第69話 隣国からの招待状
エリアスが公爵家からの招待状を読み終える頃には、カイルの昼食はすっかり冷めていた。
「それで、行くんだろ?」
カイルは向かいの椅子から身を乗り出した。
「まだ返事はしていませんよ」
「でも、行きたいんだろ?」
「ええ。それは……」
エリアスは手元の便箋へ目を落とした。
隣国ヴェルセリア王国。領都リュミエール。
学術交流会への招待状には、開催日程と会場、滞在中の宿泊先について細かく記されていた。
公爵家の賓客として迎えるため、往復の旅費も負担するという。
そこまで丁寧に用意されていることが、かえってエリアスを迷わせていた。
「せっかく休暇をいただいているのに、また仕事のようなことをするのはどうなんでしょう」
「魔法の研究は好きなんだろ?」
「はい」
「だったら、別にいいんじゃないか?」
カイルはあっさり答えた。
「仕事として行くわけじゃないんだし。面白そうだから行ってみる。それで十分だろ」
エリアスは少し考えた。
言われてみれば、そのとおりだった。
王宮にいた頃は、出席する会合の多くが職務の一部だった。興味のある講演だけ聞いて帰ることも、気になった街へ寄り道することも難しかった。
だが、今は違う。
正式な休暇中であり、自分の時間をどう使うかは自分で決められる。
もちろん、宮廷魔導師としての立場が消えるわけではない。国外へ滞在する以上、王都へ連絡し、必要な手続きを確認することになるだろう。
それでも、行くかどうかを自分で考えられることが、エリアスには新鮮だった。
「……そうですね。行ってみたいと思います」
「よし、決まりだな」
「ただ、カイル」
「ん?」
「公爵家へ返事をする前に、いくつか確認したいことがあります」
「何だ?」
「まず、どうして私がフィオーレにいるとご存じなのか、少し不思議で」
カイルは招待状の封筒を見た。
「確かに。王宮に送られてきたならともかく、ギルドに直接届いたんだもんな」
「ええ」
差出人はエルディア公爵家。
格式ある封蝋も、便箋に添えられた署名も、見覚えのある正式な形式だった。
しかし、送り先が冒険者ギルドである理由については、手紙のどこにも触れられていない。
エリアスは便箋を揃えた。
「先方へ確認してみようと思います」
「慎重だな」
「知らない方からのお招きですから」
その返事に、カイルは少し驚いたようだった。
「公爵家とは会ったことがないのか?」
「当主様とはありません。ただ、以前、王宮の研究会でご令息とお話ししたことがあります」
「何の話を?」
「魔法陣の安定性についてです」
「……楽しそうだな」
「はい。とても興味深いお話でした」
カイルは笑った。
「お前にとっては、舞踏会より研究会の方がずっと楽しそうだ」
「舞踏会も嫌いではありませんよ」
「本当か?」
「ええ。お菓子が美味しいことが多いので」
カイルはしばらく黙り、それから盛大に笑い出した。
「そっちか!」
エリアスは何がおかしいのかわからないまま、つられて微笑んだ。
◇
ギルドの受付へ戻ると、エマはちょうど届いた依頼書を整理していた。
「エマさん、少しお伺いしてもよろしいでしょうか」
「はい。何でしょう?」
「先ほどの招待状ですが、どちらからお預かりになったものですか?」
エマは台帳を開いた。
「昨日の夕方、王都経由の特別郵便で届いたものです。こちらには公爵家の使者が直接来たわけではありません」
「王都経由……」
「はい。封筒の外側に、宮廷郵便局の転送記録が付いていました」
エマは台帳の一行を指差した。
「最初は王宮宛てだったようですね。そこから、エリアスさんの滞在先として登録されている当ギルドへ転送されたみたいです」
それなら、不自然ではない。
休暇中の所在については、王宮側にも伝えてある。重要な書類があれば、指定された連絡先へ届けてもらえる手続きも済ませていた。
「ありがとうございます。事情がわかりました」
「よかったです。それと、封筒には先方の連絡先も記載されていますから、お返事はギルドの郵便窓口から送れますよ」
「助かります」
エリアスが礼を言うと、エマは少し声を落とした。
「……それにしても、本当にすごい方だったんですね」
「何がでしょう?」
「エリアスさんです」
エマは苦笑した。
「宮廷魔導師だと伺ってはいましたけど、隣国の公爵家から招待状が届くなんて」
「以前、研究会でお話しした方がいらっしゃるんです。それでだと思います」
