第66話 水路の先に見つけたもの
翌朝、エリアスが食堂へ下りると、旅籠の主人がいつになく慌ただしく動いていた。
厨房では大きな鍋が火にかけられ、焼きたてのパンが籠に積まれている。普段の朝食にしては随分と量が多い。
「おはようございます。何かあるんですか?」
「ああ、おはよう。今日は北の畑へ行く人たちにも朝ご飯を届けるんだよ」
「北の畑ですか?」
「昨日、お湯が噴き出しただろう? 近くの畑はしばらく使えないって聞いてね。片づけに行く人たちもいるから、せめて食事くらいはと思ってさ」
主人はパンを布で包みながら答えた。
昨日の騒ぎで怪我人は出なかった。しかし、林檎畑の一部には地面の亀裂が残り、立ち入りが制限されている。
収穫までまだ時間があるとはいえ、果樹の世話を止めることはできないだろう。
「私たちも、これから現場へ向かうところです」
「だったら、これも持っていっておくれ」
主人は焼き菓子を二つ、小さな紙袋に入れた。
「林檎の蜜煮を包んであるんだ。休憩のときに食べるといいよ」
「ありがとうございます」
受け取った袋から、甘い香りが漂った。
そこへカイルが現れ、袋を覗き込む。
「お、うまそうだな」
「休憩用にいただきました」
「じゃあ、昼まで楽しみに取っとくか」
エリアスは頷いたが、少し考えてから尋ねた。
「……朝食のあとでは、早すぎますか?」
「早いな」
「そうですか」
「そんなに食べたいなら、俺の分まで期待するなよ」
「そこまでは考えていません」
真面目な返答に、厨房から笑い声が上がった。
◇
北の畑には、すでに村長のバルドと工事責任者のグレンが来ていた。
昨夜のうちに、亀裂の周囲には縄が張られている。
林檎の木々は変わらず白い花を咲かせていたが、その下の土には昨日の水の跡が残っていた。
「おはようございます。昨夜は変わったことはありませんでしたか?」
エリアスが尋ねると、グレンが頷いた。
「水は出ていません。湯気もほとんどなくなりました」
「それなら、応急処置は保たれているようですね」
「ただ、地面がまた割れないか心配で」
「今日は水路の状態を詳しく確認します。安全が確かめられるまでは、近づかないでください」
グレンは了解し、作業員たちを畑の外へ誘導した。
エリアスは昨日見つけた古い帳簿を取り出した。
そこには、北の沢へ温水を逃がすための封水函と、二つの水路が描かれている。
昨夜、図面を見ながら気づいたことがあった。
封水函には、流れを分ける仕切りのほかに、水路を点検するための小さな蓋が設けられていたのだ。
しかし、その蓋は水路の入口側にはない。
北の沢へ続く、反対側にあった。
「カイル。今日は沢の方から回りたいのですが」
「入口とは逆側か?」
「はい。点検口が残っていれば、崖を崩さずに内部を調べられるかもしれません」
「なるほど。じゃあ、俺が道を探すよ」
カイルは地図を受け取ると、林檎畑の外側へ向かった。
その後ろを、エリアスとグレンが続く。
リュカはエリアスの肩の上で、風に鼻先を向けていた。
雨の降っていない朝の森は、土の匂いが濃かった。
沢へ下りる道は細く、ところどころ木の根が地表に露出している。
カイルは足場を確かめながら進み、危ない場所では後ろの二人に声をかけた。
途中、浅い沢を渡るところで、リュカがエリアスの肩にしがみついた。
「……濡れませんよ」
エリアスが言っても、リュカは動かなかった。
カイルが笑う。
「セレーネで船に乗ったときと同じ顔だな」
「足元に水があるのが嫌みたいです」
「お前が抱えてるんだから、濡れないだろうに」
リュカはカイルを一瞥し、エリアスの襟元へ顔を埋めた。
◇
沢を上流へ進むと、水音が少しずつ大きくなった。
やがて、苔むした石壁の下から水が流れ出している場所に着いた。
石壁の一部は斜面に埋もれ、古い水路の出口だったことを示している。
「ここだな」
カイルは周囲を見回した。
「思ったより、ちゃんと残ってる」
エリアスは出口に近づき、水へ手をかざした。
温かい。
ただし、昨日畑から噴き出した水ほどではなかった。
