第4話 鈴蘭亭の温かな夕食
夕暮れの鐘が鳴り終わる頃、エリアスは読んでいた本を閉じた。
窓の外には、昼間とは違う街の景色が広がっている。
店先の花籠を片づける女性や、荷車を引いて帰路につく商人たち。石畳の通りには、家々の窓から漏れる明かりが落ちていた。
開け放した窓から、香ばしい匂いが漂ってくる。
どうやら一階の食堂で夕食の準備が始まっているらしい。
「そろそろ行きましょうか」
エリアスは本を机に置き、部屋を出た。
階段を下りるにつれて、人々の話し声が大きくなっていく。
一階の食堂は、すでに何組かの客で賑わっていた。
木製の丸テーブルが六つ並び、壁際には暖炉がある。天井から吊るされたランプが、室内を柔らかく照らしていた。
窓辺には小さな白い花が飾られている。
昼間に見た鈴蘭亭の外観と同じく、派手ではないが、どこも丁寧に手入れされていることがわかった。
「あっ、エリアスさん!」
カウンターの奥から、ノアが顔を出した。
「ちょうどよかった。夕食、もうすぐできますよ!」
「それは楽しみです」
「好きな席に座ってください。窓際が空いてますから」
「ありがとうございます」
エリアスが窓際のテーブルへ向かうと、隣の席にいた年配の男性が顔を上げた。
「おや、見ない顔だね。旅の人かい?」
「はい。今日、王都から来ました」
「王都からとは遠かっただろう。まあ、座りなさい。ここの飯はうまいぞ」
「そう伺っています」
エリアスは椅子を引きながら答えた。
男は満足そうに笑い、自分の皿へ視線を戻した。
王都では、初対面の相手に気軽に話しかけられることなど滅多になかった。
宮廷魔導師の徽章を見れば、ほとんどの人が姿勢を正し、言葉を選ぶ。
ここでは、誰もそんなことをしない。
それが妙に新鮮だった。
「お待たせしました!」
しばらくして、ノアが大きな盆を持ってやってきた。
「今日の夕食です!」
テーブルに並べられたのは、白身魚の香草焼き、春野菜のスープ、焼きたてのパン。それに、小さな器に入った豆の煮込みだった。
魚の皮はきつね色に焼け、上には刻んだ香草が散らされている。
「いい香りですね」
「でしょう? 湖で今朝獲れた魚なんです」
「湖の魚ですか」
「はい。身が柔らかくて、春は特においしいんですよ」
エリアスは皿を見つめた。
王城でも魚料理はよく出されていたが、こうして料理を運んできた人から食材の話を聞くことは、ほとんどなかった。
「ノア」
「はい?」
「この香草は、街の近くで採れるものですか?」
「ええ。裏の丘でも育ちますよ。うちでは庭にも植えてます」
「そうなのですね。あとで見せていただいても?」
「もちろんです。でも、どうしてですか?」
「少し珍しい種類のようなので」
ノアは不思議そうに魚の皿を見た。
「普通の香草ですよ?」
「ええ。ですが、葉脈の形が王都で流通しているものと少し違います。土地によって性質が変わるのかもしれませんね」
「……葉っぱを見ただけで、そんなことまでわかるんですか?」
「いえ、まだ推測ですよ」
エリアスは穏やかに答えた。
「実際に育ててみないと、詳しいことはわかりません」
「へえ……。魔導師さんって、植物にも詳しいんですね」
「人によると思いますよ」
そこでエリアスは、ふと気づいたように付け加えた。
「すみません。せっかくの料理が冷めてしまいますね」
「あっ、そうですよ! 熱いうちに食べてください!」
ノアに促され、エリアスはナイフとフォークを手に取った。
魚の身は驚くほど柔らかかった。
一口食べると、香草の爽やかな香りが広がり、あとからほどよい塩気が追いかけてくる。
「……これは、おいしいですね」
思わず手を止めた。
「本当ですか?」
「ええ。魚の味がしっかり残っていますし、香草との相性も素晴らしいです」
ノアは嬉しそうに顔をほころばせた。
「よかった! 実は、魚を焼いたのは僕なんです」
「そうだったのですか」
「母さんに教わりながらですけどね」
「それでも、立派な技術ですよ」
エリアスは真面目な顔で言った。
「同じ食材でも、火加減ひとつで仕上がりが変わります。私はいつも失敗してしまうので、尊敬します」
「いやいや、そんな大げさな!」
ノアは笑った。
「料理なんて、慣れれば誰でもできますよ」
「……そうでしょうか」
エリアスの表情が少し曇った。
「以前、卵を焼こうとしたのですが、なかなかうまくいかなくて」
「卵ですか?」
「はい。火力を一定に保てばきれいに焼けると思ったのですが、途中で表面が硬くなってしまいました」
「火が強すぎたんじゃないですか?」
「いえ、温度は正確に管理していました。二百三十度で」
「……二百三十度?」
ノアの笑顔が止まった。
「はい」
「それ、強すぎますよ!」
「そうなのですか?」
「そうですよ! 卵なんて、もっと弱い火で焼かないと!」
