第65話 林檎畑の下に眠る熱
朝食を終えたエリアスが食堂へ戻ると、カイルはすでに旅籠の主人から村の地図を借りていた。
「お、ちょうどいいところに来た」
テーブルには一枚の古い地図が広げられている。村の家々と果樹園、北へ延びる街道が、色褪せたインクで描かれていた。
「貯水池の場所を聞いておいた。ここだ」
カイルが指差したのは、村の北端にある林檎畑の向こう側だった。
「随分と村から離れていますね」
「水路を引くつもりだったらしい。あの辺りは土地が高いから、貯めた水を畑へ流しやすいんだと」
「それなら、揚水装置の負担も減らせそうですね」
エリアスは地図へ顔を近づけた。
北の丘から村へ向かって、細い青線が引かれている。
古い灌漑水路だろうか。
「この線は?」
「昔使っていた水路らしい。今はほとんど埋まってるってさ」
「そうですか」
地図から目を離したとき、カイルが笑った。
「どうした?」
「いえ。少し気になっただけです」
「お前の『少し』は、あんまり当てにならないからなあ」
「そんなことはありませんよ」
「この前も『少し確認します』って言って、半日も資料を読んでただろ」
エリアスは思い返した。
確かに、そんな日があった。
「……あれは、思っていたより興味深い資料だったので」
「だろ?」
言い返す言葉が見つからず、エリアスは地図を丁寧に畳んだ。
◇
村の北側へ向かう道は、咲き始めた林檎の花で白く縁取られていた。
果樹園では何人もの村人が梯子に上り、枝の状態を確かめている。
花の間を飛ぶ蜜蜂の羽音が、穏やかな朝の空気に混じっていた。
貯水池の工事現場では、四人の作業員が土を掘り出していた。
現場を任されているのは、日に焼けた顔の壮年の男性だった。
「村長から話は聞いてます。俺はグレンといいます」
「エリアス・レインフォードです。こちらはカイルです」
「よろしくお願いします」
カイルが挨拶すると、グレンは二人を掘削現場へ案内した。
貯水池といっても、まだ大きな窪地ができたばかりだった。
深さは大人の背丈ほど。
底には赤茶色の土が広がり、ところどころに灰色の石が露出している。
「工事はいつから始めたんですか?」
「十二日前です。最初のうちは順調だったんですが、三日前から様子がおかしくなりまして」
「どんなふうに?」
「底が熱いんですよ」
グレンは足元の土を見た。
「朝はそれほどでもないのに、昼を過ぎるとじんわり温かくなる。昨日は石に触ってみたら、随分熱くなっていて」
「その頃に、井戸と倉庫の魔導具も止まったんですね」
「ええ。関係があるんでしょうか」
「今から確認してみます」
エリアスは窪地の縁に膝をついた。
土へ触れる。
地面の奥へ、ごく細い魔力を送り込んだ。
周囲の温度を測り、石の密度と地下水の流れを確かめる。必要な情報だけを分けて受け取りながら、調査の範囲を少しずつ広げていった。
しばらくして、エリアスは首を傾げた。
「……妙ですね」
カイルが隣にしゃがんだ。
「何が?」
「熱が一か所から出ているわけではないんです。地下で、温かい水が移動しています」
「温泉でもあるのか?」
「その可能性も考えましたが、温度が一定ではありません。それに……」
エリアスは視線を上げた。
「昨日より、水の流れが速くなっています」
グレンの表情が曇った。
「それは危険なんですか?」
「地盤の状態によります。地下に空洞ができている可能性もあるので、少し工事を止めていただけますか」
「わかりました」
グレンは迷わず作業員たちへ声をかけた。
道具を置き、全員が窪地から上がる。
人がいなくなったのを確認してから、エリアスはもう一度、地面へ手を伸ばした。
今度は水の流れだけを追う。
北から南へ。
深さを変えながら、幾筋もの細い流れが重なっている。
その一部が不自然に曲がり、村の方角へ向かっていた。
エリアスは地図に描かれていた古い水路を思い出した。
「グレンさん。この近くに、昔使われていた水路があるそうですね」
「ああ、ありますよ。俺が子供の頃には、もう水は流れてませんでしたけど」
「入口は残っていますか?」
「北の崖に石組みが残ってます。ただ、草が生い茂っていて、今は誰も近づきません」
「見せていただいても?」
「ええ、もちろん」
グレンは頷いたあと、少し心配そうに付け加えた。
