第61話 湖に灯る、幾千もの願い
セレーネの湖灯祭は、日が暮れてから始まる。
けれど、その日の朝から、街はすでに祭り一色だった。
水鳥亭の窓を開けたエリアスは、遊歩道を行き交う人々の姿に目を奪われた。
昨日までは空いていた屋台に色とりどりの商品が並び、街灯には青と白の布飾りが結ばれている。
湖の上には小舟が何隻も浮かび、船員たちが何やら忙しそうに作業していた。
対岸から訪れる客を乗せた船も、朝早くから桟橋へ着いている。
「……ずいぶん賑やかですね」
窓辺に前脚を載せたリュカが、通りを見下ろした。
昨夜は遅くまで街の灯りを眺めていたせいか、エリアスはいつもより少し遅く目を覚ました。
それでも、今日は慌てる必要がない。
祭りは夜が本番なのだから。
「まずは、朝ご飯をいただきましょうか」
リュカの耳が立った。
エリアスは笑い、窓を閉めた。
◇
朝食を終えたあと、エリアスは宿の受付へ向かった。
手には、昨夜書いたオスカーへの手紙を持っている。
「リリアさん、おはようございます」
「あら、エリアス様。おはようございます」
「郵便を出したいのですが、この近くに取扱所はありますか?」
「ございますよ。中央広場の西側です。今日はお祭りなので、午前中に行かれた方がいいかもしれませんね」
「ありがとうございます」
リリアは封筒を見て、微笑んだ。
「旅先からのお便りですか?」
「はい。王都の友人へ」
「それは素敵ですね。セレーネの消印は水鳥の模様なんですよ」
「そうなのですか?」
「ええ。旅の記念になると、観光のお客様にも人気なんです」
エリアスは封筒を眺めた。
青鷺堂で購入した、淡い青色の封筒。
隅には小さな水鳥の絵が描かれている。
そこへ、同じ水鳥の消印が押されるのだという。
「……オスカーにも喜んでいただけるでしょうか」
「きっと」
リリアは柔らかく笑った。
「遠くの街から届く手紙は、それだけで嬉しいものですから」
エリアスは頷いた。
そのとき、階段からカイルが降りてきた。
「おはよう。何の話だ?」
「手紙を出しに行こうと思いまして」
「ああ、昨日書いてたやつか」
「はい」
「じゃあ、一緒に行くか。俺もちょっと買いたいものがあるんだ」
二人はリリアへ挨拶をし、宿を出た。
◇
中央広場へ向かう道は、昨日までとは見違えるほど賑わっていた。
屋台には焼き菓子や果実、色鮮やかな布製品が並び、通りの上には小さな灯籠が吊るされている。
どの店にも人が集まり、子供たちは祭りの日だけ売られる水鳥の玩具を手に走り回っていた。
「……すごいですね」
エリアスが立ち止まると、カイルが笑った。
「まだ朝だぞ。夕方になれば、もっと増える」
「これ以上ですか?」
「ああ。湖沿いは歩くのも大変になるから、早めに場所を決めた方がいいな」
エリアスは頷いた。
昨日、文具店の女性に教えてもらった北岸のことを思い出す。
「そういえば、人が少なくて湖灯祭を眺められる場所があると聞きました」
「へえ。どこだ?」
「北岸です。地元の方は、そちらから見ることも多いそうで」
「なるほどな。じゃあ、あとでガレスにも聞いてみよう」
二人は郵便取扱所へ入り、エリアスは王都宛ての手紙を差し出した。
係員が重さを確認し、料金を告げる。
支払いを済ませると、封筒には小さな水鳥の消印が押された。
「……本当に、水鳥ですね」
エリアスが呟くと、係員が笑った。
「セレーネへ来た記念になりますよ」
「ありがとうございます」
エリアスは手紙が仕分け箱へ収められるのを見届けた。
王都まで、何日かかるだろう。
オスカーがこれを読む頃には、自分はもうフィオーレへ帰っているかもしれない。
それを想像すると、少し面白かった。
「……無事に届くといいですね」
カイルが横から頷いた。
「ああ。きっと喜ぶさ」
◇
昼前、二人は湖沿いの市場を歩いていた。
エリアスが立ち寄ったのは、瓶詰めの蜜を売る店だった。
先日食べた湖蜜焼きに使われている、セレーネ特産の花蜜。
約束どおり、ノアへの土産にも選ぶつもりだった。
「いらっしゃい!」
店主は陽気な女性だった。
「花蜜をお探し?」
「はい。湖蜜焼きを食べて、とてもおいしかったので」
「あら、嬉しいねえ」
女性は棚から三種類の瓶を取り出した。
