第59話 湖を渡れば、知らない町がある
セレーネで迎える最初の朝は、船の汽笛ではなく、窓辺に集まった水鳥の声で始まった。
エリアスが目を開けると、薄いカーテンの向こうに湖が見えた。
朝日を受けた水面は淡い銀色に輝き、昨日とはまた違った表情を見せている。
窓を開けると、涼しい風が頬を撫でた。
すぐ下の遊歩道では、籠を抱えた女性が歩いている。少し離れた船着き場には、魚を積んだ小舟が戻ってきたところだった。
街はもう動き始めている。
「……おはようございます」
寝台の足元で丸くなっていたリュカへ声をかけると、白い獣は片目だけ開けた。
エリアスは笑い、窓を少しだけ開けたまま着替えを始めた。
今日は午前中に街を散策し、午後から湖の向こう岸にある町へ行く予定だ。
昨夜、ガレスが話してくれた場所。
古い石畳と工房が残る、小さな町だという。
セレーネへ来たばかりなのに、もう別の町へ足を延ばすことになるとは思わなかった。
けれど、それも旅の面白さなのだろう。
エリアスは鞄から手帳を取り出した。
昨日のうちに書いておいた予定を確認する。
『午前――文具店、古書店』
『午後――湖を渡って対岸の町へ』
その下には、少し小さな文字があった。
『リュカが船を嫌がった場合は無理をしない。』
エリアスは眠そうなリュカを見つめた。
「今日は、船に乗るかもしれませんよ」
リュカは耳を動かした。
「湖の上を進むんです」
反応はない。
「……鶏肉も持っていきます」
途端に顔が上がった。
エリアスは小さく笑った。
「ええ。そうだと思いました」
◇
水鳥亭の朝食には、焼きたてのパンと湖魚の燻製が添えられていた。
香草を練り込んだ卵料理に、温かな野菜のスープ。小皿には季節の果実が盛られている。
食堂の窓からも湖が見え、朝の光が木製の食卓へ差し込んでいた。
「おはよう、エリアス」
先に席へ着いていたカイルが手を振った。
「おはようございます」
「よく眠れたか?」
「はい。朝、窓のところに水鳥が来ていました」
「ああ、ここの鳥は人に慣れてるからな。宿の人が時々餌をやってるらしい」
エリアスは椅子へ座った。
リュカは足元の敷物に丸くなっている。昨夜、宿のリリアが用意してくれたものだった。
「今日はまず文具店だったよな」
「はい。セドリック様に教えていただいたお店へ行ってみたいんです」
「場所は?」
「地図では、中央広場の北側ですね」
エリアスは手帳を開いて見せた。
店の名前だけでなく、通りの特徴や近くの建物まで書き込んである。
カイルが感心したように眉を上げた。
「ちゃんと調べたんだな」
「道に迷わないようにと思いまして」
「俺も一緒にいるぞ?」
「はい。でも、カイルとはぐれてしまったら困りますから」
その返事に、カイルは少し笑った。
「お前が迷子になるところ、想像できないけどな」
エリアスは首を傾げた。
「知らない道では、誰でも迷うことがあると思いますが」
「まあ、そうなんだけど」
カイルはパンをひと口食べた。
「じゃあ今日は、お前の地図に案内してもらおう」
「はい」
エリアスは嬉しそうに頷いた。
◇
中央広場の北側には、古い商店が軒を連ねる通りがあった。
大通りほど賑やかではないが、落ち着いた雰囲気があり、窓辺に花を飾っている店も多い。
その一角に、セドリックが教えてくれた文具店はあった。
木製の看板には『青鷺堂』と書かれている。
店先の窓には、色とりどりの封筒や便箋が並べられていた。
「……ここですね」
エリアスは足を止めた。
扉を開けると、小さな鈴が澄んだ音を立てた。
店内には紙の匂いと、ほのかな木の香りが漂っている。
壁一面に便箋や封筒が並び、奥には筆記具を収めたガラス棚があった。
「いらっしゃいませ」
店の奥から、眼鏡をかけた年配の女性が顔を出した。
「何かお探しかしら?」
「便箋を見せていただきたいのですが」
「もちろん。こちらへどうぞ」
女性は窓際の棚へ案内してくれた。
そこには、厚さも色も異なる紙が丁寧に並べられている。
薄い青色。
生成り色。
淡い緑色。
湖の波を模した模様が入ったものもあった。
エリアスは一枚ずつ手に取った。
