第70話 旅立ちの前に、しておきたいこと
ヴェルセリア王国から招待状が届いて以来、エリアスの書斎には、これまであまり手に取らなかった種類の本が増えていた。
旅行案内書に街道地図、隣国の歴史をまとめた書物。それに、リュミエールの魔法研究院が発行した古い論文集が三冊。
どれもレオンハルトから借りたものだ。
そのうちの一冊を開きながら、エリアスは思わず感心した声を漏らした。
「これは……面白い術式ですね」
論文には、魔力を別の性質へ変換する際の損失を抑える研究が記されていた。
アルフェリス王国でも盛んに研究されている分野だが、ヴェルセリアでは少し違う理論が採用されているらしい。
エリアスは紙を一枚取り出し、術式の一部を書き写した。
無駄の少ない、よく考えられた構成だった。
ただ、最後の変換工程に少し気になる箇所がある。
ここを二つに分ければ、さらに安定性が高まるのではないだろうか。
そう考え始めたところで、机の端からコトンと小さな音がした。
リュカが前脚で木箱を押している。
「ああ、食事の時間でしたか」
エリアスが顔を上げると、リュカは催促するようにもう一度箱を押した。
時計を見ると、昼食の時間をとうに過ぎている。
「すみません。つい夢中になってしまいました」
リュカは青い目でじっと見上げてきた。
エリアスは苦笑し、本を閉じる。
研究会では、こうした論文を書いた研究者たちと直接話ができるかもしれない。
どんな議論が交わされるのだろう。
王国では見られない魔法にも出会えるだろうか。
考えるだけで、胸が弾んだ。
昼食を済ませたエリアスは、午後の予定を思い出した。鈴蘭亭では、リーヴェル村で教わった菓子を作ることになっている。
◇
午後、エリアスは鈴蘭亭の厨房にいた。
ノアが大きな木鉢を抱えてきて、調理台へ置く。
「今日は、リーヴェル村のお菓子ですよね?」
「はい。林檎の蜜煮を包んだ焼き菓子です」
調理台には、小麦粉、卵、バター、そして村から持ち帰った林檎の蜜煮が並んでいた。
ノアは作り方を書いた紙を読みながら、首を傾げる。
「生地を薄く伸ばして、蜜煮を包む……。思っていたより難しそうですね」
「私も、うまくできるか少し心配です」
「エリアスさん、村では作ってないんですよね?」
「ええ。作り方を教えていただいただけなので」
「じゃあ、二人とも初挑戦ですね」
ノアは楽しそうに笑った。
「失敗しても、半分ずつ責任を持ちましょう」
「できれば失敗しない方がいいのですが」
「もちろん、そのつもりです!」
厨房の奥では、ミラが夕食の仕込みをしていた。
二人の様子を見ながら、ときどき声をかけてくれる。
「生地はあまり触りすぎない方がいいわよ。手の熱でバターが溶けてしまうから」
「わかりました」
エリアスは手早く生地をまとめた。
その隣で、ノアが蜜煮の入った小皿を持ち上げる。
「これ、結構甘いですね」
「林檎の酸味があるので、焼くとちょうどよくなるそうです」
「早く食べてみたいなあ」
二人は生地を伸ばし、切り分け、蜜煮を包んでいった。
最初の一つは、端から蜜煮がはみ出した。
二つ目は、生地を厚くしすぎた。
三つ目で、ようやく納得できる形になった。
「できた!」
ノアが嬉しそうに声を上げる。
エリアスも、自分の作った菓子を眺めた。
形は多少不揃いだが、焼き上がりが楽しみだった。
「なかなか難しいですね」
「でも、だいぶ慣れてきましたよ」
ノアは得意そうに胸を張った。
菓子を窯へ入れ、焼き上がりを待つ間に、エリアスは隣国への招待について話した。
「えっ、隣国に行くんですか?」
ノアが目を丸くする。
「はい。まだ王都から正式な返事は届いていませんが、ぜひ行ってみたいと思っています」
「どんなところなんですか?」
「リュミエールという街です。川や橋が多くて、魔法の研究も盛んだそうですよ」
「へえ……すごいなあ」
ノアは感心したように頷いた。
「エリアスさん、今度はずいぶん遠くまで行くんですね」
その声には、少し名残惜しそうな響きがあった。
「長い間、留守にするかもしれません」
「……帰ってきますよね?」
「もちろんです」
エリアスはすぐに答えた。
「フィオーレの家もありますし、皆さんにもまた会いたいですから」
ノアはほっとしたように笑った。
「じゃあ、帰ってきたらまた一緒に料理しましょう」
「ええ。向こうで珍しい料理を見つけたら、作り方を覚えてきますね」
「本当ですか?」
「はい。教えていただければ、ですが」
「約束ですよ!」
「約束です」
ちょうどそのとき、窯から甘い香りが漂ってきた。
ミラが焼き具合を確かめ、菓子を取り出す。
表面はきつね色に焼け、端から林檎の蜜が少しだけ覗いていた。
「いい具合に焼けたわね」
「やった!」
ノアが歓声を上げる。
エリアスも嬉しくなった。
リーヴェル村で覚えた料理を、こうしてフィオーレで作っている。旅先で得たものが、自分たちの暮らしに加わっていくのは楽しい。
