第60話 鐘楼の町で見つけた、思いがけない出会い
アルトヴィアの鐘楼は、町のどこからでも見える場所に建っていた。
赤茶色の屋根が連なる坂道を上っていくと、建物の間から灰白色の石造りの塔が姿を現す。
近くで見ると、思っていた以上に古い。
壁には雨風に削られた跡があり、石と石の継ぎ目には小さな草が生えている。それでも塔はまっすぐに立ち、最上部には大きな鐘が吊られていた。
「立派ですね」
エリアスが見上げると、カイルも隣で足を止めた。
「ああ。町の大きさに比べると、ずいぶん立派な鐘楼だな」
塔の周囲には小さな広場があり、木陰には長椅子が置かれている。
数人の老人が談笑し、そのそばでは子供たちが木の輪を転がして遊んでいた。
観光地らしい賑わいはない。
その代わり、ここで暮らす人々の日常が、ごく自然に広がっていた。
「展望台は向こうだってさ」
カイルが案内板を指差した。
二人は鐘楼の裏手へ回った。
そこには湖へ向かって開けた石造りのテラスがあった。
低い手すりの向こうには、緑の斜面と、その先に広がるセレーネ湖が見える。
対岸のセレーネは、ここからだと白い建物が集まった小さな街のようだった。
湖を渡る船が、水面に細い筋を描いている。
「……こんな景色だったのですね」
エリアスは手すりに近づいた。
船の上から見たアルトヴィアも美しかったが、高台から見下ろす湖はまた違っていた。
広い水面を囲むように町や村が点在し、遠くには山並みまで見える。
王国の地図を広げたとき、青く塗られた湖の周囲に小さな地名が並んでいたことを思い出した。
あの点のひとつひとつに、こんな景色があるのだ。
「どうした?」
カイルが尋ねた。
「いえ……地図で見ていた場所を、実際に歩くのは面白いなと思いまして」
「そうだな。道一本違うだけでも、知らない店があったりするし」
「はい」
エリアスは微笑んだ。
「今度は、地図に名前のない小さな村にも行ってみたいです」
「いいぞ。そういうところに限って、うまい飯屋があったりするんだ」
「それは楽しみですね」
カイルが笑った。
「お前、最近すっかり食いしん坊になったな」
「……そうでしょうか」
「前より食べ物の話が増えた気がする」
エリアスは少し考えた。
確かに、フィオーレへ来てから料理のことを考える機会が増えた。
自分で作るようになったからだろう。
「食べた料理を、家でも作ってみたいと思うんです」
「なるほどな」
「ただ、同じ味にはなかなかならなくて」
「それは練習だろ。ノアに教えてもらえばいいさ」
「はい。帰ったら相談してみます」
そう答えたとき、鐘楼から低い音が響いた。
ごおん、と重い鐘の音が湖へ広がっていく。
エリアスは顔を上げた。
一度。
二度。
三度。
音はゆっくりと続き、最後の余韻が消えるまで、湖の上を漂っているように聞こえた。
「……いい音ですね」
「ああ」
カイルも塔を見上げた。
鐘の音が止むと、広場から子供たちの歓声が戻ってきた。
エリアスはもう一度湖を眺めた。
今日は、まだ帰るのが惜しいと思った。
◇
鐘楼の裏手には、細い路地が続いていた。
そこを下れば工房の集まる地区へ出られると、近くの案内板に書かれている。
二人が歩き始めたところで、路地の向こうから慌ただしい足音が聞こえた。
「あっ、ちょっと! そっちは駄目!」
女性の声だった。
続いて、何かが転がる音がする。
角を曲がると、小さな荷車が坂道をゆっくりと下っていた。
荷車には木箱がいくつも積まれている。
その後ろを、若い女性が必死に追いかけていた。
どうやら留め具が外れ、荷車が動き出してしまったらしい。
「まずいな」
カイルがすぐに走り出した。
エリアスも状況を確認する。
坂道の下には、大きな通りがある。
荷車の速度はまだそれほど速くないが、このまま進めば人通りのある場所へ出てしまう。
カイルは荷車へ追いつき、横から持ち手をつかんだ。
「よっ……と!」
車輪が石畳を滑る。
荷車が大きく傾いた。
積まれていた木箱のひとつが、上からずり落ちる。
エリアスは反射的に指先を動かした。
落ちかけた木箱が、ほんのわずかに浮いた。
その間にカイルが荷車を止め、エリアスは木箱を地面へ静かに下ろした。
「……ふう」
