一年間の契約だった。
まだ契約期間は十分残っているが、今後も旅を続けるなら、いずれ考えなければならない。
家を引き払うのか。
契約を延長するのか。
それとも、別の場所に暮らすことになるのか。
今のエリアスには、まだ答えがなかった。
「そんなに難しい顔をしなくても大丈夫だよ」
マルタが笑った。
「帰ってくる場所があるのは、悪いことじゃないんだから」
「……そうですね」
「それに、気に入った街が見つかったら、そこで暮らしてみたっていいんだよ。若いんだから」
エリアスは少し驚いた。
「寂しくありませんか?」
「そりゃ寂しいさ。でも、寂しいからって引き止めるのは違うだろ?」
マルタは土のついた手袋を外した。
「会いたくなったら、手紙を書けばいい。帰ってきたら、またお茶でも飲もうじゃないか」
エリアスは胸の奥が温かくなるのを感じた。
「ありがとうございます」
「お礼を言うのは、まだ早いよ。帰ってきたら、土産話をたっぷり聞かせてもらうんだから」
「はい。ぜひ」
マルタは満足そうに笑い、再び花壇へしゃがみ込んだ。
◇
その日の午後、エリアスは冒険者ギルドの訓練場を訪れた。
カイルはすでに来ており、若い弓使いの冒険者と話していた。
「お、エリアス!」
「こんにちは」
「今日は動いてる魔力を感じ取る練習だったよな?」
「はい。そのつもりです」
エリアスは鞄から小さな木箱を取り出した。
中には、同じ大きさの木片がいくつか入っている。
カイルが覗き込んだ。
「今日は石じゃないのか?」
「木の方が、魔力の変化を少しゆっくり伝えるので、練習しやすいかと思いまして」
「へえ。そんな違いがあるのか」
「素材によって、魔力の通り方が違うんです」
エリアスは木片を一つ取り出した。
手のひらに乗せ、指先からわずかに魔力を流し込む。
「今日はこれを使って、魔力が移動する感覚を確かめてみましょう」
カイルは木片を受け取った。
「わかった」
「まず、目を閉じてください」
カイルが目を閉じる。
エリアスは木片へ魔力を送り、その流れをゆっくりと変化させた。
「どうですか?」
「……うーん」
しばらく沈黙が続いた。
「何か、じわっとするような気はする」
「それは、どの辺りですか?」
「手のひらの真ん中かな」
エリアスは魔力を止めた。
「今は?」
「……あれ。なくなった?」
「はい」
カイルは目を開けた。
「おお!」
嬉しそうな声が上がった。
「今のは、ちゃんとわかった気がする!」
「では、もう一度試しましょう」
エリアスは木片を受け取り、魔力の流し方を変えた。
今度は、カイルに開始の合図を出さない。
目を閉じたままのカイルが、少し眉を寄せた。
「……今、何か動いたか?」
「はい」
「右から左へ流れたような……」
エリアスは驚いた。
実際には、木片の右端から左端へ魔力を移していたのだ。
「正解です」
「本当か?」
「ええ。方向までわかりましたね」
カイルは勢いよく目を開けた。
「やった!」
近くで見ていた弓使いも感心したように声を上げた。
「すごいな、カイル」
「いや、まだ偶然かもしれないけどな」
カイルは照れくさそうに笑った。
エリアスも頷いた。
「何度か確かめてみましょう」
それから二十分ほど、同じ練習を繰り返した。
最初の数回はうまくいったが、途中からカイルの正解が減り始めた。
魔力が動いたことは感じられても、方向まではわからなくなる。
「……あれ?」
カイルが首を傾げた。
「さっきはわかったのに」
エリアスは木片を受け取った。
「疲れているのかもしれません」
「これくらいで?」
「普段使っていない感覚へ集中し続けるのは、思っている以上に負担がかかります」
「なるほどな」
カイルは肩を回した。
「確かに、剣の練習とは違う疲れ方だ」
「今日は、ここまでにしましょう」
「もう少しやれそうだけどな」
「無理に続けるより、少しずつ練習した方がよいと思います」
カイルは残念そうだったが、やがて頷いた。
「わかった。じゃあ、また次だな」
エリアスが木片を片づけようとすると、カイルが一つを指差した。
「これ、借りてもいいか?」
「もちろんです。ただし……」
「魔力は残ってないんだろ?」
先回りして言われ、エリアスは目を瞬かせた。
カイルは声を立てて笑った。
「さすがに、もう覚えたよ」
「……そうでしたね」
エリアスも笑った。
「では、練習用に少し魔力を込めておきます。ただし、時間が経てば自然に消えますから、そのときは無理に続けないでください」
「了解」
カイルは木片を大切そうに懐へしまった。
「お前がいない間も、感覚を忘れないようにしないとな」
「焦らず続けてください」
「ああ。帰ってきたら、また見てくれよ」
「喜んで」
その約束を交わしたとき、エリアスは少しだけ嬉しくなった。
人に教えることは、今でも得意とは言えない。
それでも、カイルができることを少しずつ増やしている。
その様子を見るのは、思っていた以上に楽しかった。
