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平穏を望む宮廷魔導師は、自由気ままに暮らしたい  作者: nene
第1章 春風の街、フィオーレ

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第5話 市場での小さな発見

 

 フィオーレで迎える最初の朝は、鐘楼の音で始まった。


 六つ目の鐘が鳴り終わる頃、エリアスは寝台の上で目を開けた。


 窓の隙間から差し込む朝日が、床に細長い光を落としている。


 王城にいた頃なら、すでに研究室で書類を広げている時間だった。


 しかし、今日は急いで起きる理由がない。


 エリアスはしばらく天井を眺めていたが、やがて掛布を押しのけた。


「……せっかくですから、朝の街も見てみましょうか」


 独り言を口にしてから、思わず笑みがこぼれる。


 昨日も似たようなことを考えていた気がする。


 けれど、何をしようかと自分で決められる時間は、何度味わっても新鮮だった。


 身支度を整えて一階へ下りると、食堂ではノアが椅子を並べていた。


「あ、おはようございます! エリアスさん」


「おはようございます、ノア」


「早いですね。よく眠れました?」


「ええ。おかげさまで」


「よかったです。朝ご飯、もう少しでできますよ」


 ノアは椅子をひとつ持ち上げながら、思い出したように尋ねた。


「今日はどこかに出かけるんですか?」


「市場へ行ってみようと思っています」


「それなら、ちょうどいいですね。今日は朝市の日なんですよ」


「朝市?」


「はい。普段より店が多く出るんです。近くの村から野菜や果物を売りに来る人もいますし」


 ノアは窓の外を指差した。


「中央広場を抜けた先に大きな通りがあるでしょう? あそこです」


「なるほど。昨日は通りませんでしたね」


「見てるだけでも楽しいですよ。あ、でも午前中の方がいいです。人気の店は昼前に売り切れちゃうので」


「では、朝食をいただいてから行ってみます」


「そうしてください!」


 ノアは再び椅子を並べ始めた。


 エリアスは窓際の席に腰を下ろし、外の景色を眺める。


 通りにはすでに荷車が行き交っていた。


 花を積んだ荷車を押す女性。


 大きな籠を背負った老人。


 眠たそうに目をこすりながら歩く子供。


 王都にいた頃は、朝の街にこれほど多くの表情があることさえ知らなかった。


「お待たせしました!」


 しばらくして、ノアが朝食を運んできた。


 焼きたてのパンと、野菜の入った温かなスープ。薄く切った燻製肉と、季節の果物が添えられている。


「今日は母さんが早くからパンを焼いたんです」


「いい香りですね」


「でしょう? 蜂蜜を少しつけてもおいしいですよ」


 エリアスは勧められたとおり、パンに蜂蜜をつけて口に運んだ。


 外側は香ばしく、中は柔らかい。


 噛むほどに小麦の甘みが広がった。


「……おいしいですね」


「へへ。ありがとうございます」


 ノアは嬉しそうに笑った。


「市場にもおいしいものがいっぱいありますから、ぜひ食べてみてください」


「そうします」


 エリアスは頷き、ふと思い出したように付け加えた。


「ところで、ノア。市場で買ったものは、そのまま持ち帰ってもいいのでしょうか?」


「え?」


「いえ、店によっては配送をお願いする必要があるのかと」


 ノアは少し考えてから、笑った。


「普通に持って帰れますよ。荷物が多かったら、配達してくれる店もありますけど」


「そうなのですね」


「……エリアスさんって、王都ではあまり買い物をしなかったんですか?」


「ほとんどありませんね。必要なものは手配してもらっていたので」


「へえ……」


 ノアは感心したような、困ったような顔をした。


「じゃあ、今日は初めてのことがいっぱいですね」


「ええ。楽しみです」


 素直にそう答えると、ノアは少し嬉しそうに笑った。


     ◇


 朝市は、想像していた以上に賑やかだった。


 中央広場から東へ伸びる通りには、色とりどりの天幕が並んでいる。


 籠いっぱいに積まれた新鮮な野菜。艶やかな果実。焼き菓子や保存食、手作りの雑貨まで、さまざまな品が売られていた。


 商人たちの呼び声が、通りのあちこちから聞こえてくる。


「今朝採れたばかりの野菜だよ!」


「甘いリンゴはいかが?」


「焼きたてのパイがあるよ!」


 エリアスは人の流れに合わせ、ゆっくりと歩いた。


