第6話 壊れた魔道具
鈴蘭亭の厨房は、夕食の仕込みで慌ただしかった。
大きな鍋からは湯気が立ち上り、作業台には刻みかけの野菜が並んでいる。奥の竈では、昼に仕込んだ肉の煮込みが静かに音を立てていた。
普段なら、食欲をそそる香りに満ちた場所なのだろう。
しかし今は、それどころではないらしい。
「だから、朝まではちゃんと動いてたんだよ!」
ミラが腰に手を当て、厨房の隅に置かれた大きな木箱を睨んでいた。
「母さん、怒ったって直らないよ」
「わかってるさ。でも、こんな忙しいときに壊れなくたっていいだろう?」
「それはそうだけど……」
困ったように答えるノアの後ろから、エリアスが顔を覗かせた。
「失礼します」
「あら、エリアスさん」
ミラは振り返り、慌てて前掛けで手を拭った。
「ごめんなさいねえ。ノアが余計なことを頼んだんじゃないかい?」
「いえ、私から見せていただきたいとお願いしたんです」
「そうなの?」
「はい。お困りのようでしたから」
エリアスは穏やかに答え、問題の木箱へ目を向けた。
高さは大人の腰ほど。厚い木板で覆われ、正面には左右に開く扉がついている。
扉の上部には、冷却用の魔法陣が刻まれた金属板が取り付けられていた。
「こちらが冷却用の魔道具ですね」
「そうなんです。食材を保存するのに使っていて」
ノアが説明する。
「普段は中が冷えているんですけど、今朝から少し温かくなっていて。さっき確認したら、完全に止まってました」
「中を開けても構いませんか?」
「もちろん!」
エリアスは扉を開いた。
内部には棚が三段あり、食材の入った容器がいくつか並んでいる。
まだ多少の冷気は残っていたが、確かに冷却機能は停止しているようだった。
「今朝までは動いていたのですね」
「はい。朝食の準備をしていたときは、まだ冷たかったです」
「魔力石は交換されましたか?」
「昨日、新しいものに替えたばかりなんです」
「なるほど」
エリアスは金属板に指先を近づけた。
わずかな魔力を流し、内部の術式を読み取る。
その瞬間、淡い青色の光が指先に集まった。
細い線が幾重にも重なり、エリアスの視界に魔法陣の構造が浮かび上がる。
魔力の流れは、途中で途切れていた。
原因はすぐにわかった。
「……接続部分ですね」
「え?」
「内部の魔力回路が一か所、損傷しています。それと、冷却効率も少し落ちているようです」
ノアは目を丸くした。
「そんなことまでわかるんですか?」
「ええ。魔力の流れを調べれば、おおよその状態は把握できますよ」
「へえ……」
ノアは感心したように頷く。
ミラは木箱を見つめ、心配そうに尋ねた。
「それで、直りそうかい?」
「はい。損傷した部分をつなぎ直せば、動くようになると思います」
「本当かい!?」
「ただ、少し古い形式なので、修理のついでに術式を整えてもよろしいでしょうか」
「じゅつしき?」
「ええ。魔力の流れを少し変えるだけです」
ミラとノアは顔を見合わせた。
よくわからないが、直してもらえるならありがたい。
「お願いできるかい?」
「もちろんです」
エリアスは微笑み、もう一度金属板へ手をかざした。
指先から流れた魔力が、細い光となって内部へ入り込んでいく。
損傷した回路を補い、乱れていた循環を整える。
古い術式をそのまま使うより、新しい構造に組み替えた方が効率はよさそうだった。
しかし、必要以上に改良するのもよくない。
エリアスは少し考え、元の構造をできるだけ残すことにした。
長年使われてきた魔道具だ。
きっと、この宿の人たちにも使い慣れたものなのだろう。
青い光がゆっくりと収束する。
やがて、金属板の中央に小さな光が灯った。
「……これで大丈夫でしょう」
エリアスは手を離した。
ノアが慌てて扉を開く。
「あっ!」
中から、ひんやりとした空気が流れ出した。
「冷えてる!」
「本当かい!?」
ミラも近づき、木箱の中へ手を入れる。
