第62話 旅の終わりに、持ち帰るもの
水鳥亭の一階では、朝から誰かが大きな声で笑っていた。
エリアスが階段を下りると、食堂の入口でカイルとガレスが話しているのが見えた。
「だから、お前は昔から荷物をまとめるのが下手なんだって!」
「うるさいな。あれは急に出発が決まったからだろ」
「それにしたって、剣を持って着替えを忘れるやつがいるか?」
「剣は仕事道具だ!」
二人のやり取りを聞き、エリアスは思わず笑ってしまった。
「おはようございます」
「おう、エリアス!」
ガレスが振り返る。
「よく眠れたか?」
「はい。おかげさまで」
カイルは少し不満そうな顔をしていたが、エリアスを見ると肩をすくめた。
「こいつ、見送りに来たと思ったら昔の失敗ばっかり話すんだ」
「本当のことだからな!」
ガレスは愉快そうに笑った。
昨夜は遅くまで祭りを楽しんだというのに、今朝も元気そうだった。
エリアスはガレスへ頭を下げた。
「昨日はありがとうございました。とても楽しかったです」
「こちらこそ。せっかく来てもらったんだ、案内できてよかったよ」
「アルトヴィアも、素敵な町でした」
「ああ、あそこはいいところだろ? 今度来たら、北側の村も案内するよ」
「ぜひお願いします」
ガレスは満足そうに頷いた。
「それじゃ、朝飯にしよう。馬車の時間まで、まだ余裕はあるんだろ?」
「ええ。大丈夫です」
カイルが答え、三人は食堂へ入った。
◇
朝食を終えると、エリアスは部屋へ戻って最後の荷物を確認した。
青い小皿は衣服で包み、鞄の底へ。
アルトヴィアで買った花瓶は、店主が用意してくれた木箱へ収めてある。
料理の本と旅行案内は、その上に重ねた。
ノアへの花蜜と土産菓子も忘れていない。
「……これで全部ですね」
エリアスは部屋を見回した。
窓辺の机。
湖を描いた絵。
柔らかな寝台。
三泊だけの滞在だったが、すっかり居心地のよい場所になっていた。
リュカは寝台の上に座り、荷造りの様子を眺めている。
「帰りますよ」
声をかけると、リュカは小さく鳴いた。
「フィオーレのお家へ」
白い獣は寝台から飛び下り、エリアスの足元へ寄ってきた。
エリアスは笑い、旅用の敷物を畳んだ。
そのとき、鞄の脇に薄い封筒が置かれていることに気づいた。
「……これは?」
自分で用意した覚えはない。
封筒の表には、水鳥亭の名前が書かれていた。
中には一枚のカードが入っている。
『このたびはご宿泊ありがとうございました。
またセレーネへお越しの際には、ぜひお立ち寄りください。
湖の景色とともに、お待ちしております。
水鳥亭 リリア』
エリアスは微笑んだ。
宿泊客へ渡している挨拶状なのだろう。
それでも、こうして旅の思い出がひとつ増えるのは嬉しかった。
カードを手帳に挟み、最後に忘れ物がないか確認する。
そして、リュカを抱き上げた。
「……お世話になりましたね」
誰もいない部屋へ小さく告げ、扉を閉めた。
◇
宿の受付では、リリアが待っていた。
「おはようございます。お帰りですね」
「はい。三日間、ありがとうございました」
「こちらこそ。ゆっくりお過ごしいただけましたか?」
「ええ。とても」
エリアスは笑った。
「湖の景色も素敵でしたし、お食事もおいしかったです」
「それはよかったです」
リリアは嬉しそうに頷いた。
カイルが宿泊料金の確認を済ませている間、エリアスは窓の外を眺めた。
朝の遊歩道には、昨夜の祭りの名残があった。
飾りを片づける人々。
屋台を畳む商人。
湖岸では、回収された灯籠が木箱へ収められている。
あれほど賑やかだった夜が、少しずついつもの街へ戻っていく。
「……昨日の灯籠、もう片づけているのですね」
エリアスが言うと、リリアが窓の外を見た。
「ええ。毎年、翌朝には回収を終えるんですよ」
「大変なお仕事ですね」
「そうですね。でも、みんな慣れていますから」
リリアは少し笑った。
「灯籠は、また来年も使えるものが多いんです。傷んだ部分を直して、大切に保管しておくんですよ」
「そうなのですか」
「ええ。昔から、そうして続けてきたお祭りです」
エリアスはもう一度、湖岸へ目を向けた。
昨夜、無数の願いを乗せて浮かんでいた灯籠。
それらは役目を終えたあとも、丁寧に手入れされ、また次の年を待つ。
