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平穏を望む宮廷魔導師は、自由気ままに暮らしたい  作者: nene
第2章 花咲く家と、森の古い約束

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第54話 春の市と、ひとつの区切り


 フィオーレの月市は、朝の鐘が鳴るよりも早く始まる。


 広場に屋台を並べる商人たちの声が、まだ薄暗い通りに響き、焼きたてのパンや香辛料の匂いが、少しずつ街へ広がっていく。


 エリアスが中央広場に着いた頃には、すでに多くの人が行き交っていた。


 果物を積んだ荷車。


 色とりどりの布を並べた店。


 春の花を束ねて売る老人。


 普段の市場とは違う賑わいに、エリアスは自然と足を緩めた。


 今日は鈴蘭亭の焼き菓子を買いに来たのだが、せっかくなので、ほかの店もゆっくり見て回りたかった。


 リュカは腕の中から顔を出し、忙しそうに鼻を動かしている。


「いろいろな匂いがしますね」


 そう声をかけると、リュカは広場の一角をじっと見つめた。


 焼いた肉を売る屋台だった。


「……まだ朝ですよ」


 エリアスは少し笑った。


 しかし、リュカは視線を外さない。


 結局、店の前を通り過ぎるまで、白い獣は名残惜しそうに首を伸ばしていた。


     ◇


 鈴蘭亭の屋台は、広場の東側にあった。


 小さな木製の台に、昨日ノアと一緒に包んだ焼き菓子が並べられている。


 店の奥ではノアが客に品物を渡し、ミラが代金を受け取っていた。


「おはようございます」


 エリアスが声をかけると、ノアがぱっと顔を上げた。


「あ、エリアスさん!」


「おはよう。ずいぶん盛況ですね」


「そうなんです! 朝からお客さんが多くて」


 ノアは嬉しそうに笑った。


 台の上には、すでに空になった籠が二つあった。


「胡桃のお菓子が、特によく売れてるんですよ」


「それはよかったです」


「エリアスさんも、ぜひ買っていってください」


「もちろんです」


 エリアスは並んでいる焼き菓子を眺めた。


 胡桃入りの小さな菓子。


 果実を使った薄い焼き菓子。


 それから、香草を練り込んだ塩味のものもある。


「……どれもおいしそうですね」


「全部おすすめですよ!」


 ノアは得意げに答えた。


 エリアスは少し考え、三種類をそれぞれ購入することにした。


「そんなに買ってくれるんですか?」


「はい。家でいただこうと思いまして」


 ミラが横から笑った。


「だったら、少しおまけしておくよ」


「ありがとうございます」


 エリアスが礼を述べると、ノアは紙袋へ丁寧に焼き菓子を詰めてくれた。


 その様子を見ながら、エリアスはふと思い出した。


「そういえば、昨日お手伝いした袋ですね」


「はい! エリアスさんが折ってくれたのも、ちゃんと使ってますよ」


 ノアは嬉しそうに言った。


「すごくきれいだったので、助かりました」


「それなら、よかったです」


 エリアスは紙袋を受け取った。


 自分が折ったものが、こうして店の商品を包んでいる。


 それだけのことなのに、不思議と嬉しかった。


 少し離れたところで、ミラが次の客に声をかけている。


 ノアも忙しそうだったので、エリアスは長居せずに店を離れることにした。


「それでは、また夕方に」


「はい! ありがとうございました!」


 ノアが大きく手を振った。


 エリアスも笑って手を振り返した。


     ◇


 広場を歩いていると、色鮮やかな布を並べた店が目に留まった。


 小さな敷物や、刺繍の入った布が並んでいる。


 エリアスは足を止めた。


 以前から、庭の椅子の下へリュカ用の敷物を置こうと思っていたのだ。


 店主は年配の女性だった。


「いらっしゃい。何かお探しかい?」


「小さな敷物を探しています」


「どこで使うんだい?」


「庭の椅子の下です。小さな動物が寝られるようにと思いまして」


 女性はリュカへ目を向けた。


「あら、この子?」


「はい」


「きれいな毛並みだねえ」


 女性は笑いながら、棚の下から何枚か布を取り出した。


「それなら、これくらいの厚さがいいよ。洗いやすいし、乾くのも早い」


 エリアスは布を手に取った。


 柔らかい生成り色のもの。


 淡い緑色のもの。


 それから、青い小花の刺繍が入ったもの。


「……迷いますね」


「この子に選んでもらったら?」


 女性が言った。


 エリアスは少し驚いた。


「リュカに、ですか?」


「そう。気に入ったものがあるかもしれないだろう?」


 エリアスは腕の中のリュカを見た。


「……どれがいいですか?」


 リュカは差し出された布を順番に嗅いだ。


 生成り色の布。


 緑色の布。


 そして、青い花の刺繍が入った布。


 最後の布へ鼻先を近づけたあと、リュカはその上へ前脚を載せた。


