第67話 帰る場所と、これからの旅
翌朝、リーヴェル村の共同井戸には、久しぶりに水の落ちる音が響いていた。
石造りの水槽へ注がれる水を前に、村長のバルドは何度も頷いていた。
「いやあ、ありがたい。本当にありがたいことです」
エリアスは揚水魔導具の制御盤を閉じた。
「水量は安定しています。ただ、以前より汲み上げる量を少し減らしましたので、畑への給水は時間を分けて行ってください」
「承知しました。村の者にも伝えます」
「北の貯水池については、工事を再開する前に地盤の調査が必要です。昨日の修理で水路は正常に戻りましたが、地面の亀裂まで元どおりになったわけではありませんから」
バルドは真剣な顔で聞いていた。
エリアスは続けて、倉庫の冷却装置の点検結果も説明した。
装置は昨夜から試運転を続けていたが、異常な温度上昇は検知されていない。魔石の消耗量も正常範囲に戻っていた。
ただ、地下の温度が再び変化する可能性もあるため、しばらくは毎日の確認を勧めた。
「点検方法は、こちらにまとめてあります」
差し出した紙には、確認する箇所と、異常があった場合の連絡先が書かれていた。
バルドはそれを受け取り、少し驚いた顔をした。
「随分とわかりやすく書いてくださったんですな」
「村の方々が使うものですから」
エリアスは穏やかに答えた。
前日の夕方、カイルに一度読んでもらったのだ。
その際、彼から「この言葉がわからない」「ここは何を見ればいいんだ?」と何度も質問された。
おかげで、最初の紙にはほとんど残っていないほど修正が入った。
カイルが隣で笑う。
「最初の説明だったら、俺も読めなかったけどな」
「……そこまで難しかったでしょうか」
「難しかった」
「そうですか」
エリアスは少し残念そうだったが、バルドは二人のやり取りを聞いて笑った。
「いや、お二人に来ていただいて、本当によかった」
依頼の完了確認を終えると、バルドは封筒を差し出した。
ギルドを通じて取り決めた調査費と、村からの謝礼が入っているという。
エリアスは契約書と照らし合わせて受け取った。
バルドはまだ何か言いたそうにしていたが、やがて思い切ったように口を開いた。
「レインフォード様。ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「はい」
「村へお越しになったとき、王宮にお仕えの方だとお聞きしました。あれほどの魔法をお使いになる方が、どうして冒険者ギルドの依頼を?」
エリアスは少し考えた。
「今は休暇中ですので、興味を持ったことをしてみようと思いまして」
「興味、ですか」
「それに、知らない土地へ行くのも楽しいですから」
バルドは目を瞬かせ、それから声を立てて笑った。
「なるほど。大変なお仕事をされている方にも、そういう楽しみがあるんですな」
「ええ」
エリアスも微笑んだ。
「林檎の花も、とても綺麗でした」
村長は何度も頷き、秋にはぜひ林檎を食べに来てほしいと言った。
◇
出発の支度をしていると、旅籠の主人が大きな包みを抱えて現れた。
「これ、持っていきな」
「何でしょう?」
「林檎の蜜煮と、焼き菓子だよ。帰ってからも食べられるようにしてある」
「こんなにいただいてしまって、いいんですか?」
「いいんだよ。うちの水も元どおりになったんだから」
包みを受け取ったエリアスは、丁寧に礼を言った。
カイルは横から中身を覗き込んでいる。
「お、あの焼き菓子も入ってる」
「はい。帰ったらノアにも持っていこうと思います」
「鈴蘭亭のか?」
「ええ。きっと喜ぶと思います」
主人は嬉しそうに笑った。
「それなら、作り方も教えてあげようか?」
エリアスが顔を上げる。
「よろしいんですか?」
「難しいものじゃないよ。ちょっとしたコツがあるだけさ」
主人が厨房へ戻ると、カイルは天井を仰いだ。
「また料理の話になったな」
「せっかくですから、覚えて帰りたいんです」
「いいと思うよ。ノアも喜ぶだろうし」
