第55話 春の終わりに、交わした約束
フィオーレの北東地区で道路の補修が始まったのは、月市から三日後のことだった。
まだ朝の涼しさが残る時間帯、テレサは現場に立ち、作業員たちへ指示を出していた。
「そこの石材は動かさないで。まず周囲の土を押さえてからよ」
長い柄の測量器を肩に担ぎ、彼女は道の端へ歩いていく。
道路の沈み込みは、その後広がっていなかった。しかし、地下にある古い石枠を傷つけずに地盤を補強するには、慎重な作業が必要だった。
幸い、補強するのは表層の一部で済む見込みだという。
エリアスが現場へ到着したとき、テレサは石工組合のダリオと話をしていた。
「おはようございます」
「おう、エリアス。早いな」
ダリオが片手を上げる。
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。何か気になることがあったら遠慮なく言ってくれ」
ダリオは作業員たちへ目を向けた。
「古い石を扱う仕事なら慣れてるが、地下に魔法の仕組みがあるとなると話は別だからな」
「触れる必要がある場所については、私も確認します」
「頼もしいねえ」
テレサが図面を広げた。
「じゃあ、始める前にもう一度確認するわよ」
三人は地図を囲んだ。
沈み込みが見つかった道路の端。
その下に埋まっている古い石枠。
そして、七十年前に付け替えられた地下流路。
「今回は、石枠を直接補修するんじゃない。周りの地盤を支える工事にするわ」
テレサが説明した。
「表面の水が流れ込まないよう、排水も少し変える。地下の古い設備には触れない」
「それなら、魔力流路への影響も小さくできると思います」
エリアスが答えると、ダリオが頷いた。
「よし。じゃあ、安全第一でいこう」
作業が始まった。
◇
午前中の工事は順調に進んでいた。
道路の端を支えるための石材を並べ、傷んだ表層部分だけを取り除く。
ダリオの指示で、作業員たちは重い石を慎重に運んでいた。
エリアスは少し離れた場所に観測器を置き、地下の魔力の変化を見守っていた。
大きな乱れはない。
七十年前に付け替えられた流路も、今のところ安定している。
そのときだった。
「……ちょっと待って!」
テレサの声が響いた。
作業員たちが手を止める。
エリアスも顔を上げた。
「何かありましたか?」
「ここの土、少し変なの」
テレサは地面を指差した。
新しく取り除かれた土の下から、古い石の縁が現れていた。
「……点検口でしょうか」
「そう見えるわね。でも、位置が少し違う」
彼女は図面を確認した。
「七十年前の記録だと、ここには何もないはずなのよ」
ダリオが腰をかがめた。
「石の加工は古いな。最近のものじゃない」
エリアスは石の縁を観察した。
表面には細い溝が刻まれている。
しかし、これまで見てきた点検口とは形が違っていた。
「……これは」
エリアスは小さく呟いた。
石の隅に、花びらのような模様が刻まれている。
六枚の花弁。
その中央に小さな円。
北の祭殿で見た紋様と、よく似ていた。
テレサが横から覗き込む。
「また、あの印ね」
「はい」
エリアスは頷いた。
「ただ、ここにある理由はわかりません」
「掘り進めれば何かわかるかもしれないけど……」
テレサは周囲の地盤へ目を向けた。
「今日はやめておきましょう」
「ええ。それがいいと思います」
ダリオも頷いた。
「じゃあ、この場所は残して、補強の範囲を少し変えるか」
テレサは図面へ印をつけた。
「そうね。石枠の周りを無理に触らない方法で進めましょう」
エリアスは再び観測器へ目を向けた。
古い石枠の近くで、ごく弱い魔力の反応がある。
しかし、それは流路を動かすようなものではなかった。
何かを知らせるための、小さな反応。
そんな印象を受けた。
「……ひとつ、気になることがあります」
エリアスが言うと、テレサが顔を上げた。
「何?」
「この石枠は、流路の途中に設けられた観測用の設備かもしれません」
「観測用?」
