第52話 古い帳簿が語る、もうひとつの真実
セドリックの執務室には、朝から二人の来客があった。
一人はエリアス。もう一人は、大きな図面筒を抱えたテレサだった。
「ずいぶん早く集まっていただいて、申し訳ありません」
セドリックが言うと、テレサは首を振った。
「ちょうど確認したいことがあったから、構わないわ」
「私もです」
エリアスは鞄から一枚の紙を取り出した。
昨日、鈴蘭亭の古い修理帳で見つけた記録の写しだった。
『下層溝については、旧北方水路管理記録を参照。』
セドリックはそれを読み、少し眉を寄せた。
「……北方水路管理記録、ですか」
「何かご存じでしょうか」
「名前だけなら、聞いたことがあります」
セドリックは書棚へ目を向けた。
「ただ、現在の土地管理台帳とは別のものだったはずです」
テレサが椅子へ腰を下ろした。
「水路を管理するための記録なら、工事の履歴も残ってるかもしれないわね」
「その可能性はあります」
セドリックは頷いた。
「問題は、どこに保管されているかですが……」
しばらく考えたあと、机の引き出しから古い目録を取り出した。
紙は黄ばんでいたが、丁寧に整理されている。
「昔は、土地と水路の管理が別々だったそうです。街が大きくなるにつれて部署が統合され、書類も移されたと聞いています」
エリアスは目録を覗き込んだ。
「では、まだ街のどこかに?」
「ええ。処分されたという記録はありません」
セドリックはページをめくった。
やがて、ある項目で手を止める。
「……ありました」
エリアスとテレサが顔を上げた。
「旧水路管理帳。保管先は、南区の資料倉庫になっています」
「南区……」
テレサは少し考えた。
「ああ、昔の役所の倉庫ね。今はほとんど使ってない建物でしょう?」
「そうです。現在は古い図面や土地の書類を保管しています」
セドリックは目録を閉じた。
「管理担当者へ連絡します。閲覧できる状態か、確認してもらいましょう」
エリアスは頷いた。
「ありがとうございます」
そのとき、テレサが図面筒を机へ置いた。
「それと、私からも見せたいものがあるの」
中から取り出したのは、北東地区の地盤測定図だった。
通行止めになった道路の位置が、赤い線で囲まれている。
「昨日の測定結果をまとめてきたわ」
テレサは図面を広げた。
「沈み込みの範囲、思ったより小さかったの。少なくとも、今のところ広がってはいない」
セドリックが安堵したように息を吐いた。
「それはよかった」
「ただし、安心するのはまだ早いわよ」
テレサは別の線を指差した。
「地下の石枠が傷んでいる可能性は残ってる。修理するなら、まず位置を正確に確かめないと」
エリアスも図面を見つめた。
「……魔力の流れは、昨日と大きく変わっていません」
「なら、急に何かを動かす必要はなさそうね」
テレサは頷いた。
セドリックは二人の話を聞き、書類へ記録した。
「道路については、安全が確認できるまで通行止めを継続しましょう。住民には、状況を説明しておきます」
エリアスも頷いた。
古い結界の研究とは別に、街の暮らしを守るための仕事がある。
その優先順位を、誰も見失ってはいなかった。
◇
南区の資料倉庫を訪れたのは、その二日後だった。
セドリックの手配により、エリアスとテレサ、レオンハルトの三人が閲覧を許可された。
倉庫は石造りの古い建物で、窓は小さく、内部には乾いた紙の匂いが漂っている。
案内してくれた管理人は、年配の男性だった。
「水路の記録をお探しだそうで」
「はい。七十年前の工事について確認したいのです」
エリアスが答えると、管理人は奥の棚を指差した。
「その頃なら、こちらでしょうな」
木棚には、厚い帳簿が何冊も並んでいた。
表紙には年度と地区名が記されている。
管理人はその中から一冊を取り出し、机へ置いた。
「これが北方水路管理帳です」
エリアスは丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます」
管理人が離れると、三人は帳簿を開いた。
最初のページには、水路の清掃記録が並んでいる。
水量の確認。
石壁の補修。
雨季の点検。
どれも、ごく普通の管理記録だった。
「……ずいぶん細かいのね」
テレサが感心したように言った。
「毎月、ちゃんと点検してる」
レオンハルトが頷いた。
「当時は、街の生活に欠かせない設備だったんだろう」
エリアスはページをめくった。
しばらくして、ある年の記録で手を止めた。
七十年前。
ヴェルナーの調査が始まったとされる時期だった。
そこには、これまでの記録とは少し違う文章が書かれている。
『北方水路、地盤変動により一部使用停止。』
『地下補助流路については、従来どおり維持すること。』
エリアスは顔を上げた。
「……こちらをご覧ください」
二人が覗き込む。
テレサが最初に口を開いた。
「水路は止めたのに、下の流路は残してる……」
「ええ」
エリアスは頷いた。
