第56話 旅立ちの朝、フィオーレをあとに
出発の日が近づくにつれ、エリアスの家には少しずつ旅の荷物が増えていった。
最初に用意したのは、着替えと雨具。それから、リュカの食器と敷物だった。
その後、セレーネの旅行案内を読み進めるうちに、持っていきたいものがいくつか増えた。
湖畔の街には古書店が多いらしい。
ならば、本を持ち帰るための余裕も必要だろう。
それに、カイルの知人を訪ねるのであれば、手土産も用意したい。
そうして荷物を並べていくと、寝台の上がすっかり埋まってしまった。
「……思ったより、多いですね」
エリアスは腕を組んだ。
以前、王宮から地方へ出向く際には、必要なものを鞄ひとつにまとめていたはずだった。
もっとも、あの頃は着替えの準備も移動の手配も、ほとんどオスカーが整えてくれていた。
自分で用意していたのは、仕事に使う魔導具と研究資料くらいだ。
考えてみれば、旅行の荷造りを最初から最後まで自分でするのは、これが初めてだった。
リュカが寝台へ飛び乗った。
広げてある衣服を踏み越え、柔らかな布の上に座り込む。
「リュカ。そちらは明日着る服ですよ」
白い獣は振り返ったが、動かなかった。
エリアスはしばらく見つめたあと、別の服を取り出した。
「……では、こちらにしましょう」
衣服を畳み直していると、玄関の呼び鈴が鳴った。
「エリアス、いるかー?」
カイルの声だった。
◇
「……お前、三泊するだけだよな?」
部屋へ入ったカイルは、寝台の上の荷物を見て最初にそう言った。
「はい」
「引っ越しじゃないよな?」
「もちろんです」
エリアスが答えると、カイルは荷物をひとつずつ眺めた。
「着替え、雨具、洗面道具……まあ、この辺は普通か」
続いて、革の鞄に入った小さな道具箱を持ち上げる。
「これは?」
「魔導具の修理道具です」
「使う予定があるのか?」
「いえ。ですが、旅先で何か故障したら困るでしょう?」
「宿の魔導灯が壊れたら、宿の人が直すだろ」
「……確かに」
エリアスは少し考え、道具箱を元の棚へ戻した。
カイルは次の包みを開いた。
「こっちは?」
「本です」
「何冊ある?」
「五冊です」
「三泊で?」
「読む時間があるかもしれませんので」
カイルは一冊を取り上げた。
表紙には『古代北方文字の地域別変遷』と書かれている。
「……これ、旅行中に読むのか?」
「面白いですよ。地域によって同じ文字の意味が変わることもあるんです」
「そうか。じゃあ、帰ってきたら聞かせてくれ」
「よろしいのですか?」
「ああ。ただ、今は一冊にしておこう」
エリアスは本を見比べた。
どれも途中まで読んでいるもので、選ぶのが難しい。
結局、レオンハルトから借りたセレーネの古い旅行案内を残すことにした。
「……こちらなら、街を歩くときにも使えますね」
「それが一番いいと思うぞ」
カイルは笑いながら頷いた。
荷物が半分ほどになったところで、彼は椅子へ腰を下ろした。
「そういえば、向こうで会う仲間の話、まだ詳しくしてなかったな」
「はい。どのような方なのですか?」
「名前はガレス。俺より三つ年上で、昔は一緒に護衛の仕事をしてた」
「今も冒険者を?」
「いや、今はセレーネで小さな運送業をやってる。湖を渡る荷物を運んだり、商人の護衛を手配したりな」
カイルは少し懐かしそうに笑った。
「昔から面倒見のいいやつでさ。俺がまだ駆け出しだった頃、ずいぶん世話になったんだ」
「それは、お会いするのが楽しみです」
「ああ。向こうも楽しみにしてるって」
カイルは窓の外へ目を向けた。
「祭りの時期は忙しいらしいけど、初日の夕方には時間を空けてくれるそうだ」
「では、お土産を用意しないといけませんね」
「そのつもりなら、フィオーレの菓子がいいんじゃないか?」
「鈴蘭亭のお菓子ですね」
