第53話 受け継がれた記録と、春の便り
南区の資料倉庫から借りた記録の写しを、エリアスは食卓いっぱいに広げていた。
今朝は書斎を使わず、居間で調べ物をしている。
窓から庭が見えることも理由のひとつだったが、何より、書斎の机にはもう紙を置く場所がなかった。
王都にいた頃、オスカーから何度も整理するよう言われたことを思い出す。
あのときは必要な資料ばかりなのだから仕方がないと思っていたが、今なら少しだけ彼の気持ちがわかる。
「……棚を、もうひとつ買った方がいいでしょうか」
呟いてから、エリアスは首を振った。
この家には、すでに立派な書棚がある。
問題は収納場所ではなく、読んだ資料を戻していないことだった。
足元では、リュカが丸くなっている。
エリアスが紙を一枚持ち上げると、その下から白い尾の先が現れた。
「リュカ、そこにいたのですね」
尾は一度だけ動いた。
エリアスは紙を片づけ、リュカのそばに小さな敷物を置いた。
「こちらの方が寝やすいと思いますよ」
ところが、リュカは敷物へ移らなかった。
代わりに、エリアスが空けたばかりの紙の上へ移動する。
「……そうですか」
どうやら、敷物の材質にはこだわりがないらしい。
エリアスは諦めて、別の資料を手に取った。
それは、七十年前の北方水路管理帳から写した記録だった。
地盤の変化に伴う水路の閉鎖。
地下補助流路の維持。
そして、魔法設備の操作禁止。
長い間、別々の記録として扱われていた出来事が、ひとつの流れとして整理できるようになってきた。
エリアスは手帳の余白へ、当時の工事の順序を書き出した。
最初に北東の斜面が不安定になり、水路の一部が閉鎖された。
その後、ヴェルナーが地下流路の変化を調べ、補助経路と点検口を整備した。
中央調整部との接続は認められず、魔法設備を動かさないまま、水路の日常管理だけが引き継がれた。
少なくとも、残された資料からはそう読める。
ただ、その判断が当時どこまで徹底されたのかは、まだわからなかった。
エリアスは筆を置いた。
庭では、小さな芽が朝の光を受けている。
そろそろ、もう少し間隔を空ける必要があるかもしれない。
マルタに聞いてみよう。
そう思ったところで、門の外から声がした。
「レインフォードさん、お届け物です!」
◇
玄関へ出ると、配達人が二通の封書を差し出した。
一通は、旅行案内所の印が押されたもの。
もう一通は、家の管理を任されている不動産屋からだった。
エリアスは署名をして受け取り、まず旅行案内所の封を開いた。
『湖畔の宿・水鳥亭より、小動物同伴の承諾が得られました。』
続いて、宿泊期間と部屋の案内が記されている。
湖に面した二階の客室。
祭りの前日から三泊。
食事の際には小動物を客室で待たせるか、専用の席を利用すること。
エリアスは最後まで読み、ほっとした。
「……よかったですね、リュカ」
居間からついてきたリュカが、足元で顔を上げる。
「一緒に泊まれるそうですよ」
リュカは封筒を嗅いだ。
どうやら宿泊の許可よりも、紙に残る匂いの方が気になるようだった。
エリアスは笑い、もう一通の封書を開いた。
こちらには、不動産屋からの短い手紙が入っている。
ルーヴェル夫妻へ送った手紙が、ご家族のもとへ届けられたという報告だった。
そして、その下に、もうひとつ知らせがあった。
『ルーヴェル様より、お返事をいただいております。同封いたしましたので、ご確認ください。』
エリアスは封筒の中を覗いた。
薄い便箋が三枚、丁寧に折り畳まれている。
紙の端には、少し古風な花の模様が印刷されていた。
「……お返事が」
思わず声に出した。
エリアスは居間へ戻り、食卓の上を片づけた。
リュカを抱き上げて椅子へ座る。
それから、ゆっくりと便箋を開いた。
◇
『レインフォード様
お手紙をありがとうございました。
あの家に新しい住人がいらっしゃることは、不動産屋さんから聞いておりましたが、こうして直接お便りをいただけるとは思っておりませんでした。
妻も、とても喜んでおります。
庭の白い花の木が元気に咲いているとのこと、何より嬉しく思います。あれは妻が若い頃に選んだ木で、二人で植えたものです。
私は本ばかり増やして妻に叱られておりましたが、庭の木だけは、どれほど忙しくても二人で世話をしておりました。』
エリアスは思わず微笑んだ。
マルタが話していたとおりだ。
続く文章には、書斎の棚についても書かれていた。
ベネットへ何度も棚を追加してもらったこと。
奥方が、もうこれ以上は本を増やさないようにと言い続けていたこと。
そして、最後には結局、壁一面が書棚になってしまったこと。
エリアスは笑いをこらえながら読み進めた。
けれど、二枚目に入ると、文章の内容が変わった。
『さて、お尋ねの庭の下にある石の蓋についてですが、私も長い間気にしておりました。
あれを最初に見つけたのは、北側の塀が沈んだ年のことです。
修理に来た職人が、土の下に四角い石の枠があると教えてくれました。