「はい。以前、レオンハルトさんが見つけた記録に、魔力の変化を近くへ伝える石枠がありました」
エリアスは鞄から図面の写しを取り出した。
テレサはそれを見比べる。
「……確かに似てるわね」
「ですが、今日は開けずに位置だけ記録しておきましょう」
「もちろん」
彼女はすぐに頷いた。
「こういうものは、急いで触るより、正確に残しておく方が大切よ」
エリアスも頷いた。
その後、工事は予定を少し変更しながら進められた。
古い石枠を避けて周辺を補強し、雨水が道路の端へ集まらないよう排水を整える。
夕方になる頃には、道路の沈み込みがあった場所も、ひとまず安全な状態へ近づいていた。
◇
翌日、セドリックの執務室で工事の報告が行われた。
テレサは地盤の状態を説明し、ダリオは補強工事の内容を報告した。
エリアスは地下の魔力の観測結果を提出する。
「……なるほど」
セドリックは書類を読み、頷いた。
「少なくとも、今回の補修で地下の流路へ大きな影響は出ていないのですね」
「はい。観測した範囲では、安定しています」
エリアスが答えた。
「ただし、今後も定期的な確認は必要だと思います」
「そうですね」
セドリックはテレサへ目を向けた。
「道路は、いつ頃から通行できそうでしょうか」
「補強材が落ち着くまで、もう少し時間をください。そのあと測定して問題がなければ、通行止めを解除できます」
「わかりました」
セドリックは頷いた。
「では、そのように進めましょう」
テレサは少し肩の力を抜いた。
「これで、ひとまず大きな心配はなくなったわね」
「そうですね」
エリアスも頷いた。
七十年前の研究がすべて解明されたわけではない。
古い石枠や第七標についても、まだ不明な部分は残っている。
けれど、今の街で実際に起きていた地盤の問題については、必要な対応が進んでいた。
セドリックは机の上の資料を揃えた。
「今回の調査記録は、領地の正式な管理資料として保管します」
「はい」
「今後、同じ場所で問題が起きたときに、今回の結果を参考にできるようにしておきます」
エリアスは小さく微笑んだ。
「それが一番いいと思います」
セドリックも笑った。
「皆さんのおかげです。ありがとうございました」
◇
午後、エリアスはクロイス古書店へ向かった。
レオンハルトへ工事の結果を伝えるためだった。
店内には、いつものように古い紙の匂いが漂っていた。
レオンハルトは棚の奥で本を整理していたが、エリアスの姿を見ると手を止めた。
「……工事はどうだった?」
「無事に終わりました。道路の補強も進んでいます」
「そうか」
レオンハルトは頷いた。
「それはよかった」
エリアスは椅子へ腰を下ろし、新しく見つかった石枠について説明した。
六枚の花弁の印。
中央に刻まれた円。
そして、微弱な魔力の反応。
レオンハルトは黙って聞いていたが、やがて少し考え込んだ。
「……なるほど。観測用の石枠か」
「その可能性があります」
「だとすると、以前見つけた三十二基の記録とも関係がありそうだな」
「はい」
エリアスは頷いた。
「ただ、今のところ危険な反応はありません」
「なら、無理に調べる必要はない」
レオンハルトは静かに答えた。
エリアスは少し笑った。
「私も、そう思っています」
レオンハルトは棚から一冊の本を取り出した。
「……そういえば、セレーネへ行くんだったな」
「はい。来月の湖灯祭に合わせて」
「それなら、これを持っていくといい」
彼が差し出したのは、薄い旅行案内だった。
表紙には、湖に浮かぶ船の絵が描かれている。
『湖畔都市セレーネ案内』
エリアスは目を輝かせた。
「……こちらは?」
「昔、研究でセレーネへ行ったときに買ったものだ」
レオンハルトは少し笑った。
「古い案内だから、店の名前などは変わっているかもしれないが、街の歴史を知るにはいい」
「ありがとうございます」
エリアスは丁寧に受け取った。
ページをめくると、湖灯祭の由来や、街の成り立ちが紹介されていた。