少し素敵な話だと思った。
「……また、見に来たいです」
エリアスが言うと、リリアは微笑んだ。
「ぜひ。いつでもお待ちしています」
◇
中央広場へ向かう途中、エリアスはひとつだけ寄り道をした。
昨日、湖蜜焼きを買った屋台だった。
祭りの翌朝ということもあり、店はまだ片づけの途中だったが、店主はエリアスの姿に気づくと笑顔を見せた。
「おや、また来てくれたのかい」
「おはようございます」
「今日は何にする?」
「実は、今日フィオーレへ帰るんです」
「そうかい。祭りは楽しめた?」
「はい。とても」
エリアスは頷いた。
「それで、帰る前にもう一度、湖蜜焼きを食べたくて」
店主は嬉しそうに笑った。
「そりゃありがたいね。ちょうど生地を用意したところだよ」
焼き台へ薄い生地が流される。
じゅっと小さな音がして、香ばしい匂いが広がった。
エリアスは焼き上がる様子を眺めた。
薄い生地を返し、温めた蜜をかける。
動きに無駄がない。
「……何度見ても、上手ですね」
思わず言うと、店主は笑った。
「何十年も焼いてりゃ、手が勝手に動くようになるさ」
「私も、料理が上手になりたいです」
「そうなのかい?」
「はい。最近、少しずつ教わっているんです」
店主は生地を畳みながら頷いた。
「だったら、まずは何度も作ることだね。うまくいった日だけじゃなく、失敗した日も覚えておくといいよ」
エリアスは少し考えた。
「……失敗した日も、ですか」
「そう。どうして失敗したのかがわかれば、次は少し上手にできるだろう?」
エリアスは頷いた。
魔法の研究でも同じことをしてきた。
けれど、料理では味見の結果だけ覚えて、途中の火加減を忘れてしまうことがある。
「……帰ったら、料理用の手帳を作ってみます」
「ははっ。熱心だねえ」
店主は焼き上がった湖蜜焼きを紙で包んだ。
「ほら。旅のお供にどうぞ」
「ありがとうございます」
エリアスは代金を支払った。
少し離れたところで待っていたカイルが近づいてくる。
「買えたか?」
「はい」
「じゃあ、そろそろ馬車へ行こうぜ」
「わかりました」
エリアスは店主へ頭を下げた。
「また来ます」
「ああ。今度も焼きたてを食べていきな!」
エリアスは笑って手を振った。
◇
セレーネを出発する馬車には、行きよりも多くの荷物が積まれていた。
祭りを終えた商人たちが、売れ残った品物や道具を持ち帰るのだという。
乗客も、少し疲れたような顔をしている人が多い。
それでも、みんな満足そうだった。
カイルとエリアスは窓際の席へ座った。
リュカは膝の上に丸くなり、すでに眠そうにしている。
「……リュカも、疲れたようですね」
「あれだけ人がいたからな」
カイルは笑った。
「でも、よく頑張ったんじゃないか?」
「はい。船にも乗れましたし」
「最初はちょっと怖がってたけどな」
「帰りは落ち着いていました」
エリアスはリュカの背を撫でた。
白い獣は目を細め、エリアスの腕へ顔を寄せた。
やがて、御者が出発を告げた。
馬車がゆっくりと動き始める。
中央広場を抜け、青い屋根の建物が並ぶ通りを進む。
やがて、セレーネの石門が近づいてきた。
エリアスは窓の外を眺めた。
初めて訪れた湖の街。
美しい水面。
賑やかな市場。
そして、夜の湖に浮かんだ無数の灯り。
どれも、忘れたくない景色だった。
「……カイル」
「ん?」
「また、来たいです」
カイルは笑った。
「ああ。俺も」
「今度は、もう少し長く滞在してみたいですね」
「いいな。次は五泊くらいするか?」
エリアスは少し考えた。
「……それなら、もっといろいろな町へ行けそうです」
「そうだな」
カイルは笑った。
「ガレスも、また来いって言ってたし」
エリアスは頷いた。
馬車は門を抜け、街道へ出た。
振り返ると、遠くに青い湖が見えている。
水面は朝日に輝き、空と同じ色をしていた。
エリアスはその景色を、見えなくなるまで眺めていた。
◇
フィオーレへ戻るまでの道のりは、行きよりも短く感じられた。
道は同じだった。
宿場町も、丘陵地も、牧草地も変わっていない。
それでも、エリアスには少し違って見えた。
行きには初めて見る景色だった場所が、帰りには見覚えのある風景になっている。
宿場町では、昨日買った小皿と同じ青い釉薬の器が店先に並んでいた。
