第63話 旅の土産と、思いがけない依頼
フィオーレへ戻って最初の朝、エリアスは庭で少し困っていた。
旅行へ出る前は膝ほどの高さだった花の苗が、数日見ないうちにずいぶん伸びていたのだ。
茎の先には小さな蕾がつき、風が吹くたびに頼りなく揺れている。
「……マルタさんのおっしゃったとおりですね」
昨日、支柱を立てた方がいいと教えてもらったばかりだった。
エリアスはしゃがみ込み、苗の高さを確かめた。
指先に触れた葉は柔らかく、まだ少し頼りない。
細い木の棒を添えればよさそうだが、どこへ結べば茎を傷めずに済むのだろう。
「おはよう、エリアスさん」
隣の庭から声がした。
顔を上げると、マルタが籠を抱えて立っていた。
「おはようございます。ちょうど支柱のことを考えていたところです」
「あら、それなら一緒にやりましょうか」
「よろしいのですか?」
「もちろん。ちょうど手が空いてるのよ」
マルタは籠から細い竹の棒と麻紐を取り出した。
どうやら、最初から手伝うつもりで持ってきてくれたらしい。
「ありがとうございます」
「いいのよ。ほら、まずは苗から少し離したところに棒を立てるの」
エリアスは教わったとおり、土へ棒を差し込んだ。
「根を傷つけないようにね」
「はい」
「そうそう。それから、この辺りをゆるく結ぶのよ」
麻紐を八の字に回し、支柱と茎の間に余裕を持たせる。
エリアスは手元を確かめながら、慎重に結んだ。
「……これで、どうでしょう」
「上手よ。きつく縛ると、茎が太くなったときに苦しくなっちゃうからね」
「なるほど」
エリアスは少しだけ紐を緩めた。
宮廷で扱っていた魔法の制御術式なら、細かな力の調整には慣れている。
けれど、花の茎を支える結び方は、教わらなければわからなかった。
マルタはその様子を見て、くすりと笑った。
「本当に丁寧ねえ」
「失敗して、折ってしまったら困りますから」
「大丈夫よ。植物は案外たくましいものなの」
マルタは別の苗にも支柱を立てた。
「もちろん、無理をさせないことも大事だけどね」
エリアスは頷いた。
やがて、花壇には小さな支柱が三本並んだ。
風が吹いても、苗は大きく傾かない。
「……これなら安心ですね」
「ええ。蕾が開くのが楽しみね」
マルタは満足そうに頷いた。
作業を終えると、エリアスは家へ戻り、小さな紙袋を持ってきた。
「そうでした。こちら、お土産です」
「あらまあ!」
袋の中には、セレーネで買った焼き菓子が入っている。
「旅行中、お庭のお世話をしていただいたお礼です」
「そんな、気にしなくていいのに」
「ですが、本当に助かりましたので」
マルタは嬉しそうに受け取った。
「ありがとう。お茶の時間にいただくわ」
それから、少し悪戯っぽく笑った。
「今度は旅行のお話も聞かせてちょうだいね」
「はい。ぜひ」
エリアスも笑った。
◇
昼前、エリアスは鈴蘭亭を訪れた。
食堂へ入ると、厨房からノアの声が聞こえてくる。
「母さん、これ、もう少し火を弱くした方がいいかな?」
「そうだね。蜜が焦げるよ」
甘い香りが漂っていた。
エリアスが厨房を覗くと、ノアが小さな鍋を前にしていた。
「あ、エリアスさん!」
「こんにちは」
「ちょうどよかった! 今、昨日いただいた蜜を試してたんです」
ノアは嬉しそうに鍋を見せた。
中には、薄い琥珀色の蜜が入っている。
「セレーネの花蜜ですね」
「はい。香りがすごくいいんですよ」
ノアは小さな匙を差し出した。
「ちょっと味見してみてください」
エリアスは一滴だけ口に含んだ。
春の花のような香りが広がる。
「……おいしいですね」
「でしょう?」
ノアは目を輝かせた。
「これで、薄焼きのお菓子を作ってみようと思ってるんです」
「湖蜜焼きですね」
「はい。ただ、教えてもらった作り方だけだと、少しわからないところがあって」
エリアスは手帳を取り出した。
「それでしたら、見たときに書き留めたものがあります」
「本当ですか?」
「はい。生地の厚さや、蜜をかけるタイミングも少し」
手帳を開くと、そこには簡単な絵まで描かれていた。
ノアが覗き込み、思わず笑う。
「……エリアスさん、すごいですね」
「何がでしょう?」
「旅行中に、お菓子の作り方をここまで記録してるなんて」
エリアスは少し考えた。
「帰ってから作ってみたいと思いましたので」
「それなら、今日一緒に作ってみませんか?」
「よろしいのですか?」
「もちろんです!」
ミラが横から顔を出した。
「だったら、昼の仕込みが落ち着いてからにしな。今は忙しいからね」
「はーい」
ノアは素直に答えた。
エリアスは笑いながら、手帳を閉じた。
「では、少しお手伝いします」
「今日はお客さんなんだから、無理しなくていいよ」
ミラが言った。
「ですが、何もせずに待つのも落ち着きませんので」