次の旅からは、どんなものを持ち帰れるだろうか。
菓子を味わいながら、エリアスは旅の準備についても考えていた。王都からの返事を待つ間にも、できることは少しずつ進めておきたい。
◇
翌日、エリアスはレオンハルトの書店を訪れた。
借りていた本を一冊返し、代わりに新しい本を二冊受け取る。
レオンハルトは本を包みながら尋ねた。
「王都からの返事は、まだ届いていない?」
「はい。もう少しかかると思います」
「宮廷での確認もあるだろうからね」
エリアスは頷いた。
招待状が届いてから、まだ数日しか経っていない。オスカーへ相談の手紙を送ったばかりだし、返事を急かすつもりもなかった。
「その間に、少しずつ準備を進めています」
「そうみたいだね」
レオンハルトはエリアスの腕に抱えられた本へ目を向けた。
「その調子だと、旅行案内書より論文集の方が多くなりそうだけど」
「……荷物の重さには気をつけます」
「僕が心配しているのは、重さだけじゃないよ」
レオンハルトが苦笑する。
「せっかく外国へ行くんだから、書庫に閉じこもって終わり、なんてことにならないようにね」
「大丈夫です。街も見て回るつもりですから」
「それならいいけど」
レオンハルトは包んだ本を渡した。
「そういえば、魔法研究院の資料室を見学するなら、事前に申請しておくといいかもしれない」
「一般公開されていると聞きましたが」
「通常の閲覧室はね。ただ、古い術式の資料や研究記録の中には、許可が必要なものもあるんだ」
「そうなんですか」
「公爵家の招待客なら、手続きについても案内してもらえると思う。向こうに着いたら尋ねてみるといいよ」
「ありがとうございます」
レオンハルトは少し考えてから、机の引き出しを開けた。
取り出したのは、小さな封筒だった。
「それと、僕から一つお願いがあるんだけど」
「何でしょう?」
「もし研究院へ行く機会があれば、この人を訪ねてみてほしい」
封筒には、一人の研究者の名前が書かれていた。
『ユリウス・フェルナー』
「以前、魔導院で一緒に研究していた知人だよ。今はリュミエールの研究院に所属している」
「ご友人ですか?」
「友人……と言っていいのかな。研究ではよく意見がぶつかったけれど、嫌いな相手ではなかったよ」
レオンハルトは少し懐かしそうに笑った。
「僕がフィオーレへ来る前、最後に一緒に研究していた人なんだ」
エリアスは封筒を受け取った。
「このお手紙をお届けすればいいですか?」
「うん。無理にとは言わないけれど、もし会えたら、元気にしているか聞いてきてほしい」
「わかりました。お会いできたら、必ずお渡しします」
「ありがとう」
レオンハルトの表情が、少し和らいだ。
エリアスは封筒を鞄へしまった。
遠い国へ行くということは、自分が新しい世界を見るだけではない。
離れた場所に暮らす人たちを、再びつなぐ機会にもなるのだろう。
書店を出たエリアスは、鞄の中の封筒をそっと確かめた。旅の目的が一つ増えたことで、まだ見ぬリュミエールが、少しだけ身近に感じられた。
◇
その日の夕方、エリアスはカイルとギルドの訓練場へ向かった。
魔力感知の練習は、時間を見つけて続けている。
最初は魔力を込めた石をほとんど見分けられなかったカイルも、最近では、ごくわずかな変化に気づくことがあった。
もっとも、正解が続く日もあれば、さっぱり当たらない日もある。
「今日は駄目だな」
カイルが石を置いた。
「三回続けて外した」
「そうですね」
「そこは少しくらい慰めてくれてもいいんだぞ」
エリアスは考えた末に答えた。
「次は当たるかもしれませんよ」
「それ、慰めになってるか?」
「……あまり、なっていませんね」
二人は顔を見合わせて笑った。
エリアスは石を手に取り、少し真剣な顔になった。
「でも、反応するまでの時間は短くなっています」
「本当か?」
「ええ。魔力を変化させた直後に、何かを感じ取っているように見えることがあります」
「へえ。自分じゃ、そこまではわからないな」
「まだ感覚が安定していないだけだと思います。焦らず続けましょう」
「よし、もう一回だ」
カイルは目を閉じ、呼吸を整えた。
エリアスは二つの石のうち、片方に魔力を込める。
しばらくして、カイルが口を開いた。
「……左か?」
「正解です」
「よし!」
拳を握ったカイルだったが、次の二回は外した。
四回目でようやく当てると、長く息を吐いた。
「まだまだだなあ」
「でも、以前よりは何か感じられるようになっていませんか?」
「ああ。うまく言えないけど、近くに誰かが立ったような気配がすることがある」
「その感覚は、大切にしてください」
エリアスは石を袋に戻した。
「次は、動いている魔力を感じ取る練習をしてみましょうか」
「動いている魔力?」
「はい。石の中に留まっている魔力より、変化がわかりやすいかもしれません」