 王都にも大きな市場はある。


 しかし、王城から眺めるだけだった彼にとって、こうした場所を自由に歩くのはまだ珍しい経験だった。


 通りの端に、果物を並べた小さな店があった。


 店先には赤や黄色の果実が山のように積まれている。


 その中に、見慣れない薄紫色の実が混じっていた。


「これは何という果物ですか?」


 エリアスが尋ねると、店番をしていた年配の女性が顔を上げた。


「おや、旅の人かい? それはルミナの実だよ」


「ルミナ……」


「この辺りの森で採れるんだ。甘酸っぱくておいしいよ」


 女性は小さな実をひとつ取り、エリアスに差し出した。


「味見してごらん」


「よろしいのですか?」


「もちろんさ」


 エリアスは礼を言い、受け取った実を口に運んだ。


 薄い皮が弾け、爽やかな酸味が広がる。


 そのあとから、花の蜜を思わせる柔らかな甘みが感じられた。


「……これは、珍しい味ですね」


「気に入ったかい?」


「ええ、とても」


 エリアスは実の入った籠を眺めた。


 見た目は普通の果物だが、内部にはごく微かな魔力が含まれている。


 しかも、自然に発生した魔力にしては、ずいぶんと安定していた。


「この実は、森のどの辺りで採れるのでしょう?」


「北の森だよ。湖に近い場所に木が生えてるんだ」


「なるほど……」


「どうしたんだい?」


「いえ、少し気になりまして」


 エリアスは考え込んだ。


 ルミナの実については、古い植物図鑑で読んだ覚えがある。


 確か、魔力を蓄える性質を持つ果実だったはずだ。


 ただし、一般的にはそれほど多くの魔力を含まないとされている。


 目の前の実は、記述されていたものより魔力の密度が高い。


 土地の性質によるものだろうか。


「お兄さん?」


「ああ、すみません」


 女性の声で我に返った。


「少し考え事をしていました」


「ははっ。果物ひとつで、そんな難しい顔をしなくてもいいのに」


「そうですね」


 エリアスは微笑んだ。


「こちらを十個ほどいただけますか?」


「あいよ! 銅貨八枚だね」


 エリアスは財布から硬貨を取り出した。


 今回は、きちんと銅貨を用意してある。


 王都の市場で金貨を差し出し、店主を困らせてしまったことは忘れていない。


「こちらでお願いします」


「はい、ちょうどだよ」


 女性は紙袋に実を詰め、手渡してくれた。


「そのまま食べてもいいけど、少し冷やすともっとおいしいよ」


「ありがとうございます。試してみます」


 エリアスは紙袋を受け取り、店を離れた。


 その後も何軒かの店を回り、焼き菓子や茶葉を買った。


 気づけば、手には小さな包みがいくつも増えていた。


「……なるほど」


 エリアスは立ち止まり、荷物を見下ろした。


 買い物というものは、思っていたより楽しい。


 ただし、持ち歩くには少々不便だった。


 そこで、周囲に人がいないことを確かめると、旅行鞄を開いた。


 手にしていた包みを、ひとつずつ中へ入れていく。


 鞄の内部には空間拡張魔法が施されている。


 見た目は普通の鞄だが、小さな倉庫ほどの容量があった。


 荷物をしまい終えたエリアスは、満足そうに頷いた。


「やはり、便利ですね」


 王都を出る前、オスカーから「普通の旅人は鞄の中に空間魔法を施したりしません」と言われたことを思い出す。


 けれど、こうして使ってみると、ますます便利さがよくわかる。


 誰でも使えるようになれば、きっと喜ばれるだろう。


 いつか、もっと簡単な術式に改良してみてもいいかもしれない。


 そんなことを考えながら、エリアスは再び歩き出した。


     ◇


 市場の奥へ進むと、少し雰囲気が変わった。


 食品を扱う店が減り、代わりに手工芸品や道具を売る店が増えている。


 木製の食器。


 色鮮やかな織物。


 革製の小物や、簡単な魔道具。


 エリアスは、そのひとつに目を留めた。


 小さな天幕の下に、古い魔道具がいくつも並べられている。


 照明器具や携帯用の保温石、簡易結界の護符など、日常生活で使われるものばかりだった。


 店番をしていたのは、白髪交じりの男性だった。


「いらっしゃい。何か探し物かい?」


「少し見せていただいても?」


「もちろんだよ」


 エリアスは並べられた品を眺めた。


 どれも古いものだが、丁寧に手入れされている。


 その中に、小さな銀色のランプがあった。