地下を通る間に、周囲の冷たい水と混ざったのだろう。
「流れは戻っていますね」
「昨日の魔法のおかげか?」
「一時的に水の通り道を整えただけです。仕切りが壊れていたら、また同じことが起きます」
エリアスは石壁へ視線を移した。
表面には、かすれた文字が刻まれていた。
今ではほとんど読めないが、帳簿の図面と照らし合わせると、点検口の位置がわかる。
「この辺りです」
エリアスが示した場所を、カイルが指先でなぞった。
「……ああ、継ぎ目があるな」
石壁の一部が、四角く切り取られている。
しかし、長年の土と苔に覆われて、蓋はまったく動かなかった。
カイルが力を込めて押してみたものの、びくともしない。
「駄目だ。固まってる」
「無理に開けると石が欠けそうですね」
エリアスは石の周囲に手を添えた。
「少しだけ、土を取り除きます」
細い光が、蓋の縁へ沿って走った。
固く詰まっていた土が静かに崩れ、苔の下から金属製の留め具が現れる。
エリアスはそれを確かめ、指先で軽く触れた。
古い金具が、かすかな音を立てて外れた。
「……開きました」
カイルは肩を落とした。
「俺がさっきまで押してたのは何だったんだ」
「力をかける場所が違ったんだと思います」
「慰めてくれてるのか?」
「いえ。本当に」
その返事に、グレンまで笑い出した。
蓋の奥には、狭い点検用の空間が続いていた。
中へ入るのは難しそうだったが、封水函の状態はそこから確認できる。
エリアスは小さな光球を作り、奥へ送り込んだ。
水路の内壁が淡く照らされる。
そこには、石で組まれた箱形の装置があった。
古い図面のとおり、内部には水の流れを分ける仕切りが設けられている。
そして、その仕切りの片側には、大きな亀裂が入っていた。
「……やはり、ここですね」
エリアスは目を細めた。
破損した仕切りが内側へ傾き、水の出口を狭めている。
温水が通り抜けられる量が減り、地下で圧力が高まったのだろう。
カイルが横から覗き込んだ。
「これなら直せそうか?」
「できます。ただし、先に水の流れを止める必要があります」
「昨日みたいに魔法で?」
「ええ。でも、今度はもう少し慎重に行います」
エリアスはグレンへ向き直った。
「修理には、新しい石材が必要です。村で用意できますか?」
「もちろんです。石工も呼んできます」
「ありがとうございます。私はその間に、周囲の地盤を確かめておきます」
グレンは何度も頷き、来た道を引き返した。
残されたカイルは、水路を覗きながら言った。
「しかし、よくこんなものを昔の人が作ったな」
「ええ。水の流れをよく考えた構造です」
「長い間、村を守ってたわけか」
エリアスは頷いた。
「壊れてしまいましたが、悪い設備ではありません。きちんと直せば、また長く使えると思います」
しばらく水路を眺めていたカイルが、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういや、昨日の夜に話した魔力感知なんだけどさ」
「はい」
「今みたいに、お前が水の流れを調べてるときも、魔力を使ってるんだよな?」
「もちろんです」
「……全然わからないんだよなあ」
カイルは自分の手を見下ろした。
「普通の魔法なら光が見えることもあるけど、お前のは何も起きてないみたいに見える」
「必要以上に魔力を漏らさないようにしていますから」
「そこがすごいんだろうな」
「そうでしょうか」
カイルは呆れたように笑った。
「自覚がないのも相変わらずだな」
エリアスは少し首を傾げた。
それから、何か思いついたように手を上げる。
「……少し、試してみますか?」
「今?」
「ええ。修理の準備が整うまで、少し時間がありますから」
カイルは目を丸くしたあと、嬉しそうに頷いた。
「頼む!」
◇
エリアスは河原に落ちていた丸い小石を二つ拾った。
片方をカイルへ渡し、もう片方を自分の手のひらに乗せる。
「まず、こちらを見てください」
エリアスの手にある石が、淡く青く光った。
「魔力を込めました」
「ああ、それはわかる」