「……こちらですか?」


 リュカは動かなかった。


 店主が笑った。


「決まりだね」


 エリアスも笑った。


「では、こちらをお願いします」


 代金を支払い、布を包んでもらう。


 店を離れると、リュカは満足そうに腕の中へ収まった。


「気に入ったものが見つかって、よかったですね」


 エリアスは小さく笑った。


     ◇


 広場の端にある噴水の近くで、エリアスはカイルと出会った。


「お、エリアス!」


「こんにちは」


「月市、見に来たのか?」


「はい。鈴蘭亭の焼き菓子を買いに来ました」


 カイルは紙袋を見て笑った。


「俺もさっき買ったよ。あの胡桃のやつ、うまかったな」


「ええ。とても人気だそうです」


「そうだろうな。ノア、朝から忙しそうだったし」


 二人は噴水の近くのベンチへ腰を下ろした。


 カイルは手にしていた紙を広げた。


「そうそう。旅行のことで、ちょうど話したかったんだ」


「何でしょう?」


「セレーネ行きの馬車、予約できたぞ」


 エリアスは顔を上げた。


「本当ですか?」


「ああ。出発は祭りの二日前。朝の便だ」


「ありがとうございます」


「それから、宿も正式に取れた。リュカも問題ないってさ」


 エリアスは安心した。


 宿からの返事はすでに届いていたが、正式な予約が決まったと聞くと、ようやく旅の予定が現実味を帯びてきた。


「……楽しみですね」


 エリアスが言うと、カイルは笑った。


「だろ?」


 彼は少し考え、続けた。


「向こうで会う予定の仲間にも、お前のことを話しておいた」


「私のことを?」


「ああ。フィオーレで世話になってる友人だって」


 エリアスは少し驚いた。


「……そのように紹介してくださったのですね」


「当たり前だろ」


 カイルは不思議そうに答えた。


「ほかに何て言うんだよ」


 エリアスは少し考えた。


 王都にいた頃、誰かに紹介されるときは、いつも宮廷魔導師という肩書きがついていた。


 研究者として。


 王宮に仕える者として。


 その名前を知られることはあっても、友人として紹介されることは、あまりなかったように思う。


「……嬉しいです」


 エリアスが静かに言うと、カイルは少し照れたような顔をした。


「何だよ、急に」


「いえ。本当に」


 カイルはしばらく黙った。


 それから、照れ隠しのように頭を掻いた。


「……まあ、そういうことだ」


 エリアスは小さく笑った。


 広場には、春の賑やかな声が響いている。


 その中で交わした何気ない会話が、エリアスにはとても温かく感じられた。


     ◇


 午後、エリアスはセドリックの執務室を訪ねた。


 先日調べた北方水路管理帳について、報告をまとめていたからだ。


 セドリックは書類を受け取り、ゆっくりと目を通した。


「……なるほど。魔法設備の操作は禁止したまま、日常点検は続けられていたのですね」


「はい」


「それなら、今も一部の流路が残っている理由が説明できそうです」


 エリアスは頷いた。


「ええ。ただ、すべての設備が安全な状態とは限りません」


「そうですね」


 セドリックは書類を閉じた。


「北東地区の道路については、テレサから追加報告が届いています」


「何かわかりましたか?」


「地盤の沈み込みは、現在のところ広がっていないそうです」


 エリアスは安堵した。


「それはよかったです」


「ただし、地下の石枠に傷みがある可能性が高いため、補強方法を検討しています」


「……魔力流路へ影響しない方法が必要ですね」


「ええ。その点について、エリアス殿にも意見を伺いたいと思っています」


「もちろんです」


 エリアスは頷いた。


 セドリックは少し考えたあと、静かに言った。


「……それと、ひとつご相談があります」


「何でしょう?」


「七十年前の改修工事について、これまで調べてきたことを一度整理し、領地の正式な記録として残したいのです」


 エリアスは顔を上げた。


「正式な記録、ですか?」


「はい。今後、同じような問題が起きたときに、また一から調べ直さなくても済むように」


 セドリックは机の上の古い地図へ目を向けた。


「今回の調査でわかったことも、記録が別々の場所に残されていたからこそ、確認に時間がかかりました」


「……確かに、そうですね」


「同じことを繰り返さないためにも、今のうちに整理しておきたいのです」


 エリアスは静かに頷いた。


 七十年前、ヴェルナーたちは街を守るために古い設備を調べていた。


 その後、研究は止まり、記録は各所へ分かれていった。


 そして今、自分たちが同じ仕組みを調べ直している。


 もし今回の記録も散らばってしまえば、また何十年後かに、誰かが同じ苦労をすることになるかもしれない。


「……ぜひ、お手伝いさせてください」


 エリアスが言うと、セドリックは安心したように笑った。


「ありがとうございます」


「ただ、ひとつお願いがあります」