「こっちは春の花だけで集めた蜜。香りが柔らかいの。こちらは夏の蜜で、少し濃い味。最後が、果実の花を中心に集めたものよ」
エリアスは説明を聞きながら、小さな匙で味見をした。
春の蜜は軽やかで、後味に花の香りが残る。
夏の蜜は濃厚だった。
果実の花の蜜には、ほのかな酸味が感じられる。
「……こんなに違うのですね」
「花が違えば、味も違うからね」
女性は嬉しそうだった。
「お菓子を作るなら、春の蜜がおすすめよ」
「では、それを二瓶お願いします」
「二瓶?」
「ひとつは、お世話になっている方へのお土産です」
「いいねえ。きっと喜んでくれるよ」
エリアスは代金を支払い、瓶を受け取った。
ノアには、帰ってから湖蜜焼きの作り方も伝えよう。
フィオーレの鈴蘭亭で、新しい菓子が作られるかもしれない。
そんなことを考えていると、カイルが横から声をかけた。
「エリアス、荷物が増えてきたな」
「……そうですね」
エリアスは両手の包みを見た。
花瓶。
青い小皿。
料理の本。
便箋。
そして、花蜜の瓶。
まだ祭りの本番は始まっていない。
「……少し、買いすぎでしょうか」
「いや、気に入ったものならいいんじゃないか?」
カイルは笑った。
「ただ、全部手で持って歩くのは大変だから、一度宿へ戻って置いてこようぜ」
「……そうします」
エリアスは素直に頷いた。
◇
午後、宿へ戻った二人は、湖灯祭が始まるまで少し休むことにした。
エリアスは購入したものを机に並べ、ひとつずつ包み直した。
青い小皿は、フィオーレの家の食卓で使おう。
花瓶には、庭の花を飾りたい。
料理の本は、書斎の棚へ並べる。
花蜜は、ノアと一緒に使ってみよう。
旅先で手に入れたものが、帰ってからの暮らしにつながっていく。
そのことが、エリアスには嬉しかった。
買い物を片づけたあと、彼は窓辺の椅子へ腰を下ろした。
湖は午後の光を受け、穏やかに輝いている。
そのとき、扉を軽く叩く音がした。
「エリアス、いるか?」
カイルだった。
「はい。どうぞ」
扉を開けると、カイルは一枚の案内を持っていた。
「ガレスから連絡があった。今夜、湖の北岸まで案内してくれるってさ」
「本当ですか?」
「ああ。昼間は仕事があるらしいけど、夕方には合流できるって」
エリアスは嬉しそうに頷いた。
「それは楽しみです」
「それと、もうひとつ」
カイルは案内を広げた。
「祭りの灯籠、一般の客も流せるらしいぞ」
「灯籠を、ですか?」
「ああ。願い事を書いて、湖へ浮かべるんだって」
エリアスは案内を覗き込んだ。
そこには、小さな灯籠を水面へ浮かべる人々の絵が描かれている。
「……願い事を書くのですね」
「そうみたいだな」
カイルは笑った。
「せっかくだし、俺たちもやってみないか?」
エリアスは少し考えた。
願い事。
これまで、改めて何かを願う機会はあまりなかった。
魔法でできることなら、自分で解決すればいいと思っていた。
できないことなら、努力するしかない。
そう考えてきた。
けれど、灯籠へ願いを書いて湖へ流すという行為は、それとは少し違うのだろう。
「……ぜひ、やってみたいです」
エリアスが答えると、カイルは満足そうに笑った。
「よし、決まりだな」
◇
夕方。
セレーネの街に、祭りの始まりを告げる鐘が鳴り響いた。
エリアスが宿の外へ出ると、昼間とはまったく違う景色が広がっていた。
湖沿いの遊歩道には無数の灯りが灯され、建物の窓辺には青や白の小さな提灯が吊るされている。
屋台からは焼き魚や菓子の香りが漂い、人々の笑い声があちこちから聞こえた。
子供たちは小さな灯籠を手に走り、大人たちは湖の方へ歩いていく。
「……すごい」
エリアスは思わず呟いた。
カイルが隣で笑った。
「まだこれからだぞ」
そのとき、通りの向こうから大きな声がした。
「カイルー!」
ガレスだった。
昨日と同じように明るい笑顔を浮かべ、こちらへ手を振っている。
「待たせたな!」
「いや、俺たちも今出たところだ」
カイルが答える。
ガレスはエリアスへ目を向けた。
「どうだ、セレーネの祭りは?」
「とても賑やかで、驚いています」
「ははっ! 夜はもっとすごいぞ!」
ガレスは楽しそうに笑った。
「じゃあ、北岸へ行こうか。あっちは湖全体がよく見えるんだ」
