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平穏を望む宮廷魔導師は、自由気ままに暮らしたい  作者: nene
第3章 湖の街と、初めての旅

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第58話 水の都セレーネ、湖風に誘われて


 翌朝、エリアスが一階の食堂へ降りると、カイルはすでに朝食を済ませかけていた。


「おはよう。よく眠れたか?」


「はい。とても」


 エリアスは向かいの席へ座った。


 食卓には焼きたてのパンと卵料理、それから温かな野菜のスープが並んでいる。


 宿の主人が運んできたパンには、細かく刻んだ香草が練り込まれていた。


「今日は湖の近くまで行くんだろう? 天気がよくて何よりだ」


 主人が窓の外を見ながら言った。


「この季節は、午後になると湖から風が吹くんだ。上着はすぐ出せるところにしまっておくといい」


「ありがとうございます。そうします」


 エリアスが礼を言うと、主人はリュカのために用意した水の器を床へ置いてくれた。


 リュカは少し警戒して匂いを確かめ、それから静かに水を飲み始めた。


「賢い子だね」


「食事の時間になると、特にそう思います」


 エリアスが答えると、主人は声を立てて笑った。


 カイルもパンをちぎりながら笑っている。


「お前、リュカのことになると意外と冗談言うよな」


「冗談ではないのですが……」


「それが余計に面白いんだよ」


 理由がよくわからないまま、エリアスもつられて微笑んだ。


 宿を出る頃には、街道に朝日が差し始めていた。


 馬車へ荷物を積み込み、御者に挨拶をする。


 昨日から一緒だった老婦人は、リュカに向かって小さく手を振った。


「今日もよろしくね、小さな旅人さん」


 リュカはエリアスの腕の中から、その手をじっと見つめた。


 逃げることもなく、短く鼻を鳴らす。


「あら。昨日より仲良くなれたかしら」


 老婦人は嬉しそうだった。


 エリアスも笑いながら馬車へ乗り込んだ。


     ◇


 昼が近づくにつれて、街道の景色は少しずつ変わっていった。


 畑の間を縫うように続いていた道が、緩やかな丘陵地へ入る。


 小高い丘の斜面には果樹園が広がり、白い花を咲かせた木々が並んでいた。


 その先には、小さな村がいくつも見える。


 家々の屋根はフィオーレよりも明るい色をしており、ところどころに青い瓦が使われていた。


「この辺りから、セレーネの文化圏に入るんだ」


 カイルが窓の外を指差した。


「屋根の色が違うだろ?」


「ええ。青い瓦が多いですね」


「湖の土から作る釉薬が有名なんだ。昔から建物にも使ってるらしい」


 エリアスは昨日買った小皿を思い出した。


 青い釉薬をかけた、手のひらほどの皿。


 あれも、土地によって異なる焼き物のひとつなのだろう。


「……街によって、建物にも特色があるのですね」


「そりゃな。寒い地方へ行けば窓が小さくなるし、南の港町なら風通しをよくした家が多い」


「カイルは、いろいろな場所へ行かれているのですね」


「仕事でな。でも、まだ行ったことのないところも山ほどあるぞ」


 カイルは少し身を乗り出した。


「そうだ、次に行くなら山の方もいいな。秋になると森が真っ赤になる街があるんだ」


「それは、ぜひ見てみたいです」


「気が早いな。まずは今回の旅だろ」


「……そうでした」


 二人が笑っていると、前方から御者の声が聞こえた。


「皆さん、右手をご覧ください! 間もなくセレーネ湖が見えます!」


 エリアスはすぐに窓へ顔を向けた。


 丘の斜面が途切れる。


 その向こうに、広大な青い水面が現れた。


「…………」


 思わず言葉を失った。


 湖は、想像していたよりも遥かに大きかった。


 遠くの岸辺は霞み、空と水面の境界が曖昧になっている。


 太陽の光を受けた水面には、無数の細かな輝きが散っていた。


 風が吹くたび、その光が形を変えながら広がっていく。


 湖の周囲には緑の丘が連なり、白い帆を張った船がゆっくりと進んでいた。


「……すごい」


 エリアスの口から、自然に声が漏れた。


 カイルは隣で笑った。


「どうだ?」


「……こんなに広い湖があるのですね」