「……手触りが違うのですね」
「ええ。紙に混ぜる繊維の種類で変わるんですよ」
女性は一枚の便箋を取り出した。
「こちらは、湖畔で育つ草の繊維を少し混ぜています。丈夫で、インクがにじみにくいんです」
「それは便利ですね」
エリアスは紙を光にかざした。
繊維の細かな模様が、うっすらと透けて見える。
「こちらを、何枚かいただけますか?」
「もちろんです」
女性が枚数を確認する。
エリアスは少し考えたあと、青色の封筒も選んだ。
旅先からオスカーへ手紙を送るつもりだった。
フィオーレへ移ってからの暮らしに加え、今度はセレーネへ旅行に来たと伝えたら、彼はどんな顔をするだろう。
以前なら、休暇中に遠出する予定などわざわざ報告しなかったかもしれない。
けれど今は、仕事の報告ではなく、友人への便りとして書きたかった。
「……これにしましょう」
選んだ封筒には、隅に小さな水鳥が描かれていた。
カイルが横から覗き込んだ。
「誰かに手紙を出すのか?」
「はい。王都の友人に」
「へえ。仲いいんだな」
「とてもお世話になった方です」
エリアスは微笑んだ。
「私が宮廷を離れるときも、いろいろ助けていただきました」
「そりゃ、いい人なんだろうな」
「はい。本当に」
カイルはそれ以上尋ねず、隣の棚に並ぶ木製の栞を眺め始めた。
エリアスは便箋と封筒を購入し、店主へ礼を述べた。
店を出る前、女性が声をかける。
「湖灯祭へいらしたの?」
「はい。昨日、セレーネへ着いたばかりなんです」
「それなら、明日の夜は湖の北岸にも行ってみてくださいな。あちらは人が少なくて、灯りがよく見えるんですよ」
「そうなのですね」
「観光の方は大通りへ集まりますけれど、地元の人は北岸から眺めるのが好きなの」
エリアスは手帳へ書き留めた。
「ありがとうございます。ぜひ行ってみます」
女性は嬉しそうに笑った。
「よい旅を」
◇
文具店を出たあと、二人は近くの古書店へ立ち寄った。
こちらは青鷺堂とは対照的に、店先から本が溢れそうなほど並んでいた。
扉の横には安売りの本が積まれ、窓辺には古い地図や航海記録が飾られている。
エリアスは店に入るなり、足を止めた。
「……すごいですね」
「レオンハルトの店より多いんじゃないか?」
「そうですね。ただ、こちらは旅行記が多いようです」
エリアスは棚の背表紙を眺めた。
北方の雪山を歩いた旅人の記録。
南の島々を巡る航海日誌。
古い都市の建築をまとめた本。
どれも興味深い。
特に目を引いたのは、各地の食文化を紹介した一冊だった。
『王国各地の食卓と郷土料理』
エリアスは本を開いた。
そこには、山岳地方の煮込み料理や、港町で食べられる魚料理などが紹介されている。
挿絵も細かく、調理方法まで書かれていた。
「……これ、面白そうです」
カイルが隣から覗き込む。
「料理の本か?」
「はい。地域によって、こんなに違うのですね」
「そりゃ、採れるものも違うからな」
カイルはページを指差した。
「これ、前にヴェルトで食べたことあるぞ」
「本当ですか?」
「ああ。山羊の乳で作る濃いスープなんだ。寒い日に食べると、うまいんだよ」
エリアスはその料理をじっと見た。
「……いつか食べてみたいです」
「じゃあ、今度はヴェルトへ行くか?」
「ぜひ」
即答すると、カイルは笑った。
「まだセレーネに着いたばかりだって」
「……そうでした」
エリアスも笑った。
結局、料理の本を一冊購入することにした。
旅先でしか見つけられないものに出会う。
それも、旅の楽しみのひとつらしい。
◇
昼食を軽く済ませたあと、二人はガレスに教えてもらった船着き場へ向かった。
セレーネの中央港は大きく、観光客や商人で賑わっていたが、湖の向こう岸へ渡る定期船は、少し離れた小さな桟橋から出るという。
そこには、二十人ほどが乗れる木造船が停泊していた。
船体は濃い青色に塗られ、側面には白い水鳥の絵が描かれている。
「……あの船でしょうか」
「多分な」
カイルは窓口で行き先を確認し、二人分の乗船券を購入した。
船が向かうのは、対岸の小さな町『アルトヴィア』。