 掌に収まるほどの大きさで、表面には細かな模様が刻まれている。


「これは?」


「古い照明用の魔道具だよ。昔はよく使われていたんだが、最近は新しい型が増えてね」


「なるほど」


 エリアスはランプを持ち上げた。


 内部には、簡単な魔力循環術式が組み込まれている。


 ただし、少し変わった構造だった。


 魔力を均等に流すのではなく、一定の周期で強弱をつけている。


「……面白いですね」


「おや、魔道具に詳しいのかい?」


「少しだけ」


「そうかい。なら、これも見てみるか?」


 店主は棚の奥から、もうひとつの品を取り出した。


 今度は、古びた木箱だった。


 蓋を開けると、中には小さな金属製の器具が収められている。


「これは何ですか?」


「昔、旅商人が使っていた保存用の魔道具だよ。食べ物を傷みにくくするらしい」


「らしい、ということは……」


「今は動かないんだ。修理に出すほどの値打ちもないから、そのまま置いてある」


 エリアスは器具を手に取った。


 確かに、内部の魔力循環は完全に止まっている。


 しかし、術式そのものはそれほど複雑ではなかった。


 接続部分に小さな亀裂がある。


 そこを補強すれば、再び動くはずだ。


「……惜しいですね」


「ん?」


「少し直せば、まだ使えると思うのですが」


 店主は驚いたように目を丸くした。


「本当かい?」


「ええ。内部の接続が切れているだけですから」


「いやいや、そんな簡単なものじゃないだろう。街の修理屋にも見せたんだが、難しいって言われたんだよ」


「そうなのですか?」


 エリアスは器具をもう一度眺めた。


 修理屋が難しいと判断した理由は、何となくわかった。


 古い術式のため、現在の魔道具とは構造が少し異なるのだ。


 けれど、基本的な仕組みは同じである。


「もしよろしければ、試してみましょうか?」


「……試す?」


「はい。修理です」


 店主はしばらくエリアスを見つめていた。


 それから、少し困ったように笑った。


「お兄さん、魔導師さんなのかい?」


「ええ」


「そうかい。まあ、どうせ動かないものだしな。壊れても構わないよ」


「ありがとうございます」


 エリアスは器具を両手で包み込んだ。


 指先に、淡い青色の光が灯る。


 内部の術式を読み取り、損傷している部分を確認する。


 亀裂の入った魔力回路をつなぎ直し、循環の流れを整える。


 それだけの作業だった。


 数秒後。


 器具の表面に刻まれた模様が、淡く輝き始めた。


「……これで大丈夫だと思います」


 エリアスは器具を木箱へ戻した。


 店主は目を見開いたまま、動かなかった。


「……え?」


「動作も安定しています。少なくとも、しばらくは問題なく使えるはずです」


「いや、ちょっと待ってくれ」


 店主は慌てて器具を手に取った。


 確かに、止まっていたはずの魔力が循環している。


 古い保存器具が、再び動き始めていた。


「……直ったのか?」


「はい」


「本当に?」


「ええ」


 店主は何度も器具をひっくり返した。


「……何年も動かなかったんだぞ、これ」


「そうなのですね」


「修理屋にも無理だって言われたんだ」


「古い形式ですから、少し扱いにくいのでしょうね」


 エリアスは穏やかに答えた。


 店主はしばらく黙っていたが、やがて大きな声で笑い始めた。


「はははっ! いやあ、驚いた!」


 エリアスは少し首を傾げた。


「何か問題がありましたか?」


「問題なんてないさ! いや、まさか本当に直るとは思わなくてね!」


「それはよかったです」


 店主は嬉しそうに器具を眺めた。


「ありがとな、お兄さん。助かったよ」


「いえ。少し手を加えただけですから」


「そう言ってくれるなら、これを持っていきな」


 店主は先ほどの銀色のランプを差し出した。


「お礼だよ」


「ですが、売り物では?」


「いいんだよ。古いものだし、たいした値段もつかないから」


 エリアスは少し迷った。


 確かに、修理をしたのは親切心からだ。


 報酬が欲しかったわけではない。


 けれど、店主の表情を見る限り、受け取った方が喜ばれそうだった。


「……では、ありがたくいただきます」


「おう! 大事に使ってくれよ」


「はい。ありがとうございます」


 エリアスはランプを受け取り、丁寧に礼を述べた。


 店を離れてから、手の中の小さな魔道具を眺める。


 銀色の表面には、長年使われてきた跡が残っていた。