「ああ。初めて見ると驚くだろ?」


「はい。本当に」


 王宮の書庫には、セレーネ湖の地図も記録もあった。


 湖の面積も、水深も、交易に使われる航路も知っている。


 しかし、地図の上で見ていたものと、実際に目の前に広がる景色はまるで違っていた。


 風に揺れる水面。


 遠くに浮かぶ帆船。


 そして、果てしなく続いているように見える青。


 エリアスはしばらく、窓から目を離せなかった。


 膝の上のリュカも、珍しく身を乗り出している。


「リュカ、見えますか?」


 小さな耳がぴんと立った。


 リュカは湖を見つめたあと、エリアスの顔を見上げた。


「……きれいですね」


 返事の代わりに、リュカは短く鳴いた。


     ◇


 セレーネの街へ入ると、馬車の速度が少し落ちた。


 街の入口には大きな石門があり、門柱には水鳥と波を組み合わせた紋章が彫られている。


 その向こうには、明るい色の建物がずらりと並んでいた。


 フィオーレの落ち着いた街並みとは、随分と印象が違う。


 建物の壁は白や淡い黄色が多く、窓枠には青や緑の塗装が施されている。


 通りには花の鉢が置かれ、二階の窓からは色鮮やかな布が吊るされていた。


 湖灯祭を控えているためか、街のあちこちに飾りつけが始まっている。


 水鳥を模した小さな飾り。


 薄い青色の布。


 夜に灯りを入れるためのガラス細工。


 エリアスは窓の外を眺めながら、何度も視線を動かしていた。


「……きれいな街ですね」


「そうだろ?」


 カイルも嬉しそうだった。


「ここの中央通りは、祭りが始まると歩くのも大変なくらい混むんだ」


「そんなに人が集まるのですか?」


「ああ。王都や南の港町からも客が来るからな」


 馬車は広場の手前で停まった。


 御者が到着を告げ、乗客たちが順番に降りていく。


 エリアスもリュカを抱き、馬車を降りた。


 足元には、白い石畳が広がっている。


 広場の中央には大きな噴水があり、その周囲を花壇が囲んでいた。


 水面には青い空が映り、噴水の縁には小さな水鳥がとまっている。


 そして何より、街全体に水の匂いが漂っていた。


 潮の匂いではない。


 どこか涼しげで、澄んだ風の匂いだった。


「……本当に、湖の街なのですね」


 エリアスが呟くと、カイルが笑った。


「そりゃ、セレーネだからな」


 二人は荷物を受け取り、広場を抜けて宿へ向かうことにした。


     ◇


 湖畔の宿『水鳥亭』は、中央広場から歩いて十五分ほどの場所にあった。


 大通りを抜け、少し細い道へ入ると、目の前に湖が現れる。


 水辺に沿って遊歩道が続き、その向こうには白い帆を張った船がいくつも停泊していた。


 宿は、そんな湖沿いの一角に建っていた。


 白い壁と青い屋根。


 入口には小さな木製の看板が掛けられ、水鳥の絵が描かれている。


「……素敵ですね」


「評判のいい宿らしいぞ」


 カイルが扉を開けた。


 中へ入ると、明るい声が迎えてくれた。


「いらっしゃいませ!」


 受付に立っていたのは、三十代くらいの女性だった。


 肩までの栗色の髪を後ろでまとめ、淡い青色のエプロンを身につけている。


「ご予約のお客様でしょうか?」


「カイル・ヴァルディスです。二部屋お願いしてるんだけど」


「はい。お待ちしておりました」


 女性は帳簿を確認した。


「カイル様と、エリアス様ですね。三泊のご予定で承っております」


「はい。よろしくお願いします」


 エリアスが頭を下げると、女性は笑顔で頷いた。


「こちらこそ。私はこの宿を任されております、リリアと申します」


 彼女はエリアスの腕にいるリュカへ目を向けた。


「あら。この子が事前にご相談いただいた子ですね」


「はい。リュカといいます」


「まあ、かわいらしい」


 リリアは少し身をかがめたが、無理に手を伸ばすことはしなかった。


「お部屋にはお水の器も用意してあります。食事の際に一緒にいらっしゃる場合は、端のお席をご案内できますので、お声がけください」


「ありがとうございます」


「それから、湖側のお部屋は夕方の風が強いことがあります。窓を開けるときだけお気をつけくださいね」


「承知しました」


 鍵を受け取り、二人は階段を上がった。


 廊下には湖を描いた絵が飾られ、窓辺には花が生けられている。