「ですが、崖の辺りは足場が悪いですよ」
「気をつけます」
エリアスが答えるより早く、カイルが立ち上がった。
「足場が悪いなら、俺が先に見る。エリアスは後ろについてきてくれ」
「お願いします」
その返事があまりに素直だったので、カイルはかえって不思議そうな顔をした。
「……今日は妙に聞き分けがいいな」
「カイルの方が、こういう場所には慣れていますから」
「そういうのは、もっと普段から言ってくれていいんだぞ」
エリアスは少し笑った。
◇
古い水路の入口は、林檎畑を抜けた先の小さな崖にあった。
苔のついた石が半円状に積まれ、その奥は暗く塞がっている。
周囲には背の高い草が伸び、長い間、人が立ち入っていなかったことがわかった。
カイルは剣の鞘で草を押し分け、石組みの前へ進んだ。
「入口が崩れてるな」
「ええ。ですが、完全に塞がってはいません」
エリアスが近づこうとすると、カイルが片手を上げた。
「待て」
その声に、エリアスは足を止めた。
カイルは崖の上を見ていた。
「……石が動いた」
ほとんど同時に、乾いた音が響いた。
崖の途中から、小さな石が転がり落ちる。
続いて、大きな岩がゆっくりと傾いた。
「下がれ!」
カイルがエリアスの肩を引いた。
岩が崖から離れる。
エリアスは片手を持ち上げた。
地面に落ちる寸前、岩は空中で静止した。
直後、後ろから崩れた石も、見えない腕に受け止められたように止まる。
落下しかけた岩石が、宙に浮かんだまま動かなくなった。
カイルは口を開けていた。
「……相変わらず、すごいな」
「石組みを傷めたくありませんから」
「いや、そこじゃなくて」
エリアスは岩を安全な場所へ運び、ゆっくりと地面へ下ろした。
崖の上から、ぱらぱらと土が落ちる。
その様子を確かめながら、エリアスは眉を寄せた。
「これは、少し困りましたね」
「崩れそうなのか?」
「ええ。ですが、崖全体が弱っているわけではなさそうです」
エリアスは石組みへ目を向けた。
「水が、裏側の土を押しているようです」
カイルは周囲を見回した。
「さっきの地下水か」
「おそらく」
「じゃあ、水の逃げ道を作ればいいのか?」
「その前に、どこから来ているのか確かめたいですね。流れを変えてしまうと、別の場所に影響が出るかもしれません」
エリアスは慎重に石組みへ手を添えた。
薄い光の線が指先から広がり、崖の内部へ消えていく。
石と石の間。
土に埋もれた空間。
その奥を、水が流れている。
しかし、想像していたものとは少し違った。
「……あれ?」
エリアスは目を瞬かせた。
「どうした?」
「水路の奥に、何かあります」
「何かって?」
「石の箱のようなものです。大きさは……これくらいでしょうか」
エリアスは両腕を広げた。
「それが、水を温めているのか?」
「いえ。熱を発しているのは別の場所です」
少し考えてから、エリアスは続けた。
「ただ、その箱が水の流れを妨げています」
「古い設備か?」
「形を見る限り、そうかもしれません」
カイルは崖を見上げた。
「中に入るのは無理そうだな」
「ええ。それに、無理に入口を開けると崩れる危険があります」
エリアスは手を離した。
「村へ戻って、一度相談しましょう」
◇
昼過ぎ、村長の家にはグレンと数人の村人が集まっていた。
エリアスは調査でわかったことを、一つずつ説明した。
古い水路の奥で水の流れが妨げられていること。
地下に温かい水が溜まり、周囲へ広がっていること。
貯水池の掘削によって地下の圧力が変化した可能性があること。
そして、放置すれば一部の地盤が不安定になるおそれがあること。
話を聞き終えたバルドは、深く息を吐いた。
「……そんなことになっていたとは」
「現時点では、すぐに大きな被害が出る状態ではありません。ただ、工事は中断した方が安全です」
「もちろんです」
グレンも頷いた。
「作業員には、しばらく近づかないよう伝えます」
エリアスは机に地図を広げた。
「それと、古い水路について詳しい記録が残っていれば、見せていただきたいのですが」
バルドは考え込んだ。
「昔の村の書類なら、役場の倉庫にあるかもしれません」
「確認してもよろしいですか?」
「ええ。ご案内します」
立ち上がったバルドを、年配の村人が呼び止めた。