「意図的に分けて管理していたようです」
レオンハルトは記録を読み進めた。
「……それだけじゃないな」
彼は次の行を指差した。
『地下補助流路は、通常の水路管理者による操作を禁ずる。』
エリアスは目を細めた。
「……操作を禁じる?」
「魔法設備だったから、専門家以外は触れないようにしていたのかもしれない」
レオンハルトは答えた。
テレサは腕を組んだ。
「でも、それなら点検する人はどうしてたの?」
エリアスは考え込んだ。
地下の魔力流路を扱うには、古代魔法の知識が必要になる。
けれど、街の水路管理者が全員魔導師だったとは考えにくい。
その疑問を抱えたまま、さらにページをめくる。
すると、数枚先に別の記録があった。
『北方境界設備については、専任の管理者へ報告すること。』
その横には、小さな印章が押されている。
花のような形だった。
エリアスは指を止めた。
「……この印」
レオンハルトが覗き込む。
「見覚えがあるのか?」
「はい。祭殿の中央調整部に似ています」
テレサも身を乗り出した。
「本当ね。花びらみたいな形があるわ」
エリアスは印章をよく見た。
六枚の花弁。
その中心に、小さな円。
北の祭殿で見た模様と、よく似ている。
「……同じ組織が管理していたのでしょうか」
レオンハルトは少し考えた。
「少なくとも、通常の水路管理とは別の担当者がいたようだな」
エリアスは頷いた。
ここで重要なのは、地下の流路が単なる古い水路ではなかったということだ。
街の人々は、水を使う設備として管理していた。
一方、魔法の仕組みについては、別の管理者が責任を持っていたらしい。
それなら、ヴェルナーの研究が途中で止まったあとも、地下の設備が完全には放置されなかった理由が説明できるかもしれない。
「……その専任の管理者について、名前は残っていませんか?」
エリアスが尋ねると、レオンハルトは帳簿をめくった。
しばらくして、最後の方に一枚の紙が挟まれていることに気づいた。
「……これは?」
紙は帳簿より少し新しい。
後から差し込まれたものらしい。
そこには、短い引き継ぎの記録が残されていた。
『北方境界設備の管理については、改修計画延期後、現地の管理業務を縮小。』
『日常点検は水路管理部門へ移管し、魔法設備の操作は引き続き禁止する。』
エリアスは静かに息を吐いた。
「……そういうことだったのですね」
テレサが顔を上げる。
「何かわかったの?」
「ええ。少なくとも、七十年前の人々は、設備を完全に放置したわけではありません」
エリアスは説明した。
「危険な操作は止めたまま、水路として必要な部分だけを管理し続けたのでしょう」
レオンハルトが頷いた。
「だから、今でも石枠や一部の流路が残っているのか」
「ええ」
エリアスは帳簿へ目を落とした。
七十年前に止まった研究。
そのあとも続いていた街の暮らし。
そして、何世代もの水路管理者たちが残した記録。
古い仕組みが今まで残っていたのは、単に丈夫だったからではない。
誰かが、少しずつ手入れを続けていたからだった。
◇
倉庫を出ると、午後の日差しが眩しかった。
テレサは大きく伸びをした。
「いやあ、ずいぶん読んだわね」
「お疲れさまでした」
エリアスが言うと、彼女は笑った。
「でも、面白かったわ。昔の人も、ちゃんと同じことで悩んでたのね」
「同じこと?」
「地面が沈むとか、水路が詰まるとか、修理するお金が足りないとか」
テレサは肩をすくめた。
「七十年も経ってるのに、案外変わらないものね」
レオンハルトも小さく笑った。
「技術は変わっても、暮らしを守る仕事は変わらないんだろう」
エリアスは二人の言葉を聞きながら、街の通りを見渡した。
古い家と新しい家が並び、子供たちが走っている。
商人が荷車を押し、パン屋の前には客が並んでいた。
七十年前にも、同じような景色があったのかもしれない。
その人々の暮らしを守るために、ヴェルナーたちは地下の設備を調べていた。
今、自分たちがしていることも、きっと大きくは違わない。
「……少し、安心しました」
エリアスが言うと、テレサが振り返った。
「何が?」
「昔の人々も、街を守るために考えていたのだとわかって」
テレサは少し驚いたような顔をした。
それから、柔らかく笑った。
「そうね。少なくとも、何も考えずに放っておいたわけじゃなかったみたい」
エリアスは頷いた。
すべての謎が解けたわけではない。
けれど、七十年前の出来事が、以前よりもずっと身近に感じられた。
◇
夕方、エリアスは鈴蘭亭へ立ち寄った。
食堂にはいつもの賑わいが戻っている。
ノアが料理を運び、ミラが厨房から声をかけていた。
「エリアスさん、いらっしゃい!」
「こんにちは」
「今日は何にします?」
「おすすめをお願いします」
ノアは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、今日は魚料理にしましょう!」
「魚ですか」