先ほどまで温かくなりかけていた内部は、再び冷気に満たされていた。
「まあ……!」
ミラの顔が明るくなる。
「直ったじゃないか!」
「はい。しばらくは問題なく動くと思います」
「ありがとうねえ! 本当に助かったよ!」
「いえ、お役に立ててよかったです」
エリアスは穏やかに微笑んだ。
しかし、ノアはまだ木箱の前から動かなかった。
「……エリアスさん」
「はい?」
「なんか、前よりずっと冷えてる気がするんですけど」
「そうですか?」
「はい。こんなに冷たくなかったと思います」
エリアスはもう一度内部を確認した。
「ああ、少し冷却効率を上げましたから」
「効率?」
「ええ。以前より少ない魔力で、安定して冷却できるようにしてあります」
「……そんなこともできるんですか?」
「古い術式でしたので、少し調整しただけですよ」
ノアはしばらく黙っていた。
それから、ぽつりと呟いた。
「……エリアスさんって、すごい人なんですね」
「そうでしょうか」
「だって、修理屋さんが何日もかかるって言ってたのに、あっという間に直しちゃったじゃないですか」
「今回は原因がわかりやすかったですから」
エリアスは当然のように答えた。
ノアは何か言いかけたが、結局、口を閉じた。
昨日から薄々感じていた。
この人は、どうやら普通の魔導師とは少し違うらしい。
けれど本人には、その自覚があまりないようだった。
◇
「それにしても、助かったよ」
ミラは胸を撫で下ろした。
「この魔道具が使えなくなったら、保存してある食材をどうしようかと思ってたんだ」
「それほど大切なものなのですね」
「そりゃそうさ。毎日使ってるからねえ」
ミラは木箱の表面を軽く撫でた。
「もう十年以上になるかね。ノアがまだ小さかった頃に買ったんだよ」
「へえ……」
エリアスは改めて魔道具を見た。
木箱の角には細かな傷があり、取っ手の金属部分も少し色が変わっている。
決して新しい品ではない。
けれど、丁寧に使われてきたことが伝わってきた。
「長く大切にされているのですね」
「まあね。新しいものを買う余裕もなかなかないし、まだ使えるなら使いたいからさ」
「そうですね」
エリアスは頷いた。
王立魔導院では、古い魔道具は研究資料として扱われることが多かった。
新しい術式が開発されれば、設備も更新される。
しかし、街の暮らしの中では違う。
ひとつの魔道具を長く使い続けることにも、大切な意味があるのだろう。
「そういえば」
エリアスはふと思い出したように尋ねた。
「この魔道具は、普段どの程度の温度で使われていますか?」
「温度?」
「はい。保存する食材によって、適した温度が違いますので」
ミラは少し考えた。
「そうだねえ。肉や魚が傷まなければ、それで十分なんだけど」
「なるほど」
エリアスは木箱の中を見つめた。
現在の冷却温度は、保存には適している。
しかし、少し調整すれば、食材ごとに温度を変えることも可能だ。
例えば、上段は野菜用。
中段は肉や魚。
下段は長期保存用。
そうすれば、もっと便利になるのではないだろうか。
「……少し、改良してみましょうか」
エリアスが呟くと、ノアが振り返った。
「え?」
「棚ごとに温度を変えられるようにすれば、食材の保存がしやすくなると思いまして」
「そんなこと、できるんですか?」
「ええ。難しいことではありませんよ」
ノアはミラを見た。
ミラもノアを見た。
二人の表情には、まったく同じ疑問が浮かんでいた。
本当に、難しくないのだろうか。
「……エリアスさん」
ノアが恐る恐る尋ねる。
「それって、普通の魔導師さんでもできることなんですか?」
エリアスは少し考えた。
「そうですね……」
彼にとって、魔法の術式を組み替えることは、文章を書き直すのとそれほど変わらない。
構造を理解し、目的に合わせて調整する。
ただ、それだけのことだ。
「基本を理解していれば、できると思いますよ」
「……そうなんですね」