「村長、ちょっと待ってくれ」
「どうしました?」
「あの水路なら、うちの爺さんが話してたことがある」
村人は腕を組んだ。
「昔、北の山から水を引こうとして、途中で工事をやめたってな」
「どうして中止になったんですか?」
エリアスが尋ねた。
「温かい水が出たんだと」
部屋が静かになった。
「温かい水?」
「そうだ。冬でも冷めない水だったらしい。最初は温泉が見つかったって喜んだそうだが、途中から水の量が増えすぎて、掘るのをやめたんだと聞いた」
エリアスは地図を見下ろした。
「それは、いつ頃の話でしょうか」
「さあ……俺が生まれるよりずっと前だ」
村人は首を振った。
「爺さんから聞いた話だから、何十年も昔だろうな」
エリアスは頷いた。
古い水路。
温かい地下水。
工事の中断。
話の内容は、現在の状況とよく似ていた。
けれど、昔の工事が今回の異常を引き起こしたとは限らない。
まずは資料を確かめる必要がある。
「ありがとうございます。参考になりました」
村人は少し照れたように笑った。
「こんな昔話で役に立つなら、いくらでも話すよ」
◇
役場の倉庫には、古い帳簿や地図が何十冊も保管されていた。
埃を払いながら、エリアスとカイルは棚の奥から木箱を運び出した。
「……これ、全部調べるのか?」
カイルが積み上がった書類を見て言った。
「必要なところだけです」
「その必要なところがわかれば、苦労しないんだけどな」
エリアスは一冊の帳簿を開いた。
ページの端は茶色く変色している。
表紙には、古い字体で『北丘水路工事記録』と書かれていた。
「ありました」
「早いな」
「表紙に書いてありますから」
「……そりゃそうだ」
カイルは肩をすくめた。
エリアスは帳簿をめくっていった。
工事が始まった日付。
参加した職人の名前。
掘削した距離。
使われた石材の数量。
その中に、気になる記録があった。
『北丘東側、地下より温水湧出。流量増加につき掘削中止』
さらに数ページ先。
『湧出地点に封水函を設置。温水を北の沢へ導き、村側水路を閉鎖する』
エリアスはその一文を指で追った。
「……封水函」
「何だ、それ?」
「水の流れを分けるための装置でしょう。古い形式ですが、今も似たものは使われています」
「じゃあ、崖の奥にあった石の箱って」
「おそらく、これですね」
帳簿には簡単な図も描かれていた。
石の箱には二つの出口があり、一方は村側の水路へ、もう一方は北の沢へつながっている。
通常は温かい水を北の沢へ流し、村側には入れない構造だった。
「これが壊れたのか?」
「可能性はあります」
エリアスは図へ目を落とした。
「ですが、もしそうなら……」
言いかけたところで、外から慌ただしい足音が響いた。
「村長!」
若い作業員が倉庫へ駆け込んできた。
顔には汗が浮かんでいる。
「北の畑で、地面が割れました!」
カイルがすぐに立ち上がった。
「怪我人は?」
「いません! でも、畑の脇から熱い水が出てきて……!」
エリアスは帳簿を閉じた。
「場所は、貯水池の近くですか?」
「はい!」
「わかりました。案内をお願いします」
カイルが剣を確かめる。
「行こう」
◇
北の畑には、すでに村人たちが集まっていた。
林檎の木が並ぶ斜面の一部から、白い湯気が立ち上っている。
地面には細い亀裂が走り、その隙間から水が溢れていた。
エリアスは足を止めた。
水は熱を帯びている。
しかし、まだ沸騰するほどではない。
「皆さん、少し離れてください」
声をかけると、村人たちは素直に後退した。
カイルは周囲を見回し、逃げ遅れた者がいないか確かめている。
エリアスは地面へ手を向けた。
土の下に広がる水脈が、先ほどより明らかに速く動いている。
地下のどこかで、圧力が急激に高まっていた。
「……なるほど」
エリアスは小さく呟いた。
封水函が水の流れを妨げている。
それによって、行き場を失った温水が周囲へ押し出されていた。
ただし、原因はまだ完全にはわからない。
老朽化によるものか。
最近の掘削による地盤の変化か。
あるいは、別の要因があるのか。
いずれにしても、今は水の圧力を下げる必要があった。
「カイル、少しお願いできますか」
「何をすればいい?」
「村の方々を、もう少し離れた場所へ誘導してください。あの林檎の木より向こうなら、安全です」