カイルが息を吐く。
若い女性が追いつき、膝に手をついた。
「す、すみません……! 本当にありがとうございます!」
「いや、けががなくてよかった」
カイルは笑った。
エリアスも頷く。
「お怪我はありませんか?」
「はい、大丈夫です。あの、荷車を止めようとして、車輪の留め具を外したら……」
女性は恥ずかしそうに俯いた。
「手を離した瞬間、動き出してしまって」
「坂道では危ないですからね」
エリアスは荷車の車輪を見た。
木製の留め具が片方だけ外れている。
もう片方も、少し傷んでいるようだった。
「……こちら、替えた方がよさそうです」
エリアスが言うと、女性は頷いた。
「そうなんです。修理に持っていこうと思っていたんですが……」
カイルは荷車を道の端へ寄せた。
「とりあえず、ここで動かないようにしておこう」
近くに落ちていた木片を使い、車輪を固定する。
女性は何度も礼を言った。
「助かりました。あの、私、エマリエといいます」
「カイルだ。こっちはエリアス」
「初めまして」
エリアスが頭を下げると、エマリエも慌てて礼を返した。
年齢は二十歳前後だろうか。
淡い栗色の髪を後ろで束ね、作業用の前掛けを身につけている。
前掛けには、白い土の粉がついていた。
「陶器のお仕事をされているのですか?」
エリアスが尋ねると、エマリエは目を丸くした。
「わかるんですか?」
「前掛けに、土がついていたので」
「ああ、そうですよね」
彼女は照れたように笑った。
「私、父と一緒に陶房をやっているんです」
その言葉に、エリアスは顔を上げた。
「……もしかして、広場のアルトヴィア陶房でしょうか」
「えっ、そうです!」
エマリエは驚いた。
「ご存じなんですか?」
「先ほど、お店へ伺いました」
エリアスは鞄から小さな包みを取り出した。
淡い緑色の花瓶が入った箱だった。
「こちらを購入したんです」
エマリエは箱を見た瞬間、目を見開いた。
「……あっ」
そして、嬉しそうに笑った。
「それ、私が作ったものです!」
「やはり、そうでしたか」
エリアスも笑った。
「とても素敵でしたので、家に飾ろうと思いまして」
エマリエは一瞬、言葉を失った。
それから、少し頬を赤くした。
「……ありがとうございます」
声が、先ほどよりずっと小さくなっていた。
「私、まだ修業中なので、お店に並べてもらえるものも少ないんです」
「そうなのですね」
「父は、もっといろいろ作っていいと言ってくれるんですけど……なかなか自信がなくて」
エマリエは花瓶の箱を見つめた。
「でも、買ってくださる方がいるんですね」
エリアスは少し不思議そうに首を傾げた。
「もちろんです。とても気に入っていますから」
その言葉に、エマリエは照れくさそうに笑った。
カイルが横から口を挟む。
「こいつ、気に入ったものはすぐ買うんだ。昨日も皿を買ってたし」
「……カイル」
「褒めてるんだって」
エマリエが声を立てて笑った。
さっきまで強張っていた表情が、ようやく柔らかくなった。
◇
荷車を修理できる工房は、すぐ近くにあった。
カイルが運ぶのを手伝い、エリアスは落ちないよう木箱を支えながら歩いた。
荷車を預けたあと、エマリエは二人へ向き直った。
「本当にありがとうございました。よろしければ、お礼をさせてください」
「いや、そこまでしなくても」
カイルが言うと、エマリエは首を振った。
「でも、お二人がいなかったら、あのまま通りへ出ていたかもしれません」
彼女は少し考えた。
「……そうだ。もし時間があれば、うちの工房へ来ませんか?」
エリアスが顔を上げる。
「工房へ、ですか?」
「はい。普段はお店の奥で作業しているんですけど、今日は窯出しの日なんです」
「窯出し……」
「焼き上がった器を取り出す日です。見学だけでも面白いと思いますよ」
エリアスはカイルを見た。
カイルは笑って頷いた。
「いいんじゃないか? 帰りの船までは、まだ時間もあるし」
「では、ぜひお願いします」
エマリエは嬉しそうに笑った。
「こちらです!」
三人は坂道を下り、先ほど訪れた陶房へ向かった。
◇
工房の奥には、大きな窯が二つ並んでいた。
石と煉瓦で作られた窯の周囲には、焼き上がった器を置く棚がある。