「そうそう。ノアに頼んでみたらどうだ?」
エリアスは頷いた。
「明日、相談してみます」
カイルは立ち上がった。
「じゃあ、俺はそろそろ戻るよ。あとは必要なものだけ鞄に入れとけよ」
「はい。ありがとうございました」
「出発前日に、また迎えに来るからな」
カイルが帰ったあと、エリアスは寝台を見た。
少なくなった荷物の真ん中で、リュカが眠っている。
「……あなたは、持っていくものが少なくていいですね」
そう呟くと、リュカは眠ったまま尾を動かした。
◇
出発まで残り三日となった午後、エリアスはセドリックの執務室を訪ねた。
目的は、庭の下にある補助観測線の図面を渡すことだった。
ルーヴェルから届いた図面は、すでにテレサとレオンハルトにも確認してもらっている。
古い石蓋を開けなくても、地下の流路がどの方角へ伸びているか、おおよその位置を特定することができた。
「……これで、住宅地の地下設備についても管理記録に残せますね」
セドリックは図面を見ながら言った。
「はい。今後、塀の補修や庭の工事をするときにも参考になると思います」
「助かります。土地を借りている方への説明にも使えますから」
エリアスは頷いた。
庭の石蓋は、今のところ触れる必要がない。
テレサも、地下の状態が安定していることを確認していた。
それなら、そこに何があるかを記録し、安全に管理できるようにしておけば十分だった。
「北東地区の道路は、もう通行できるようになったのでしょうか」
エリアスが尋ねると、セドリックは頷いた。
「ええ。昨日、テレサの最終確認が終わりました。馬車の通行はもう数日様子を見ますが、歩行者は通れるようになっています」
「それはよかったです」
「今回の補修で、古い点検口の位置も正確に記録できました。今後の管理がずいぶんしやすくなりましたよ」
セドリックは書類を閉じた。
「これで、ひとまず現地調査は一区切りですね」
「はい」
エリアスは静かに頷いた。
北の祭殿。
三つの観測所。
地下に残された古い流路。
そして、七十年前のヴェルナーの研究。
すべての謎が解けたわけではない。
特に第七標については、まだ確かなことがわかっていなかった。
けれど、今すぐ何かを動かす必要はない。
むしろ、これ以上無理に調べることで、街の安全を損なう方が問題だった。
「……これからも、必要なときにはお手伝いします」
エリアスが言うと、セドリックは微笑んだ。
「ありがとうございます。ただ、しばらくはご自分の時間を楽しんでください」
「はい」
「旅行へ行かれるのでしょう?」
エリアスは少し驚いた。
「ご存じだったのですか?」
「カイルから聞きました」
セドリックは笑った。
「セレーネは、私も何度か訪れたことがあります。美しい街ですよ」
「そうなのですね」
「湖畔の遊歩道は、ぜひ歩いてみてください。夕暮れになると、水面が金色に見えるんです」
エリアスは目を輝かせた。
「……それは、ぜひ見てみたいです」
「それから、セレーネには昔から続く文具店があります」
「文具店ですか?」
「ええ。手製の便箋や封筒が有名で、王都でも愛用している人がいます」
エリアスは手帳を取り出した。
「……お店のお名前を伺ってもよろしいでしょうか」
セドリックは小さく笑った。
「もちろんです」
こうして、旅行中に訪れたい場所がまたひとつ増えた。
◇
出発前日の夕方。
エリアスは鈴蘭亭へ向かった。
厨房では、ノアが小さな焼き菓子を箱へ詰めていた。
「エリアスさん、ちょうどよかった!」
「こんにちは」
「頼まれてたお菓子、できましたよ!」
ノアは嬉しそうに箱を差し出した。
中には、胡桃の焼き菓子と果実を使った菓子がきれいに並んでいた。
「……ありがとうございます。とてもおいしそうです」
「日持ちするものを選んでおきました。これなら向こうへ着くまで大丈夫です」