 新しい魔道具のような美しさはない。


 けれど、不思議と温かみが感じられる品だった。


「……こういうものも、いいですね」


 エリアスは微笑み、ランプを鞄へしまった。


     ◇


 市場をひと回りした頃には、陽が高く昇っていた。


 エリアスは広場へ戻り、噴水のそばにあるベンチへ腰を下ろした。


 朝から歩き続けていたため、少し喉が渇いている。


 鞄から水筒を取り出し、ひと口飲んだ。


 周囲では、子供たちが追いかけっこをしている。


 噴水の縁に腰掛けた老人たちは、穏やかに談笑していた。


 その様子を眺めていると、ふと昨日のことを思い出した。


 広場で出会った少女と、茶色い猫。


 今日もどこかを歩いているのだろうか。


 そんなことを考えていたときだった。


「あれ?」


 聞き覚えのある声がした。


 顔を上げると、ノアがこちらへ歩いてくる。


 両手には、野菜の入った大きな籠を抱えていた。


「エリアスさん!」


「こんにちは、ノア」


「こんなところにいたんですね。朝市はどうでした?」


「とても楽しかったです」


「それはよかった!」


 ノアは隣に腰を下ろした。


「何か買いました?」


「果物と茶葉、それから焼き菓子を少し」


「いいですね。ルミナの実は買いました?」


「ええ。ちょうど先ほど」


「本当ですか! あれ、おいしいですよね」


「はい。少し珍しい味でした」


 二人はしばらく市場の話をした。


 ノアは宿で使う野菜を買いに来たのだという。


「今日は母さんに頼まれて、春キャベツを買いに来たんです」


「春キャベツですか」


「はい。今夜のスープに使うんですよ」


「それは楽しみですね」


 エリアスは微笑んだ。


 ノアは嬉しそうに頷き、それからふと思い出したように尋ねた。


「そういえば、エリアスさん。さっき市場の道具屋さんが、すごく喜んでたんですけど」


「道具屋さん?」


「はい。壊れてた魔道具を、通りがかりの魔導師さんが直してくれたって」


「ああ」


 エリアスは納得したように頷いた。


「先ほど、少し修理をしました」


「やっぱりエリアスさんだったんですね!」


「はい」


「すごいなあ。あのお店のおじさん、ずっと直せなくて困ってたんですよ」


「そうだったのですね」


「町の修理屋さんでも難しかったって聞きましたけど……」


 ノアは感心したようにエリアスを見つめた。


「エリアスさん、やっぱりすごい魔導師なんですね」


「いえ。たまたま、扱い慣れた形式だっただけですよ」


「それでもすごいですよ!」


 ノアは笑った。


 エリアスは少し困ったように微笑む。


 褒められるほどのことをしたつもりはなかった。


 ただ、壊れたまま置かれている魔道具が少しもったいなく感じただけだ。


「そういえば、ノア」


「はい?」


「この街には、魔道具の修理をするお店が少ないのですか?」


「そうですね。専門の人は一人しかいないんです」


「一人だけ?」


「はい。小さな街ですから」


 ノアは少し考えてから続けた。


「でも、最近はその人も忙しいみたいで。修理を頼んでも、何日も待たされることがあるんですよ」


「なるほど……」


 エリアスは静かに頷いた。


 魔道具は、街の暮らしを支える大切なものだ。


 照明や暖房、保存器具など、日常のさまざまな場面で使われている。


 王都では専門の職人が多く、多少の故障ならすぐに対応できる。


 しかし、地方ではそう簡単にはいかないらしい。


「……そういう違いもあるのですね」


「え?」


「いえ。王都では気づかなかったことが、こちらではいろいろ見えてくるなと思いまして」


 エリアスは穏やかに微笑んだ。


 ノアは一瞬きょとんとしたが、すぐに笑った。


「エリアスさんって、何でも楽しそうに話しますね」


「そうでしょうか?」


「はい。普通だったら気にしないようなことも、面白そうに聞いてくれるから」


「知らないことばかりですからね」


 エリアスは当然のように答えた。


「せっかくなら、いろいろ知りたいんです」


 その言葉に、ノアは嬉しそうに笑った。


「じゃあ、今度僕が街を案内しますよ!」


「いいのですか?」


「もちろんです! 休みの日なら時間もありますし」


「それは助かります」


 二人は顔を見合わせ、笑った。


     ◇


 鈴蘭亭へ戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。