店主はエマリエの父親で、先ほどエリアスたちへ花瓶を売ってくれた男性だった。
二人が戻ってきたことに驚いた様子だったが、事情を聞くと深々と頭を下げた。
「娘がご迷惑をおかけしました」
「いえ。何もなくてよかったです」
エリアスが答えると、店主は安堵したように笑った。
「まったく、あの荷車は早く修理しろと言っていたんですがね」
「……ごめんなさい」
エマリエが小さく答える。
カイルは苦笑した。
「まあ、今回は俺たちも通りかかってよかったよ」
そのあと、エマリエは工房の作業場を案内してくれた。
窯から取り出された器は、まだ少し温かさが残っている。
青や緑の釉薬が光を受け、ひとつひとつ違った表情を見せていた。
「……きれいですね」
エリアスは棚の前で足を止めた。
「焼く前は、こんな色じゃないんですよ」
エマリエが説明した。
「釉薬をかけたときは、もっと白っぽかったり、灰色だったりするんです」
「そうなのですか?」
「はい。窯の熱で色が変わるんです。だから、取り出すまではどんな仕上がりになるかわからなくて」
エリアスは興味深そうに頷いた。
魔法の術式にも、完成するまで結果を確かめられないものがある。
もちろん、危険な実験とは違うけれど、思い描いたものが形になるまでの緊張感は少し似ているのかもしれない。
「……それは、楽しみでもあり、不安でもありますね」
エマリエは驚いたようにエリアスを見た。
「そうなんです。まさに、それです」
彼女は嬉しそうに笑った。
「うまく焼けたら、本当に嬉しくて。でも、失敗したら全部やり直しですから」
エリアスは棚に並んだ器を眺めた。
「それでも、続けていらっしゃるのですね」
「はい。好きなんです」
エマリエは迷わず答えた。
「難しいですけど、やっぱり自分で作ったものを見るのが楽しくて」
エリアスは微笑んだ。
「素敵ですね」
エマリエは少し照れくさそうに笑った。
そのとき、店主が声をかけた。
「エマリエ、これを見てみなさい」
彼が手にしていたのは、小さな白い皿だった。
縁には青い線が描かれている。
しかし、その線は一部分だけ滲んでいた。
「……あ」
エマリエの表情が曇る。
「また、滲んじゃった……」
店主は皿を光にかざした。
「釉薬が少し厚かったんだろうな」
「そうですね……」
エマリエは落ち込んだ様子だった。
エリアスは皿を見た。
確かに、青い線は均一ではない。
けれど、その滲みは水面に広がる波紋のようにも見えた。
「……私は、こちらも好きです」
思わず口にすると、エマリエが顔を上げた。
「え?」
「青い線が、少し波のように見えます」
エリアスは皿を指差した。
「湖の町らしくて、きれいだと思います」
エマリエはしばらく皿を見つめた。
そして、少しだけ笑った。
「……そんなふうに見えるんですね」
「はい」
店主も皿を眺めた。
「なるほど。そういう見方もあるか」
エマリエは皿を受け取り、もう一度じっと見つめた。
「……次は、わざと少し滲ませてみようかな」
「お、いいんじゃないか」
店主が笑った。
エリアスも微笑んだ。
思いどおりにならなかったものが、別の良さを持つこともある。
それは、少し面白い発見だった。
◇
工房を出た頃には、日が西へ傾き始めていた。
エマリエは店の前まで見送ってくれた。
「今日は、本当にありがとうございました」
「こちらこそ。楽しい時間でした」
エリアスが答えると、エマリエは嬉しそうに笑った。
「またアルトヴィアへ来ることがあったら、ぜひ寄ってください」
「はい。きっと」
「そのときは、もっと上手な器を作っておきます」
エリアスは少し考えた。
「……今日の花瓶も、とても気に入っていますよ」
エマリエは一瞬きょとんとした。
それから、声を立てて笑った。
「ありがとうございます。じゃあ、次は別のものを作っておきますね」
「楽しみにしています」
二人は笑い合った。
カイルが手を振る。
「じゃあな。また来るよ」
「はい! よい旅を!」
エマリエの声に見送られ、二人は石畳の坂道を下り始めた。
遠くには、湖が夕陽を受けて輝いている。
「……いい人たちでしたね」
エリアスが言うと、カイルは頷いた。
「ああ。思いがけず面白いものも見られたしな」
「はい」