「では、こちらは?」
光が消える。
石は、ただの灰色の小石に戻った。
カイルはじっと見つめた。
「……普通の石だな」
「魔力は残っています」
「えっ?」
「光を出す術式だけを解除しました。石の内部には、まだ魔力が留まっています」
カイルは眉を寄せた。
「見た目じゃわからないんだな」
「はい。魔力感知は、その見えないものを感じ取る技術です」
「なるほど」
エリアスは頷いた。
「では、目を閉じてください」
カイルは素直に目を閉じた。
「今から、私が魔力の流れを少し変化させます。その変化を感じ取ってみてください」
「わかった」
「魔力には、周囲の環境と共鳴する性質があります。まず外部からの魔力干渉を受け入れるために、自身の魔力循環を安定させ――」
「待った」
カイルがすぐに目を開けた。
「もうわからん」
エリアスは口を閉じた。
「……どの辺りからでしょうか」
「『外部からの魔力干渉』辺りだな」
「最初の方ですね」
「最初の方だ」
二人は顔を見合わせた。
エリアスは少し考えた。
「……説明が難しかったですね」
「難しかったな」
「すみません」
「謝ることじゃないさ。ただ、俺にはもう少し簡単な方がありがたい」
エリアスは手の中の石を見つめた。
魔力の循環。
干渉。
共鳴。
どれも魔導師にとっては基本的な概念だ。
しかし、カイルは剣士である。
魔法理論を学んできたわけではない。
エリアスはしばらく黙って考え、それから顔を上げた。
「……カイル。剣を振るうとき、相手が動く前に、何となく次の動きを感じることはありますか?」
「あるな。足の運びとか、肩の動きとか、そういうのを見て判断する」
「それは、最初からできましたか?」
「いや。何年も練習したよ」
「では、魔力も似たものだと思ってください」
エリアスは石を差し出した。
「今は見えていなくても、注意を向けているうちに、普段とは違う感覚に気づくことがあります」
「……相手の剣の動きを読むみたいに?」
「はい。ただし、目ではなく、身体全体で感じるようなものです」
カイルは石を見つめた。
「それなら、少し想像できる」
エリアスはほっとしたように微笑んだ。
「よかったです」
「いや、まだできてないぞ」
「そうでした」
カイルは笑い、もう一度目を閉じた。
エリアスは石に込めた魔力を、ほんの少しだけ強めた。
「何か感じますか?」
「……いや」
「では、今は?」
「……ん?」
カイルの眉がわずかに動いた。
「何か……手のひらが、むずむずするような」
エリアスは石を見下ろした。
魔力を込めた石は、カイルの手には触れていない。
風も吹いていなかった。
「もう一度やってみますね」
魔力を弱める。
再び強める。
カイルはじっと目を閉じていた。
やがて、首を傾げた。
「……今、変わったか?」
「はい」
「本当か?」
「ええ」
カイルは目を開けた。
「おお……!」
嬉しそうな声が上がる。
しかし、エリアスはすぐに付け加えた。
「ただ、今の感覚が魔力によるものかどうかは、もう少し確かめる必要があります」
「そうなのか?」
「はい。私が変化させるとわかっていると、身体が反応したと思い込むこともありますから」
「……なるほど。簡単じゃないんだな」
「ええ。でも、今のような小さな変化に気づこうとすることが大切です」
カイルは小石を握り直した。
「じゃあ、また練習させてくれ」
「もちろんです」
「今度は、俺がわかったつもりになってるだけなのかも試してくれよ」
エリアスは頷いた。
「それなら、魔力を込めた石と込めていない石を、見えない状態で比べる方法がよさそうですね」
「お、それならできそうだ」
カイルは満足そうに笑った。
エリアスもつられて微笑む。
教えるというのは、思っていたより難しい。
けれど、相手のわかる言葉を探すことには、魔法の研究とは違った面白さがあった。
◇
昼を少し過ぎた頃、グレンが石工を連れて戻ってきた。
新しい石材と、古い金具を取り替えるための道具も用意されている。
エリアスはまず、水路の内部を調べ直した。