「わかった!」
カイルはすぐに動き出した。
エリアスは地面へ視線を戻した。
魔力を細く伸ばし、地下の水の動きを確かめる。
古い封水函。
北へ続く水路。
その先の沢。
出口は、まだ完全には塞がっていない。
「……これなら」
エリアスは両手をゆっくりと広げた。
足元に、薄い青色の魔法陣が浮かび上がる。
地下の土を無理に動かすのではなく、水そのものへ働きかける。
温水が通る道筋を整え、北の沢へ向かう流れを少しずつ強めていった。
亀裂から溢れていた水の勢いが弱まる。
地面の奥で、水圧が静かに下がっていく。
周囲で見守っていた村人たちが、息を呑んだ。
水はやがて細い流れとなり、最後には止まった。
エリアスは魔法陣を消した。
「……これで、ひとまず大丈夫です」
カイルが駆け寄ってきた。
「終わったのか?」
「応急処置はできました」
「……相変わらず、あっさりやるなあ」
「いえ。まだ原因がわかっていませんから」
エリアスは崖の方角を見た。
「封水函を修理するか、新しい水路を設ける必要がありそうです」
グレンが近づいてきた。
「それは、村の職人でもできますか?」
「構造を確認すれば、できると思います。ただ、工事の間は地下水の状態を監視した方が安全ですね」
エリアスは答えた。
「明日、もう少し詳しく調べてみましょう」
グレンは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。助かりました」
エリアスは慌てて首を振った。
「まだ途中ですから」
その言葉に、カイルが笑った。
「十分すごいことをしたんだけどな」
エリアスは少し不思議そうにカイルを見た。
「……そうでしょうか」
「ああ」
カイルは肩を叩いた。
「少なくとも、俺たちは助かったよ」
エリアスは微笑んだ。
林檎の花が、風に揺れていた。
◇
夜、旅籠へ戻ったエリアスは、夕食のあとで机に向かっていた。
昼間見つけた帳簿の内容を整理し、封水函の簡単な図を描いている。
窓の外では、村の灯りがひとつずつ消えていった。
カイルは向かいの椅子に座り、剣の手入れをしていた。
しばらくして、ふと思い出したように顔を上げる。
「そういえば、エリアス」
「はい?」
「前に話した魔力感知のこと、覚えてるか?」
エリアスは顔を上げた。
「ええ。もちろんです」
「このところ、少し気になってたんだよ」
カイルは剣を鞘へ戻した。
「今日みたいに、お前が地面の下を調べてるときさ。何か感じ取れないかと思って、意識してみたんだけど……やっぱりよくわからなくてな」
「そうでしたか」
「前より多少は意識できるようになった気もするんだが、それが本当に魔力なのか、ただの思い込みなのかもわからない」
エリアスは少し考えた。
「それなら、今度もう一度確認してみましょうか」
「いいのか?」
「もちろんです。以前も、お約束しましたから」
カイルは嬉しそうに笑った。
「助かる」
エリアスは筆を置いた。
「ただ……」
「ん?」
「以前お話ししたとおり、私は教えるのがあまり得意ではありません」
「覚えてるよ」
カイルは笑った。
「魔導院の後輩たちが全員黙っちまったって話だろ?」
「はい」
「大丈夫だ。俺はわからなかったら、その場で聞くから」
エリアスは少し安心したように微笑んだ。
「それなら、私も助かります」
カイルは腕を組んだ。
「それに、俺も薬草の採り方を教えただろ?」
「ええ」
「今度は俺が教わる番だ」
エリアスは頷いた。
「では、フィオーレへ戻ったら、時間を作りましょう」
「ああ。頼むよ」
窓の外では、夜風が静かに林檎の枝を揺らしていた。
エリアスは机の上の図へ視線を戻した。
明日になれば、古い封水函の状態をもう少し詳しく調べられるだろう。
それが済んだら、村の人々と修理の方法を相談する。
そしてフィオーレへ帰ったら、カイルとの約束を果たそう。
教えることは、少し苦手だ。
けれど、カイルがわかるように説明する方法を考えるのも、きっと悪くない。
エリアスは新しい紙を一枚取り出した。
そこには、魔力感知の初歩的な訓練方法を、いくつか書き留めていった。
難しい専門用語は、できるだけ使わないように。
以前の失敗を思い出しながら、ひとつずつ。




