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平穏を望む宮廷魔導師は、自由気ままに暮らしたい  作者: nene
第3章 湖の街と、初めての旅

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第56話 旅立ちの朝、フィオーレをあとに


 出発の日が近づくにつれ、エリアスの家には少しずつ旅の荷物が増えていった。


 最初に用意したのは、着替えと雨具。それから、リュカの食器と敷物だった。


 その後、セレーネの旅行案内を読み進めるうちに、持っていきたいものがいくつか増えた。


 湖畔の街には古書店が多いらしい。


 ならば、本を持ち帰るための余裕も必要だろう。


 それに、カイルの知人を訪ねるのであれば、手土産も用意したい。


 そうして荷物を並べていくと、寝台の上がすっかり埋まってしまった。


「……思ったより、多いですね」


 エリアスは腕を組んだ。


 以前、王宮から地方へ出向く際には、必要なものを鞄ひとつにまとめていたはずだった。


 もっとも、あの頃は着替えの準備も移動の手配も、ほとんどオスカーが整えてくれていた。


 自分で用意していたのは、仕事に使う魔導具と研究資料くらいだ。


 考えてみれば、旅行の荷造りを最初から最後まで自分でするのは、これが初めてだった。


 リュカが寝台へ飛び乗った。


 広げてある衣服を踏み越え、柔らかな布の上に座り込む。


「リュカ。そちらは明日着る服ですよ」


 白い獣は振り返ったが、動かなかった。


 エリアスはしばらく見つめたあと、別の服を取り出した。


「……では、こちらにしましょう」


 衣服を畳み直していると、玄関の呼び鈴が鳴った。


「エリアス、いるかー?」


 カイルの声だった。


     ◇


「……お前、三泊するだけだよな?」


 部屋へ入ったカイルは、寝台の上の荷物を見て最初にそう言った。


「はい」


「引っ越しじゃないよな?」


「もちろんです」


 エリアスが答えると、カイルは荷物をひとつずつ眺めた。


「着替え、雨具、洗面道具……まあ、この辺は普通か」


 続いて、革の鞄に入った小さな道具箱を持ち上げる。


「これは?」


「魔導具の修理道具です」


「使う予定があるのか?」


「いえ。ですが、旅先で何か故障したら困るでしょう?」


「宿の魔導灯が壊れたら、宿の人が直すだろ」


「……確かに」


 エリアスは少し考え、道具箱を元の棚へ戻した。


 カイルは次の包みを開いた。


「こっちは?」


「本です」


「何冊ある?」


「五冊です」


「三泊で?」


「読む時間があるかもしれませんので」


 カイルは一冊を取り上げた。


 表紙には『古代北方文字の地域別変遷』と書かれている。


「……これ、旅行中に読むのか?」


「面白いですよ。地域によって同じ文字の意味が変わることもあるんです」


「そうか。じゃあ、帰ってきたら聞かせてくれ」


「よろしいのですか?」


「ああ。ただ、今は一冊にしておこう」


 エリアスは本を見比べた。


 どれも途中まで読んでいるもので、選ぶのが難しい。


 結局、レオンハルトから借りたセレーネの古い旅行案内を残すことにした。


「……こちらなら、街を歩くときにも使えますね」


「それが一番いいと思うぞ」


 カイルは笑いながら頷いた。


 荷物が半分ほどになったところで、彼は椅子へ腰を下ろした。


「そういえば、向こうで会う仲間の話、まだ詳しくしてなかったな」


「はい。どのような方なのですか?」


「名前はガレス。俺より三つ年上で、昔は一緒に護衛の仕事をしてた」


「今も冒険者を?」


「いや、今はセレーネで小さな運送業をやってる。湖を渡る荷物を運んだり、商人の護衛を手配したりな」


 カイルは少し懐かしそうに笑った。


「昔から面倒見のいいやつでさ。俺がまだ駆け出しだった頃、ずいぶん世話になったんだ」


「それは、お会いするのが楽しみです」


「ああ。向こうも楽しみにしてるって」


 カイルは窓の外へ目を向けた。


「祭りの時期は忙しいらしいけど、初日の夕方には時間を空けてくれるそうだ」


