第76話 街道の小さな騒動
翌朝、エリアスが宿の食堂へ下りると、すでに何人もの旅人が朝食を取っていた。
窓から差し込む陽の光が、磨かれた木の床を明るく照らしている。
エリアスはパンと卵料理、それに温めた牛乳を注文した。
足元では、リュカが小さな皿に盛られた鶏肉を食べている。
「おはよう、魔導師さん」
声をかけてきたのは、昨日の馬車で一緒だった商人だった。
「おはようございます」
「よく眠れたかい?」
「はい。おかげさまで」
「そいつはよかった。今日は、もう少し東まで一緒だな」
商人はエリアスの向かいに腰を下ろした。
名前はバルドというらしい。昨日の休憩所で話したあと、宿へ着くまでの間に自己紹介を交わしていた。
「俺は途中のカレドで降りるんだが、あんたはその先まで行くんだったな」
「はい。国境へ向かう乗合馬車に乗り継ぐ予定です」
「カレドは街道が二つに分かれる町でね。乗り継ぎの馬車も多い。昼頃には着けると思うよ」
「そうなんですね」
「それと、向こうの広場には焼きたての肉包みを売る店がある。時間があれば寄ってみるといい」
「肉包み、ですか?」
「ああ。薄い生地で肉と野菜を包んで焼いたものだ。香辛料が利いていてうまいぞ」
エリアスは興味を引かれた。
「ぜひ食べてみたいですね」
「ははっ。じゃあ、着いたら場所を教えるよ」
バルドは楽しそうに笑った。
エリアスも微笑み、朝食を口に運んだ。
◇
宿場町を出た馬車は、朝の街道を順調に進んでいた。
昨日とは違い、道の両側には低い森が続いている。
細い木々の間から陽光が差し込み、ところどころに白い花が咲いていた。
エリアスは窓の外を眺めながら、膝の上で眠るリュカの背を撫でていた。
籠の中にいるより、こちらの方が落ち着くらしい。
今朝も最初は籠に入っていたのだが、馬車が動き始めてしばらくすると、エリアスの膝へ移りたがった。
御者の許可を得て抱き上げると、すぐに丸くなって眠ってしまった。
「すっかり慣れたみたいだな」
バルドが笑った。
「昨日は少し落ち着かなかったようですが、今日は大丈夫そうです」
「そりゃよかった」
馬車の中では、老夫婦が静かに話をしている。
旅装束の女性は窓際で本を読んでいた。
穏やかな朝だった。
ところが、しばらく進んだところで馬車が突然速度を落とした。
御者が手綱を引き、前方を見つめている。
「……何だ?」
バルドが窓から顔を出した。
街道の先で、一台の荷馬車が斜めに止まっていた。
車輪の一つが道の外へ落ち、荷台が大きく傾いている。
その周囲には、困った様子の男たちが集まっていた。
「どうしたんだ?」
御者が声をかけると、荷馬車のそばにいた男性が振り向いた。
「車輪が側溝に落ちちまったんだ。持ち上げようとしたんだが、荷が重くて動かない」
よく見ると、荷馬車の左側の車輪が溝にはまり込んでいた。
車軸も斜めになり、荷台に積まれた木箱が今にも崩れそうだった。
エリアスは窓からその様子を確かめた。
「……少し、お手伝いしてもよろしいでしょうか」
バルドが顔を向ける。
「おや、魔法で何とかできるのかい?」
「状態を見てみないとわかりませんが、少なくとも荷物を降ろすお手伝いはできると思います」
エリアスはリュカを籠に戻し、御者に断って馬車を降りた。
◇
荷馬車の持ち主は、近くの町へ木工品を運んでいる商人だった。
荷台には家具の部材や木箱が積まれており、かなりの重量がある。
「すみません。荷馬車を少し見せていただいてもよろしいですか?」
エリアスが尋ねると、男性は驚いたように顔を上げた。
「ああ、構わないけど……」
エリアスは車輪の周囲にしゃがみ込んだ。
溝はそれほど深くない。
