第51話 止められた工事と、守り続けた約束
通行止めになった北東地区の道を、エリアスは少し離れた場所から眺めていた。
縄の向こうでは、テレサと数人の測量員が作業を進めている。昨日まで地面に引かれていた白い印が増え、道の脇には小さな木杭が並んでいた。
「おはようございます」
エリアスが声をかけると、テレサが顔を上げた。
「あら、来てくれたのね」
「何かわかったでしょうか」
「ええ。今日はちょっと面白いものを見せられそうよ」
テレサは手招きし、安全を確認した場所へエリアスを案内した。
地面には細長い縄が張られている。
「昨日、点検口の位置を測り直したでしょう?」
「はい」
「その結果を古い地図に重ねてみたの」
彼女は測量図を広げた。
現在の道路と、七十年前の地下流路。
そして、地中に埋まった石枠の位置が記されている。
「……少し、ずれていますね」
エリアスが呟くと、テレサは頷いた。
「そうなの。古い地図だと、点検口はこの位置にあるはずだった」
彼女は道の中央を指差した。
「でも、実際にはもっと東側なのよ」
「……移動されたのでしょうか」
「おそらくね」
テレサは別の紙を取り出した。
「それで、七十年前の工事記録をもう一度調べたら、気になる記述があったの」
エリアスは紙を受け取った。
そこには、短い文章が残されていた。
『既設流路の閉塞に伴い、補助経路を新設。旧点検口を移設する。』
エリアスは目を留めた。
「……新設された流路に合わせて、点検口も移されたのですね」
「そういうことだと思うわ」
テレサは頷いた。
「でも、重要なのはここからよ」
彼女は地図を指でなぞった。
「新しく作られた流路は、元の流路と完全には重なっていないの」
エリアスは二本の線を見比べた。
古い流路は北から南へ続いている。
しかし、新しい流路は途中で東へ曲がり、住宅地の下を通っていた。
「……かなり遠回りしていますね」
「ええ。普通なら、もっと短い経路を選ぶはずよ」
テレサは少し考えた。
「でも、当時の人たちはわざわざ遠回りさせた。何か避けたい場所があったのかもしれないわ」
エリアスは地図へ目を落とした。
元の流路が通っていた場所。
そこには、現在も地盤の弱い斜面がある。
「……地盤の崩壊を避けるためでしょうか」
「可能性は高いわね」
テレサは頷いた。
「ただ、それならなぜ完全に元の流路を塞がなかったのかしら」
エリアスは考え込んだ。
旧流路は、今もごく弱い魔力の反応を残している。
新しい流路が作られたあとも、完全には止まっていなかった。
それは、単なる工事の不備なのだろうか。
あるいは、意図的に残されたものなのか。
「……もう少し、記録を確かめたいですね」
エリアスが言うと、テレサは笑った。
「そう言うと思った」
彼女は測量器を片づけ始めた。
「でも、今日は現地の調査はここまでよ。これ以上は、古い構造物を傷つけるおそれがあるから」
「はい」
エリアスは頷いた。
危険な場所へ無理に近づかなくても、調べられることはある。
そのことを、最近はよく理解するようになっていた。
◇
午後、エリアスはクロイス古書店を訪れた。
レオンハルトは奥の机で古い資料を整理していたが、エリアスが入るとすぐに顔を上げた。
「……来たか」
「こんにちは」
「テレサの調査はどうだった?」
「点検口の位置が、七十年前に変更されていたことがわかりました」
エリアスは地図を広げた。
レオンハルトは黙って見つめていたが、やがて眉を寄せた。
「……元の流路を避けるように、新しい経路が作られているな」
「はい」
「だが、旧流路も完全には閉じられていない」
エリアスは頷いた。
「そこが気になっています」
レオンハルトはしばらく考えたあと、棚から一冊の古い本を取り出した。
「……以前見つけた、ヴェルナーの改修記録をもう一度見てみよう」
ページをめくり、ある箇所で指を止める。
そこには、短い文章が記されていた。
『旧流路は完全に閉鎖せず、圧力分散のため一部を残すこと。』
エリアスは文字を読み直した。
「……圧力分散」
「ああ」
レオンハルトは頷いた。
「地下の魔力が一か所に集中しないよう、逃げ道を残していたのかもしれない」
「それなら、元の流路が今も反応していることにも説明がつきますね」
「そうだな」
エリアスは地図を見つめた。
新しい流路へ魔力を移しながら、古い流路も完全には閉じない。
両方を使って圧力を分散させる。
それが、七十年前の改修案だったのだろうか。
「……ただ、それでは中央調整部を再起動したときに、両方へ負荷がかかる可能性がありますね」
エリアスが言うと、レオンハルトは頷いた。
