第57話 街道の先に見つけた、小さな楽しみ
フィオーレの街並みが見えなくなった頃、エリアスはようやく窓から身を引いた。
馬車は南西へ続く街道を、一定の速さで進んでいる。
両側には緑の牧草地が広がり、その向こうには低い丘が連なっていた。ところどころに白い花が咲き、風に揺れる草の間を小鳥が飛び交っている。
「どうだ、乗り心地は?」
向かいの席に座るカイルが尋ねた。
「思っていたより快適です」
「そりゃよかった。昼前までは道もいいからな」
「昼前までは?」
「ああ。丘を越えた先は、ちょっと揺れる」
エリアスは足元に置いた鞄を見た。
「……荷物が落ちないようにしておきます」
「そうしてくれ。前にこの街道を通ったとき、隣の客が持ってた果物の籠がひっくり返ってさ」
「それは大変ですね」
「馬車の中を林檎が転がって、みんなで拾う羽目になった」
カイルは笑いながら話した。
「しかも、その客が『せっかくだから食べてくれ』って言い出してな。結局、乗客全員で林檎を食べたんだ」
「……楽しそうですね」
「楽しかったけど、あれは一回で十分だ」
エリアスは小さく笑った。
馬車の中には、二人のほかに四人の乗客がいた。
前方には旅行鞄を抱えた若い夫婦。後ろには商人らしい中年の男性と、編み物をしている老婦人が座っている。
リュカはエリアスの膝の上でおとなしく丸くなっていた。
最初こそ車輪の音に耳を動かしていたが、今は時折窓の外を眺めるくらいだ。
「この子、おとなしいねえ」
後ろの席から声がした。
振り返ると、老婦人が編み物の手を止め、リュカを見ていた。
「ありがとうございます」
「狐かい?」
「狐に似た魔法生物なんです」
「まあ、そうなの」
老婦人は目を細めた。
「青い目がきれいだねえ。触ってもいいかしら」
エリアスはリュカの様子を確かめた。
「リュカ、どうですか?」
白い獣は老婦人をじっと見たあと、エリアスの腕へ顔を寄せた。
「……すみません。少し人見知りをするようで」
「いいのよ。知らない人に急に触られるのは嫌だものね」
老婦人は気を悪くした様子もなく微笑んだ。
「私も昔、気難しい猫を飼っていたの。家族には甘えるのに、お客さんが来ると棚の上から降りてこなくてね」
「そうなのですか」
「でも、その子のおかげで毎日楽しかったわ」
エリアスは膝の上のリュカを見下ろした。
「……よくわかります」
老婦人はその返事を聞いて、嬉しそうに笑った。
◇
昼前になると、馬車は小さな宿場町へ入った。
石畳の通りには旅籠や食堂が並び、街道を行き交う馬車が何台も停まっている。
御者が馬を休ませるため、しばらく停車すると告げた。
「ここで昼飯にしようぜ」
カイルが立ち上がる。
「はい」
エリアスはリュカを抱き、馬車を降りた。
外へ出ると、焼きたてのパンと肉料理の香りがした。
街道沿いの小さな食堂では、開け放たれた窓から賑やかな声が聞こえてくる。
「ここは寄ったことあるんだ。うまい煮込みを出すぞ」
カイルに案内され、二人は食堂へ入った。
店内は旅人と商人で混み合っていたが、奥の窓際に空いた席があった。
壁には手書きの献立が掛けられている。
羊肉の香草煮込み。
焼き野菜と豆のスープ。
きのこの包み焼き。
エリアスはしばらく献立を眺めた。
「……どれもおいしそうですね」
「迷うなら煮込みにしとけ。ここの名物だ」
「では、それをいただきます」
カイルが注文を済ませると、店員が水を運んできた。
エリアスはリュカのために、持参した小さな器へ水を注いだ。
「鶏肉も少し持ってきていますからね」
そう声をかけると、リュカは顔を上げた。
器の水をひと口飲み、期待するようにエリアスを見つめている。
「……先にお水を飲んでください」
カイルが吹き出した。
「完全に言葉がわかってるよな、そいつ」
「ええ。都合のいい言葉は、特によく聞いています」
「ははっ、違いない」
やがて、料理が運ばれてきた。
深い皿には柔らかく煮込まれた羊肉と野菜が盛られ、温かな湯気が立ち上っている。
添えられたパンは表面が香ばしく焼かれていた。
エリアスはひと口食べ、思わず目を見開いた。
「……おいしい」
「だろ?」
「香草の香りが強いのに、肉の味がしっかり残っていますね」
「この辺りで育ててる香草を使うらしいぞ」
エリアスはもうひと口食べた。
肉は驚くほど柔らかく、煮汁には野菜の甘みが溶け込んでいる。
「ノアに教えていただいた香草焼きとは、また違う味です」
「そりゃ煮込みだからな」
「帰ったら、作り方を聞いてみようと思います」
「いいな。今度、俺にも食わせてくれよ」
「もちろんです」
答えてから、エリアスは少し考えた。
