第68話 剣士が初めて触れたもの
冒険者ギルドの裏庭には、朝から木剣の打ち合う音が響いていた。
訓練場と呼ばれてはいるものの、石壁に囲まれた広い空き地に、木製の標的と簡単な障害物が並んでいるだけの場所だ。それでも、剣や弓を扱う冒険者たちにとっては十分な広さがあった。
エリアスが門をくぐると、壁際で腕を伸ばしていたカイルが顔を上げた。
「お、来たな」
「お待たせしました」
「いや、俺も今来たところだ」
そう言ったカイルの額には、すでに汗が浮かんでいる。
エリアスが視線を向けると、彼は何でもないことのように笑った。
「待ってる間に、ちょっと剣を振ってただけだよ」
「準備運動ですね」
「まあ、そんなところだ」
昨日、リーヴェル村から戻った二人は、今朝ギルドへ依頼完了の報告を済ませていた。報告書を受け取ったエマは、村からも無事に設備が復旧したとの連絡が届いていると教えてくれた。
貯水池の工事は一時中断し、改めて地盤を調べることになったという。
エリアスはその判断に安心していた。
地下水路の修理は終わったが、村の地盤まで保証できるわけではない。必要であれば専門の測量師を派遣するよう、ギルドにも伝えてある。
そして今は、もう一つの約束を果たす時間だった。
「では、始めましょうか」
「おう。よろしく頼む」
カイルは木剣を壁へ立てかけ、エリアスの前に腰を下ろした。
エリアスは鞄から布袋を取り出す。
中には、よく似た丸い小石が六つ入っていた。
「今日は、これを使います」
「リーヴェル村で言ってた石か」
「はい。まずは魔力がある状態と、ない状態を比べてみたいと思います」
エリアスは石を二つ取り出した。
見た目も大きさもほとんど変わらない。
片方には、ごく弱い魔力が込められている。
「どちらに魔力が入っているか、わかりますか?」
カイルは二つの石をじっと見つめた。
右。
左。
もう一度、右。
「……右か?」
「左です」
「即答かよ」
エリアスは思わず笑った。
「答えを知っていますから」
「そりゃそうだろうけどさ」
カイルは石を受け取り、手のひらで転がした。
「見た目じゃ、本当にわからないな」
「見た目が変わらない程度に調整しています」
「ちなみに、どれくらい魔力が入ってるんだ?」
「ほんの少しです」
「その『ほんの少し』が怪しいんだよな」
エリアスは不思議そうに首を傾げた。
「なぜでしょう?」
「お前の少しと、俺たちの少しは違う気がするから」
エリアスは石を見下ろした。
魔力を込める量は、確かに自分の感覚で決めていた。
しかし、魔力感知を練習する相手にとって、その量が適切かどうかは別の話だ。
「……では、もう少し強くしてみます」
「頼む」
エリアスは左の石へ魔力を加えた。
その途端、石の周囲に薄い青色の光が現れた。
「見えた」
「これは魔力が光として現れている状態です」
「うん。それはわかる」
「では、光だけ消します」
青い光が失われた。
石は、再び何の変哲もない灰色に戻った。
「今も中には同じ量の魔力があります」
「そうなのか」
「はい。まずはこれを手に持ってみてください」
カイルは石を受け取り、目を閉じた。
しばらく沈黙が続いた。
「……何か感じますか?」
「石の重さなら」
「ほかには?」
「少し冷たい」
「そうですね」
「あと、角が手のひらに当たって痛い」
エリアスは石を見た。
確かに、端が少し尖っていた。
「……別の石にしましょうか」
「いや、そういう話じゃなくてな」
カイルは目を開け、笑いながら石を返した。
「俺がわからないだけだから、石は悪くないよ」
エリアスは真剣に考え込んだ。
魔力はそこにある。
自分には、石の中に溜まった力がはっきり感じられる。
けれどカイルには、それが伝わらない。
以前、魔導院の後輩たちが揃って黙り込んだときも、同じだった。
当時は説明が足りないのだと思って、さらに詳しく理論を話した。
今考えれば、あれは逆効果だったのだろう。
「……カイル」
「ん?」
「少し、方法を変えてもいいですか?」
「もちろん」
エリアスは石を袋へ戻した。
「まず、魔力を探すのはやめましょう」
カイルが目を丸くした。
「え?」
「代わりに、何かが変わったかどうかだけを気にしてみてください」
◇
エリアスはカイルから数歩離れた場所に立った。
「今から、小さな魔法を使います。ただし、必ず使うとは限りません」
