第64話 林檎の花咲く村で
リーヴェル村から正式な返事が届いたのは、エリアスがセレーネから戻って四日目のことだった。
冒険者ギルドの受付で、エマが一通の書類を差し出す。
「村長さんからです。まずは故障の原因を調べてほしいそうです。修理については、状態を見てから相談したいとのことで」
「わかりました」
エリアスは依頼書へ目を通した。
村の共同井戸に設置された揚水魔導具が停止していること。加えて、農作物を保管する倉庫の冷却装置も、数日前から正常に働いていないことが書かれていた。
井戸そのものが使えないわけではないが、深い場所から水を汲み上げるには人手が必要になる。果樹園の仕事が忙しくなる時期だけに、村では困っているらしい。
「調査は二日ほどを見込んでいるんですね」
「はい。村に宿泊できる場所を用意してくださるそうです」
エマは書類の末尾を指差した。
「カイルさんも同行されます。荷物の運搬と、街道の案内をお願いしています」
「ありがとうございます」
エリアスは署名を済ませた。
エマは書類を受け取りながら、ふと尋ねた。
「セレーネから戻ったばかりなのに、また遠出ですね」
「ええ。でも、今度は少し違いますから」
「違う?」
「観光だけではなく、誰かのお役に立てるかもしれません」
エマは微笑んだ。
「村の方も喜ばれると思います」
エリアスは頷いた。
以前なら、こうした依頼を受けるために出かけようとは考えなかっただろう。
王宮から命じられた仕事ならともかく、自分から見知らぬ村を訪ねるなど。
けれど今は、知らない土地へ行くことそのものが楽しみになっていた。
◇
出発の朝、カイルは小さな幌馬車を借りて迎えに来た。
荷台には工具箱と予備の魔石が積まれている。
「おはよう、エリアス。準備はいいか?」
「はい」
エリアスは門を閉め、鞄を持ち上げた。
庭の花壇には、マルタと立てた支柱が並んでいる。今回も水やりをお願いしていたが、セレーネ旅行より短い滞在になる予定だった。
カイルが荷物を受け取りながら言った。
「今回は何冊持ってきた?」
「本ですか?」
「ああ」
「一冊です」
「よし」
「それと、作業用の資料が三冊あります」
カイルの手が止まった。
「……結局四冊じゃないか」
「資料は読むためではなく、調べるためのものですから」
「そういう問題か?」
エリアスは少し考えた。
「……違いましたか?」
カイルは声を立てて笑った。
「いや、いいよ。今回は仕事だからな」
リュカが馬車の座席へ飛び乗った。
慣れた様子で丸くなる姿を見て、カイルが感心する。
「こいつも、すっかり旅慣れたな」
「そうですね。ただ、船にはまだ乗りたくなさそうです」
「今日は船には乗らないから安心しろよ」
リュカは返事をするように一度だけ尾を振った。
馬車は北へ向けて走り出した。
◇
リーヴェル村に近づくにつれて、街道の両側に果樹園が増えていった。
白い花を咲かせた林檎の木が、斜面に沿って何列も並んでいる。
枝の間では蜜蜂が飛び交い、風が吹くと花びらが細かく舞った。
「……きれいですね」
エリアスは窓の外を眺めた。
「今がちょうど花の時期なんだ」
カイルは手綱を握り直した。
「秋は実がなるから、もっと賑やかになるぞ」
「秋にも来てみたいです」
「気に入ると思ったよ」
やがて、小さな石橋を渡ると、村の入口が見えてきた。
低い石垣に囲まれた家々。屋根の上で煙を上げる煙突。庭先には薪が積まれ、子供たちが木の枝を持って走り回っている。
フィオーレよりもずっと小さな村だった。
広場には共同井戸があり、その隣には大きな木製の水槽が設けられていた。
水槽へ水を送るはずの管からは、一滴も水が落ちていない。
「……あれですね」
エリアスが言うと、カイルも頷いた。
「ああ。まずは村長に挨拶しよう」
二人が馬車を停めると、役場の前から初老の男性が歩いてきた。
「フィオーレからいらした方々ですかな?」