「……上手にできれば、ですが」
「失敗しても食うよ。焦がしてなければな」
「それなら、頑張れそうです」
二人は笑い合った。
食事の途中、窓の外を小さな荷馬車が通り過ぎていく。
屋根のついた荷台には、色とりどりの布が積まれていた。
フィオーレではあまり見かけない柄だ。
「あれは、セレーネへ向かう商人ですか?」
エリアスが尋ねると、カイルは窓の外を見た。
「ああ、多分な。湖灯祭に合わせて、あちこちから商人が集まるんだ」
「そうなのですね」
「普段は売ってないものも並ぶから、見て回るだけでも楽しいぞ」
エリアスは、セレーネの市場を想像した。
珍しい布。
湖で採れた魚。
遠い地方から運ばれた菓子。
知らない道具や、初めて見る工芸品。
何を買うか決めていなくても、きっと楽しめるだろう。
「……時間が足りなくなりそうですね」
エリアスが言うと、カイルは笑った。
「まだ着いてもいないのに?」
「はい。行ってみたい場所が、たくさんありますので」
「三泊あるんだ。全部一日で回ろうとしなくていいさ」
「……そうですね」
エリアスは頷いた。
予定を詰め込みすぎないこと。
それも、休暇の旅では大切なのかもしれない。
◇
食事を終えて宿場町の通りへ出ると、馬車の出発まで少し時間が残っていた。
カイルは御者へ戻る時間を確認し、エリアスを振り返った。
「少し歩くか?」
「はい。ぜひ」
二人は街道沿いを歩き始めた。
大通りには旅人向けの店が並び、革製品や保存食、旅用の道具が売られている。
エリアスが足を止めたのは、小さな陶器店の前だった。
店先には手のひらほどの器が並んでいる。
淡い青色のもの。
白い釉薬をかけたもの。
花の形をした小さな皿。
「……きれいですね」
「食器が気になるのか?」
「ええ。家で使うものを、少しずつ揃えたいと思っているんです」
エリアスは青い小皿を手に取った。
縁には、細い波の模様が描かれている。
「これ、いいですね」
店主が声をかけた。
「それはこの町の窯で焼いたものですよ。釉薬の色が少しずつ違うんです」
「そうなのですか」
エリアスは皿を光にかざした。
青い色の中に、ところどころ白が混じっている。
湖面のようにも、晴れた空のようにも見えた。
「……ひとつ、いただきます」
購入を決めると、カイルが少し意外そうな顔をした。
「セレーネで買うんじゃないのか?」
「これが気に入りましたので」
「そうか」
カイルは笑った。
「まあ、旅の買い物なんて、そういうもんか」
エリアスは丁寧に包まれた小皿を鞄へしまった。
初めて訪れた町で、初めて買ったもの。
それが、家で毎日使う食器になる。
想像すると、少し嬉しくなった。
通りの向こうでは、子供たちが小さな木の輪を転がして遊んでいた。
店先で交わされる商人たちの挨拶。
宿の二階から干される洗濯物。
忙しそうに歩く人々。
エリアスはその景色を眺めた。
この町にも、ここで暮らしている人々の毎日がある。
フィオーレと同じように。
けれど、建物の形も、食べ物の味も、通りを行き交う人々の服装も少しずつ違っている。
それが、何だか面白かった。
「……カイル」
「ん?」
「旅行って、いいものですね」
カイルは足を止めた。
「まだ半分も来てないぞ?」
「ええ。それでも、もう楽しいです」
エリアスが微笑むと、カイルも笑った。
「そりゃよかった」
そのとき、遠くから馬車の出発を知らせる鐘が聞こえた。
「おっと、戻らないとな」
「はい」
二人は少し足を速めた。
◇
午後の街道は、午前中よりも道が悪かった。
馬車が丘を越えるたび、車輪が小石を踏んで揺れる。
エリアスは鞄を足元へ押さえ、リュカを抱き直した。
「……なるほど。カイルの言っていたとおりですね」
「だから言ったろ?」
カイルは慣れた様子で窓枠に肘を置いている。
馬車が大きく跳ねた瞬間、エリアスの膝から旅行案内が滑り落ちそうになった。
「あっ」
すぐに手を伸ばす。
どうにか本を受け止めたが、代わりに鞄が傾いた。
中から、小さな布包みが転がり出る。
先ほど買った小皿だった。
「……!」
エリアスは反射的に指を動かした。
布包みが床へ落ちる直前、ほんの少しだけ宙に浮く。
そして、何事もなかったようにエリアスの手へ戻ってきた。
あまりにも自然な動きだった。
向かいに座るカイルだけが、その様子を見ていた。
「……今、魔法使っただろ」
「はい」
「皿を落とさないために?」
「割れてしまったら困りますので」
エリアスは真面目に答えた。
カイルはしばらく黙ったあと、肩を震わせ始めた。
「……お前なあ」
「何でしょう?」
「いや、いい。皿が無事で何よりだ」