しばらくして、手書きの料理手順を受け取ったエリアスは、大切そうに鞄へしまった。
馬車へ荷物を積み終える頃には、広場に何人もの村人が集まっていた。
工事を手伝ったグレンもいる。
「帰り道、気をつけてください」
「ありがとうございます」
「秋になったら、林檎を送りますよ」
バルドが言うと、エリアスは嬉しそうに微笑んだ。
「楽しみにしています」
カイルが手綱を握った。
「じゃあ、行くか」
「はい」
リュカは慣れた様子で座席へ飛び乗った。
村人たちに見送られながら、馬車はゆっくりと走り出した。
白い花を咲かせた果樹園が、少しずつ遠ざかっていく。
◇
フィオーレまでの道のりは、帰りの方が短く感じられた。
カイルは馬車を走らせながら、時折エリアスへ話しかけた。
「そういえば、昨日の魔力感知の練習なんだけどさ」
「はい」
「あのあと、宿でもちょっと試してみたんだ」
エリアスは顔を上げた。
「どうでしたか?」
「駄目だった。石を握って集中してみたんだけど、何もわからなくて」
「それはそうだと思います」
カイルは手綱を握ったまま振り向きかけた。
「えっ?」
「昨日お渡しした石には、もう魔力が残っていませんから」
「……そうなのか?」
「はい。練習が終わったあと、元に戻しました」
短い沈黙が落ちた。
やがて、カイルが大きく笑い出した。
「そりゃ、いくら頑張っても駄目なわけだ!」
「すみません。お伝えするのを忘れていました」
「いや、俺も聞けばよかった」
カイルは笑いながら首を振った。
「それにしても、魔力って難しいな。剣なら、振れば少なくとも動いたことはわかるだろ?」
「そうですね」
「でも、魔力はそこにあるかどうかさえわからないんだからな」
エリアスは少し考えた。
「では、フィオーレへ戻ったら、最初はもっとわかりやすい方法にしましょう」
「どんな?」
「魔力の有無を当てる練習です。見た目が同じ石を用意して、一つだけ魔力を込めます」
「なるほど」
「最初は大きな差をつけて、慣れたら少しずつ弱くしていきます」
カイルは何度か頷いた。
「それなら、上達したかどうかもわかりそうだ」
「はい。昨日のように、私が魔力を変化させると伝えてしまうと、どうしても予測できてしまいますから」
「……エリアス」
「はい?」
「お前、教え方が少しうまくなったんじゃないか?」
エリアスは目を丸くした。
「そうでしょうか」
「ああ。今の説明は一回でわかった」
エリアスは嬉しそうに微笑んだ。
「それなら、よかったです」
カイルは前方へ向き直った。
「帰ったらギルドの裏庭でも借りるか。剣の練習に使う場所なら広いし」
「いいですね」
「ほかにも興味のある奴がいたら、一緒に教えてやってくれないか?」
エリアスは少し迷った。
「……大勢だと、うまく説明できるか自信がありません」
「最初は俺だけでいいさ。ちゃんと覚えたら、俺からほかの連中にも教えられるかもしれないし」
「それなら、ぜひ」
カイルは満足そうに笑った。
エリアスは膝の上のリュカを撫でながら、窓の外へ目を向けた。
道の先には、まだ見えないフィオーレの街がある。
あそこで過ごす時間も、もう随分と長くなった気がした。
王宮を離れたばかりの頃は、何をして過ごせばいいのかさえ、よくわからなかった。
今では、帰ったあとにしたいことがいくつもある。
◇
フィオーレへ戻ったのは、翌日の昼過ぎだった。
北方街道の途中で一泊し、朝から馬車を走らせてきたのだ。
街の門が見えてくると、リュカが身を起こした。
「帰ってきたぞ」
カイルが声をかける。
白い小さな身体が、エリアスの膝の上で伸びをした。
街に入ると、いつもの賑わいが戻ってきた。
パン屋から漂う焼きたての香り。
荷車を引く商人たち。
広場で遊ぶ子供たちの声。
エリアスは窓の外を眺めながら、少しだけ頬を緩めた。
カイルは家の前まで馬車を寄せてくれた。
「荷物、下ろすぞ」
「ありがとうございます」
二人で鞄を運び、庭の門を開ける。
出発したときと変わらず、花壇には小さな花が咲いていた。