エリアスは馬車の窓からそれを見つけ、少し嬉しくなった。
「……あのお店ですね」
カイルが顔を上げる。
「ん?」
「行きに、小皿を買ったお店です」
「ああ、そうだったな」
「帰ったら、さっそく使ってみます」
「いいな。何を盛るんだ?」
エリアスは少し考えた。
「……焼き菓子でしょうか」
カイルは笑った。
「似合いそうだな」
二人は宿場町で軽く昼食をとり、その後も馬車に揺られた。
夕方には昨日泊まった宿場町へ到着し、同じ宿で一泊することになった。
主人は二人を覚えていて、笑顔で迎えてくれた。
「お帰りなさい。セレーネはどうでした?」
「とても楽しかったです」
エリアスが答えると、主人は満足そうに頷いた。
「それは何よりです。今日はゆっくり休んでくださいね」
「ありがとうございます」
夕食を済ませ、部屋へ戻る。
リュカは寝台へ飛び乗るなり、すぐに丸くなった。
エリアスは旅の手帳を開いた。
最後のページには、セレーネでの出来事がびっしりと書き込まれている。
湖蜜焼き。
青鷺堂。
アルトヴィアの陶房。
エマリエとの出会い。
ガレスと歩いた湖畔。
そして、湖灯祭。
書き出してみると、たった数日とは思えないほど多くのことがあった。
エリアスは少し笑った。
「……本当に、楽しかったですね」
リュカは眠ったまま耳を動かした。
エリアスは手帳を閉じ、明かりを落とした。
◇
翌日、馬車は午後の早い時間にフィオーレへ到着した。
街の門をくぐると、見慣れた通りが現れる。
石造りの建物。
中央広場の噴水。
鈴蘭亭の看板。
そして、遠くに見える緑の丘。
エリアスは窓の外を眺めながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……帰ってきましたね」
「ああ」
カイルも笑った。
「やっぱり、ここは落ち着くな」
「はい」
馬車を降り、荷物を受け取る。
カイルはエリアスの鞄をひとつ持ち上げた。
「家まで送るよ」
「ありがとうございます」
二人は中央広場を抜け、東の住宅街へ向かった。
道の途中、鈴蘭亭の前を通りかかると、ノアが店の外へ出てきた。
「あっ! エリアスさん!」
「こんにちは」
「お帰りなさい!」
ノアは嬉しそうに駆け寄ってきた。
「旅行、どうでした?」
「とても楽しかったです」
「本当ですか? よかった!」
ノアは笑った。
「湖灯祭、きれいでした?」
「はい。想像していた以上でした」
「いいなあ……!」
ノアは目を輝かせた。
エリアスは鞄から小さな包みを取り出した。
「こちら、お土産です」
「えっ、もう?」
「はい。お約束していましたので」
包みの中には、セレーネの花蜜と焼き菓子が入っていた。
ノアは驚いたように目を丸くした。
「……本当に買ってきてくれたんですか?」
「もちろんです」
「ありがとうございます!」
ノアは嬉しそうに包みを受け取った。
「母さんにも見せてきます!」
そう言って、店の中へ駆け込んでいった。
カイルが隣で笑った。
「相当嬉しかったみたいだな」
「よかったです」
エリアスも笑った。
やがて、店の奥からミラの声が聞こえてきた。
「エリアスさん! お帰り!」
エリアスは店の扉へ向かって頭を下げた。
「ただいま戻りました」
「今日はゆっくり休みな。話はまた明日聞かせておくれ!」
「はい。ありがとうございます」
二人は手を振り、再び歩き始めた。
◇
東の住宅街へ戻ると、道の両側には春の花が咲いていた。
フィオーレを離れたのは数日だけだったのに、花壇の様子が少し変わっている。
つぼみだった花が開き、庭木の葉も増えていた。
エリアスは自分の家の前で足を止めた。
白い壁。
淡い緑色の屋根。
そして、庭の白い花の木。
門の向こうには、マルタが水やりをしてくれた花壇が見える。
「……ただいま」
エリアスは小さく呟いた。
カイルが隣で笑った。
「やっぱり、自分の家はいいだろ?」
「はい」
エリアスは微笑んだ。
「とても」
門を開けると、リュカが腕の中から身を乗り出した。
エリアスが地面へ下ろすと、白い獣は庭をひと回りし、慣れた様子で玄関へ向かった。
「……覚えていたのですね」
リュカは振り返り、小さく鳴いた。
カイルが荷物を玄関へ運ぶ。
「よし、これで全部だな」