「助かります」
エリアスは代金を支払い、箱を受け取った。
カイルの友人への手土産だ。
そのことを説明すると、ノアは嬉しそうに笑った。
「フィオーレのお菓子を、ほかの街の人に食べてもらえるなんて嬉しいです」
「きっと、喜んでいただけると思います」
「そうだといいなあ」
そこへミラが厨房から顔を出した。
「エリアスさん、明日出発なんだって?」
「はい。朝の馬車で」
「それなら、朝ご飯はどうするんだい?」
「家で簡単に済ませようと思っています」
「そんなことだろうと思ったよ」
ミラは笑った。
「明日は少し早く店を開けるから、ここで食べていきな。旅の前にちゃんと食べておいた方がいい」
「ですが、お店のご都合が……」
「大丈夫。どうせ仕込みで起きてるんだから」
ノアも頷いた。
「僕もいますよ。朝の馬車に間に合うように用意しておきます」
エリアスは二人を見つめた。
王都を離れるときは、出発の前日まで仕事の引き継ぎに追われていた。
誰かと食卓を囲んでから旅立つなど、考える余裕もなかった。
「……ありがとうございます」
エリアスは深く頭を下げた。
「では、明日の朝、お邪魔します」
ミラは満足そうに笑った。
「うん。楽しんでおいで」
◇
その夜、エリアスは書斎の机に向かっていた。
旅の荷物は、すべて玄関の近くへまとめてある。
家の戸締まりも確認した。
庭の水やりについては、マルタが数日だけ様子を見てくれることになっている。
リュカの敷物も、鞄の中に入れた。
あとは、明日の朝を待つだけだった。
エリアスは手帳を開いた。
最後に残っていた予定へ、小さく印をつける。
『ルーヴェル夫妻へのお礼の手紙』
図面を送ってくれたことへの感謝。
庭の木をこれからも大切に育てていくこと。
そして、この家で暮らす毎日が、とても気に入っていること。
そのすべてを、先ほど書き終えたばかりだった。
手紙は今日の午後、不動産屋へ預けてある。
これで、出発前に済ませたかったことはすべて終わった。
「……忘れ物は、ありませんね」
エリアスが呟くと、足元でリュカが顔を上げた。
「あなたの食器も、入れましたよ」
リュカは小さく鳴いた。
「鶏肉は、旅先で買いましょう」
すると、白い獣の耳がぴんと立った。
エリアスは笑った。
「……本当に、食べ物の話はよく聞いていますね」
窓の外では、春の風が庭の木を揺らしている。
フィオーレでの暮らしが始まってから、ずいぶん多くのことがあった。
知らない街へ来て、知らない人々と出会った。
自分の家を借り、家具を揃え、庭に花を植えた。
料理を教わり、友人ができた。
そして、明日からは初めての旅行だ。
エリアスは手帳を閉じた。
旅から戻ったら、庭の花も少し育っているだろう。
ノアには、セレーネのお菓子を買ってこよう。
オスカーにも、旅先から手紙を書いてみようか。
そんなことを考えながら、エリアスは書斎の明かりを落とした。
◇
翌朝。
まだ街の鐘が鳴る前に、エリアスは目を覚ました。
窓の外には、淡い朝の光が差し込んでいる。
空はよく晴れていた。
「……いいお天気ですね」
寝台の足元では、リュカがすでに起きていた。
エリアスが立ち上がると、白い獣はすぐに後をついてきた。
顔を洗い、着替えを済ませる。
玄関の近くには、昨夜まとめた鞄が置かれている。
エリアスは家の中をひと回りした。
窓の鍵。
台所の火。
書斎の扉。
どれも問題ない。
最後に庭へ出ると、白い花の木が朝の光を受けていた。
花壇には、若い芽が並んでいる。
「……行ってきます」
エリアスは小さく声をかけた。
もちろん、返事はない。
それでも、何となく伝えておきたかった。
門の外へ出ると、隣の庭でマルタが手を振っていた。
「おはよう、エリアスさん!」
「おはようございます」