「それでも、簡単なことではありませんよ」
エリアスは返す言葉に迷った。
公爵家からの招待が名誉なことは理解している。
ただ、その理由が自分の研究に興味を持ってくれたからなら、嬉しいという気持ちの方が大きかった。
「……良いお話ができるといいのですが」
そう答えると、エマは微笑んだ。
「きっと先方も楽しみにされていると思います」
◇
午後、エリアスはレオンハルトの書店を訪れた。
扉を開けると、古紙と木の香りが迎えてくれる。
レオンハルトは奥の机で書物の修復をしていたが、エリアスの姿を見ると手を止めた。
「お帰り。リーヴェル村はどうだった?」
「無事に依頼を終えました。古い封水函が破損していたんです」
「封水函?」
レオンハルトは興味を示した。
エリアスが簡単に構造を説明すると、彼はすぐに棚から一冊の本を取り出した。
「古い水利設備なら、これに似た図が載っていたはずだ」
「そうなんですか?」
「ああ。北方の温水管理についてまとめた本だよ」
エリアスがページをめくると、確かに似た構造の図があった。
今回修理したものより規模は大きいが、温水を分流させる仕組みは共通している。
「……この本、借りてもいいですか?」
「もちろん。必要なら持っていくといい」
「ありがとうございます」
レオンハルトは手元の作業へ戻りかけたが、エリアスがまだ何か言いたそうにしていることに気づいた。
「ほかにも用事が?」
「実は、隣国から招待状が届きまして」
レオンハルトの手が止まった。
「隣国?」
「ヴェルセリア王国です。リュミエールで学術交流会があるそうなんです」
「……エルディア公爵家の?」
今度はエリアスが驚いた。
「ご存じなんですか?」
「もちろん。研究者の間では有名だからね」
レオンハルトは椅子を引いた。
「エルディア家は、魔法技術の研究を長く支援している。特に現当主の嫡男は、魔力の伝達効率に関する研究で知られているよ」
「以前、その方とお話ししたことがあります」
「そうだろうと思った」
レオンハルトは小さく笑った。
「彼の論文の一つに、アルフェリス王国の若い宮廷魔導師から助言を受けたと書かれていたから」
「……そうなんですか?」
「知らなかったのかい?」
「はい」
エリアスは少し困惑した。
研究会で交わした会話は覚えている。
魔力を複数の術式へ分配する際、不要な干渉を減らすにはどうすればよいかという話だった。
その場で思いついた方法をいくつか話したが、それが論文に記されるほどのことだとは考えていなかった。
「興味深い話題でしたから、私も楽しかったんです」
「……本人が聞いたら、複雑な顔をするかもしれないね」
「なぜでしょう?」
「苦心していた問題を、君が会話の途中で解いてしまった可能性があるから」
エリアスは少し考えた。
「でも、研究というのは、そうして意見を交わすものでは?」
レオンハルトは一瞬黙った。
それから、ゆっくり頷いた。
「そうだね。君の言うことは正しい」
彼は立ち上がり、別の棚へ向かった。
「リュミエールへ行くなら、向こうの魔法研究院も見ておくといい。一般公開されている資料室があるはずだ」
「それは、ぜひ行ってみたいです」
「ただし、交流会の賓客として招かれるなら、自由に動ける時間がどれほどあるか確認した方がいい」
「ええ。そのつもりです」
レオンハルトは棚から薄い旅行案内書を抜き取った。
「これも貸そう。少し古いが、街の配置は大きく変わっていないはずだ」
エリアスは受け取った本を開いた。
最初のページには、石造りの橋が幾重にも架かった街の挿絵があった。
川沿いに並ぶ白い建物。
高台に建つ公爵家の館。
そして、その向こうに広がる深い森。
見たことのない景色だった。
「……綺麗な街ですね」
「リュミエールは水路と橋の街だからね。セレーネとはまた違った景色が見られると思うよ」
エリアスは挿絵から目を離せなかった。
新しい街。
知らない魔法。
まだ読んだことのない本。
そのどれもが、少しずつ身近なものになろうとしていた。
◇
夕方、エリアスはセドリックの執務室を訪ねた。
忙しい時間帯を避けたつもりだったが、机の上には相変わらず書類が積まれている。
「レインフォード殿。お久しぶりです」
「こんにちは。お忙しいところ、すみません」
「いえ。ちょうど一区切りついたところです」
セドリックは書類を揃え、椅子を勧めた。
「リーヴェル村の依頼は、無事に終わったと聞きました」