「なるほど。使ったかどうかを当てるわけだな」
「はい。目を閉じて、手を軽く開いていてください」
カイルは言われたとおりにした。
エリアスは指先に魔力を集める。
風も光も生まれないほど小さな術式だ。
それを一瞬だけ働かせる。
「どうですか?」
「……何も」
「わかりました」
次は何もせずに声をかけた。
「今は?」
「……ちょっと何かあった気がする」
「今は使っていません」
「くそ、外した!」
カイルが笑い、エリアスもつられて頬を緩めた。
何度か繰り返したが、結果は半分ほどしか当たらなかった。
偶然でも、それくらいは当たる。
エリアスがそのことを説明すると、カイルは悔しそうに唇を尖らせた。
「一回くらい、ばっちり当てたいんだけどなあ」
「急ぐ必要はありませんよ」
「そう言われると、余計に悔しいんだよ」
エリアスは少し考えた。
「剣の練習でも、初めからできる人はいませんよね」
「そりゃそうだ」
「では、同じです」
カイルは目を開けた。
「……そうだな」
それから、ふと思いついたように尋ねた。
「お前は、最初からできたのか?」
「魔力感知ですか?」
「ああ」
エリアスは幼い頃のことを思い返した。
故郷の屋敷。
庭に植えられた木々。
雨の日、窓辺に立って外を眺めていたこと。
「……物心がついた頃には、ある程度わかっていたと思います」
「ほらな」
「何がでしょう?」
「そういうところだよ」
カイルは笑った。
「俺が十回やってもわからないことを、お前は子供の頃から普通にやってたわけだ」
「ですが、私には剣を扱えません」
「そりゃ、練習してないからな」
「はい。ですから、得意なことが違うだけなのでは?」
カイルはしばらくエリアスを見つめていた。
やがて、呆れたように笑った。
「……本当にそう思ってるんだな」
「違うんですか?」
「いや。そこがお前らしいよ」
それ以上説明しても、エリアスには伝わらない気がした。
カイルはもう一度、目を閉じた。
「よし。続き、頼む」
◇
しばらく練習を続けた頃、訓練場の扉が開いた。
「カイル、ここにいたのか」
入ってきたのは、ギルドに所属する若い冒険者だった。
背中には弓を負い、腕には革の防具を着けている。
「何やってるんだ?」
「魔力感知の練習」
「魔力感知?」
青年は不思議そうに二人を見比べた。
「お前、魔法でも覚えるのか?」
「違うよ。魔力を感じ取れるようになりたいんだ」
「そんなの、剣士でもできるのか?」
カイルはエリアスへ視線を向けた。
「どうなんだ?」
「個人差はありますが、訓練によって感覚を磨ける方はいます。魔法を発動できることとは別ですから」
青年は興味深そうに目を輝かせた。
「へえ。俺もやってみたいな」
カイルがエリアスを見る。
エリアスは少し迷った。
一人に教えるだけでも、説明には苦労している。
相手が二人になれば、ますます難しくなるかもしれない。
しかし、青年は真剣に興味を持っているようだった。
「……同じ練習でよければ」
「本当か?」
「ただ、私の説明がわかりにくいかもしれません」
カイルが横から口を挟んだ。
「そこは俺が何とかするよ」
「カイルが?」
「ああ。お前の説明を、俺にもわかる言葉に直せばいいんだろ」
エリアスは少し驚いた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……それは、とても助かります」
青年は二人の顔を見比べた。
「何だか大変そうだな」
「いや、面白いぞ」
カイルは笑った。
「教える側も、結構苦労してるからな」
「それ、本人の前で言いますか?」
エリアスが尋ねると、カイルはますます楽しそうに笑った。
◇
練習が終わったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
結果は、決して目覚ましいものではなかった。
若い冒険者は最後まで魔力の変化を感じ取れず、カイルも何度か正解したものの、安定した感覚には至らなかった。
ただ、途中で一つだけ、気になることがあった。
エリアスが魔力を強めた瞬間、カイルがわずかに身体を動かしたのだ。
そのときカイルは目を閉じており、魔法を使う合図もしていなかった。
偶然かもしれない。
けれど、反応の仕方はこれまでと少し違っていた。