ノアは頷いた。
その表情は、どこか納得していないようにも見えた。
ミラは笑いながら言った。
「まあ、難しいことはわからないけど、便利になるならありがたいねえ」
「では、少しだけ」
エリアスは再び金属板へ手をかざした。
今度は術式の一部を分岐させ、三段の棚にそれぞれ異なる冷却機能を与える。
魔力の消費を抑えるため、必要以上に冷えないよう調整も加えた。
作業は、一分もかからなかった。
「……できました」
エリアスは手を離した。
「上段は野菜、中段は肉や魚、下段は長期保存用にしてあります。もし温度を変えたい場合は、こちらの金属板に触れてください」
そう言って、操作方法を説明する。
ノアは何度も頷きながら聞いていた。
「すごい……。こんなことまでできるなんて」
「便利になりそうですね」
エリアスは満足そうに微笑んだ。
けれど、ミラは少し困ったような顔をした。
「エリアスさん」
「はい?」
「こんなことまでしてもらって、本当にいいのかい?」
「もちろんです」
「でも、お金も払わずに……」
「お気になさらないでください。お世話になっている宿ですし」
「それでもねえ」
ミラは腕を組んだ。
少し考えたあと、何かを思いついたように顔を上げる。
「そうだ!」
「はい?」
「今日の夕食、少し豪華にしてあげるよ!」
エリアスは瞬きをした。
「夕食を、ですか?」
「ああ! ちょうどいい肉が入ってるんだ。特別に煮込みを作ってあげる」
「……それは、嬉しいですね」
思わず声が弾んだ。
ミラは満足そうに笑った。
「決まりだね!」
ノアも嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、僕もデザート作ります!」
「デザートまで?」
「はい! 昨日、エリアスさんが甘いもの好きそうだなって思ったので」
エリアスは少し驚いた。
「……わかるものなのですか?」
「だって、昨日の食後のお菓子、すごく嬉しそうに食べてましたよ」
「そうでしたか」
自分では意識していなかった。
けれど、確かに甘いものは好きだった。
「では、楽しみにしています」
そう答えると、ノアは得意げに笑った。
◇
厨房を出たエリアスは、一度自室へ戻ることにした。
階段を上りながら、先ほどの出来事を思い返す。
壊れた魔道具を修理した。
それだけのことだった。
けれど、ミラもノアも、ずいぶん喜んでくれた。
王立魔導院では、どれほど複雑な術式を完成させても、次の研究課題が待っていた。
新しい魔法を生み出すこと。
既存の技術を発展させること。
それが自分の仕事だった。
もちろん、やりがいはあった。
研究そのものも好きだった。
ただ、今日のように誰かの暮らしに直接関わる魔法は、少し違う楽しさがあるように思えた。
「……面白いものですね」
エリアスは小さく呟いた。
魔法の可能性は、まだまだ広い。
しかし、そのすべてが大きな研究成果につながる必要はないのかもしれない。
誰かの食事を守ること。
毎日の暮らしを少し便利にすること。
そんな使い方も、悪くない。
部屋へ戻ると、窓から午後の日差しが差し込んでいた。
机の上には、昨日市場で買った茶葉と、店主からもらった銀色のランプが置かれている。
エリアスは椅子に腰掛け、手帳を開いた。
今日の出来事を書き留めようと思ったのだ。
『鈴蘭亭の冷却魔道具を修理した。
古い形式だったが、基本構造は単純で、問題なく動作した。
ついでに、棚ごとに温度を調整できるよう改良した。
ミラさんとノアが喜んでくれた。
お礼に夕食を豪華にしてくれるらしい。
とても楽しみだ。』
そこまで書いて、少し考える。
何か、もうひとつ書いておきたいことがあった。
エリアスは筆を持ち直し、最後に一文を加えた。
『魔法は、こういう使い方も楽しい。』
書き終えると、手帳を閉じた。
窓の外では、春の風が街路樹を揺らしている。
穏やかな午後だった。
◇