「だから、承認を求めたのかもしれない」
エリアスは少し考えた。
ヴェルナーは、単に古い結界を修理しようとしていたのではない。
街の地盤と地下の魔力。
その両方を守る方法を探していた。
しかし、安全性が確認できないまま計画を進めれば、街そのものへ危険が及ぶおそれがあった。
「……それで、工事が止まったのでしょうか」
「可能性はある」
レオンハルトは静かに答えた。
「ただし、今の記録だけでは、誰がどのような判断をしたのかまではわからない」
エリアスは頷いた。
答えを急ぐつもりはなかった。
けれど、七十年前の人々が何を守ろうとしていたのか、少しずつ見えてきた気がした。
◇
夕方、エリアスは鈴蘭亭へ立ち寄った。
食堂には数人の客がいて、厨房からは香草のいい匂いが漂っている。
ノアがエリアスの姿を見つけ、嬉しそうに手を振った。
「あ、エリアスさん!」
「こんにちは」
「ちょうどよかった! 今日は少し時間あります?」
「はい。どうされました?」
「前に話してた、鶏肉の香草焼きなんですけど」
ノアは少し得意げに笑った。
「今日、練習してみませんか?」
エリアスは顔を上げた。
「ぜひお願いします」
「じゃあ、厨房へどうぞ!」
二人は厨房の奥へ向かった。
ミラが鍋をかき混ぜながら、ちらりと二人を見た。
「エリアスさん、今日は肉料理だって?」
「はい。ノアに教えていただこうと思いまして」
「それなら、火加減に気をつけるんだよ」
「はい」
「卵と違って、鶏肉は中までしっかり火を通さないといけないからね」
エリアスは真剣に頷いた。
ノアが笑う。
「大丈夫ですよ。今日は僕が横で見てますから」
最初に行うのは、鶏肉へ下味をつけることだった。
塩。
胡椒。
刻んだ香草。
それらを混ぜ、肉の表面へ丁寧に馴染ませる。
「……このくらいでしょうか」
エリアスが尋ねると、ノアは頷いた。
「はい。いい感じです」
次に、フライパンへ油を敷く。
火を入れ、温まったところで鶏肉を置いた。
じゅう、と音がする。
香草の香りが立ち上り、エリアスは思わず顔を近づけた。
「……いい匂いですね」
「でしょう?」
ノアは嬉しそうに笑った。
「でも、まだ触らないでくださいね。焼き色がつくまでは、そのままにしておくんです」
「わかりました」
エリアスはじっとフライパンを見つめた。
一分。
二分。
少しずつ、肉の表面が色づいていく。
「……そろそろでしょうか」
「もう少しです」
「……はい」
エリアスは木べらを持ったまま待った。
ノアが笑った。
「そんなに構えなくても大丈夫ですよ」
「つい、気になってしまいまして」
「わかります。でも、料理は待つのも大事なんです」
その言葉に、エリアスは少し笑った。
最近、似たことを何度も聞いている。
花を育てるときも。
古い魔法を調べるときも。
そして、料理をするときも。
急がず、必要な時間をかけること。
それが、今の自分には大切なのかもしれなかった。
「……では、もう少し待ちます」
「はい!」
ノアは満足そうに頷いた。
◇
鶏肉の香草焼きは、思っていた以上においしくできた。
外側には香ばしい焼き色がつき、中は柔らかい。
ミラも味見をし、満足そうに頷いた。
「うん。上出来だね」
「ありがとうございます」
エリアスはほっとした。
「これなら、家でも作れそうです」
「そうだね。最初は小さめの肉で練習するといいよ」
ノアが言った。
「火が通ったかどうかも、確認しやすいですから」
「わかりました」
エリアスは手帳へ書き留めた。
そこへ、ミラが思い出したように口を開いた。
「そういえば、エリアスさん」
「はい?」
「前に話してた、物置の古い修理帳ね」
エリアスは顔を上げた。
「見つかったのですか?」
「ええ。昨日、ノアと片づけてたら出てきたよ」
ミラは厨房の棚から薄い帳面を取り出した。
表紙は傷んでいたが、文字はまだ読める。
「これだよ」
エリアスは受け取った。
中には、宿の修理記録が細かく書き込まれている。
屋根の補修。
厨房の改装。
床板の張り替え。
そして、物置の床下についての記録。
『旧排水路確認。下層に石造りの細溝あり。補修不要につき現状維持。』
エリアスはその一文で手を止めた。
「……下層に、石造りの細溝」
「やっぱりあったんだねえ」
ミラが言った。
「父さんが話してたのは、これのことだったんだろうね」
エリアスは記録を読み進めた。
その下には、もう一行だけ書き加えられていた。
『下層溝については、旧北方水路管理記録を参照。』
エリアスは顔を上げた。
「……北方水路管理記録?」
「さあ、私は知らないよ」
ミラは首を傾げた。
「昔の役所の書類か何かじゃないかい?」