「……さっき、何か感じましたか?」
エリアスが尋ねると、カイルは首を傾げた。
「何となく、そっちに人が立ったような気がした」
「人、ですか」
「ああ。気配が近づいたような感じだな」
エリアスは考え込んだ。
魔力そのものを認識したというより、周囲の変化を気配として捉えたのかもしれない。
剣士として培ってきた感覚が、役立っている可能性もある。
「その感覚を覚えておいてください」
「今のでよかったのか?」
「まだ確かめる必要はあります。でも、今までとは違う反応でした」
カイルは嬉しそうに拳を握った。
「よし。じゃあ、次もそこを意識してみる」
「はい」
エリアスも微笑んだ。
教える側が相手の感覚を理解すること。
それは、魔法を使うこととはまったく違う難しさだった。
けれど、カイルが小さな変化を見せたことが、エリアスには嬉しかった。
◇
ギルドの食堂で遅い昼食を取っていると、エマが一通の封筒を持ってきた。
「エリアスさん、ちょっとよろしいですか?」
「はい」
「こちら、先ほどギルド宛てに届いた書状なんですが……」
差し出された封筒は、普段の依頼書とは明らかに違っていた。
厚手の上質な紙。
縁に施された銀色の装飾。
そして、封蝋には見慣れない紋章が押されている。
エリアスはそれを見て、少し目を見開いた。
「……これは」
カイルが横から覗き込む。
「何だ? 王都からか?」
「いえ。王都ではありません」
エリアスは封蝋を確かめた。
銀色の鳥が、三つの星を囲むように描かれている。
以前、王宮で見たことのある紋章だった。
「エルディア公爵家ですね」
カイルが首を傾げた。
「公爵家?」
「はい。隣国ヴェルセリア王国の貴族です」
エマの表情が変わった。
「隣国の公爵家から、ですか?」
「ええ」
エリアスは封筒を裏返した。
宛名には、丁寧な文字で自分の名前が記されている。
『アルフェリス王国宮廷魔導師 エリアス・レインフォード卿』
カイルはそれを読み、思わず口笛を吹いた。
「……お前、本当にすごい人なんだな」
「宮廷魔導師ですから」
「いや、それは知ってるけどさ」
エリアスは少し困ったように微笑んだ。
公爵家の名は知っている。
かつて王宮で開かれた魔法研究者の交流会に、その家の関係者が参加していたことも覚えている。
しかし、自分宛てに正式な書状が届くとは思わなかった。
「開けてみても?」
エマが尋ねた。
「はい。私宛てのようですから」
エリアスは封蝋を傷つけないよう、慎重に封筒を開いた。
中には、美しい筆跡で書かれた便箋が二枚入っていた。
書き出しは、礼儀正しい挨拶だった。
そして、数行先。
エリアスの目が、ある一文で止まった。
『このたび、我が領都リュミエールにおいて、各国の魔導研究者を招いた学術交流会を開催する運びとなりました。
つきましては、かねてよりそのご才識を敬慕しておりますレインフォード卿にも、ぜひご臨席を賜りたく、正式にご招待申し上げます。』
エリアスはゆっくりと顔を上げた。
「……学術交流会、ですか」
カイルが身を乗り出す。
「何だって?」
「隣国で開かれる魔法研究の集まりに、招待してくださるそうです」
「へえ! いいじゃないか!」
エリアスは便箋を見つめた。
ヴェルセリア王国。
王都にいた頃は、仕事で何度か名前を聞いたことがある。
ただ、実際に訪れたことはなかった。
国境の向こうには、まだ知らない街並みがあり、異なる文化があり、自分が読んだことのない魔法書もあるのだろう。
エリアスは昨日、オスカーへ送った手紙を思い出した。
いつか、別の国へ行ってみたい。
そう書いたばかりだった。
カイルが楽しそうに笑った。
「ほらな。言ってたら、本当に来たじゃないか」
「……そうですね」
エリアスは再び便箋へ目を落とした。
交流会の開催は、およそ一か月後。
日程にはまだ余裕がある。
正式な招待状であれば、王都への連絡も必要になるだろう。
それに、フィオーレで済ませておきたいこともある。
けれど。
エリアスは小さく息を吐き、顔を上げた。
「……行ってみたいです」
カイルは嬉しそうに頷いた。
「だろうな!」
エマも微笑んだ。
「素敵ですね。隣国からのご招待なんて」
エリアスは便箋を丁寧に折り畳んだ。
まだ、返事は決めていない。
けれど心は、すでに少しだけ国境の向こうへ向かっていた。