そのときは古い井戸の蓋だろうと思いましたが、調べるうちに、どうもそうではないらしいとわかりました。』
エリアスは姿勢を正した。
『雨の日になると、庭の下から石を叩くような音が聞こえることがありました。
最初は雨水のせいだと思っておりました。しかし、同じように雨が降っても、音のしない日があるのです。
それで私は、昔の街の地図を調べるようになりました。』
文章はそこで一度途切れていた。
三枚目には、さらに詳しいことが書かれている。
『古い水路について調べていた頃、北方水路の管理をされていた方から、興味深い話を聞きました。
その方のお父上は、七十年ほど前の工事に携わっていたそうです。
当時、地下の流路をすべて塞ぐ案も出ていたものの、魔導技師のヴェルナーという人物が反対したと聞きました。
理由は、地下の力の流れを急に止めると、別の場所へ負担がかかるおそれがあったからだそうです。
私は魔法に詳しくありませんので、それ以上は理解できませんでしたが、ヴェルナーという名前はよく覚えております。』
エリアスは便箋を置いた。
アルノルト・ヴェルナー。
その名前が、ここにも残されていた。
けれど、重要なのは名前そのものではなかった。
地下の流路をすべて塞がなかった理由。
それが、技術上の問題だけでなく、街の安全を守るための判断だったということだ。
エリアスは最後の文章へ目を向けた。
『もうひとつ、お伝えしたいことがあります。
庭の石蓋について、私は一度も開けたことがありません。
古い水路の管理をしていた方から、無理に触らないよう注意されていたからです。
ただ、その方から見せてもらった図面を、今も一枚持っております。
もし必要でしたら、お送りいたします。
あの家を大切に使ってくださっていること、心より感謝しております。
どうか、庭の木をよろしくお願いいたします。
エドガー・ルーヴェル』
エリアスはしばらく便箋を眺めていた。
昔の住人が、同じ庭を眺めながら調べていたこと。
そして、その記録が今も残されていること。
思いがけない知らせだった。
「……ありがとうございます」
小さく呟き、便箋を丁寧に畳んだ。
すぐに返事を書こう。
図面についても、ぜひ見せていただきたい。
ただし、庭の石蓋を開けるかどうかは、テレサと相談してからにしよう。
エリアスは手帳へ書き加えた。
『ルーヴェル様へ返信。図面の送付をお願いする。』
その横には、旅行案内所から届いた宿泊確認書も置かれている。
今日は、二つの嬉しい知らせが届いた日になった。
◇
午後、エリアスはクロイス古書店を訪れた。
店の奥では、レオンハルトが古い本の補修をしていた。
「こんにちは」
「……来たか」
レオンハルトは顔を上げた。
「何か進展があったような顔だな」
「わかりますか?」
「ああ。ここへ来るときのお前は、だいたいそういう顔をしている」
エリアスは少し困ったように笑った。
椅子へ腰を下ろし、ルーヴェルからの手紙を広げる。
「実は、以前この家に住んでいた方から、お返事をいただいたんです」
レオンハルトは手を止めた。
「……あの庭の件か」
「はい」
エリアスは手紙の内容を説明した。
庭の石蓋。
雨の日に聞こえる音。
そして、七十年前の工事に携わった人物から伝え聞いたという話。
レオンハルトは黙って聞いていた。
最後に、短く息を吐く。
「……なるほど。ヴェルナーは、やはり流路を完全に閉じることに反対していたのか」
「そうらしいです」
「もっとも、伝え聞いた話だからな。そこは慎重に扱った方がいい」
「ええ。私もそう思います」
エリアスは頷いた。
「ただ、当時の判断を考えるうえでは参考になります」
レオンハルトは手紙へ目を落とした。
「図面も残っているのか」
「はい。送っていただけるそうです」
「それは見たいな」
エリアスは頷いた。
「届いたら、テレサさんにも確認していただこうと思っています」
「そうするといい」
レオンハルトは少し考えたあと、棚から一冊の古い本を取り出した。
「……そういえば、前に話していた点検口のことだが」
「はい」
「三十二基の石枠について、もう一度記録を確認してみた」
エリアスは身を乗り出した。
「何かわかりましたか?」
「すべてが同じ役割ではなかったらしい」
レオンハルトは図面を広げた。
そこには、形の異なる三種類の石枠が描かれている。
「雨水を逃がすためのもの。地下の流路を点検するためのもの。それから、魔力の変化を受け取るためのものだ」
エリアスは図面を見比べた。
「……観測用の石枠も、含まれていたのですね」
「ああ。だが、これを観測施設と呼ぶのは少し違うな」
レオンハルトは小さな石枠を指差した。
「大きな観測所で受け取る信号とは違い、流路の状態を近くへ伝えるだけのものだろう」
「……では、庭の石蓋も、その一種かもしれませんね」
「可能性はある」
レオンハルトは頷いた。
「ただし、図面が届くまでは何とも言えない」
エリアスは手帳へ書き留めた。
それから、少し考えて口を開く。
「……七十年前の改修について、ようやく整理できてきましたね」
「そうだな」