「はい。古い水路の修理をお手伝いしました」
「それは何よりです」
エリアスは近況を話したあと、隣国からの招待について相談した。
セドリックは真剣に耳を傾け、日程と滞在予定を確かめた。
「エルディア公爵家でしたら、正式な外交関係のある家です。招待状の様式にも問題はなさそうですね」
「よかったです」
「ただ、レインフォード殿の場合、一般の旅行者とは事情が少し異なります」
「宮廷魔導師だから、ですね」
「はい。特に今回は、先方がその肩書きで招待しています」
セドリックは便箋の宛名を指した。
「休暇中の個人的な参加なのか、それとも王国を代表する立場なのか。そこは明確にしておいた方がよいでしょう」
エリアスは頷いた。
「私も、それが気になっていました」
「でしたら、まずオスカー殿へ相談されるのが確実かと。必要なら宮廷から正式な確認を取っていただけます」
「そうします」
セドリックは少し表情を和らげた。
「それにしても、国外へ行かれるとは」
「まだ決まったわけではありませんが」
「行ってみたいのでしょう?」
エリアスは微笑んだ。
「はい」
「でしたら、良い機会かもしれませんね」
セドリックは窓の外へ目を向けた。
「フィオーレでの暮らしにも、すっかり馴染まれましたし」
「ええ。皆さんに親切にしていただいていますから」
「長く滞在されるのでしたら、家の管理についても考えておく必要がありそうですね」
「そうですね。マルタさんにも相談してみます」
話が一段落したところで、エリアスはふと思い出した。
「……そういえば、セドリックさん」
「はい?」
「以前、家で食事をとお話ししていましたよね」
セドリックは少し目を見開いた。
「覚えていてくださったんですか」
「もちろんです」
「それは嬉しいですね」
エリアスは少し申し訳なさそうに言った。
「まだお招きできていなくて」
「お気になさらず。お互い、なかなか時間が合いませんでしたから」
セドリックは笑った。
「それに、急いで果たす約束でもないでしょう?」
「……そうですね」
「旅から戻られたときでも構いません。土産話を聞きながら食事をするのも、楽しそうです」
エリアスは嬉しそうに頷いた。
「では、そのときはぜひ」
「ええ。楽しみにしています」
◇
翌朝、エリアスは王都へ送る手紙を書いた。
前日に出した近況の手紙とは別に、今回は国外への招待に関する相談だった。
オスカー宛てに、招待状が届いた経緯と、交流会への参加を希望していることを書く。
開催日は約一か月後。
滞在先は公爵家が用意してくれる予定だが、帰国日はまだ決めていない。
交流会のあとも、リュミエールや周辺の街を見て回りたいと思っていた。
『今回は職務としてではなく、個人的に参加したいと考えています。
ただし、宮廷魔導師の肩書きで招待されていますので、陛下のお考えも確認していただけると助かります。
また、交流会のあとも、しばらくヴェルセリア王国内を旅行する予定です。
正式に行き先が決まりましたら、改めてご連絡します。』
書き終えたところで、エリアスは筆を止めた。
オスカーはどう思うだろう。
驚くだろうか。
それとも、やはりそうなると思っていたと笑うだろうか。
先日届いた返信には、国外へ長く滞在する際には事前に連絡するようにと書かれていた。
まさか、その数日後に本当に相談することになるとは、自分でも思っていなかった。
エリアスは最後に一文を書き加えた。
『急なお願いになってしまい、申し訳ありません。ですが、とても興味深い機会なので、できれば参加したいと思っています。』
手紙を封筒へ収め、宛名を書く。
そのあと、エルディア公爵家への返書も用意した。
招待への感謝。
参加を前向きに考えていること。
ただし、王国側の確認が必要なため、正式な返答には少し時間をいただきたいこと。
公爵家にとって失礼にならないよう、言葉を選びながら書き進めた。
最後に、滞在日程の自由度についても尋ねた。
もし可能なら、交流会の前後に街を見て回る時間を取りたい。
その希望を書き添えて、ようやく筆を置いた。
◇
数日後。
王都の宮廷執務室では、オスカーが届いた書簡を仕分けていた。
その中に、エリアスからの封筒があった。
「……また手紙か?」
オスカーは思わず呟いた。
数日前にも、彼から近況を知らせる手紙が届いていたばかりだった。
リーヴェル村での出来事や、カイルに魔力感知を教えていることが、丁寧な文字で綴られていた。