「では、お土産を用意しないといけませんね」


「そのつもりなら、フィオーレの菓子がいいんじゃないか?」


「鈴蘭亭のお菓子ですね」


「そうそう。ノアに頼んでみたらどうだ?」


 エリアスは頷いた。


「明日、相談してみます」


 カイルは立ち上がった。


「じゃあ、俺はそろそろ戻るよ。あとは必要なものだけ鞄に入れとけよ」


「はい。ありがとうございました」


「出発前日に、また迎えに来るからな」


 カイルが帰ったあと、エリアスは寝台を見た。


 少なくなった荷物の真ん中で、リュカが眠っている。


「……あなたは、持っていくものが少なくていいですね」


 そう呟くと、リュカは眠ったまま尾を動かした。


     ◇


 出発まで残り三日となった午後、エリアスはセドリックの執務室を訪ねた。


 目的は、庭の下にある補助観測線の図面を渡すことだった。


 ルーヴェルから届いた図面は、すでにテレサとレオンハルトにも確認してもらっている。


 古い石蓋を開けなくても、地下の流路がどの方角へ伸びているか、おおよその位置を特定することができた。


「……これで、住宅地の地下設備についても管理記録に残せますね」


 セドリックは図面を見ながら言った。


「はい。今後、塀の補修や庭の工事をするときにも参考になると思います」


「助かります。土地を借りている方への説明にも使えますから」


 エリアスは頷いた。


 庭の石蓋は、今のところ触れる必要がない。


 テレサも、地下の状態が安定していることを確認していた。


 それなら、そこに何があるかを記録し、安全に管理できるようにしておけば十分だった。


「北東地区の道路は、もう通行できるようになったのでしょうか」


 エリアスが尋ねると、セドリックは頷いた。


「ええ。昨日、テレサの最終確認が終わりました。馬車の通行はもう数日様子を見ますが、歩行者は通れるようになっています」


「それはよかったです」


「今回の補修で、古い点検口の位置も正確に記録できました。今後の管理がずいぶんしやすくなりましたよ」


 セドリックは書類を閉じた。


「これで、ひとまず現地調査は一区切りですね」


「はい」


 エリアスは静かに頷いた。


 北の祭殿。


 三つの観測所。


 地下に残された古い流路。


 そして、七十年前のヴェルナーの研究。


 すべての謎が解けたわけではない。


 特に第七標については、まだ確かなことがわかっていなかった。


 けれど、今すぐ何かを動かす必要はない。


 むしろ、これ以上無理に調べることで、街の安全を損なう方が問題だった。


「……これからも、必要なときにはお手伝いします」


 エリアスが言うと、セドリックは微笑んだ。


「ありがとうございます。ただ、しばらくはご自分の時間を楽しんでください」


「はい」


「旅行へ行かれるのでしょう?」


 エリアスは少し驚いた。


「ご存じだったのですか?」


「カイルから聞きました」


 セドリックは笑った。


「セレーネは、私も何度か訪れたことがあります。美しい街ですよ」


「そうなのですね」


「湖畔の遊歩道は、ぜひ歩いてみてください。夕暮れになると、水面が金色に見えるんです」


 エリアスは目を輝かせた。


「……それは、ぜひ見てみたいです」


「それから、セレーネには昔から続く文具店があります」


「文具店ですか?」


「ええ。手製の便箋や封筒が有名で、王都でも愛用している人がいます」


 エリアスは手帳を取り出した。


「……お店のお名前を伺ってもよろしいでしょうか」


 セドリックは小さく笑った。


「もちろんです」


 こうして、旅行中に訪れたい場所がまたひとつ増えた。


     ◇


 出発前日の夕方。


 エリアスは鈴蘭亭へ向かった。


 厨房では、ノアが小さな焼き菓子を箱へ詰めていた。


「エリアスさん、ちょうどよかった!」


「こんにちは」


「頼まれてたお菓子、できましたよ!」


 ノアは嬉しそうに箱を差し出した。


 中には、胡桃の焼き菓子と果実を使った菓子がきれいに並んでいた。


「……ありがとうございます。とてもおいしそうです」


「日持ちするものを選んでおきました。これなら向こうへ着くまで大丈夫です」