ただ、地面が雨で緩んでいたため、車輪を引き上げようとすると、さらに土が崩れてしまう状態だった。
昨夜、この辺りでは雨が降ったらしい。
馬車の重量をそのまま持ち上げることは簡単だが、車軸を傷めてしまう可能性もある。
エリアスは荷台の下へ目を向けた。
「車軸は、まだ折れていないようですね」
「ああ。ただ、無理に引っ張ったら壊れそうで……」
「そうですね。まず荷台を支えましょう」
エリアスは立ち上がり、周囲の男性たちへ声をかけた。
「少しだけ魔法を使います。荷馬車が動いても危なくないように、皆さんは離れていてください」
男性たちは顔を見合わせ、数歩下がった。
エリアスは右手を軽く掲げた。
荷馬車の下に、薄い光が広がる。
次の瞬間、傾いていた荷台がゆっくりと水平に戻り始めた。
「お、おい……!」
持ち主が目を丸くする。
荷馬車はわずかに持ち上がり、車輪が側溝から離れた。
エリアスはそのまま、車体を街道の中央へゆっくり移動させる。
土を踏み荒らすこともなく、荷馬車は元の位置へ戻った。
光が消える。
「これで大丈夫でしょうか」
エリアスが尋ねると、男性はしばらく口を開けたまま立っていた。
「……あ、ああ」
やがて、慌てて車輪へ駆け寄る。
車軸を確かめ、荷台を揺らしてみる。
「壊れてない……!」
男性は振り向いた。
「助かった! 本当にありがとう!」
「いえ。お怪我がなくてよかったです」
エリアスは微笑んだ。
しかし、そこでふと気になることがあった。
側溝の縁が、思っていた以上に崩れている。
このままでは、次に通る馬車も同じ場所へ落ちるかもしれない。
「……少し、待っていただけますか」
エリアスは溝のそばに戻った。
崩れた土を確かめ、周囲の地面へ視線を向ける。
雨水が集まりやすい形になっていた。
さらに、側溝の底には落ち葉や小枝が溜まり、水の流れを妨げている。
「ここは、雨が降ると危ないですね」
近づいてきた御者が頷いた。
「確かに。普段は問題ない場所なんだが」
「昨夜の雨で土が緩んだのかもしれません」
エリアスは側溝に溜まった落ち葉を集め、魔法で少し離れた場所へ移した。
水が流れ始める。
さらに、崩れた土を戻し、周囲の石を組み直して縁を補強した。
すべてを魔法で固めてしまうこともできるが、それでは地面の水はけが悪くなる可能性がある。
水が自然に流れるよう、必要な部分だけを整えた。
「……これで、しばらくは大丈夫だと思います」
エリアスは立ち上がった。
御者が驚いたように側溝を見ている。
「魔導師さんってのは、こんなこともできるんだな」
「土や石を動かす魔法は、比較的応用しやすいんです」
エリアスは穏やかに答えた。
「ただ、後日きちんと点検していただいた方が安心ですね」
「ああ。次の宿場で街道管理の連中に伝えておくよ」
「お願いします」
荷馬車の持ち主は、何度も頭を下げていた。
「本当に助かったよ。もしよかったら、お礼に何か持っていってくれないか?」
男性は荷台を開けた。
中には、小さな木製の箱や皿、装飾品などが並んでいる。
「いえ、お礼なんて……」
「頼むよ。これだけ助けてもらって、何もしないんじゃ申し訳ない」
エリアスは少し迷った。
そのとき、木箱の一つが目に入った。
小さな木彫りの鳥がついた、蓋付きの箱だった。
「……では、こちらをいただいてもよろしいですか?」
「もちろんだ!」
男性は嬉しそうに箱を差し出した。
「旅先で使ってくれ」
「ありがとうございます」
エリアスは丁寧に受け取った。
掌に収まるほどの小さな箱だったが、細かな彫刻が施されている。
旅の途中で見つけた、思いがけない記念品になった。
◇
馬車へ戻ると、バルドが感心したようにエリアスを見た。