「……あんたも変わったねえ」
ミラは笑った。
「最初に来た頃は、厨房へ入るなんて考えもしなかっただろうに」
エリアスは少し驚いた。
言われてみれば、そのとおりだった。
フィオーレへ来たばかりの頃、料理は食堂で出してもらうものだった。
自分が厨房に立ち、誰かと一緒に菓子を作るようになるとは思ってもいなかった。
「……そうですね」
エリアスは微笑んだ。
「今は、とても楽しいです」
ミラは満足そうに頷いた。
◇
薄焼きの菓子作りは、思ったより難しかった。
生地を広げるときに厚さが偏り、最初の一枚は端だけ焦げてしまった。
「……これは」
エリアスは焼き上がった生地を見つめた。
片側はきれいな金色なのに、反対側は濃い茶色になっている。
ノアが隣から覗き込んだ。
「火が少し強かったですね」
「そうですね」
「でも、最初はこんなものですよ」
ノアは笑った。
「僕も、前に同じような失敗しました」
エリアスは手帳へ書き込んだ。
『火が強すぎると、端だけ焦げる。』
ノアがその様子を見て、笑いをこらえる。
「……エリアスさん、本当に記録するんですね」
「はい。次は失敗しないようにと思いまして」
「じゃあ、次はもう少し弱火でやりましょう」
二枚目は、きれいに焼けた。
薄い生地へ温めた花蜜をかけ、半分に折る。
セレーネで食べたものと、よく似た形になった。
「……できましたね」
エリアスが言うと、ノアは嬉しそうに頷いた。
「はい! 食べてみましょう」
二人は小さく切り分け、ひと口ずつ食べた。
生地は少し厚かったが、花蜜の香りは十分に楽しめた。
「……おいしいです」
「本当ですね!」
ノアは目を輝かせた。
「これ、もう少し練習したらお店でも出せそうです」
「ぜひ」
エリアスは頷いた。
「セレーネのものとは少し違っても、ノアのお菓子として作れたら素敵ですね」
ノアは一瞬黙った。
それから、嬉しそうに笑った。
「……そうですね。僕なりに工夫してみます」
ミラが味見をし、満足そうに頷いた。
「うん、悪くないよ。もう少し生地を薄くできれば、もっとよくなるね」
「はい!」
ノアは元気よく答えた。
その声を聞きながら、エリアスは微笑んだ。
旅先で食べた小さな菓子が、こうしてフィオーレの食堂へつながっていく。
それが、何だか嬉しかった。
◇
午後、エリアスは冒険者ギルドへ向かった。
旅行から戻ったことを、エマに伝えておこうと思ったのだ。
ギルドの建物へ入ると、受付にはいつもの賑わいがあった。
掲示板の前では冒険者たちが依頼を眺め、奥の机では職員が書類を整理している。
「あら、エリアスさん!」
受付のエマが顔を上げた。
「お帰りなさい!」
「ただいま戻りました」
「旅行、どうでした?」
「とても楽しかったです」
エリアスは笑った。
「セレーネも、アルトヴィアも素敵な街でした」
「アルトヴィアにも行ったんですか?」
「はい。湖を船で渡って」
「いいですねえ!」
エマは羨ましそうに笑った。
「私も、湖灯祭は一度見てみたいんです」
「ぜひ。とてもきれいでしたよ」
エリアスは少し考えた。
「……今度、旅行案内をお貸ししましょうか?」
「本当ですか?」
「はい。レオンハルトさんからお借りしたものなので、お返しする前に確認しますが」
「それなら、ぜひお願いします!」
エマは嬉しそうだった。
そのとき、受付の奥から別の職員が声をかけた。
「エマ、例の依頼書は?」
「あ、そうでした」
エマは机の上の紙を一枚取り出した。
そこには、赤い印が押されている。
エリアスは何気なく目を向けた。
『魔導具の不具合調査――北方街道沿いの村』
依頼の内容は、街道沿いの小さな村で、生活用の魔導具がいくつも故障しているというものだった。
「……魔導具の不具合、ですか」
エリアスが尋ねると、エマは頷いた。
「はい。最近、少し変わった依頼が入っているんです」
「どのような?」
「村の井戸で使っている揚水の魔導具や、共同倉庫の冷却装置が、続けて止まってしまったそうなんです」
エリアスは少し考えた。
「……同じ時期に、ですか?」
「ええ。最初は老朽化だと思われていたらしいんですけど、別々の場所で続いているので、何か原因があるのではないかと」
エマは依頼書を差し出した。
「本来なら、専門の修理技師さんへお願いするところなんですが、村が少し遠くて、なかなか来てもらえないそうなんです」
エリアスは内容を読んだ。
村の名前は『リーヴェル村』。
フィオーレから北へ向かう街道沿いにある、小さな農村だった。
依頼には、故障した設備の確認と、必要に応じた応急修理が求められている。
危険な魔法実験や、古代遺跡の調査ではない。
ごく普通の、生活に関わる困り事だった。
「……困っている方がいるのですね」
「はい。特に井戸の方は、使えないと不便だそうで」