エリアスは考え込んだ。
北方水路。
七十年前の補修工事。
地下に残された二層の流路。
鈴蘭亭の修理帳にまで、その名前が記されている。
もしかすると、魔導院の研究記録とは別に、街の水路を管理していた人々の記録が残っているのかもしれない。
「……セドリック様へ、確認してみます」
エリアスが言うと、ミラは頷いた。
「そうするといいよ」
そして、少し笑った。
「でも、まずは料理を食べ終わってからね」
エリアスは手元の皿を見た。
まだ半分ほど残っている。
「……失礼しました」
ノアが笑った。
「エリアスさん、すぐ調べ物のこと考えちゃうんですね」
エリアスは少し困ったように笑った。
「……どうも、気になることがあると」
「でも、今日は料理の練習ですから!」
「そうですね」
エリアスは頷き、残りの鶏肉を食べた。
◇
その夜、王都の王宮では、アルベルト三世がヴェルナーの補足安全調査を読んでいた。
向かいには、オスカーが立っている。
「……なるほどな」
国王は冊子を閉じた。
「七十年前、現地の地盤が変化していたわけか」
「はい。補足資料では、地下流路の一部に負荷がかかるおそれが指摘されています」
オスカーは答えた。
「ただし、当時の改修計画そのものが危険だったのか、地盤の状態が問題だったのかは、まだ判断できません」
アルベルトは頷いた。
「……だから、再起動を認めなかったのかもしれんな」
「その可能性はございます」
国王は窓の外へ目を向けた。
「ヴェルナーは、その後どうなった?」
「記録では、再審査の結果を待っていたようですが……その先が確認できておりません」
「そうか」
アルベルトはしばらく黙った。
「……不思議だな」
「何がでございましょう」
「これほど慎重に調べていた男が、最終的な判断を記録に残さないとは思えん」
オスカーは頷いた。
「私も、同じことを考えております」
国王は冊子をもう一度開いた。
最後のページには、ヴェルナーの言葉が残されている。
『守るべきは、術式ではなく、その上に暮らす人々である。』
アルベルトはその一文を指でなぞった。
「……いい言葉だ」
「はい」
「だが、言葉だけでは何も守れん。実際に何をしたのか、そこを確かめる必要があるな」
オスカーは静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
国王は冊子を閉じた。
「魔導院には、現地の安全確認に必要な資料を整理させよう。再起動の研究は、その後だ」
「はい」
「それと、現地の領地管理者にも、古い地下設備が残っている可能性を伝えておいた方がいい」
オスカーは顔を上げた。
「リュネリア地方へ、ですか?」
「ああ。ただし、場所の特定が先だ。曖昧なまま通達しても混乱するだけだろう」
「承知いたしました」
アルベルトは少し考えたあと、付け加えた。
「……エリアスには、まだ知らせなくていい」
オスカーは頷いた。
「はい。休暇中ですから」
「そうだ。あいつは、ようやく自分の暮らしを楽しみ始めたところだ」
国王は小さく笑った。
「せっかく卵を焼けるようになったんだ。今度は何を作るのか、楽しみにしておこう」
オスカーも思わず笑った。
「……次のお手紙で、聞いてみます」
◇
夜、新しい家へ戻ったエリアスは、庭の椅子に腰を下ろしていた。
空には星が広がり、遠くから街の鐘が聞こえている。
足元では、リュカが丸くなって眠っていた。
エリアスは手帳を開いた。
今日の調査記録。
ノアに教わった鶏肉の香草焼き。
そして、鈴蘭亭の修理帳で見つかった北方水路管理記録という名前。
やることは増えている。
けれど、今は不思議と負担には感じなかった。
どれも、自分で選んでいることだからだろう。
エリアスは手帳を閉じた。
明日は、セドリックへ水路管理記録について尋ねてみよう。
それから、旅行の宿の確認もしておきたい。
来月には、セレーネの湖灯祭が待っている。
それを思うと、自然に笑みがこぼれた。
「……楽しみですね」
エリアスが呟くと、リュカが眠たそうに顔を上げた。
「あなたも、一緒ですよ」
リュカは小さく鳴き、再び丸くなった。
エリアスは夜空を見上げた。
フィオーレでの暮らしは、少しずつ落ち着いてきている。
古い結界の謎も、ようやく大切な部分が見え始めていた。
まだ解決していないことはある。
けれど、それらをすべて急いで終わらせる必要はない。
今は、この街で暮らす日々を大切にしながら、できることをひとつずつ進めていこう。
エリアスは椅子から立ち上がり、リュカを抱き上げた。
家の中には、温かな明かりが灯っている。
彼は静かに玄関の扉を閉めた。