「いやあ、驚いたよ」
「何がでしょう?」
「あんな大きな荷馬車を、簡単に動かしちまうんだから」
「荷台を支えるだけなら、それほど難しくありませんよ」
「……そういうものなのかねえ」
バルドは首を傾げた。
隣に座っていた老婦人も、笑いながら言った。
「あなたのおかげで、みんな助かったねえ」
「お役に立てたなら、よかったです」
エリアスは席へ戻り、リュカの籠を覗いた。
リュカは中で丸くなっていたが、エリアスを見ると小さく鳴いた。
「お待たせしました」
エリアスが頭を撫でると、リュカは安心したように目を細めた。
馬車が再び動き始める。
街道は相変わらず、穏やかな春の景色に包まれていた。
ただ、先ほどまでとは違い、乗客たちが時折エリアスへ話しかけてくるようになった。
魔法についての質問。
どんな研究をしているのかという話。
王都の魔導師は皆、あのような魔法を使えるのかという問い。
エリアスは一つひとつ、丁寧に答えていった。
その中で、バルドがふと尋ねた。
「そういえば、あんた、どこで魔法を学んだんだい?」
「王都の魔導院で学びました」
「へえ。じゃあ、かなり勉強したんだろうな」
「はい。魔法の研究は、昔から好きでしたので」
「なるほど。好きなことを仕事にできるってのは、いいもんだ」
バルドは満足そうに頷いた。
エリアスも微笑んだ。
宮廷魔導師であることまでは、聞かれなかった。
もっとも、わざわざ自分から話す必要もないだろう。
休暇中の旅なのだから。
◇
昼過ぎ、馬車はカレドへ到着した。
街道が二つに分かれるこの町は、旅人や商人で賑わっていた。
広場には何台もの馬車が停まり、荷物を運ぶ人々が忙しそうに行き交っている。
バルドは馬車を降りると、エリアスへ手を振った。
「ここでお別れだな」
「はい。いろいろ教えていただき、ありがとうございました」
「いやいや、こちらこそ。いいものを見せてもらったよ」
バルドは笑った。
「そうだ。肉包みの店、覚えてるか?」
「はい」
「広場の向こう、赤い屋根の店だ。まだ昼なら焼きたてがあるはずだよ」
「ありがとうございます。寄ってみます」
「じゃあ、いい旅を!」
「バルドさんも、お元気で」
二人は別れた。
エリアスはリュカを連れて、広場の向こうへ歩き出す。
赤い屋根の店は、すぐに見つかった。
店先では大きな鉄板が熱せられ、薄い生地に包まれた肉と野菜が香ばしい音を立てて焼かれている。
「いらっしゃい!」
店主が威勢よく声をかけた。
「焼きたてだよ。ひとつどうだい?」
「では、一つお願いします」
エリアスは代金を払い、包み紙に包まれた肉包みを受け取った。
近くのベンチに腰を下ろし、一口食べる。
「……美味しいですね」
薄い生地は外側が香ばしく、中には柔らかな肉と甘みのある野菜が詰まっていた。
香辛料の香りが口いっぱいに広がる。
フィオーレでは、あまり食べたことのない味だった。
リュカが興味深そうに鼻を近づける。
「これは少し香辛料が強いので、リュカには別のものを用意しますね」
エリアスは収納鞄から、小さな包みを取り出した。
中には、ミラが用意してくれた乾燥肉が入っている。
リュカは嬉しそうに受け取り、足元で食べ始めた。
エリアスは肉包みを味わいながら、次に乗る馬車の時間を確かめた。
国境方面へ向かう便は、午後の遅い時間に出発する予定だった。
まだ少し余裕がある。
「……町を歩いてみましょうか」
エリアスが声をかけると、リュカは顔を上げた。
こうして、二人の旅は次の町へと続いていく。
まだ国境は遠い。
けれど、急いで向かう必要もなかった。
街道で起きた小さな出来事も、初めて食べた料理も、旅の大切な思い出になっていくのだから。