古い石造りの工房と、市場が残る町だった。
船着き場では、家族連れや買い物帰りの人々が乗船を待っている。
リュカはエリアスの腕の中から、船をじっと見つめていた。
「……大丈夫でしょうか」
エリアスが小さく呟くと、カイルが隣を見た。
「リュカのことか?」
「はい。初めての船なので」
「嫌がるようなら、今日はやめてもいいぞ」
エリアスはリュカの背を撫でた。
「どうしますか?」
白い獣は船を見つめたまま、しばらく動かなかった。
やがて、鼻先をエリアスの腕へ寄せる。
逃げようとする様子はない。
「……では、少しだけ乗ってみましょうか」
リュカは短く鳴いた。
船員に小動物の同伴を確認すると、籠や布で安全に抱えていれば問題ないと言われた。
エリアスは旅用の布を使い、リュカが落ち着けるように抱き直した。
それから、カイルと一緒に船へ乗り込んだ。
◇
船が桟橋を離れた瞬間、リュカの耳がぴんと立った。
水面を進む船は、馬車とはまったく違う揺れ方をする。
左右へゆっくり傾くたび、リュカはエリアスの腕へ顔を寄せた。
「大丈夫ですよ」
エリアスは静かに背を撫でた。
リュカは少し不満そうに鼻を鳴らしたものの、暴れることはなかった。
船の上には、湖を渡る風が吹いていた。
セレーネの街が少しずつ遠ざかっていく。
白い壁と青い屋根が連なり、その向こうに緑の丘が広がっている。
エリアスは手すりの近くから、その景色を眺めた。
「……きれいですね」
「船から見ると、また違うだろ?」
「はい。街全体が見えます」
カイルは隣に立ち、湖の向こうを指差した。
「あれがアルトヴィアだ」
遠くに、小さな町が見え始めていた。
湖に向かって緩やかに続く坂道。
赤茶色の屋根。
そして、町の中心に立つ細い鐘楼。
セレーネとは、また違った雰囲気の町だった。
「……かわいらしい町ですね」
「ああ。ガレスが気に入ってるのもわかるな」
二人はしばらく景色を楽しんでいた。
そのとき、後ろの方から子供の声が聞こえた。
「あっ!」
振り返ると、小さな男の子が手にしていた帽子を落としてしまったところだった。
風に煽られた帽子が甲板を転がり、船縁へ向かっていく。
母親らしい女性が慌てて手を伸ばした。
けれど、あと少し届かない。
帽子は船縁を越え、湖へ落ちかけた。
その瞬間、エリアスが指を軽く動かした。
帽子がふわりと浮かぶ。
まるで風に押し戻されたように、ゆっくりと男の子の足元へ戻ってきた。
「……あれ?」
男の子は不思議そうに帽子を拾った。
母親も目を丸くしている。
エリアスは何事もなかったように、湖へ視線を戻した。
隣のカイルが小さく笑った。
「……お前、またやったな」
「何がでしょう?」
「帽子」
「ああ」
エリアスは頷いた。
「湖へ落ちたら、拾うのが大変ですから」
「そうだけどさ」
カイルは苦笑した。
「普通は、ああいうの見ても間に合わないんだよ」
エリアスは少し考えた。
「……そうなのですか?」
「ああ」
カイルは肩をすくめた。
「まあ、助かったからいいけどな」
そのとき、男の子がこちらへ走ってきた。
「お兄さん!」
エリアスが振り返る。
「はい?」
「さっき、帽子が戻ってきたの!」
「そうでしたね」
「お兄さんがやったの?」
エリアスは少し迷ったあと、微笑んだ。
「風に飛ばされないように、気をつけてくださいね」
男の子は元気よく頷いた。
「うん!」
母親が追いつき、丁寧に頭を下げた。
「すみません。ご迷惑をおかけしました」
「いえ。無事でよかったです」
女性はもう一度礼を言い、男の子の手を引いて戻っていった。
カイルはその様子を見送りながら、小さく笑った。
「……やっぱり、お前と旅すると退屈しないな」
エリアスは不思議そうに首を傾げた。
◇
アルトヴィアの船着き場へ到着した頃には、午後の日差しが少し柔らかくなっていた。
桟橋を降りると、目の前には石畳の坂道が続いている。
町の建物はどれも低く、赤茶色の屋根と白い壁が並んでいた。
道の両側には小さな花壇があり、窓辺には陶器の鉢が飾られている。
遠くから、金属を叩く音が聞こえてきた。
「……何の音でしょう」