「はい。カイル・ヴァルディスです」
「エリアス・レインフォードと申します」
エリアスが名乗ると、男性は一瞬だけ動きを止めた。
「……レインフォード?」
「はい」
「もしや、王宮にお仕えの……」
エリアスは少し困ったように微笑んだ。
「現在は休暇をいただいております。今日は冒険者ギルドからの依頼で伺いました」
男性は慌てて背筋を伸ばした。
「これは失礼いたしました! 私は村長のバルドと申します。まさか、そのような方に来ていただけるとは……」
「どうぞ、普段どおりに接してください。設備の状態を確認するために参りましたので」
バルドは何度か頷いた。
それでも、先ほどまでの気安い様子は消えてしまっている。
カイルが横から笑った。
「村長さん、こいつは普通に話してもらった方が喜びますよ」
「し、しかし……」
「本当です」
エリアスも頷いた。
「それに、まずは井戸を見せていただけると助かります」
その言葉に、バルドはようやく仕事を思い出したようだった。
「そ、そうでしたな。こちらです!」
◇
共同井戸の揚水魔導具は、古いが丁寧に使われていた。
石造りの井戸の脇に、魔石を収める装置が設置されている。
装置の側面には、小さな制御盤があった。
エリアスは蓋を開け、内部の術式を確認した。
「……なるほど」
魔石の残量は十分だった。
配線にも目立った傷みはない。
しかし、魔力を水の汲み上げに変換する部分だけが、うまく働いていない。
「故障の原因は、わかりそうか?」
カイルが尋ねた。
「ええ。少し調べれば」
エリアスは指先に小さな魔法陣を浮かべた。
淡い光が制御盤へ流れ込み、内部の術式が順番に浮かび上がる。
そこには、一般的な揚水装置とは少し違う構造があった。
「……この装置、改良されていますね」
バルドが頷いた。
「十年ほど前、旅の魔導技師に手を加えてもらいましてな。水を汲み上げる量が増えるように」
「そうでしたか」
エリアスは術式の接続をひとつずつ確認した。
そして、ある部分で手を止めた。
「……ここですね」
カイルが身を乗り出す。
「何かわかったのか?」
「魔力の供給が止まったのではありません。装置が、自分で動作を止めています」
「自分で?」
「はい。内部の保護術式が働いているようです」
エリアスは説明した。
改良された装置には、過剰な負荷がかかった場合に停止する仕組みが組み込まれていた。
通常なら、一定時間が経過すれば自動的に復旧する。
しかし今回は、保護術式が解除されない状態になっていた。
「……つまり、壊れているわけではないのか?」
バルドが尋ねた。
「今のところ、主要な部品に破損は見当たりません。ただ、何かが異常だと判断して、装置が止まっているんです」
エリアスは井戸の内部へ目を向けた。
「水量を確認してもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
バルドは頷いた。
エリアスは井戸の縁へ近づき、静かに魔力を広げた。
水面の位置。
地下水の流れ。
石壁の状態。
必要な情報だけを拾い上げる。
その精密な魔力操作を、バルドは息を呑んで見つめていた。
エリアスはしばらくして顔を上げた。
「……水が、以前より少し減っているようです」
「えっ?」
「井戸が枯れるほどではありません。でも、汲み上げる量が多い状態が続くと、保護術式が働くようになっていたのでしょう」
バルドは眉を寄せた。
「確かに、今年は雨が少なかったのですが……」
「装置そのものは正常に危険を知らせています。無理に動かしていたら、井戸の水位がさらに下がっていたかもしれません」
エリアスは静かに答えた。
「まずは、汲み上げる量を減らす必要がありますね」
バルドは深く頷いた。
「なるほど……そういうことでしたか」
カイルが腕を組む。
「ってことは、冷却装置も同じ原因か?」
「それは、見てみないとわかりません」