三人は人の流れに沿って歩き始めた。
途中、小さな広場を通り抜ける。
そこでは楽団が演奏をしており、子供たちが音楽に合わせて踊っていた。
エリアスは足を止めた。
弦楽器の柔らかな音色。
笛の軽やかな旋律。
手拍子をする人々。
王宮で聴いていた演奏とは違い、誰もが自由に楽しんでいる。
エリアスはしばらく、その様子を眺めていた。
「……楽しそうですね」
「踊ってみるか?」
カイルが笑って尋ねた。
「……私が、ですか?」
「ああ」
エリアスは少し考えた。
「踊りは、あまり得意ではありません」
「宮廷にいたんだろ? 舞踏会とか出てなかったのか?」
「出席したことはありますが……あまり踊る機会はありませんでした」
「そうなのか?」
「はい。ほとんど、壁際で仕事の話をしていましたので」
カイルとガレスが顔を見合わせた。
それから、二人同時に笑い出した。
「お前らしいな!」
カイルが言う。
エリアスは少し困ったように笑った。
「……そうでしょうか」
「まあ、今日は仕事の話は禁止だな」
ガレスが笑いながら言った。
「せっかくの祭りなんだから、楽しんでくれ」
「はい」
エリアスは微笑んだ。
◇
北岸へ着いた頃には、空がすっかり暗くなっていた。
湖沿いには緩やかな芝生の斜面が広がり、人々が思い思いの場所へ腰を下ろしていた。
大通りほど混雑しておらず、湖の向こうにはセレーネの街の灯りが見える。
ガレスは水辺に近い場所を指差した。
「この辺りがいいぞ。風も強くないし、湖がよく見える」
三人は芝生へ腰を下ろした。
エリアスはリュカを膝へ抱き、目の前の景色を眺めた。
湖は、夜の空を映して深い青色に染まっている。
遠くには船がいくつも浮かび、その側面に小さな明かりが灯っていた。
そして、湖岸では人々が灯籠を準備している。
「……あちらで、灯籠を流すのですね」
「そうだ」
ガレスが頷いた。
「昔は湖で亡くなった人のために灯りを浮かべていたんだ。今は、大切な人への思いや願いを込める行事になってる」
「そうなのですね」
エリアスは湖を見つめた。
ただ美しい祭りだと思っていたが、長く受け継がれてきた意味がある。
そのことを知ると、目の前の景色が少し違って見えた。
ガレスは立ち上がった。
「じゃあ、灯籠を買ってこようか」
「私も行きます」
エリアスが立ち上がる。
カイルも続いた。
三人は湖岸の小さな屋台へ向かった。
◇
灯籠は薄い紙と木の枠で作られていた。
中央には小さな魔導灯が収められており、水に浮かべても安全な仕組みになっている。
係員は、湖面へ浮かべた灯籠をあとで回収することも説明してくれた。
「願い事はこちらの紙へお書きください」
エリアスは細い筆を受け取った。
小さな灯籠を前にして、しばらく考えた。
何を書こう。
健康。
幸せ。
旅の安全。
願い事はいくつも思いつく。
けれど、ひとつだけ選ぶとなると、少し難しい。
隣ではカイルが迷いなく筆を動かしていた。
「……カイルは、もう決まったのですか?」
「ああ」
「早いですね」
「まあ、毎年同じようなこと願ってるからな」
カイルは笑った。
エリアスは紙へ目を落とした。
自分は何を願いたいのだろう。
宮廷にいた頃は、ただ平穏に暮らしたかった。
仕事に追われず、好きな本を読み、ゆっくり食事をして、穏やかに眠る。
それが、何よりの望みだった。
そして今、その願いは少しずつ叶っている。
フィオーレには、自分の家がある。
庭があり、リュカがいる。
ミラやノア、カイル、レオンハルト、セドリックたちもいる。
知らない街へ旅に出ることもできた。
それなら、次に願うことは。
エリアスは静かに筆を動かした。
『大切な人たちが、これからも穏やかに暮らせますように。』
書き終えると、少しだけ微笑んだ。
今の自分には、それが一番しっくりくる願いだった。
◇
やがて、湖岸に集まった人々の間へ、静かな音楽が流れ始めた。
笛と弦楽器の柔らかな旋律。
それに合わせるように、最初の灯籠が湖へ浮かべられる。
小さな光がひとつ。
続いて、もうひとつ。
やがて、湖岸のあちこちから灯りが流され始めた。
エリアスは、自分の灯籠を両手で持った。
係員に案内され、水辺の石段へ降りる。
カイルとガレスも隣に立った。
「準備はいいか?」