エリアスは大切に抱えた花瓶の箱を見た。
家へ帰ったら、庭の花を飾ろう。
そうしたら、エマリエにも手紙を書いてみたい。
自分が作った花瓶が、遠くの街で使われていると知ったら、きっと喜んでくれるだろう。
そう考えると、自然に笑みがこぼれた。
◇
帰りの船は、夕暮れの湖をゆっくりと進んだ。
空には茜色の光が残り、水面には長い金色の道ができている。
リュカは往路よりも落ち着いていた。
エリアスの腕の中で丸くなり、ときどき船の揺れに合わせて耳を動かしている。
「……少し慣れましたね」
エリアスが囁くと、リュカは小さく鼻を鳴らした。
カイルは船縁の向こうを眺めながら言った。
「今日は、いろいろあったな」
「はい」
「皿を買うだけのつもりが、工房の見学までできたし」
「そうですね」
エリアスは笑った。
「旅先では、予定していなかったことも楽しいのですね」
「そういうもんだよ。全部決めたとおりじゃ、つまらないだろ?」
エリアスは少し考えた。
王都では、予定どおりに物事を進めることが何より大切だった。
時間を守り、必要な準備を整え、予想外の出来事にも対応する。
それが、自分の仕事だった。
けれど、今は違う。
予定になかった道を歩き、知らない人と話し、思いがけないものに出会う。
その時間が、とても楽しかった。
「……そうですね」
エリアスは微笑んだ。
「また、知らない町へ行ってみたいです」
「もちろん。今度はもっと遠くまで行くか?」
「ぜひ」
カイルは笑った。
「本当に旅が好きになったんだな」
「はい。どうやら、そのようです」
エリアスは湖の向こうを眺めた。
セレーネの街には、少しずつ明かりが灯り始めている。
明日は、いよいよ湖灯祭だ。
湖に無数の灯りが浮かぶ夜。
どんな景色になるのだろう。
エリアスは期待に胸を膨らませながら、船の進む先を見つめていた。
◇
その夜、水鳥亭へ戻ったエリアスは、窓辺の机へ向かっていた。
今日買った花瓶は、布に包んで鞄の奥へしまってある。
リュカは寝台の上で眠っていた。
エリアスは青鷺堂で購入した便箋を取り出した。
淡い青色の紙。
隅には、小さな水鳥が描かれている。
その一枚へ、ゆっくりと筆を走らせた。
『オスカーへ
お元気ですか。
私は今、セレーネという湖の街に来ています。
フィオーレで知り合った友人に誘われて、初めて観光のための旅行をすることになりました。
湖は想像していたよりもずっと広く、とてもきれいです。今日は船に乗って、向こう岸の小さな町まで行ってきました。
旅先で陶器の花瓶を買いました。庭の花を飾るつもりです。
それから、セレーネにはおいしい料理がたくさんあります。
ノアに教わった料理も、少しずつ作れるようになってきました。
帰ったら、また新しい料理にも挑戦してみようと思っています。』
エリアスはそこで筆を止めた。
オスカーは、こんな手紙を読んでどう思うだろう。
仕事の話は、ほとんど書いていない。
以前なら、近況を報告するだけの手紙など、送ったことはなかった。
けれど、今はこれでいいように思えた。
エリアスはもう少し書き加えた。
『こちらでの暮らしは、とても楽しいです。
フィオーレには、帰る家があります。
友人も増えました。
そして今は、こうして旅先で手紙を書いています。
宮廷にいた頃とは、ずいぶん違う毎日になりました。
オスカーにも、いつかこの景色を見ていただきたいです。
お仕事がお忙しいとは思いますが、どうかご無理をなさらないでください。
またお便りします。
エリアス』
最後に署名をし、便箋を封筒へ入れた。
明日の朝、宿の受付で郵便の出し方を尋ねよう。
エリアスは封筒を机の端へ置いた。
窓の外では、湖沿いの通りに灯りが並び始めている。
明日の祭りを前に、街は少し賑やかだった。
エリアスは椅子から立ち上がり、窓へ近づいた。
水面には、いくつもの灯りが映っている。
まだ祭りの本番ではない。
それでも、十分に美しかった。
「……明日は、もっときれいなのでしょうね」
背後でリュカが小さく鳴いた。
エリアスは振り返り、微笑んだ。
「一緒に見ましょうね」
夜の湖から、涼しい風が吹いてきた。
セレーネで過ごす二日目の夜は、穏やかに更けていった。