支柱に沿って伸びた茎が、風に揺れている。
「おかえり!」
隣の庭から、マルタが顔を出した。
「無事に帰ってきたんだね」
「ただいま戻りました。庭のお世話、ありがとうございました」
「いいんだよ。それより、村の仕事はどうだった?」
「無事に終わりました。古い水路に問題があったんです」
「まあ、大変だったねえ」
エリアスは鞄から小さな包みを取り出した。
「村でいただいた林檎のお菓子です。よろしければ」
マルタは嬉しそうに受け取った。
「ありがとう。夕方のお茶にいただくよ」
しばらく近況を話してから、エリアスは家の扉を開けた。
室内には、留守の間に少し冷えた空気が漂っている。
窓を開けると、庭から春の風が入り込んだ。
カイルは荷物を玄関へ運び終え、額の汗を拭った。
「じゃあ、俺は馬車を返してくる」
「ありがとうございました」
「明日はギルドに報告しに行くんだろ?」
「はい」
「だったら、そのあとで魔力感知の練習をしようぜ」
「わかりました」
「今度は、ちゃんと魔力の入った石を用意してくれよ」
エリアスは思わず笑った。
「もちろんです」
カイルは片手を上げ、門を出ていった。
◇
荷物を片づけたあと、エリアスは鈴蘭亭へ向かった。
リュカは旅の疲れが残っているらしく、家の柔らかな敷物の上で眠っている。
宿へ入ると、食堂の奥からノアの声が聞こえた。
「あ、エリアスさん!」
「こんにちは。戻ってきました」
「おかえりなさい! リーヴェル村、どうでした?」
「とても綺麗な村でしたよ。林檎の花がたくさん咲いていました」
「いいなあ」
ノアは興味深そうに身を乗り出した。
エリアスは持ってきた包みをテーブルへ置いた。
「お土産です」
「えっ、何ですか?」
「林檎の蜜煮を使った焼き菓子です。それと、作り方も教えていただきました」
ノアの顔が明るくなった。
「作り方まで?」
「はい。今度、一緒に作ってみませんか?」
「ぜひ!」
厨房からミラが顔を出した。
「まあ、帰ってきたのね。お疲れさま」
「ありがとうございます」
「また料理を覚えてきたみたいね」
エリアスは少し照れたように微笑んだ。
「せっかく教えていただいたので、忘れないうちに作ってみたいと思いまして」
ミラは笑った。
「それなら、今度ノアと試してみましょう」
ノアは早速、包みを開けていた。
焼き菓子を一つ取り、香りを確かめる。
「わあ、林檎の匂いがする」
「中に蜜煮が入っているそうです」
「食べてもいいですか?」
「もちろんです」
ノアは一口食べ、目を輝かせた。
「おいしい!」
その反応を見て、エリアスも嬉しくなった。
ミラは二人の様子を眺めながら言った。
「そういえば、エリアスさん宛てに手紙が届いていたわよ」
エリアスが顔を上げる。
「手紙ですか?」
「ええ。昨日、配達の人が来たの。留守だと伝えたら、戻るまで預かってほしいって」
ミラは厨房の奥へ戻り、一通の封筒を持ってきた。
厚手の白い紙に、見覚えのある筆跡。
差出人の名前を見たエリアスは、わずかに表情を和らげた。
「……オスカーからですね」
「王都のお友達?」
「はい。以前、一緒に仕事をしていた人です」
ミラは微笑んだ。
「それなら、帰ってきてすぐ受け取れてよかったわね」
「ええ。ありがとうございます」
エリアスは封筒を大切に鞄へしまった。
◇
家へ戻る頃には、夕方の光が窓辺に差し込んでいた。
エリアスは机に座り、オスカーからの手紙を開いた。
封筒の中には、数枚の便箋が入っている。
書き出しは、いつもの几帳面な文字だった。
『エリアスへ。
セレーネからの手紙を受け取った。
まずは、無事に旅行を楽しめたようで安心した。湖灯祭の話は興味深かった。お前があれほど長い手紙を書くとは思わなかったが、よほど気に入ったのだろう。
王宮では相変わらず仕事が続いている。ただ、お前が不在になったことで、以前なら当然のように任せていた仕事を、皆で分担するようになった。