エマは少し困ったように笑った。
「ただ、修理だけなら技師の方がいいと思うんです。冒険者へ頼むのは少し違うかもしれませんし」
エリアスは依頼書をもう一度見た。
揚水魔導具。
共同倉庫の冷却装置。
どちらも、構造そのものは難しくない。
必要な部品が揃っていれば、確認できるだろう。
ただ、故障の原因がわからない以上、現地で判断する必要はある。
「……現地の設備を確認するだけでも、役に立つでしょうか」
エマは顔を上げた。
「え?」
「修理できるかどうかは、実際に見てみないとわかりませんが」
エリアスは依頼書へ目を落とした。
「少なくとも、何が原因なのかは調べられると思います」
エマは少し驚いたようだった。
「……もしかして、受けてくださるんですか?」
「はい。日程が合えば」
エマは嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます!」
それから、慌てて付け加えた。
「ただ、正式な依頼にするには、村側と確認が必要です。修理の範囲や費用についても、きちんと決めないといけませんので」
「もちろんです」
エリアスは頷いた。
「それに、もし部品の交換が必要なら、専門の方へお願いした方がいい場合もありますから」
「はい。そこも確認します」
エマは依頼書を机へ戻した。
「では、村へ連絡してみますね」
「よろしくお願いします」
エリアスは笑った。
そのとき、ギルドの入口が開いた。
「おーい、エマ!」
カイルだった。
彼はエリアスを見つけると、少し驚いたように笑った。
「お、エリアス。もう来てたのか」
「こんにちは」
「何してたんだ?」
「新しい依頼について、お話を伺っていました」
「依頼?」
カイルは受付へ近づいた。
エマが事情を説明すると、彼は少し考えた。
「リーヴェル村か。あそこなら、何度か通ったことがあるぞ」
「そうなのですか?」
「ああ。街道沿いの小さな村だ。林檎の果樹園が有名でな」
エリアスは顔を上げた。
「……林檎ですか」
「そうそう。秋になると、道沿いに露店が並ぶんだ」
カイルは笑った。
「今の時期は花が咲いてる頃かな」
エリアスは少し想像した。
小さな農村。
街道沿いの果樹園。
白い花を咲かせた林檎の木。
セレーネとは、また違った景色だろう。
「……行ってみたいですね」
思わず言うと、カイルが笑った。
「お前、旅行から帰ったばかりだろ?」
「……そうでした」
エリアスは少し照れたように笑った。
カイルは依頼書を見た。
「まあ、魔導具の調査なら、お前には向いてるかもな」
「はい。ただ、今回は正式な依頼になるか確認してからです」
「それなら、決まったら教えてくれよ」
「カイルも行かれるのですか?」
「ああ。村までの道案内くらいならできるし、荷物を運ぶ人手もいるだろ?」
エリアスは微笑んだ。
「ありがとうございます」
「それに、久しぶりにあそこの林檎の菓子を食べたいしな」
カイルが笑う。
エリアスも、つられて笑った。
◇
夕方、家へ戻ると、リュカが玄関まで迎えに出てきた。
「ただいま戻りました」
白い獣は足元を一周し、エリアスの鞄へ鼻先を寄せた。
「今日は、お菓子を作ってきましたよ」
そう言うと、リュカの耳が立った。
「ですが、あなたには鶏肉を用意します」
リュカは満足そうに尾を動かした。
エリアスは笑い、台所へ向かった。
夕食を済ませたあと、書斎の机へ座る。
今日の出来事を手帳へ書き留めた。
庭の支柱。
ノアと作った湖蜜焼き。
そして、ギルドで聞いた新しい依頼。
フィオーレでの暮らしに戻ったばかりだというのに、また新しい予定ができそうだった。
ただ、今度は旅行ではない。
誰かの暮らしを少しだけ手伝うための仕事だ。
エリアスは手帳へ目を落とした。
宮廷にいた頃は、王国全体に関わる大きな仕事が多かった。
重要な結界の管理。
魔導院の研究。
王宮からの依頼。
それらは、確かに必要な仕事だった。
けれど、村の井戸が使えなくて困っている人々を助けることも、同じように大切なのだろう。
規模の大小ではなく、そこに暮らす人々にとって必要なことなのだから。
「……うまく直せるといいですね」
エリアスは小さく呟いた。
足元でリュカが顔を上げる。
「今度は、林檎の花が咲く村へ行くかもしれませんよ」
リュカは首を傾げた。
「きれいな景色が見られそうです」
白い獣はしばらくエリアスを見つめたあと、再び丸くなった。
エリアスは微笑んだ。
セレーネでの旅行は終わった。
けれど、まだ知らない場所はたくさんある。
そのすべてを急いで訪れる必要はない。
気になる場所ができたときに、少しずつ足を延ばしていけばいい。
エリアスは手帳を閉じた。
窓の外では、庭の花が夕風に揺れている。
フィオーレでの暮らしは、また新しい一日を迎えようとしていた。