「何でしょう?」


「まだ確かめられていないことは、推測として残していただきたいのです」


 セドリックは少し驚いた。


 エリアスは続けた。


「七十年前の人々が、なぜすべての設備を止めなかったのか。今の私たちには、ある程度理由が見えてきました」


「はい」


「ですが、当時の判断を完全に理解できたわけではありません。わからないことまで、わかったように記してしまうと、次に調べる人が困ると思うんです」


 セドリックはしばらく黙っていた。


 やがて、静かに頷いた。


「……おっしゃるとおりです」


 彼は書類へ目を落とした。


「事実と推測を分け、未確認の部分も明記しましょう」


「ありがとうございます」


 エリアスは頭を下げた。


 セドリックは小さく笑った。


「こちらこそ。大切なことを教えていただきました」


 窓の外では、午後の日差しが街の屋根を照らしていた。


 七十年前から続いてきた問題に、ようやくひとつの区切りが見え始めていた。


     ◇


 夕方、王都の王宮では、オスカーが王立魔導院の研究員と話をしていた。


 机の上には、ヴェルナーの補足安全調査が広げられている。


「……つまり、当時の改修計画は、完全に失敗したわけではないのですね」


 オスカーが尋ねると、年配の研究員は頷いた。


「はい。記録を見る限り、再起動そのものが危険だったため、実施を見送ったと考えられます」


「しかし、流路の補修は行われている」


「そうです。街の安全を守るために必要な部分だけを整備し、中央調整部は動かさなかったのでしょう」


 オスカーはしばらく考えた。


「……それなら、七十年前の判断は間違っていなかったのかもしれませんね」


「少なくとも、慎重だったことは確かです」


 研究員は答えた。


 オスカーは冊子を閉じた。


「では、今後の調査も、安全性の確認を優先してください」


「承知いたしました」


「現地へ大がかりな調査隊を送る必要があるかどうかは、その後に判断します」


 研究員は頷いた。


 オスカーは書類を整理しながら、少し考え込んだ。


 古い記録が見つかり、研究が止まった理由もある程度わかってきた。


 けれど、肝心の現地の状況はまだ確認できていない。


 そのことが、少し気になっていた。


「……現地の水路管理者へ、問い合わせだけでも行った方がよいでしょうか」


 オスカーが言うと、研究員は少し考えた。


「それなら、正式な調査隊を派遣するより負担が少ないでしょう」


「そうですね」


 オスカーは頷いた。


「では、まずは領地の管理記録について照会してみます」


 そのとき、窓の外から夕方の鐘が聞こえてきた。


 オスカーは時計を見た。


 もう遅い。


 今日はここまでにしよう。


 彼は書類を閉じ、明日の予定へ書き加えた。


『リュネリア地方・旧水路管理記録の照会。』


 そして、執務室をあとにした。


     ◇


 夜、新しい家へ戻ったエリアスは、庭の椅子に小さな敷物を置いていた。


 今日、月市で買った青い花の刺繍が入った布だ。


 リュカは少し離れた場所から、その様子を見つめている。


「……どうぞ」


 エリアスが椅子の下へ敷物を広げると、リュカはゆっくり近づいた。


 まず、匂いを嗅ぐ。


 次に、前脚を載せる。


 それから、何度か向きを変えて、ようやく丸くなった。


「……気に入りましたか?」


 リュカは目を細めた。


 どうやら、悪くないらしい。


 エリアスは椅子へ腰を下ろした。


 庭の木には、白い花が咲いている。


 花壇には、小さな芽が並んでいる。


 家の中には、今日買った焼き菓子がある。


 そして、来月にはセレーネへの旅行が待っている。


 エリアスは静かに息を吐いた。


 七十年前の研究についても、少しずつ整理が進んでいる。


 北東地区の道路は、まだ安全確認が必要だ。


 庭の石蓋については、ルーヴェルから届く図面を待っている。


 すべてが終わったわけではない。


 けれど、今すぐ何かを動かさなければならない状況でもなかった。


 大切なのは、急いで答えを出すことではなく、必要なことを確かめながら、街の暮らしを守ることなのだろう。


 エリアスは椅子の背へ体を預けた。


 風が、庭の木を静かに揺らしている。


「……いい夜ですね」


 足元でリュカが小さく鳴いた。


 エリアスは笑った。


 この街へ来てから、もう随分と多くの人と出会った。


 新しい家を借り、庭を作り、料理を覚えた。


 そして、初めて自分で旅行の予定を立てた。


 かつて望んでいた平穏な暮らしは、何も起こらない毎日ではなかった。


 自分で選べる時間があり、帰る場所があり、会いたい人がいる。


 今は、それだけで十分だと思えた。


 夜空には、細い月が浮かんでいる。


 エリアスはしばらく、その光を眺めていた。


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