カイルは笑いをこらえながら窓の外を向いた。
エリアスは少し不思議に思ったが、それ以上は尋ねなかった。
小皿を鞄の奥へしまい直す。
今度こそ、落ちないように。
馬車が次の丘を越える頃には、景色が大きく変わっていた。
牧草地は少なくなり、代わりに広い畑が続いている。
遠くには水車のついた建物が見え、畑の間を細い川が流れていた。
エリアスは窓の外を見つめた。
「……この辺りは、農業が盛んなのですね」
「ああ。セレーネの市場へ野菜を運んでる村も多いんだ」
「そうなのですか」
「湖の街だから魚ばっかりだと思うかもしれないけど、周りの畑も豊かなんだよ」
エリアスは頷いた。
知らなかったことが、ひとつ増えた。
それだけで、旅が少し豊かになった気がした。
◇
夕方近く、馬車はもうひとつの宿場町へ到着した。
ここが、今日の宿泊地だった。
セレーネまでは、明日の午後に着く予定だという。
馬車を降りると、遠くの空が茜色に染まり始めていた。
カイルは荷物を受け取り、エリアスを振り返った。
「今日はここまでだ。明日も早いから、飯を食ったらゆっくり休もうぜ」
「はい」
案内された宿は、街道沿いのこぢんまりした建物だった。
入口には旅人用の長椅子が置かれ、窓からは温かな灯りが漏れている。
宿の主人は、事前に小動物の同伴を伝えられていたらしく、リュカを見ると穏やかに頷いた。
「お部屋はこちらです。隣同士で二部屋、ご用意しています」
「ありがとうございます」
エリアスは鍵を受け取った。
部屋へ入ると、木製の寝台と小さな机が置かれている。
窓の外には、街道と低い丘が見えた。
派手な部屋ではなかったが、清潔で落ち着いていた。
「……いいお部屋ですね」
エリアスは鞄を置き、リュカを床へ下ろした。
白い獣は部屋の隅を確認したあと、寝台へ飛び乗った。
「……まず、そこなのですね」
エリアスは笑った。
旅用の敷物を広げてみたが、リュカは寝台の上から動かない。
結局、敷物は寝台の足元へ置くことになった。
◇
夕食のあと、二人は宿の前にある長椅子へ腰を下ろした。
空には、少しずつ星が見え始めている。
昼間の賑わいが落ち着き、街道を行き交う馬車も少なくなっていた。
エリアスは温かい飲み物を手に、遠くの丘を眺めた。
「疲れたか?」
カイルが尋ねた。
「少し。でも、とても楽しかったです」
「ならよかった」
カイルは椅子の背へ体を預けた。
「明日は、もっと景色が変わるぞ」
「そうなのですか?」
「ああ。昼頃になると、遠くに湖が見えてくる」
エリアスは顔を上げた。
「……湖が」
「初めて見たときは、俺も驚いたな。海みたいに広くてさ」
「そんなに大きいのですか?」
「向こう岸が霞んで見えるくらいにはな」
エリアスは想像した。
広い水面。
そこに映る空。
風に揺れる光。
そして、湖のほとりに広がるセレーネの街並み。
「……楽しみです」
カイルは笑った。
「明日になれば見られるよ」
二人はしばらく、静かに夜空を眺めていた。
やがて、カイルがぽつりと言った。
「……こうして誰かと旅行するのも、久しぶりだな」
エリアスは隣を見た。
「そうなのですか?」
「ああ。冒険者の仕事で遠くへ行くことは多いけど、遊びに行くのはなかなかなくてさ」
カイルは少し笑った。
「昔の仲間に会うのも楽しみだけど、今回はお前と一緒に行けてよかったと思ってる」
エリアスは少し驚いた。
それから、静かに微笑んだ。
「……私もです」
カイルは照れくさそうに頭を掻いた。
「何だか、変な感じだな」
「何がでしょう?」
「いや、こういう話をするのがさ」
エリアスは少し考えた。
けれど、無理に答えを探すのはやめた。
ただ、隣に座る友人と同じ景色を眺めていられることが、心地よかった。
宿の入口から、主人が声をかけた。
「お二人とも、そろそろ戸締まりをしますよ」
「はーい」
カイルが立ち上がる。
「じゃあ、明日も早いし寝るか」
「はい」
エリアスも立ち上がった。
部屋へ戻ると、リュカが寝台の上で丸くなっていた。
エリアスは鞄から手帳を取り出し、今日の出来事を短く書き留めた。
『宿場町で香草煮込みを食べた。青い小皿を購入。』
それから、少し考えて一行を加える。
『カイルと旅をするのは、とても楽しい。』
書き終えると、自然に笑みがこぼれた。
明日は、いよいよセレーネへ到着する。
エリアスは手帳を閉じ、寝台へ腰を下ろした。
リュカが顔を上げ、少しだけ場所を空ける。
「……ありがとうございます」
エリアスは笑い、明かりを消した。
窓の外では、春の夜風が静かに吹いていた。
まだ知らない湖の街は、もうそれほど遠くなかった。