「助かります」


 エリアスは代金を支払い、箱を受け取った。


 カイルの友人への手土産だ。


 そのことを説明すると、ノアは嬉しそうに笑った。


「フィオーレのお菓子を、ほかの街の人に食べてもらえるなんて嬉しいです」


「きっと、喜んでいただけると思います」


「そうだといいなあ」


 そこへミラが厨房から顔を出した。


「エリアスさん、明日出発なんだって?」


「はい。朝の馬車で」


「それなら、朝ご飯はどうするんだい?」


「家で簡単に済ませようと思っています」


「そんなことだろうと思ったよ」


 ミラは笑った。


「明日は少し早く店を開けるから、ここで食べていきな。旅の前にちゃんと食べておいた方がいい」


「ですが、お店のご都合が……」


「大丈夫。どうせ仕込みで起きてるんだから」


 ノアも頷いた。


「僕もいますよ。朝の馬車に間に合うように用意しておきます」


 エリアスは二人を見つめた。


 王都を離れるときは、出発の前日まで仕事の引き継ぎに追われていた。


 誰かと食卓を囲んでから旅立つなど、考える余裕もなかった。


「……ありがとうございます」


 エリアスは深く頭を下げた。


「では、明日の朝、お邪魔します」


 ミラは満足そうに笑った。


「うん。楽しんでおいで」


     ◇


 その夜、エリアスは書斎の机に向かっていた。


 旅の荷物は、すべて玄関の近くへまとめてある。


 家の戸締まりも確認した。


 庭の水やりについては、マルタが数日だけ様子を見てくれることになっている。


 リュカの敷物も、鞄の中に入れた。


 あとは、明日の朝を待つだけだった。


 エリアスは手帳を開いた。


 最後に残っていた予定へ、小さく印をつける。


『ルーヴェル夫妻へのお礼の手紙』


 図面を送ってくれたことへの感謝。


 庭の木をこれからも大切に育てていくこと。


 そして、この家で暮らす毎日が、とても気に入っていること。


 そのすべてを、先ほど書き終えたばかりだった。


 手紙は今日の午後、不動産屋へ預けてある。


 これで、出発前に済ませたかったことはすべて終わった。


「……忘れ物は、ありませんね」


 エリアスが呟くと、足元でリュカが顔を上げた。


「あなたの食器も、入れましたよ」


 リュカは小さく鳴いた。


「鶏肉は、旅先で買いましょう」


 すると、白い獣の耳がぴんと立った。


 エリアスは笑った。


「……本当に、食べ物の話はよく聞いていますね」


 窓の外では、春の風が庭の木を揺らしている。


 フィオーレでの暮らしが始まってから、ずいぶん多くのことがあった。


 知らない街へ来て、知らない人々と出会った。


 自分の家を借り、家具を揃え、庭に花を植えた。


 料理を教わり、友人ができた。


 そして、明日からは初めての旅行だ。


 エリアスは手帳を閉じた。


 旅から戻ったら、庭の花も少し育っているだろう。


 ノアには、セレーネのお菓子を買ってこよう。


 オスカーにも、旅先から手紙を書いてみようか。


 そんなことを考えながら、エリアスは書斎の明かりを落とした。


     ◇


 翌朝。


 まだ街の鐘が鳴る前に、エリアスは目を覚ました。


 窓の外には、淡い朝の光が差し込んでいる。


 空はよく晴れていた。


「……いいお天気ですね」


 寝台の足元では、リュカがすでに起きていた。


 エリアスが立ち上がると、白い獣はすぐに後をついてきた。


 顔を洗い、着替えを済ませる。


 玄関の近くには、昨夜まとめた鞄が置かれている。


 エリアスは家の中をひと回りした。


 窓の鍵。


 台所の火。


 書斎の扉。


 どれも問題ない。


 最後に庭へ出ると、白い花の木が朝の光を受けていた。


 花壇には、若い芽が並んでいる。


「……行ってきます」


 エリアスは小さく声をかけた。


 もちろん、返事はない。


 それでも、何となく伝えておきたかった。


 門の外へ出ると、隣の庭でマルタが手を振っていた。


「おはよう、エリアスさん!」


「おはようございます」


「今日から旅行でしょう?」