「ありがとうございました」
「いやいや。楽しかったな」
「はい。本当に」
エリアスは少し考えた。
「……また、ぜひ一緒に旅行へ行きたいです」
カイルは嬉しそうに笑った。
「もちろんだ。次はどこへ行くか、考えておこうぜ」
「はい」
カイルが帰ったあと、エリアスは家の中へ入った。
窓を開け、荷物を置く。
数日間使っていなかった家には、少しだけ静けさが残っていた。
それでも、すぐに馴染みのある空気が戻ってくる。
書斎の本棚。
台所の食器。
庭へ続く扉。
どれも、出発前と同じ場所にある。
エリアスは鞄から青い小皿を取り出した。
割れていないことを確認し、丁寧に洗う。
それから、セレーネで買った焼き菓子をひとつ載せてみた。
淡い青色の皿に、薄い金色の菓子がよく映える。
「……いいですね」
エリアスは満足そうに微笑んだ。
次に、アルトヴィアで買った花瓶を取り出した。
淡い緑色の釉薬。
丸みのある形。
葉のような模様。
エマリエが作った花瓶だ。
エリアスは庭へ出て、咲いている花の中から、少しだけ摘んでもよさそうなものを選んだ。
小さな白い花を数本。
花瓶へ水を入れ、丁寧に生ける。
食卓の上へ置くと、部屋の雰囲気が少し明るくなった。
「……きれいですね」
リュカが足元へ寄ってきた。
エリアスは白い獣を抱き上げ、花瓶を見せた。
「旅先で、素敵なものを見つけましたよ」
リュカは花を少し嗅いだあと、興味を失ったように顔を逸らした。
「……あなたは、やはり食べ物の方がいいのですね」
エリアスは笑った。
◇
夕方、隣の庭からマルタの声がした。
「エリアスさん、帰ってきたの?」
「はい。先ほど戻りました」
エリアスが庭へ出ると、マルタが嬉しそうに手を振った。
「お帰りなさい。旅行はどうだった?」
「とても楽しかったです」
「それはよかったわねえ」
マルタは花壇へ目を向けた。
「お花はちゃんと水をあげておいたからね。ほら、少し大きくなったでしょう?」
「はい。本当にありがとうございます」
エリアスは頭を下げた。
花壇には、出発前よりも少し背の高くなった芽が並んでいる。
マルタは満足そうに頷いた。
「もう少ししたら、支えを立てた方がいいかもしれないわね」
「そうなのですか?」
「ええ。茎が伸びてきたら、風で倒れないようにね」
「わかりました。今度、教えていただけますか?」
「もちろんよ」
マルタは笑った。
「それにしても、いい顔してるわねえ」
エリアスは少し驚いた。
「……そうでしょうか」
「ええ。旅行、よっぽど楽しかったんでしょう」
エリアスは照れたように笑った。
「……はい」
マルタは嬉しそうに頷いた。
「またお話、聞かせてね」
「ぜひ」
エリアスは笑った。
◇
夜、エリアスは書斎の机に向かっていた。
旅の手帳を開き、最後のページへ今日の日付を書き込む。
『フィオーレへ帰宅。』
その下に、少しだけ文章を加えた。
『旅先で見た景色も、出会った人々も、とても素敵だった。
また別の街へ行ってみたい。
けれど、自分の家へ帰ってこられることも、同じくらい嬉しい。』
エリアスは筆を置いた。
窓の外には、見慣れた庭が広がっている。
白い花の木。
青い刺繍の入った敷物。
ベネットが作ってくれた椅子。
その下では、リュカが丸くなっていた。
明日からは、またフィオーレでの暮らしが始まる。
料理を練習し、庭を手入れし、本を読む。
友人たちと会い、気が向けば街を歩く。
そして、次の旅の計画を立てるのもいい。
エリアスは微笑んだ。
かつて望んでいた平穏な暮らしは、思っていたよりもずっと色鮮やかだった。
静かな日々の中に、小さな楽しみがいくつもある。
それを、これからも大切にしていきたい。
「……さて」
エリアスは手帳を閉じた。
「明日は、何をしましょうか」
足元でリュカが小さく鳴いた。
エリアスは笑った。
「そうですね。まずは、朝ご飯から考えましょう」
台所には、セレーネで買った花蜜がある。
明日は少し早く起きて、パンに塗って食べてみよう。
そう考えると、もう明日の朝が楽しみになった。
エリアスは書斎の明かりを落とした。
長い旅ではなかった。
けれど、彼にとっては大切な思い出になった。
そして何より、旅から帰る場所があることを、心から嬉しく思った。