エリアスはしばらく考え込んだ。
「なるほど……。温度が一定でも、高すぎれば意味がないのですね」
「そういうことです!」
「勉強になりました」
真剣に頷くエリアスを見て、ノアは声を上げて笑った。
「エリアスさんって、なんだか面白いですね!」
「……そうでしょうか?」
「はい! 魔法はすごく詳しいのに、卵を焼くのは苦手なんですね」
「残念ながら」
二人は顔を見合わせ、笑った。
◇
「ノア! いつまでお客さんと話してるんだい!」
食堂の奥から、よく通る女性の声が響いた。
「あっ、母さん!」
ノアが慌てて振り返る。
厨房から姿を現したのは、栗色の髪を後ろでまとめた女性だった。
四十代半ばほどだろうか。前掛けをつけ、手には布巾を持っている。
「ほかのお客さんの料理も運んでおくれ。冷めちまうよ」
「はーい!」
ノアは返事をすると、エリアスに向き直った。
「すみません、またあとで!」
「ええ。お仕事の邪魔をしてしまいましたね」
「全然! 楽しかったです!」
ノアは笑いながら厨房へ戻っていった。
その背中を見送り、エリアスが食事を再開しようとすると、女性が近づいてきた。
「あんたが今日から泊まるお客さんだね?」
「はい。エリアス・レインフォードと申します」
「私はミラ・ベルティス。この宿の女将だよ」
「お世話になります」
エリアスが丁寧に頭を下げると、ミラは少し驚いたように目を丸くした。
「まあ、礼儀正しい子だねえ」
「いえ、そんなことは」
「ノアから聞いたよ。王都から来たんだって?」
「はい」
「遠くからご苦労だったね。ゆっくりしていきな」
「ありがとうございます」
ミラは満足そうに頷いた。
それから、食べかけの料理に目を向ける。
「口に合ったかい?」
「とてもおいしいです。特に魚の香草焼きが気に入りました」
「そうかい! そりゃよかった」
ミラは嬉しそうに笑った。
「ノアが焼いたんだよ。あの子、最近ようやく火加減が安定してきてね」
「そうなのですか」
「昔はよく焦がしてたんだけどねえ」
厨房から「母さん!」という声が聞こえた。
ミラは気にした様子もなく笑い、エリアスもつられて口元を緩めた。
「でも、今では私より上手に焼くこともあるんだよ」
その声には、息子への誇らしさが滲んでいた。
エリアスは改めて皿の上の魚に目を向けた。
ひとつの料理にも、作り手が積み重ねてきた時間がある。
当然のことなのに、これまで深く考えたことがなかった。
「素敵ですね」
「ん?」
「誰かに教わったことを、少しずつ自分のものにしていくのは」
ミラは一瞬きょとんとしたあと、柔らかく笑った。
「そうだねえ。あんた、若いのにいいこと言うじゃないか」
「いえ、思ったことを言っただけです」
「ふふ。ノアが気に入るわけだよ」
ミラはそう言って、厨房へ戻っていった。
エリアスは首を傾げた。
気に入られるほど、何か特別なことをしただろうか。
今日会ったばかりなのに、不思議なものだ。
◇
食堂が少し落ち着いたのは、夕食の時間が半分ほど過ぎた頃だった。
エリアスが食後のお茶を楽しんでいると、隣のテーブルにいた年配の男性が声をかけてきた。
「兄さん、王都から来たんだって?」
「はい」
「魔導師さんかい?」
「ええ。魔法関係の仕事をしていました」
「そうかそうか。そりゃ珍しい」
男は手にしていたカップを置いた。
「この辺りは魔導師が少なくてな。魔道具が壊れても、すぐには直せないんだよ」
「そうなのですか?」
「ああ。王都なら専門の職人も多いんだろうが、ここじゃそうはいかん」
男は少し困ったように笑った。
「うちの家でも、去年から照明用の魔道具が調子悪くてな。魔力石を替えても、すぐ暗くなっちまう」
「なるほど」
エリアスは興味深そうに頷いた。
「魔力石を交換しても改善しないのでしたら、内部の循環術式に問題があるのかもしれませんね」
「じゅんかん……?」
「ああ、失礼しました。魔力の通り道のことです」
「ほう」
「古い魔道具でしたら、接続部分が摩耗している可能性もあります」
男は感心したように頷いた。
「さすが魔導師さんだねえ」
「いえ、実物を見ていないので、まだ何とも言えませんが」
「それでも助かるよ。今度、街の修理屋に相談するときに伝えてみるさ」
「ええ。そうしてみてください」
男は笑顔で礼を言った。
エリアスも微笑み返した。
それだけの、ごく普通の会話だった。
けれど、王都では魔法に関する相談といえば、国家規模の結界や古代術式の研究ばかりだった。
街の家々で使われる照明の魔道具。
そのひとつが壊れただけでも、暮らしている人にとっては困りごとになる。
そんな当たり前のことを、改めて実感した。
「……そうですね」
エリアスは小さく呟いた。
「こういう魔法も、大切ですよね」