 エリアスの部屋は二階の奥だった。


 扉を開けた瞬間、目の前に大きな窓が現れた。


「…………」


 エリアスは思わず足を止めた。


 窓の向こうには、セレーネ湖が広がっていた。


 先ほど丘の上から眺めた景色とは違う。


 今度は湖がすぐ近くにあり、水面を渡る風の音まで聞こえてくる。


 窓辺には小さな机と椅子が置かれ、室内には柔らかな光が差し込んでいた。


 寝台には白い布がきれいに掛けられ、壁には水鳥の絵が飾られている。


「……いいお部屋ですね」


 エリアスは静かに呟いた。


 リュカも腕の中から顔を出し、窓の方へ目を向けた。


「ほら、見てください。湖ですよ」


 リュカはしばらく水面を眺めていた。


 そのあと、当然のように寝台へ飛び乗った。


「……まずは、そちらなのですね」


 エリアスは笑った。


 鞄を置き、窓辺へ近づく。


 遠くには、祭りの準備をしている人々の姿が見えた。


 湖沿いの遊歩道には小さな屋台が並び始め、色とりどりの旗が風に揺れている。


 まだ祭りは始まっていない。


 それでも、街全体が少し浮き立っているように感じられた。


     ◇


 荷物を片づけていると、隣の部屋からカイルが声をかけてきた。


「エリアス、準備できたか?」


「はい。もう大丈夫です」


 二人は宿の前で合流した。


「ガレスとの約束は夕方だから、それまでは少し街を歩こうぜ」


「ぜひ」


「どこへ行きたい?」


 エリアスは少し考えた。


 古書店。


 文具店。


 湖沿いの市場。


 遊覧船の乗り場。


 行ってみたい場所はいくつもある。


 けれど、最初に見たいものは決まっていた。


「……湖の近くを歩いてみたいです」


「いいな。じゃあ、遊歩道へ行こう」


 二人は宿の前の道を進み、湖沿いの遊歩道へ出た。


 白い石畳が水辺に沿って続いている。


 ところどころには木製のベンチが置かれ、街の人々が湖を眺めながら話をしていた。


 水辺には小さな船着き場があり、船員たちが帆や縄を点検している。


 エリアスは足を止めた。


 湖の水は、近くで見ると想像していたよりも透明だった。


 浅い場所では底の小石が見え、波が寄せるたびに光が揺れる。


「……きれいですね」


「この辺りは水が澄んでるんだ。少し離れると、もっと深い青になるぞ」


 カイルが説明した。


 エリアスはしゃがみ込み、水面を覗いた。


 小さな魚が何匹か泳いでいる。


 そのうちの一匹が、水草の間へ素早く姿を消した。


「……魚がいます」


「そりゃいるだろ」


「こんなに近くで見られるとは思いませんでした」


 カイルは笑った。


 リュカも水面を覗き込んだ。


 しかし、波が石段へ寄せた瞬間、驚いたようにエリアスの腕へしがみつく。


「大丈夫ですよ」


 エリアスは優しく背を撫でた。


 リュカは水面を睨むように見つめ、耳を伏せた。


「……濡れるのは、やはり苦手なのですね」


「船に乗るとき、大丈夫かな」


 カイルが笑いながら言った。


「少しずつ慣れてもらいましょう」


「そうだな。無理に乗せることもないし」


 二人は再び歩き始めた。


 しばらく進むと、水辺の広場に小さな屋台が並んでいるのが見えた。


 焼き魚。


 果実を使った飲み物。


 湖の形を模した焼き菓子。


 エリアスはその中のひとつに目を留めた。


「……あれは何でしょう?」


 屋台には、丸い生地を薄く焼き、果実の蜜をかけた菓子が並んでいた。


 店主が気づいて声をかける。


「湖蜜焼きだよ。セレーネの名物さ!」


「湖蜜焼き……」


「この辺りで採れる花の蜜を使ってるんだ。食べてみるかい?」


 エリアスはカイルを見た。


 カイルは笑って頷いた。


「せっかくだし、食ってみようぜ」


 二人はひとつずつ購入した。


 薄く焼かれた生地は、外側が香ばしく、中は柔らかい。


 上からかけられた蜜には、花のような優しい香りがあった。


 エリアスはひと口食べ、目を細めた。


「……おいしいです」


「お、気に入ったか」


「はい。甘いのですが、後味が軽いですね」


 カイルもひと口食べた。


「確かにな。これなら何枚でも食えそうだ」


 エリアスは店主へ作り方を尋ねてみた。