カイルは興味深そうに頷いた。
「いいな。やってみたい」
「では、次回はそれにしましょう」
「おう」
カイルは立ち上がり、軽く背筋を伸ばした。
「お前が外国へ行く前に、もう少し上達しておきたいな」
「無理に急がなくても大丈夫ですよ」
「わかってるさ。でも、せっかく教えてもらってるんだからな」
カイルは笑った。
「次に会うときには、少しくらい驚かせたいだろ?」
「それは楽しみです」
「期待してろよ」
そう言って、カイルは拳を軽く突き出した。
エリアスも笑って、その拳へ自分の拳を合わせた。
訓練場を出る頃には、空はすっかり夕暮れ色に染まっていた。王都からの返事を待つ時間も、こうして人との約束を重ねるうちに、少しずつ旅立ちへ近づいていく。
◇
数日後、王都から特別郵便が届いた。
エリアスが玄関を開けると、制服姿の配達人が一通の封筒を差し出した。
「レインフォード様宛てです。王宮からのお手紙になります」
「ありがとうございます」
受け取った封筒は、普段のものより少し厚い。
差出人はオスカー・リード。
封蝋には、王宮の正式な印章が押されていた。
エリアスは書斎へ戻り、慎重に封を切った。
中にはオスカーからの手紙と、数枚の書類が入っている。
『エリアスへ。
ヴェルセリア王国からの招待について、陛下にご報告した。
結論から言えば、参加して構わないとのことだ。
ただし、今回はあくまで休暇中の私的な訪問とし、王国を代表する立場での出席ではないことを、先方へ正式に伝えてある。』
エリアスはほっと息を吐き、続きを読む。
『エルディア公爵家からも、その条件を了承する返答が届いている。
滞在中の行動について、必要以上の制限は設けないとのことだ。交流会の前後に街を見て回ることも問題ない。
同封したのは、国外渡航のための証明書と、陛下からの紹介状だ。
国境の検問では、必要に応じて提示するように。
なお、正式な出発日と滞在先が決まったら、改めて知らせてほしい。』
エリアスは同封された書類を一枚ずつ確かめた。
王宮の印章が押された渡航証明書。
宮廷魔導師としての身分を示す書類。
そして、アルベルト三世の署名が入った紹介状。
必要な手続きは、すでに進められていた。
「オスカーには、いつも助けられてばかりですね」
感謝しながら、手紙の続きを開く。
『それから、陛下より伝言を預かっている。
「せっかくの休暇だ。研究ばかりしていないで、少しは観光も楽しんでこい」とのことだ。
私も同感だよ。
王宮のことは気にせず、自分の時間を大切にするといい。
ただし、旅先では無理をしないこと。
次の手紙には、どんな街だったか書いてくれると嬉しい。』
エリアスは思わず笑った。
「研究ばかりしているわけではないんですが……」
呟いてから、机の上に積まれた本へ目を向ける。
ヴェルセリアの魔法研究に関する論文集。
術式の解説書。
研究院の刊行物。
旅行案内書は、その下に一冊だけ挟まっていた。
「……観光も、ちゃんとしますよ」
椅子の下から顔を出したリュカが、小さく鳴いた。
エリアスは笑いながら、白い頭を撫でた。
◇
その夜、エリアスはエルディア公爵家への正式な返書を書いた。
招待を受けること。
王国側の確認が済んだこと。
そして、交流会に参加したあとも、しばらくリュミエールや周辺の地域を見て回りたいこと。
内容を確認して封をすると、机の上に地図を広げた。
ヴェルセリア王国。
領都リュミエール。
川と橋の街に、歴史ある魔法研究院。
国境の向こうには、まだ訪れたことのない土地が広がっている。
フィオーレからは、馬車で何日もかかる道のりだ。
街道沿いには宿場町や小さな村が点在し、その一つひとつに、人々の暮らしがある。
エリアスは地図を見ながら、机の端に置いた予定表を引き寄せた。
出発までに、済ませておきたいことがいくつもある。
カイルとの魔力感知の練習。
マルタへの庭の管理の相談。
レオンハルトから借りた本の返却。
鈴蘭亭での料理の約束。
そして、王都への出発日の連絡。
エリアスは一つずつ書き留めていった。
まだ、旅立ちまでには時間がある。
すべてを慌てて済ませる必要はない。
それでも、準備することが増えるたびに、新しい旅が現実のものになっていく気がした。
エリアスはペンを置き、地図の上にあるリュミエールの名前へ目を向けた。
フィオーレで暮らし始めた頃は、こんなふうに遠い国へ出かけることになるとは思ってもいなかった。
静かな家を借りて、本を読み、庭の世話をする。
それだけで十分だと思っていたのだ。
今も、その暮らしは大切だった。
けれど、知らない土地を訪れたいという気持ちも、いつの間にか同じくらい大きくなっている。
エリアスは予定表を閉じた。
明日はカイルとの練習がある。そのあと、マルタに庭のことを相談しよう。
遠くへ旅立つための準備は、すでに始まっていた。