魔法の説明がうまく伝わらなかったという一節を読んだときには、思わず笑ってしまった。
魔導院の後輩たちが何度も同じ経験をしてきたのだから、今さら驚くことでもない。
それでも、エリアス本人が教え方を工夫しようとしていることが、何となく嬉しかった。
そして今度の手紙。
オスカーは封を切り、便箋を広げた。
読み進めるうちに、その表情が少しずつ変わっていく。
「……ヴェルセリア?」
差出人の名前を確かめ直した。
間違いなく、エリアスからだった。
さらに数行読んで、オスカーは額に手を当てた。
「……あいつは、本当に」
呆れた声だったが、不思議と怒りはなかった。
エリアスが国外へ行ってみたいと書いてきたときから、いずれこうなる可能性は考えていた。
ただ、まさかこれほど早く正式な招待が届くとは思わなかった。
オスカーは手紙を机へ置き、隣の書類へ目を向けた。
エルディア公爵家。
アルフェリス王国との関係は良好で、魔法研究の分野でも交流がある。
招待そのものに不審な点はない。
問題は、エリアスの立場だ。
彼は休暇中だが、王宮との契約が終わったわけではない。
しかも、その名は周辺国の魔導師たちにもよく知られている。
本人は個人的な参加のつもりでも、周囲が同じように受け取るとは限らなかった。
オスカーはしばらく考え、椅子から立ち上がった。
まずは、陛下へ報告する必要がある。
◇
アルベルト三世は、報告を聞き終えると、しばらく黙っていた。
そして、不意に笑い出した。
「ははは! とうとう国外へ行く気になったか!」
オスカーは少し疲れた顔をした。
「陛下。笑い事ではありません」
「何を言う。良いことではないか」
「エルディア公爵家からの正式な招待です。先方がレインフォードの立場をどう扱うか、確認する必要があります」
「もちろんだ。それはきちんと手配せよ」
国王は頷いた。
「だが、本人が行きたいと言っているのだろう?」
「はい」
「ならば、行かせてやりたい」
アルベルト三世は窓の外へ目を向けた。
「エリアスは、これまで随分と王宮のために働いてくれた。ようやく自分の時間を持てたのだ。好きな場所へ行って、好きなものを見ればよい」
オスカーは黙って聞いていた。
「もちろん、他国との関係を軽く考えてよいわけではない。正式な手続きは必要だ。だが、あれの休暇を外交の仕事に変えてしまっては意味がない」
「……おっしゃるとおりです」
「それに、ヴェルセリアには古い知己もいる」
国王は少し懐かしそうに微笑んだ。
「エルディア家の当主は、若い頃から学問好きな男だった。あの家なら、エリアスを退屈させることもあるまい」
「むしろ、研究の話を始めたら帰ってこなくなるのではと心配しています」
「それはあり得るな」
国王はまた笑った。
オスカーはため息をついた。
しかし、口元にはわずかに笑みが浮かんでいた。
アルベルト三世は机の上の書類を揃えた。
「オスカー。先方へ連絡を取れ。エリアスは休暇中の私人として参加すること、その立場を尊重してもらいたいことを伝えるのだ」
「承知しました」
「それから、旅券と必要な紹介状も用意してやれ」
「はい」
オスカーが頭を下げると、国王はふと思い出したように言った。
「そうだ。返事には、ひとつ書き加えておいてくれ」
「何でしょう?」
「旅先からの手紙を、楽しみにしているとな」
オスカーは顔を上げた。
国王は穏やかに微笑んでいた。
「王宮にいた頃、あれは自分のことをほとんど話さなかった。最近の手紙を読むと、随分と楽しそうではないか」
「……確かに、そうですね」
「これから、どんな景色を見るのか。余も知りたい」
オスカーは深く頷いた。
「そのように伝えます」
執務室を出るとき、彼はエリアスの手紙をもう一度見た。
休暇を取る前のエリアスなら、国外への招待を受けても、まず職務上の必要性を考えただろう。
それが今では、自分が行ってみたいから参加したいと書いている。
オスカーは小さく笑った。
「……少しは、休暇らしくなってきたじゃないか」
手紙は近日中に、フィオーレへ向けて発送される。
その頃には、エリアスはもう次の旅の準備を始めているかもしれない。
そう考えると、オスカーは今のうちに必要な手続きを済ませておくべきだと判断した。
エリアスが安心して国境を越えられるように。
そして、王宮で働く者たちもまた、彼の旅を心から応援できるように。