 すると、店主は笑いながら、生地に使う粉の種類や、蜜を温める温度について教えてくれた。


 難しい料理ではないらしい。


 ただし、セレーネで採れる花の蜜が味の決め手なのだという。


「……では、少し蜜を買って帰りたいです」


「祭りの市場で売ってるよ。瓶詰めになったものがあるから、探してみるといい」


「ありがとうございます」


 エリアスは嬉しそうに頷いた。


 フィオーレへ帰ったら、ノアに相談してみよう。


 もしかすると、鈴蘭亭でも似た菓子を作れるかもしれない。


     ◇


 湖沿いを歩いているうちに、午後の日差しが少し傾き始めた。


 水面には金色の光が差し込み、遠くを進む船の帆が白く輝いている。


 エリアスは足を止めた。


 セドリックが話していた景色だった。


「……カイル」


「ん?」


「この景色、セドリック様が教えてくださったんです」


「そうなのか?」


「はい。夕暮れになると、湖が金色に見えると」


 カイルは湖を眺めた。


「確かに、きれいだな」


 エリアスも頷いた。


 水面には無数の光が散り、風が吹くたびに形を変えていく。


 同じ湖なのに、朝とはまったく違う表情を見せていた。


 エリアスはしばらく、その景色を眺めた。


 そして、ふと口を開いた。


「……来てよかったです」


 カイルが隣を見る。


「まだ初日だぞ?」


「ええ。それでも、そう思います」


 エリアスは微笑んだ。


 知らない街。


 知らない料理。


 初めて見る景色。


 そのすべてが、新鮮だった。


 宮廷にいた頃、旅先で景色を楽しむ余裕がなかったわけではない。


 ただ、いつも次の予定を気にしていた。


 時間に追われ、仕事のことを考え、気づけば帰る日になっていた。


 今は違う。


 目の前の湖を、ただきれいだと思って眺めていられる。


 それが、何より贅沢に感じられた。


 カイルは少し笑った。


「なら、明日からも楽しもうぜ」


「はい」


 エリアスは頷いた。


     ◇


 夕方、二人はガレスとの待ち合わせ場所へ向かった。


 湖沿いの通りを少し進んだところにある、小さな食堂だった。


 看板には『湖風亭』と書かれている。


 扉を開けると、店内にはすでに多くの客がいた。


 木製の梁が見える天井。


 壁には船の絵や古い航路図が飾られている。


 窓際には、湖を見渡せる席が並んでいた。


「カイル!」


 奥の席から、大きな声が響いた。


 振り返ると、背の高い男性が立ち上がっていた。


 短く刈った茶色の髪。


 日に焼けた肌。


 がっしりした体格。


 年齢は三十歳前後だろうか。


 男性は大きく手を振っている。


「ガレス!」


 カイルも笑って近づいた。


 二人は肩を叩き合い、久しぶりの再会を喜んだ。


「お前、全然変わってないな!」


「そっちこそ、相変わらず声がでかい」


「ははっ! 元気そうで何よりだ!」


 ガレスは笑いながら、エリアスへ目を向けた。


「で、こちらが例の友人か?」


「ああ。エリアス・レインフォードだ」


 カイルはエリアスを振り返った。


「エリアス、こいつがガレスだ。昔、一緒に仕事してた仲間でな」


 エリアスは丁寧に頭を下げた。


「初めまして。エリアス・レインフォードと申します。カイルには、いつもお世話になっています」


「おお、こちらこそ!」


 ガレスは大きな手を差し出した。


「ガレス・オルディンだ。よろしくな!」


 エリアスはその手を握った。


 ガレスの手は大きく、少し硬かった。


 長く現場仕事をしてきた人の手だった。


「カイルから話は聞いてるよ。フィオーレで知り合ったんだってな」


「はい」


「いい街だろ、フィオーレは」


「ええ。とても気に入っています」


 エリアスが答えると、ガレスは満足そうに頷いた。


「そうかそうか。じゃあ、セレーネも気に入ってもらわないとな!」


 彼は席へ案内した。


「今日は俺のおすすめを食ってくれ。ここの魚料理は絶品なんだ」


「それは楽しみです」


 エリアスは笑った。


 リュカは腕の中からガレスを見つめていた。


 ガレスが気づく。


「おっ、その子が噂の?」


「はい。リュカです」


「かわいいなあ。触ってもいいか?」


 エリアスはリュカの様子を見た。