「はい。朝、市場でいい魚が入ったんです」
エリアスは少し考えた。
セレーネも湖の街だ。
向こうでは、どんな魚料理が食べられるのだろう。
「……楽しみですね」
思わず呟くと、ノアが笑った。
「何だか、すごく嬉しそうですね」
「実は、来月旅行へ行くことになりまして」
「あ、セレーネですよね!」
「はい」
「カイルさんから聞きました!」
ノアは楽しそうに言った。
「いいなあ。湖灯祭、僕もいつか行ってみたいです」
「きっと素敵なお祭りなのでしょうね」
「ええ。夜になると、湖が星空みたいになるんだって」
エリアスは想像した。
暗い湖面に浮かぶ、たくさんの小さな灯り。
遠くまで続く水の上に、光が揺れている。
今まで本でしか見たことのない景色だった。
「……ぜひ、見てみたいです」
エリアスが言うと、ノアは笑った。
「いっぱい楽しんできてくださいね」
「はい。お土産も忘れません」
「ありがとうございます!」
そこへミラが料理を運んできた。
「ほら、二人とも。話は食べながらにしな」
温かな魚料理が食卓へ置かれる。
エリアスは礼を述べ、スプーンを手に取った。
香草とバターの香りが広がり、白身の魚が柔らかくほぐれた。
「……とてもおいしいです」
ミラは満足そうに頷いた。
「そうだろう? 湖の魚とはまた違う味だよ」
「……湖の魚も、楽しみになりました」
エリアスが言うと、ノアが笑った。
「旅行の楽しみが、また増えましたね!」
エリアスも笑った。
◇
夜、新しい家へ戻ると、リュカが玄関まで迎えに出てきた。
「ただいま戻りました」
白い獣は足元を一周し、エリアスの鞄へ鼻先を寄せた。
「今日は、お土産はありませんよ」
そう言うと、リュカは少し不満そうに尾を振った。
エリアスは小さく笑い、居間へ向かった。
書斎の机には、今日の調査記録を広げた。
北方水路管理帳。
七十年前の工事。
そして、引き継がれていた日常点検。
調査を進めるうちに、古い仕組みが単なる魔法の装置ではなかったことがわかってきた。
街の暮らしと深く結びついた設備だったのだ。
エリアスは手帳へ短く書き留めた。
『地下流路は、改修計画延期後も日常点検を継続。魔法設備の操作は禁止。』
それから、別のページを開く。
そこには、セレーネ旅行の予定が書かれている。
宿泊予定日。
湖灯祭。
湖沿いの市場。
そして、リュカと一緒に行ける場所。
エリアスは少し笑った。
明日は、カイルと馬車の便について確認しよう。
宿からの返事も、そろそろ届くかもしれない。
楽しみな予定が、少しずつ近づいていた。
エリアスは手帳を閉じ、窓の外へ目を向けた。
庭の木が夜風に揺れている。
その下には、ベネット工房で買った椅子が置かれていた。
明日の朝は、あそこで本を読もう。
そう考えたところで、リュカが足元へ寄ってきた。
「……もう寝る時間ですね」
エリアスは白い獣を抱き上げた。
今日も、いろいろなことがあった。
けれど、慌ただしさは感じなかった。
自分の意思で動き、誰かと話し、必要なことをひとつずつ進めていく。
そんな毎日が、今はとても心地よかった。
◇
一方、王都の王宮では、オスカーがアルベルト三世へ新しい報告を届けていた。
古い補足安全調査の中に、これまで見落とされていた記述が見つかったのだ。
「……七十年前の管理引き継ぎについて、記録がございました」
オスカーが言うと、アルベルトは顔を上げた。
「ほう」
「改修計画が延期されたあと、現地の水路管理部門へ日常点検が引き継がれていたようです」
国王は少し考えた。
「……つまり、完全に放置されたわけではなかったのだな」
「はい。ただし、魔法設備の操作は禁じられております」
「それなら、少なくとも当時の判断は慎重だったわけだ」
アルベルトは頷いた。
「現地の管理者は、今もその記録を持っているのか?」
「確認が必要ですが、当時の水路管理帳が残されている可能性はございます」
国王は少し考えた。
「ならば、まずその所在を確かめよう」
「承知いたしました」
「現地に残る設備を、むやみに動かす必要はない。安全性を確認するための資料を揃えることが先だ」
オスカーは頷いた。
「はい」
国王は窓の外へ目を向けた。
「……それにしても、昔の人間も苦労していたようだな」
「ええ」
「街を守るために作った仕組みが、長い年月のうちに別の問題を生むこともある」
アルベルトは小さく息を吐いた。
「だからこそ、次の世代へ正しく伝えなければならんのだろう」
オスカーは静かに頭を下げた。
王宮の古い記録と、現地に残された管理帳。
それぞれ別の場所で保管されていた資料が、少しずつ同じ出来事を示し始めていた。
七十年前の改修計画。
そこにあったのは、単なる失敗や中止ではなく、街の安全を優先した判断だったのかもしれない。
オスカーは報告書を閉じた。
まだ解明できていないことはある。
けれど、当時の人々が何を守ろうとしていたのか、その輪郭だけは見え始めていた。