エリアスが尋ねると、カイルが辺りを見回した。
「工房じゃないか? ガレスが言ってたろ」
「そうでしたね」
二人は坂道を上っていった。
角を曲がると、小さな広場が現れた。
中央には古い噴水があり、その周囲には陶器や木工品を並べた店が軒を連ねている。
観光客もいるが、セレーネほど賑やかではない。
街の人々がゆっくりと買い物をし、店先で世間話をしている。
エリアスは足を緩めた。
「……落ち着いた町ですね」
「ああ。俺はこういう雰囲気も好きだな」
カイルは頷いた。
リュカは船を降りて安心したのか、エリアスの腕の中から周囲を見回している。
水の上とは違い、足元にしっかりした地面があることが嬉しいらしい。
「……船は、少し苦手でしたか?」
エリアスが尋ねると、リュカは短く鼻を鳴らした。
「帰りも乗るのですが……」
白い耳が、わずかに伏せられた。
カイルが笑う。
「帰りはもう少し慣れるかもしれないぞ」
「そうだといいのですが」
二人は広場の奥へ進んだ。
そこには、木製の看板を掲げた小さな工房があった。
『アルトヴィア陶房』
窓辺には、青や白の釉薬をかけた皿が並んでいる。
エリアスは思わず足を止めた。
「……こちらも、素敵ですね」
カイルが横から覗き込む。
「また皿か?」
「はい」
「昨日も買ってなかったか?」
「ええ。でも、こちらは形が違います」
エリアスが真面目に答えると、カイルは笑った。
「なるほど。じゃあ、入ってみるか」
二人は工房の扉を開けた。
◇
店内には、焼き物特有の土の匂いが漂っていた。
棚には大小さまざまな皿や器が並び、奥には作業場が見える。
店主らしい男性が、ろくろの前で手を動かしていた。
「いらっしゃい」
男性は手を止め、二人を迎えた。
「旅行の方かな?」
「はい。セレーネから船で来ました」
エリアスが答えると、男性は頷いた。
「それなら、ゆっくり見ていってください。うちは全部、この町で焼いてるものですから」
エリアスは棚を眺めた。
青い釉薬の皿。
花の模様が入った小鉢。
素焼きの花瓶。
どれも少しずつ形が違い、手作りの温かみがあった。
その中で、エリアスの目を引いたのは、淡い緑色の小さな花瓶だった。
丸みのある形。
細く伸びた口。
表面には、葉のような模様が刻まれている。
「……こちら、きれいですね」
店主が近づいた。
「それは、うちの娘が作ったものですよ」
「そうなのですか」
「ああ。まだ修業中なんですがね。最近ようやく、納得のいく形が作れるようになったんです」
エリアスは花瓶を手に取った。
少しだけ左右の形が違う。
けれど、それがかえって自然で、手に馴染む感じがした。
「……とても素敵です」
店主は嬉しそうに笑った。
「そう言ってもらえると、娘も喜びます」
エリアスは少し考えた。
フィオーレの家には、庭で育てている花がある。
いつか花を摘んで、この花瓶へ飾ったらきっときれいだろう。
「……こちらを、ひとついただけますか?」
「もちろん」
店主は丁寧に包み、木箱へ入れてくれた。
カイルが隣で笑っている。
「これで、皿に花瓶に……帰りの荷物が増えてきたな」
「……そうですね」
エリアスは少し考えた。
「本は、あまり買わない方がいいでしょうか」
「もう買ってるだろ」
「一冊だけです」
「一冊でも増えてるんだよ」
カイルが笑う。
エリアスも、つられて笑った。
工房を出ると、広場には柔らかな午後の日差しが差していた。
石畳の上を人々が行き交い、遠くから鐘の音が聞こえてくる。
エリアスは包みを大切に抱えながら、町を見回した。
セレーネとは違う、小さな町。
そこで出会った人々と、初めて見るもの。
短い滞在でも、心に残るものはたくさんあるらしい。
「……カイル」
「ん?」
「この町へ来られて、よかったです」
カイルは笑った。
「まだ見てないところもあるぞ」
「ええ。楽しみです」
二人は再び歩き始めた。
坂道の先には、古い鐘楼が見えている。
その足元には、小さな広場と、湖を見渡せる展望台があるという。
エリアスはリュカを抱き直し、石畳の道を進んだ。
遠くでは、湖を渡る風が鐘楼の小さな旗を揺らしていた。