◇
夕方、エリアスは家の書斎で、王都へ送る手紙を書いていた。
出発の日が決まったこと。
リュミエールでの滞在先。
そして、交流会が終わったあとも、しばらくヴェルセリア王国を旅するつもりであること。
オスカーには、これまで何度も手紙を書いてきた。
休暇に入ったばかりの頃は、何を書けばいいのかわからなかった。
王宮にいた頃なら、仕事の報告や研究の進捗を伝えればよかったからだ。
けれど最近は違う。
旅先で見た景色や出会った人々。
カイルとの会話。
鈴蘭亭で覚えた料理。
そうした何気ないことも、自然に書けるようになっていた。
『オスカーへ。
おかげさまで、ヴェルセリア王国への旅の準備は順調に進んでいます。
出発は十二日後を予定しています。
リュミエールでは、交流会の期間中は公爵家の客室を利用し、その後は紹介していただいた宿へ移るつもりです。
滞在先が変わりましたら、改めて住所をお知らせします。
こちらでは、カイルに魔力感知の方法を教えています。
以前はほとんどわからなかったようですが、最近は魔力の流れを少しずつ感じ取れるようになってきました。
私も、人に教えることについて学ぶことが多いです。』
そこまで書いて、エリアスは筆を止めた。
魔導院の後輩たちにも、こうして教えられたらよかったのかもしれない。
当時は、自分の説明がどうして伝わらないのか、よくわからなかった。
今なら、少し違った話し方ができる気がする。
エリアスは続きを書いた。
『王宮の皆さんは、お変わりありませんか。
オスカーも、あまり無理をしないでください。
私がいない間、仕事が増えているのではないかと少し心配しています。
何か困ったことがあれば、遠慮なく手紙をください。
すぐにお手伝いできるとは限りませんが、相談くらいならいつでもお受けします。』
最後に、国王への感謝と、旅先からまた手紙を送ることを書き添えた。
書き終えて読み返す。
必要なことは、すべて書いたつもりだった。
封筒へ便箋を収め、宛名を記す。
明日の朝、郵便局へ持っていこう。
◇
王都では、その頃、宮廷魔導院の会議室に重苦しい空気が漂っていた。
長い机の上には、何枚もの術式図が広げられている。
若い魔導師たちが資料を見比べ、頭を悩ませていた。
「……この補助術式では、魔力の負荷を十分に分散できません」
「ならば、こちらの回路を増設すれば……」
「それでは、今度は制御が不安定になります」
議論は、朝から続いていた。
オスカーは会議室の端で、静かにやり取りを聞いている。
以前なら、エリアスが参加していた会議だ。
彼がいれば、術式図を一通り見ただけで問題のある箇所を見つけ、いくつかの解決方法を提示しただろう。
しかし、今はその本人がいない。
若手の魔導師たちは、自分たちで考えなければならなかった。
ようやく一人が顔を上げた。
「……別の方法を試してみてもいいでしょうか」
オスカーは頷いた。
「聞かせてくれ」
若い魔導師は、少し緊張した様子で新しい術式図を広げた。
「回路を増やすのではなく、魔力の流れを分ける位置を変えてみたいんです」
周囲の魔導師たちが身を乗り出す。
「それなら、制御への負担が減るかもしれない」
「ただ、こちらの安定性は確認が必要ですね」
「試験用の術式を組んでみましょう」
会議室の空気が、少し変わった。
オスカーはその様子を見ながら、わずかに口元を緩めた。
エリアスがいなくなってから、若手たちは確かに変わり始めている。
まだ時間はかかる。
失敗も多い。
それでも、自分たちの力で答えを見つけようとしている。
「では、午後の試験で確認しよう」
オスカーが告げると、若手たちは一斉に頷いた。
ようやく議論がまとまり始めたところで、窓の外から正午を知らせる鐘が鳴った。
オスカーは時計を見た。
会議の予定時間を、すでに二時間も過ぎている。
彼は小さく息を吐いた。
「……さて。昼食は少し遅くなりそうだな」
その言葉に、会議室から疲れた笑い声が上がった。
◇
その翌日、フィオーレの郵便局から一通の手紙が王都へ向けて発送された。
エリアスが、オスカーへ宛てたものだった。
まだ届くまでには数日かかる。
その間にも、王宮では仕事が続き、フィオーレでは旅立ちの準備が進んでいく。
エリアスは郵便局を出たあと、街の広場を横切った。
行き交う人々の声。
露店から漂う焼き菓子の香り。
見慣れた石畳の道。
あと十二日ほどで、この街をしばらく離れる。
けれど、不思議と寂しさばかりではなかった。
フィオーレで出会った人々とのつながりは、これからも続いていく。
そして、国境の向こうでは、新しい出会いが待っている。
エリアスは小さく微笑み、歩き出した。
まずは、旅に必要なものをもう少し揃えよう。
それから、レオンハルトに借りた本を返して、マルタへ庭の管理について改めて相談する。
するべきことは、まだいくつもあった。
だが、その一つひとつが、旅立ちの日へとつながっている。