「ん? 何か言ったかい?」
「いえ。少し考え事を」
男は気にした様子もなく頷き、再び食事に戻った。
◇
食堂の客が少なくなった頃、ノアがエリアスのテーブルへやってきた。
「エリアスさん、お茶のおかわりはいかがですか?」
「ありがとうございます。いただきます」
「今日はどうでした? フィオーレの街」
ノアは空いた椅子を指差した。
「少し座ってもいいですか?」
「もちろんです」
ノアは腰を下ろし、自分の分のお茶も用意した。
「まだ少ししか歩いていませんが、とても素敵な街だと思います」
「本当ですか?」
「ええ。花が多くて、人々も親切ですし」
「へへ、ありがとうございます」
ノアは照れくさそうに笑った。
「でも、王都に比べたら何もないでしょう?」
「そんなことはありませんよ」
エリアスは首を横に振った。
「王都には王都の良さがありますが、こちらにはこちらの良さがあります」
「……そういうものですかね」
「はい。私は、もう少しこの街を知ってみたいです」
ノアは嬉しそうに目を細めた。
「じゃあ、今度おすすめの場所を教えますよ!」
「ぜひお願いします」
「市場とか、湖のほとりとか。あと、少し歩くと小さな森もあるんです」
「森ですか」
エリアスの目がわずかに輝いた。
「はい。春は薬草も多くて、景色がきれいなんですよ」
「それは興味深いですね」
「ただ、奥にはあんまり入らない方がいいですけどね」
「なぜですか?」
「魔物が出ることもありますし、昔から変な噂もあるので」
「変な噂?」
エリアスはカップを置いた。
ノアは少し声を落とす。
「森の奥には、古い石造りの建物があるらしいんです」
「建物が?」
「はい。誰が建てたのかも、いつからあるのかもわからないんですって」
「……なるほど」
エリアスは静かに頷いた。
古い建造物。
人の立ち入らない森の奥。
それだけでも、十分に興味を惹かれる話だった。
「詳しいことは、誰か知っているのでしょうか?」
「うーん……。街の古書店の人なら、何か知ってるかもしれません」
「古書店があるのですか?」
「はい。中央広場から北へ行った通りにありますよ」
「それは素晴らしいですね」
エリアスは嬉しそうに微笑んだ。
ノアは不思議そうに首を傾げた。
「……そんなに本がお好きなんですか?」
「ええ。知らないことを知るのは楽しいですから」
「へえ……」
ノアは少し考え、それから笑った。
「エリアスさんって、本当に魔導師さんなんですね」
「……?」
エリアスは首を傾げた。
魔導師だから本が好き、というわけではないと思うのだが。
その疑問を口にしようとしたとき、厨房からミラの声が響いた。
「ノア! 片づけを手伝っておくれ!」
「あっ、はーい!」
ノアは慌てて立ち上がった。
「すみません、また明日!」
「ええ。今日はありがとうございました」
「こちらこそ! おやすみなさい!」
ノアは笑顔で手を振り、厨房へ戻っていった。
◇
部屋へ戻ると、エリアスは外套を脱ぎ、窓辺の椅子に腰を下ろした。
夜のフィオーレは静かだった。
遠くから聞こえる人々の声。
時折、石畳を通り過ぎる馬車の音。
窓の向こうには、月明かりに照らされた街並みが広がっている。
王都の夜とは違う、穏やかな時間だった。
エリアスは鞄から手帳を取り出した。
今日一日の出来事を書き留めるためだ。
机の上に手帳を広げ、筆を走らせる。
『鈴蘭亭の夕食は、とてもおいしかった。
特に、ノアが作った魚の香草焼きが印象に残っている。
料理の火加減についても教えてもらった。
卵を焼く際には、二百三十度は高すぎるらしい。
今度、もう一度試してみたい。』
そこまで書いて、エリアスは少し考えた。
ノアやミラとの会話。
隣の席にいた男性から聞いた、魔道具の話。
そして、森の奥にあるという古い建造物。
今日も、知らなかったことがたくさんあった。
エリアスは小さく微笑み、続きを書き加えた。
『この街では、学ぶことが多そうだ。
明日は市場と古書店へ行ってみようと思う。
それから、宿の庭も見せてもらいたい。』
手帳を閉じる。
ふと、机の上に置いた旅行鞄が目に入った。
王都を出る前、オスカーと一緒に買い揃えたものだ。
今頃、彼は何をしているだろうか。
きっと、研究室で書類を整理しているのだろう。
少し懐かしい気持ちになりながら、エリアスは窓の外を見た。
「……良い一日でしたね」
小さく呟く。
誰かと食事をし、他愛のない話をして、知らなかったことを教えてもらう。
ただ、それだけの一日。
けれど、エリアスにとっては、とても満ち足りた時間だった。
明日は、どんなものに出会えるだろう。
そんなことを考えながら、エリアスはゆっくりと目を閉じた。
窓の外では、春の夜風が静かに吹いていた。
フィオーレで過ごす最初の夜は、穏やかに更けていった。