最初の頃は慣れない様子だった者たちも、最近は自分で判断できることが増えてきた。
特に若手の魔導師たちは、以前より積極的に意見を出すようになっている。
お前がいた頃には、答えを聞く方が早いと思っていたのかもしれないな。』
エリアスは思わず笑った。
確かに、王宮にいた頃は相談を受けることが多かった。
自分では普通に答えていたつもりだが、時折、相手が困ったような顔をすることもあった。
その理由を、最近になって少しだけ理解できた気がする。
手紙は続いていた。
『陛下も、お前の旅の話を聞いて喜んでおられた。
ただし、休暇中とはいえ、王国外へ長期間滞在する場合には、事前に連絡を入れるようにとのことだ。
これは命令というより、所在を把握しておきたいという陛下のお気持ちだろう。
お前のことだから、面白いものを見つければ、予定を変えて遠くまで行きかねない。
くれぐれも、旅先では無理をするな。
それと、こちらへ送ってくれた湖の絵葉書は、執務室の棚に飾ってある。
次の手紙も楽しみにしている。』
エリアスは最後まで読み、便箋をそっと机へ置いた。
オスカーらしい手紙だった。
王宮の近況を伝えながら、必要な注意も忘れない。
そして、最後には必ず、身体を気遣う言葉が添えられている。
エリアスはしばらく便箋を眺めていた。
王宮で働いていた日々が、懐かしく思い出される。
夜遅くまで続いた仕事。
資料を抱えて廊下を歩くオスカー。
魔導院で議論を交わした後輩たち。
国王から突然呼び出され、思いがけない相談を受けたこともあった。
今では、それらも少し遠い出来事のように感じられる。
けれど、手紙を読んでいると、王都との距離はそれほど遠くないように思えた。
エリアスは新しい便箋を取り出した。
まず、リーヴェル村での出来事を書く。
古い水路の修理。
林檎の花。
村人たちとの交流。
それから、カイルに魔力感知を教えることになった話も加えた。
『以前、魔導院の後輩たちへ説明した際に、私の話がわかりにくかったことを覚えているでしょうか。
今回も、カイルに最初の説明が伝わりませんでした。
ですが、剣の動きを読む感覚に例えたところ、少し理解してもらえたようです。
教える相手によって、説明の仕方を変えることが大切なのだと、今さらながら感じています。』
そこまで書いて、エリアスは筆を止めた。
オスカーが読んだら、きっと笑うだろう。
もう何年も前から、同じことを言われていた気がする。
エリアスは続きを書いた。
『それと、最近、もう少し遠くまで旅をしてみたいと考えるようになりました。
フィオーレでの暮らしは気に入っていますが、セレーネを訪れてから、まだ知らない場所へ行ってみたいと思うようになりました。
いずれは、王国外へも足を延ばしてみたいと考えています。
行き先が決まりましたら、出発前に必ず連絡します。
新しい街に到着した際も、滞在先をお知らせしますので、これからも手紙を送っていただけると嬉しいです。』
書き終えたエリアスは、少し考えてから一文を付け加えた。
『皆が元気でいることがわかって、安心しました。私も元気に過ごしています。』
封筒へ便箋を収め、宛名を書く。
明日、ギルドへ行く途中で郵便を出そう。
そう決めたとき、足元から小さな鳴き声がした。
リュカが目を覚ましていた。
「お腹が空きましたか?」
エリアスが尋ねると、リュカは尾を揺らした。
時計を見ると、もう夕食の時間だった。
「では、何か作りましょう」
立ち上がりかけて、エリアスはもう一度、机の上の手紙へ目を向けた。
離れた場所にいても、王都の人々とのつながりは続いている。
次に旅へ出るときも、その先の街から手紙を書こう。
まだ見ぬ土地の景色を、オスカーたちにも伝えたい。
そう思うと、これからの旅がますます楽しみになった。
エリアスは封筒を机の端へ揃えて置き、待ちくたびれた様子のリュカを抱き上げた。
「今日は、鶏肉にしましょうか」
その言葉に、リュカの耳がぴんと立った。
エリアスは笑いながら厨房へ向かった。