レオンハルトは頷いた。
「少なくとも、何を守ろうとしていたのかは見えてきた」
「はい」
エリアスは窓の外へ目を向けた。
通りには、買い物帰りの人々が行き交っている。
その下に、古い流路が今も残されている。
けれど、街の人々はそのことをほとんど知らない。
知らなくても、日々の暮らしは続いていく。
きっと、それでよいのだろう。
必要な人が仕組みを理解し、安全に管理できていれば。
「……そろそろ、調査の目的も整理し直した方がよさそうですね」
エリアスが言うと、レオンハルトが顔を上げた。
「どういう意味だ?」
「最初は、古い結界を元に戻すことばかり考えていました」
エリアスは静かに続けた。
「でも、今は違います。街の暮らしが安全に続くのであれば、必ずしも昔と同じ状態へ戻す必要はないのかもしれません」
レオンハルトはしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「……それは、いい考えだと思う」
エリアスは少し笑った。
◇
夕方、鈴蘭亭では、ノアがいつもより慌ただしく動いていた。
厨房からは焼き菓子の香りが漂い、食堂の机には小さな紙袋が並んでいる。
「こんにちは」
エリアスが声をかけると、ノアが顔を上げた。
「あ、エリアスさん!」
「今日は、何かあるのですか?」
「明日の市場で出すお菓子を作ってるんです」
「市場で、ですか?」
「はい。月に一度、店の外でも販売する日があるんですよ」
ノアは嬉しそうに説明した。
「母さんが料理の方を見てくれてるので、今日は僕がお菓子担当です」
エリアスは机に並ぶ焼き菓子を眺めた。
小さな丸い菓子。
胡桃入りの焼き菓子。
それから、果実を使った薄い菓子。
どれも、丁寧に作られている。
「……すごいですね」
「ありがとうございます!」
ノアは照れたように笑った。
「でも、まだ包装が終わってなくて」
エリアスは紙袋を見た。
「よろしければ、お手伝いしましょうか」
「いいんですか?」
「はい。今日はもう、急ぐ予定もありませんので」
ノアは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、お願いします!」
二人は食堂の机へ向かい、焼き菓子をひとつずつ袋へ入れ始めた。
ノアが菓子を並べ、エリアスが紙袋を折る。
単純な作業だったが、意外と手間がかかる。
「……この折り方でよろしいでしょうか」
エリアスが尋ねると、ノアは覗き込んだ。
「はい。すごくきれいです」
「よかった」
「エリアスさん、こういうの得意そうですよね」
「細かい作業は、嫌いではありません」
「やっぱり」
ノアは笑った。
エリアスは紙袋を丁寧に折りながら、ふと思い出した。
「そういえば、セレーネの宿から返事が来ました」
ノアが顔を上げる。
「本当ですか?」
「はい。リュカも一緒に泊まれるそうです」
「よかったですね!」
ノアは嬉しそうに言った。
「湖灯祭、楽しみですねえ」
「ええ」
エリアスは頷いた。
「まだ行ったことのない街なので、少し緊張していますが」
「エリアスさんでも、緊張することあるんですね」
「もちろんです」
エリアスは真面目に答えた。
「知らない場所へ行くのですから」
ノアは少し笑った。
「でも、カイルさんも一緒ですし、大丈夫ですよ」
「そうですね」
エリアスも笑った。
そのあとも、二人はお菓子を袋へ詰め続けた。
夕方になる頃には、机の上に小さな紙袋がきれいに並んでいた。
◇
夜、新しい家へ戻ると、リュカが玄関まで迎えに出てきた。
「ただいま戻りました」
エリアスが声をかけると、白い獣は足元を一周し、居間へ向かった。
今日は、鈴蘭亭で小さな焼き菓子をひとつもらってきた。
エリアスはそれを皿へ置き、温かいお茶を淹れた。
窓の外には、静かな庭が広がっている。
白い花をつけた木。
新しく芽を出した花壇。
そして、軒下に置いた椅子。
どれも、今では見慣れた景色になっていた。
エリアスは食卓へ腰を下ろし、焼き菓子をひと口食べた。
果実の甘酸っぱい味が広がる。
「……おいしいですね」
足元でリュカが顔を上げた。
「あなたには、あとで鶏肉を用意しますよ」
リュカはそれを聞くと、満足そうに尾を動かした。
エリアスは小さく笑った。
今日、ルーヴェルからの手紙が届いた。
そして、セレーネの宿からも返事が来た。
調査のことも、旅行のことも、少しずつ進んでいる。
エリアスは手帳を開いた。
明日はルーヴェル夫妻へ返事を書こう。
それから、カイルへ宿の確認が取れたことを伝えたい。
月に一度の市場へも、足を運んでみよう。
ノアが作ったお菓子が、たくさん売れるといい。
そんなことを考えながら、エリアスは手帳へ予定を書き込んだ。
庭の下に眠る古い仕組みについても、まだ調べたいことはある。
けれど、今はそのことだけを考えているわけではなかった。
目の前の暮らしには、小さな楽しみがいくつもある。
エリアスは手帳を閉じ、窓の外へ目を向けた。
明日は、いい天気になりそうだった。