 リュカは少し考えるようにガレスを見つめたあと、エリアスの腕へ顔を寄せた。


「……すみません。まだ少し緊張しているようです」


「ははっ、構わんよ。ゆっくり仲良くなろう」


 ガレスは笑い、店員を呼んだ。


 やがて、温かな料理が次々と運ばれてきた。


 香草を使った湖魚の焼き物。


 野菜と貝の入ったスープ。


 薄く焼いたパン。


 そして、湖の近くで採れる果実を使った甘い飲み物。


 エリアスは目の前に並ぶ料理を眺めた。


「……すごいですね」


「遠慮せず食ってくれ!」


 ガレスが笑った。


 エリアスは最初に魚料理をひと口食べた。


 柔らかな白身がほぐれ、香草と柑橘の香りが広がる。


「……とてもおいしいです」


「だろう?」


 ガレスは嬉しそうだった。


「この辺りの魚は、身が柔らかくてな。焼くときに少しだけ柑橘を使うのが、この店のやり方なんだ」


 エリアスは頷いた。


 フィオーレの魚料理とも、宿場町で食べた煮込みとも違う。


 土地が変われば、味も変わる。


 それが面白かった。


 その後も、三人は食事をしながら話を続けた。


 カイルとガレスが昔一緒に受けた護衛依頼の話。


 セレーネでの運送の仕事。


 湖灯祭の準備が、今年は例年より早く進んでいること。


 エリアスは楽しそうに耳を傾けていた。


 すると、ガレスがふと思い出したように言った。


「そうだ。エリアス、明日は何か予定があるのか?」


「午前中は街を見て回ろうと思っています。古書店や文具店にも行ってみたくて」


「なるほど。じゃあ、午後はどうだ?」


 エリアスは少し考えた。


「まだ、特には決めていません」


「それなら、湖の向こう側へ行ってみないか?」


 エリアスは顔を上げた。


「……湖の向こう側、ですか?」


「ああ。小さな船で渡れるんだ」


 ガレスは窓の外を指差した。


「向こう岸には、古い石畳の町がある。大きな観光地じゃないが、昔ながらの工房や小さな市場が残ってるんだ」


 カイルも興味を示した。


「へえ。俺も行ったことないな」


「だろ? せっかく来たなら、あっちも見ていくといい」


 エリアスは湖の向こうを思い浮かべた。


 セレーネとはまた違う、小さな町。


 船で渡る湖。


 古い石畳の通り。


 新しい場所を訪れる楽しみが、さらに増えた。


「……ぜひ、行ってみたいです」


 エリアスが言うと、ガレスは満足そうに笑った。


「よし、決まりだ!」


 カイルも笑った。


「いいな。明日は少し足を延ばしてみようぜ」


「はい」


 エリアスは嬉しそうに頷いた。


 窓の外では、湖の向こうに夕暮れの光が残っている。


 明日は、あの水面を渡っていくのだ。


 そう思うだけで、胸が弾んだ。


     ◇


 夜、宿へ戻ったエリアスは、窓辺の椅子に腰を下ろした。


 湖の上には、月の光が細く伸びている。


 遠くでは、祭りの準備を終えた人々が船を片づけていた。


 リュカは寝台の上で丸くなり、気持ちよさそうに眠っている。


 エリアスは手帳を開いた。


『セレーネ到着。湖が想像以上に広かった。』


『水鳥亭は、とても居心地のいい宿。』


『湖蜜焼きがおいしい。帰りに蜜を買う。』


『ガレスさんと会った。明日は湖の向こうの町へ行く予定。』


 書き終えてから、エリアスは少し考えた。


 そして、最後にもう一行を加えた。


『旅行は、思っていたよりずっと楽しい。』


 エリアスは微笑んだ。


 この街へ来る前は、ただ静かに暮らせればいいと思っていた。


 けれど、フィオーレで友人ができ、自分の家ができ、旅に出る機会まで生まれた。


 平穏な暮らしとは、何も起こらない毎日ではないのかもしれない。


 自分の意思で、行きたい場所へ行く。


 会いたい人に会い、好きなものを食べる。


 そんな小さな自由を積み重ねることが、今の自分にとっての幸せなのだろう。


 エリアスは手帳を閉じた。


 窓の外では、夜の湖が静かに輝いている。


「……明日も、楽しみですね」


 眠っていたリュカが、少しだけ尾を動かした。


 エリアスは笑い、窓を閉めた。


 湖の街で過ごす最初の夜は、穏やかに更けていった。


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