「……湖灯祭は、昔から続いているお祭りなのですね」
「ああ。もともとは、湖で亡くなった人々を悼む行事だったそうだ」
「そうなのですか」
「今では、春の訪れを祝う意味合いも強いらしい」
エリアスは案内を見つめた。
きれいな灯りを楽しむ祭りだと思っていたが、そこには長い歴史があった。
「……知ってから見ると、また違った景色に感じられそうですね」
「そうだろうな」
レオンハルトは頷いた。
エリアスは本を閉じ、微笑んだ。
「大切に読ませていただきます」
◇
夕方、エリアスが家へ戻ると、玄関の前に小さな包みが置かれていた。
差出人は、ルーヴェル夫妻だった。
「……もう届いたのですね」
エリアスは包みを持って家へ入った。
以前、庭の石蓋について図面を送っていただけないかとお願いしていたのだ。
包みの中には、一枚の古い図面と短い手紙が入っていた。
『レインフォード様
先日お話しした図面をお送りします。
古いものですので、現在の地形とは違う部分もあるかもしれません。
庭の石蓋については、どうか無理に開けようとなさらないでください。
あの家で過ごした日々は、私たちにとって大切な思い出です。
今の暮らしが、あなたにとってもよいものでありますように。』
エリアスは手紙を読み終え、しばらく静かに眺めた。
それから、図面を広げる。
そこには、家の北側の塀と、庭の地下にある石枠の位置が描かれていた。
さらに、その石枠から北へ向かって伸びる細い線がある。
線の先には、小さな文字が記されていた。
『旧北方水路・補助観測線』
エリアスはその文字を読み直した。
庭の石蓋は、単なる点検口ではなかった。
地下の流路の状態を伝えるための、補助観測線につながっていたらしい。
それなら、雨の日に聞こえた音にも、ある程度説明がつく。
流路の変化が、石枠を通して小さな振動となり、地上へ伝わっていたのかもしれない。
エリアスは図面を丁寧に畳んだ。
「……そういうことだったのですね」
足元で、リュカが小さく鳴いた。
エリアスは笑い、白い獣を抱き上げた。
「おかげで、ひとつわかりましたよ」
リュカは首を傾げた。
「この家の庭には、昔の街を見守るための仕組みが残っていたんですね」
リュカはエリアスを見つめていたが、やがて小さく鼻を鳴らした。
エリアスは図面を机へ置いた。
明日、テレサとセドリックへ見せよう。
それから、ルーヴェル夫妻へお礼の手紙を書きたい。
けれど、今日はもう遅い。
エリアスはリュカを抱いたまま、庭へ出た。
◇
夜の庭には、春の花の香りが漂っていた。
白い花をつけた木の下で、エリアスは椅子へ腰を下ろした。
足元には、月市で買った青い花の刺繍入りの敷物がある。
リュカはそこへ丸くなり、すぐに目を細めた。
エリアスは夜空を見上げた。
この家を借りたばかりの頃は、毎日の暮らしを整えることだけで精一杯だった。
家具を揃え、庭を手入れし、料理を覚える。
それが、何より楽しかった。
けれど、庭の下に古い仕組みが残されていると知り、少しずつ調査が始まった。
七十年前の工事。
ヴェルナーの研究。
そして、街の人々が守り続けてきた地下の流路。
それらは、今も完全には解明されていない。
ただ、街の暮らしを危険にさらすようなことを、無理に進める必要はない。
今のフィオーレは、穏やかだった。
エリアスはゆっくりと息を吐いた。
「……少し、落ち着きましたね」
足元でリュカが尾を動かす。
エリアスは笑った。
「これで、旅行の準備もゆっくりできます」
来月には、セレーネの湖灯祭が待っている。
初めて訪れる湖の街。
カイルと一緒に歩く市場。
湖に浮かぶ無数の灯り。
想像するだけで、胸が弾んだ。
エリアスは椅子の背へ体を預けた。
庭の木が、夜風に揺れている。
フィオーレは、これからも彼の帰る場所であり続けるだろう。
そして、その外には、まだ知らない街がいくつもある。
エリアスは静かに微笑んだ。
休暇は、まだ始まったばかりだった。