エリアスは制御盤を閉じた。
「ただ、別の場所でも同じ時期に止まったのなら、共通する事情があるかもしれませんね」
◇
共同倉庫は、村の西側にあった。
石造りの大きな建物で、内部には果物の保存箱や穀物の袋が並んでいる。
冷却装置は、奥の壁に設置されていた。
こちらも古い機械だったが、普段から手入れされていることがわかる。
「三日前から、冷えなくなりまして」
倉庫を管理する女性が説明した。
「最初は魔石を交換したんです。でも、何も変わらなくて」
「わかりました。確認します」
エリアスは制御盤を開けた。
井戸とは違う種類の装置だ。
しかし、内部の術式を読み取るうちに、気になることが見つかった。
「……こちらも、保護術式が働いていますね」
カイルが顔を上げる。
「同じ原因か?」
「いえ。仕組みは似ていますが、停止した理由は違います」
エリアスは説明を続けた。
冷却装置は、内部の温度が急激に変化した場合、魔石へ負担がかからないよう動作を止める。
今回、その温度を読み取る部分が異常な数値を示していた。
「……でも、倉庫の温度はそれほど高くありませんね」
エリアスは壁へ目を向けた。
石壁は厚く、外気の影響を受けにくい構造になっている。
それなのに、装置は異常な温度を検知している。
「少し、周囲を調べます」
エリアスは床へ手をかざした。
細い魔力が石材の間を滑るように広がっていく。
その反応を追った瞬間、彼はわずかに眉を上げた。
「……地下に、熱が溜まっていますね」
「地下に?」
カイルが尋ねた。
「はい。地表近くではありません。もう少し深い場所です」
エリアスは倉庫の管理人へ向き直った。
「この辺りで、最近何か工事をされましたか?」
女性は少し考えた。
「工事……ああ、村の北側で新しい貯水池を掘っています」
「貯水池ですか」
「はい。今年は雨が少ないので、畑の水を確保しようという話になりまして」
エリアスは頷いた。
「それなら、地面の状態が変わった可能性もありますね」
カイルが腕を組む。
「……地下の水と熱か。何かつながってるのか?」
「まだ断定はできません」
エリアスは落ち着いた声で答えた。
「ただ、井戸の水位が下がり、倉庫の地下に熱が溜まっている。どちらも地中の環境が変化した結果かもしれません」
バルドは不安そうに顔を上げた。
「……それは、危険なのでしょうか」
「今すぐ村を離れるような状況ではありません」
エリアスは答えた。
「ですが、原因を確かめずに装置だけ直しても、また同じことが起きると思います」
少し考えたあと、続けた。
「明日、貯水池の工事現場を見せていただけますか?」
「もちろんです」
バルドは頷いた。
「必要なことがあれば、何でもお申しつけください」
「ありがとうございます」
エリアスは小さく微笑んだ。
カイルが隣で肩をすくめる。
「……どうやら、ただの修理じゃ済まなそうだな」
「そうですね」
エリアスは倉庫の床を見つめた。
深い場所にある、弱い熱の反応。
それは地中から自然に上がってきているようにも見えた。
ただ、その広がり方には少し不自然な部分がある。
何かが熱を発しているのか。
それとも、別の場所から運ばれてきているのか。
詳しく調べる必要がありそうだった。
◇
夕方、二人は村長が用意してくれた宿へ向かった。
村の広場に面した、小さな旅籠だった。
一階は食堂になっており、二階に客室が三つある。
宿の主人は気さくな女性で、二人を見ると笑顔で迎えた。
「よく来てくれたね。村長から話は聞いてるよ」
「お世話になります」
エリアスが頭を下げると、女性は手を振った。
「そんなにかしこまらなくていいよ。ここじゃ、みんな同じお客さんだから」
エリアスは少し安心したように微笑んだ。
「ありがとうございます」
「それにしても、うちの村の井戸が止まったって聞いたときは驚いたよ。あれがないと、毎朝水を汲むのが大変でねえ」