「今日から旅行でしょう?」
「はい。これから出発します」
「いい天気でよかったわねえ」
マルタは嬉しそうに笑った。
「お庭のことは任せておきなさい。水やりもちゃんとしておくから」
「ありがとうございます。本当に助かります」
「いいのよ。せっかくなんだから、たくさん楽しんできてね」
「はい」
エリアスは頭を下げた。
それから、リュカを抱き上げて歩き出した。
鈴蘭亭の前には、すでに明かりが灯っている。
扉を開けると、温かなパンの香りが迎えてくれた。
「おはようございます」
「おはよう、エリアスさん!」
ノアが笑顔で迎えた。
食卓には、焼きたてのパンと温かなスープが用意されている。
ミラが厨房から顔を出した。
「ほら、座って。馬車に遅れるよ」
「ありがとうございます」
エリアスは椅子へ腰を下ろした。
食事をしながら、ノアがセレーネの話を聞かせてくれる。
湖灯祭で人気の菓子。
湖沿いに並ぶ屋台。
そして、夜の遊覧船。
エリアスはひとつずつ、楽しみに聞いた。
食事を終える頃、店の扉が開いた。
「おーい、準備できたか?」
カイルだった。
「はい。もう大丈夫です」
エリアスは立ち上がった。
ノアとミラが、店の外まで見送ってくれる。
「気をつけて行ってきてくださいね!」
「はい。ありがとうございます」
「お土産話、楽しみにしてるからね」
ミラが言った。
エリアスは笑った。
「たくさん、お話しできるようにしてきます」
カイルが荷物を持ち上げる。
「よし、じゃあ行こうぜ」
「はい」
二人は並んで中央広場へ向かった。
朝の街には、少しずつ人が増えている。
パン屋の扉が開き、商人たちが荷車を押していく。
いつもと変わらないフィオーレの朝だった。
けれど、エリアスにとっては、少し特別な朝でもあった。
中央広場には、セレーネ行きの乗合馬車が停まっていた。
馬車の側面には、青い湖を模した紋章が描かれている。
「……これが、セレーネ行きの馬車ですね」
「ああ」
カイルは荷物を預けながら笑った。
「楽しみか?」
エリアスは馬車を見上げた。
初めて訪れる湖の街。
知らない景色。
まだ会ったことのない人々。
そして、夜の湖に浮かぶ無数の灯り。
「……はい。とても」
エリアスは微笑んだ。
リュカも腕の中から顔を出し、馬車を見つめている。
「それじゃ、乗ろうぜ」
「はい」
エリアスはカイルに続いて馬車へ乗り込んだ。
窓際の席へ座ると、外にはフィオーレの街並みが広がっている。
やがて、御者が出発を告げた。
車輪がゆっくりと動き始める。
石畳を進む音が響き、馬車は中央広場を離れていった。
エリアスは窓の外へ目を向けた。
見慣れた通り。
古い石造りの建物。
そして、街の向こうに広がる緑の丘。
少しずつ遠ざかっていく景色を眺めながら、エリアスは胸の奥が温かくなるのを感じた。
ここは、もう自分の帰る街なのだ。
そして、その外には、まだ知らない世界が待っている。
「……カイル」
「ん?」
「誘ってくださって、ありがとうございます」
カイルは少し驚いたように振り返った。
それから、いつもの明るい笑顔を浮かべた。
「何だよ、改まって」
「いえ。とても嬉しかったので」
カイルは笑った。
「礼は帰ってからでいいさ。まだ旅は始まったばかりだろ?」
エリアスも笑った。
「……そうですね」
馬車は街の門を抜け、南西へ続く街道を進み始めた。
春の風が窓から入り込み、エリアスの髪を揺らす。
遠くには、まだ見たことのない土地が広がっていた。
エリアスはリュカを膝へ抱き直し、窓の外を眺めた。
これからどんな景色に出会えるのだろう。
どんな人々と話し、どんな料理を食べるのだろう。
考えるだけで、自然に笑みがこぼれた。
宮廷魔導師エリアス・レインフォードの、初めての私的な旅が始まった。