封水函の周囲に大きな空洞はなく、石組みも修理に耐えられる状態だった。
そのことを確認してから、作業の順番を説明する。
「私が水の流れを一時的に北側へ移します。その間に、破損した仕切りを交換してください」
石工の男性は図面を覗き込んだ。
「水を止めていられるのは、どれくらいです?」
「必要な時間は確保できます。ただ、急いで施工すると石がずれる可能性がありますから、普段どおりの手順でお願いします」
「わかりました」
エリアスは水路へ手を伸ばした。
青白い光が、指先から奥へ流れ込む。
封水函の手前で水の流れが分かれ、細い水脈が別の経路へ導かれていった。
やがて、破損した仕切りの周囲から水が引く。
「……止まりました」
石工たちは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに作業へ取りかかった。
古い仕切りを外し、亀裂の入った石を取り除く。
新しい石材を据え、継ぎ目へ防水用の材料を詰めていく。
カイルは工具を渡したり、外した石を運んだりして手伝った。
エリアスは水流を維持しながら、石材へ無理な圧力がかかっていないか確かめていた。
しばらくして、石工が顔を上げた。
「よし。これでいけます」
「ありがとうございます」
エリアスは頷き、魔力の操作を少しずつ緩めた。
水が、修理された封水函へ戻っていく。
新しい仕切りに沿って流れが分かれ、温水は予定どおり北の沢へ向かった。
しばらく監視しても、異常な圧力は生じなかった。
「……大丈夫そうですね」
エリアスはようやく手を下ろした。
石工たちが顔を見合わせる。
「直った……?」
「ええ。水路は正常に動いています」
グレンが大きく息を吐いた。
「よかった……!」
カイルはエリアスの肩を軽く叩いた。
「お疲れさん」
「カイルも、ありがとうございました」
「俺は石を運んだだけだって」
「それも大切な仕事です」
エリアスは自然に答えた。
カイルは一瞬黙り、それから照れくさそうに笑った。
◇
村へ戻ると、バルドは修理の報告を聞いて何度も頭を下げた。
井戸の揚水魔導具も、地下水位に合わせて汲み上げ量を調整することで、安全に使える状態へ戻すことができた。
倉庫の冷却装置も、地下から伝わる熱が弱まったことで、温度の異常検知が収まりつつあった。
ただし、エリアスはすぐに通常運転へ戻すことは勧めなかった。
「明日の朝まで水位と温度を確認してから、少しずつ動かしましょう」
「わかりました」
バルドは頷いた。
「それにしても、こんな古い水路が原因だったとは……」
「水路そのものが悪かったわけではありません。長い間、村の地下水を守っていた設備ですから」
エリアスは修理の図面を差し出した。
「今後は定期的に点検すれば、同じ問題を防ぎやすくなると思います」
バルドは図面を大切そうに受け取った。
「村の記録として残しておきます」
「お願いします」
修理が一段落したことを知り、村人たちの表情にも安堵が広がった。
その日の夕食には、旅籠の食堂に何人もの村人が集まった。
主人が作った林檎の煮込み料理が大きな皿で運ばれ、焼きたてのパンが並ぶ。
エリアスは勧められた料理を一口食べ、目を輝かせた。
「……これは、林檎の酸味がよく合いますね」
主人が嬉しそうに笑った。
「気に入ったかい?」
「はい。とても」
「だったら、おかわりもあるよ」
「ありがとうございます」
カイルが横から囁いた。
「お前、また作り方を聞くつもりだろ」
「……わかりますか?」
「わかるよ」
エリアスは少し驚いた顔をしたあと、笑った。
明日の朝、装置の状態に問題がなければ、依頼は完了となる。
その後はフィオーレへ戻り、カイルとの魔力感知の練習を続けることになるだろう。
エリアスは隣で楽しそうに話すカイルを見た。
自分の説明が伝わらなかったとき、カイルは遠慮なくわからないと言ってくれた。
そのおかげで、少しだけ教え方を変えることができた。
人に教えるのも、悪くないのかもしれない。
そう思いながら、エリアスはもう一口、林檎の煮込みを味わった。