カイルが尋ねた。
「はい」
エリアスは頷いた。
三人は、それぞれの灯籠を水面へそっと置いた。
小さな光が、静かに揺れる。
水の流れに乗り、少しずつ岸から離れていく。
エリアスはその灯りを見つめていた。
やがて、ほかの人々の灯籠と混ざり合い、どれが自分のものかわからなくなった。
けれど、不思議と寂しくはなかった。
無数の小さな光が、ひとつの大きな景色を作っている。
そのことが、とても美しく思えた。
「……すごいな」
隣でカイルが呟いた。
エリアスも頷いた。
「……はい」
湖面には、数え切れないほどの灯籠が広がっていた。
遠くの街灯りと重なり、まるで夜空の星が湖へ降りてきたようだった。
水面を渡る風が、灯籠をゆっくりと揺らしていく。
ひとつひとつの光は小さい。
けれど、それらが集まると、湖全体が優しく輝いて見えた。
エリアスは息を呑んだ。
これほど美しい景色を、今まで見たことがあっただろうか。
王宮には豪華な魔導灯があり、舞踏会の夜には大広間が眩しいほどに輝いていた。
しかし、今目の前にある灯りは、それとは違う。
誰かが大切な人を思い、願いを込めて浮かべた光。
そのひとつひとつが、湖を照らしている。
エリアスは胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……来てよかったです」
小さく呟くと、カイルが隣で微笑んだ。
「だろ?」
「はい。本当に」
ガレスも笑った。
「セレーネ自慢の祭りだからな!」
三人はしばらく言葉を交わさず、湖を眺めていた。
◇
灯籠を流したあとも、祭りの夜は続いていた。
湖沿いの広場では音楽が鳴り、人々が屋台の料理を楽しんでいる。
エリアスたちも少し歩き、温かな飲み物を買った。
カイルとガレスは昔の旅の話を始め、エリアスはそれを楽しそうに聞いていた。
ふと、ガレスが尋ねた。
「エリアス、明日はフィオーレへ帰るんだったな?」
「はい。朝の馬車に乗る予定です」
「そうか。短い滞在だったな」
「ええ。でも、とても充実していました」
エリアスは微笑んだ。
「セレーネも、アルトヴィアも、本当に素敵な街でした」
「そりゃよかった」
ガレスは満足そうに頷いた。
「また遊びに来てくれよ。今度はもっとゆっくり案内するからさ」
「ぜひ、お願いします」
カイルも笑った。
「次は別の町にも行ってみたいな」
「いいねえ。湖の北側には、まだ面白い場所があるぞ」
ガレスは楽しそうに話し始めた。
古い修道院のある村。
湖畔の果樹園。
山へ続く街道沿いの温泉町。
エリアスはひとつひとつの話に耳を傾けた。
知らない土地は、まだまだたくさんある。
今回の旅で、そのことを実感した。
そして、また別の街へ行ってみたいと思う自分に、少し驚いていた。
◇
夜遅く、水鳥亭へ戻ったエリアスは、窓辺の椅子に腰を下ろした。
湖の上には、まだいくつかの灯りが浮かんでいる。
遠くでは回収船が動き、祭りの終わりを告げるように静かな音楽が流れていた。
リュカは寝台の上で丸くなっている。
今日は人の多い場所へ行ったせいか、少し疲れたらしい。
「……お疲れさまでした」
エリアスが背を撫でると、リュカは目を細めた。
それから、手帳を開く。
今日の出来事を書き留めようと思ったのだ。
湖の市場。
花蜜の瓶。
ガレスと歩いた北岸。
そして、無数の灯籠。
書きたいことはいくつもあった。
しかし、最後に何を書くか迷い、エリアスは少しだけ筆を止めた。
今夜、湖へ浮かべた願い。
それは、誰かに話すためのものではなかった。
ただ、自分の中で大切にしておきたいと思った。
エリアスは手帳の最後に、短く一行を書いた。
『いつか、またこの景色を見に来たい。』
筆を置き、窓の外へ目を向ける。
湖に映る灯りが、風に揺れている。
明日には、フィオーレへ帰る。
あの家へ戻り、庭の花を確かめ、いつもの暮らしを再開する。
それが楽しみだった。
同時に、この街を離れるのが少し惜しくもある。
旅に出る前は、そんな気持ちになるとは思っていなかった。
エリアスは静かに微笑んだ。
「……また来ましょうね、リュカ」
白い獣が小さく鳴いた。
窓の外では、セレーネ湖が幾千もの願いを抱くように、穏やかに輝いていた。