 ノアは買ってきた野菜を厨房へ運び、エリアスは一度自室に戻った。


 机の上に、今日買ったものを並べる。


 茶葉。


 焼き菓子。


 ルミナの実。


 そして、道具屋の店主からもらった銀色のランプ。


 どれも、王都にいた頃ならわざわざ買いに出かけることのなかった品ばかりだった。


 エリアスは椅子に腰掛け、ランプを手に取った。


 表面の模様を指先でなぞる。


 古い魔道具特有の、少し複雑な術式が刻まれている。


「……なるほど」


 どうやら、光を一定の強さで保つのではなく、周囲の魔力に合わせて調整する仕組みらしい。


 今ではほとんど使われていない方式だが、考え方としては悪くない。


 魔力の消費も少なく、長時間使うには適している。


 しばらく観察していたエリアスは、ふと手を止めた。


「……いけませんね」


 思わず笑ってしまう。


 せっかく休暇を取ったというのに、気づけば魔道具の構造を調べていた。


 研究を始めると、時間を忘れてしまう癖がある。


 王都では、それで何度もオスカーに注意されたものだった。


「今日は、ここまでにしましょう」


 ランプを机に置き、窓の外へ目を向ける。


 午後の日差しが、街並みを柔らかく照らしていた。


 遠くには森が広がり、その向こうには湖が見える。


 まだ訪れていない場所が、たくさんある。


 エリアスは小さく微笑んだ。


「明日は、どこへ行きましょうか」


 そう呟いたとき、廊下から足音が近づいてきた。


 続いて、扉が控えめに叩かれる。


「エリアスさん、今ちょっといいですか?」


 ノアの声だった。


「はい。どうぞ」


 扉が開き、ノアが顔を覗かせた。


 いつもの明るい表情とは違い、少し困った様子だった。


「実は、ちょっとお願いがあって……」


「何でしょう?」


「厨房の魔道具が、急に動かなくなっちゃったんです」


 エリアスは静かに瞬きをした。


「魔道具が?」


「はい。食材を冷やしておくためのものなんですけど、さっきから全然冷えなくて」


「それは困りましたね」


「修理屋さんに頼もうと思ったんですけど、今日は隣町へ出かけているらしくて……」


 ノアは申し訳なさそうに笑った。


「エリアスさん、魔道具に詳しいって言ってたでしょう? もしよかったら、少し見てもらえませんか?」


「もちろんです」


 エリアスはすぐに立ち上がった。


「私でよければ、お手伝いしますよ」


「本当ですか!?」


「ええ。原因がわかれば、直せるかもしれません」


「ありがとうございます!」


 ノアは嬉しそうに頭を下げた。


 エリアスは机の上のランプに一度目を向け、それから穏やかに笑った。


 今日はもう、魔道具の研究はしないつもりだった。


 けれど、困っている人がいるのなら話は別だ。


「では、行きましょうか」


「はい!」


 二人は並んで廊下へ出た。


 階段を下りながら、ノアが厨房の魔道具について説明してくれる。


 購入してから十年以上になること。


 最近、少し冷えが悪くなっていたこと。


 そして、今日になって完全に動かなくなってしまったこと。


 エリアスはその話を聞きながら、いくつかの可能性を考えていた。


 魔力石の劣化。


 循環術式の損傷。


 あるいは、冷却機構そのものの故障。


 実物を見なければ、詳しいことはわからない。


 ただ、ひとつだけ確かなことがあった。


 この街に来てから、エリアスはまだ一度も退屈していない。


 知らないものに出会い、知らない話を聞き、時には誰かの役に立つ。


 それは、彼が思い描いていた休暇とは少し違っていた。


 けれど、不思議と悪い気はしなかった。


「エリアスさん、こっちです!」


 ノアが厨房の扉を開ける。


 その向こうから、ミラの困り果てた声が聞こえてきた。


「まったく、どうして今日に限って壊れるんだい!」


 エリアスは小さく笑った。


「……さて、まずは見せていただきましょうか」


 穏やかな休暇の二日目。


 どうやら、少しばかり仕事に似たことをすることになりそうだった。

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先が読みたい! けど連載中なとこまで読み終わるの勿体ない! 続き楽しみにしてます❣️
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