「そうですね」
エリアスは頷いた。
「原因は少しわかってきました。明日、もう一度確認してみます」
「それはありがたいね」
女性は嬉しそうに笑った。
「今夜はゆっくり休んでおくれ。夕飯は、林檎を使った料理を出すよ」
「林檎料理ですか?」
エリアスが顔を上げると、女性は頷いた。
「この村の名物さ。肉と一緒に煮込むと、柔らかくなるんだよ」
エリアスは目を輝かせた。
「……それは、楽しみです」
カイルが横で笑った。
「やっぱり、そこが一番気になるんだな」
「いえ。お仕事のことも考えていますよ」
「わかってるって」
二人は笑い合った。
◇
夕食のあと、エリアスは宿の外へ出た。
空はすっかり暗くなり、村の家々には小さな灯りがともっている。
遠くの果樹園から、花の香りを含んだ風が吹いてきた。
リュカはエリアスの腕の中で、眠たそうに目を細めている。
カイルも少し遅れて外へ出てきた。
「何してるんだ?」
「少し、夜の空気を吸おうと思いまして」
「そうか」
カイルは隣へ立った。
しばらく、二人は黙って村の景色を眺めていた。
やがて、カイルが口を開いた。
「……セレーネから帰ってきて、何か変わったか?」
エリアスは少し驚いた。
「変わった、ですか?」
「ああ。前より、遠くへ行くのが楽しそうに見えるからさ」
エリアスは考えた。
確かに、以前はただ静かな場所で暮らしたかった。
宮廷の仕事から離れ、本を読み、庭の手入れをして過ごす。
それだけで十分だと思っていた。
けれど、セレーネの湖を見たとき。
アルトヴィアでエマリエと出会ったとき。
湖灯祭で無数の灯りが浮かぶ光景を眺めたとき。
知らない世界には、まだ見てみたいものがたくさんあると感じた。
「……そうですね」
エリアスは静かに答えた。
「以前より、いろいろな場所へ行ってみたいと思うようになりました」
カイルは微笑んだ。
「いいことじゃないか」
「はい。ただ……」
「ただ?」
「フィオーレも、とても気に入っています」
「そりゃそうだろ」
カイルは笑った。
「でも、ずっとそこにいなきゃいけないわけじゃないだろ?」
エリアスは顔を上げた。
「……そうですね」
「家があるなら、帰ってくればいい。別の場所が気に入ったら、しばらく滞在してみてもいいんじゃないか?」
エリアスはしばらく考えていた。
フィオーレの家。
庭の花。
ミラやノアたち。
どれも大切だった。
けれど、それらがあるからといって、遠くへ行ってはいけないわけではない。
むしろ、帰る場所があるからこそ、安心して旅ができるのかもしれない。
「……カイル」
「ん?」
「私、いつか別の国にも行ってみたいです」
カイルは少し目を丸くした。
「ほう」
「王都にいた頃は、仕事で訪れたこともありますが……今度は、自分の意思で」
エリアスは夜空を見上げた。
「知らない街で暮らしてみたり、その土地の文化や魔法を学んでみたり」
カイルはしばらく黙っていた。
それから、嬉しそうに笑った。
「いいじゃないか」
「……そうでしょうか」
「ああ。お前には、そういう旅が似合うと思うぞ」
エリアスは微笑んだ。
カイルは腕を組んだ。
「ただ、遠い国へ行くなら、ちゃんと準備しろよ。旅券とか、滞在許可とか、いろいろあるからな」
「はい。王都にも連絡しようと思っています」
「そうだな。宮廷魔導師が突然国外へ出たら、向こうも驚くだろうし」
エリアスは少し困ったように笑った。
「……確かに、オスカーには先に伝えておいた方がよさそうですね」
カイルも笑った。
「それがいい」
夜風が、二人の間を通り抜けた。
遠くでは、林檎の花が月明かりを受けて白く浮かんでいる。
エリアスはその景色を眺めながら、静かに微笑んだ。
次の旅は、まだ決まっていない。
行き先も、日程も。
けれど、いつか本当に、国境を越えてみたい。
そんな新しい願いが、胸の中に生まれていた。