夕食の時間になると、食堂にはいつも以上にいい香りが漂っていた。
ミラが用意してくれたのは、柔らかく煮込んだ肉料理と、香草入りのパン。
さらに、ノアが作った果実の焼き菓子まで添えられていた。
「……これは」
料理を見たエリアスは、思わず目を丸くした。
「ずいぶん豪華ですね」
「今日は特別だからね!」
ミラが笑う。
「遠慮せず食べておくれ」
「ありがとうございます」
エリアスは丁寧に礼を述べ、食事を始めた。
肉は柔らかく、香草の香りがほどよく染み込んでいる。
パンと一緒に食べると、さらに味わいが深くなった。
「……おいしいですね」
「そうだろう?」
ミラは満足そうに頷いた。
ノアも嬉しそうに笑っている。
「デザートも楽しみにしてくださいね!」
「ええ。楽しみです」
その様子を見ながら、ミラはふと口を開いた。
「それにしても、エリアスさん」
「はい?」
「この街に来たのは、休暇のためだったね?」
「はい」
「それなのに、魔道具を直してもらっちゃって悪かったねえ」
「いえ。お気になさらないでください」
エリアスは首を横に振った。
「私にとっては、これも楽しい時間でしたから」
「……そうかい」
ミラは少し驚いたように目を細め、それから柔らかく笑った。
「変わった人だねえ、あんたは」
エリアスは不思議そうに瞬きをした。
「そうでしょうか?」
「ああ。でも、悪い意味じゃないよ」
「それなら、よかったです」
エリアスは安心したように微笑んだ。
ノアが隣で笑いをこらえている。
「……ノア?」
「いえ、何でもないです!」
その返答に、エリアスはますます不思議そうな顔をした。
◇
夕食を終えたあと、エリアスは食堂の隅で紅茶を楽しんでいた。
食堂には数人の客が残り、静かな会話を交わしている。
窓の外では、街灯が石畳の道を照らしていた。
エリアスはカップを手に、今日一日を振り返った。
市場での買い物。
珍しい果物。
古い魔道具との出会い。
そして、鈴蘭亭での修理。
王都を離れてから、毎日が新しい発見の連続だった。
それでも、不思議と疲れは感じなかった。
むしろ、明日は何があるのだろうと楽しみに思える。
「エリアスさん」
顔を上げると、ノアが立っていた。
「明日、何か予定ありますか?」
「明日ですか?」
「はい」
エリアスは少し考えた。
「特には決めていませんね」
「それなら、ちょうどいいかも」
ノアは嬉しそうに笑った。
「実は、明日うちの常連さんが来るんですけど、その人、冒険者なんですよ」
「冒険者?」
「はい。名前はカイルっていうんです」
ノアは椅子を引き、エリアスの向かいに座った。
「すごく気さくな人で、街のことにも詳しいんです。エリアスさん、フィオーレをもっと見て回りたいって言ってたでしょう?」
「ええ」
「だったら、紹介できたらなって思って」
エリアスは少し驚いた。
自分が何気なく話したことを、ノアは覚えていてくれたらしい。
「……ありがとうございます」
「いえいえ! きっと気が合うと思いますよ」
「そうでしょうか」
「はい。カイルさん、面倒見がいいですから」
ノアは楽しそうに笑った。
「ただ、ちょっと声が大きいんですけどね」
「それは、賑やかな方なのですね」
「そうです! すごく!」
エリアスは思わず笑った。
王城では、冒険者と話す機会はほとんどなかった。
護衛任務で顔を合わせることはあっても、ゆっくり会話を交わすことは少ない。
彼らがどんな日々を送り、何を見て、どんなことを考えているのか。
少し興味があった。
「では、ぜひ紹介してください」
「はい! 任せてください!」
ノアは嬉しそうに頷いた。
その笑顔を見ながら、エリアスは紅茶をひと口飲んだ。
温かな香りが、静かに広がる。
明日は、どんな人に出会えるのだろう。
そう思うだけで、少し楽しみになった。
窓の外では、フィオーレの夜がゆっくりと更けていく。
穏やかな休暇は、まだ始まったばかりだった。