「はい。これから出発します」


「いい天気でよかったわねえ」


 マルタは嬉しそうに笑った。


「お庭のことは任せておきなさい。水やりもちゃんとしておくから」


「ありがとうございます。本当に助かります」


「いいのよ。せっかくなんだから、たくさん楽しんできてね」


「はい」


 エリアスは頭を下げた。


 それから、リュカを抱き上げて歩き出した。


 鈴蘭亭の前には、すでに明かりが灯っている。


 扉を開けると、温かなパンの香りが迎えてくれた。


「おはようございます」


「おはよう、エリアスさん!」


 ノアが笑顔で迎えた。


 食卓には、焼きたてのパンと温かなスープが用意されている。


 ミラが厨房から顔を出した。


「ほら、座って。馬車に遅れるよ」


「ありがとうございます」


 エリアスは椅子へ腰を下ろした。


 食事をしながら、ノアがセレーネの話を聞かせてくれる。


 湖灯祭で人気の菓子。


 湖沿いに並ぶ屋台。


 そして、夜の遊覧船。


 エリアスはひとつずつ、楽しみに聞いた。


 食事を終える頃、店の扉が開いた。


「おーい、準備できたか?」


 カイルだった。


「はい。もう大丈夫です」


 エリアスは立ち上がった。


 ノアとミラが、店の外まで見送ってくれる。


「気をつけて行ってきてくださいね!」


「はい。ありがとうございます」


「お土産話、楽しみにしてるからね」


 ミラが言った。


 エリアスは笑った。


「たくさん、お話しできるようにしてきます」


 カイルが荷物を持ち上げる。


「よし、じゃあ行こうぜ」


「はい」


 二人は並んで中央広場へ向かった。


 朝の街には、少しずつ人が増えている。


 パン屋の扉が開き、商人たちが荷車を押していく。


 いつもと変わらないフィオーレの朝だった。


 けれど、エリアスにとっては、少し特別な朝でもあった。


 中央広場には、セレーネ行きの乗合馬車が停まっていた。


 馬車の側面には、青い湖を模した紋章が描かれている。


「……これが、セレーネ行きの馬車ですね」


「ああ」


 カイルは荷物を預けながら笑った。


「楽しみか?」


 エリアスは馬車を見上げた。


 初めて訪れる湖の街。


 知らない景色。


 まだ会ったことのない人々。


 そして、夜の湖に浮かぶ無数の灯り。


「……はい。とても」


 エリアスは微笑んだ。


 リュカも腕の中から顔を出し、馬車を見つめている。


「それじゃ、乗ろうぜ」


「はい」


 エリアスはカイルに続いて馬車へ乗り込んだ。


 窓際の席へ座ると、外にはフィオーレの街並みが広がっている。


 やがて、御者が出発を告げた。


 車輪がゆっくりと動き始める。


 石畳を進む音が響き、馬車は中央広場を離れていった。


 エリアスは窓の外へ目を向けた。


 見慣れた通り。


 古い石造りの建物。


 そして、街の向こうに広がる緑の丘。


 少しずつ遠ざかっていく景色を眺めながら、エリアスは胸の奥が温かくなるのを感じた。


 ここは、もう自分の帰る街なのだ。


 そして、その外には、まだ知らない世界が待っている。


「……カイル」


「ん?」


「誘ってくださって、ありがとうございます」


 カイルは少し驚いたように振り返った。


 それから、いつもの明るい笑顔を浮かべた。


「何だよ、改まって」


「いえ。とても嬉しかったので」


 カイルは笑った。


「礼は帰ってからでいいさ。まだ旅は始まったばかりだろ?」


 エリアスも笑った。


「……そうですね」


 馬車は街の門を抜け、南西へ続く街道を進み始めた。


 春の風が窓から入り込み、エリアスの髪を揺らす。


 遠くには、まだ見たことのない土地が広がっていた。


 エリアスはリュカを膝へ抱き直し、窓の外を眺めた。


 これからどんな景色に出会えるのだろう。


 どんな人々と話し、どんな料理を食べるのだろう。


 考えるだけで、自然に笑みがこぼれた。


 宮廷魔導師エリアス・レインフォードの、初めての私的な旅が始まった。


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