第3話 春風の街
王都を発ってから、九日が過ぎた。
街道を走る馬車の窓からは、なだらかな丘陵地帯が見えている。
春の陽光を受けた草原には小さな花が咲き、遠くには深い緑に覆われた山々が連なっていた。
エリアス・レインフォードは膝の上に広げていた本を閉じ、窓の外に目を向けた。
この九日間、彼はいくつもの街や村を通り過ぎてきた。
小さな宿場町で食べた香草入りのスープ。
道中で知り合った行商人に教わった地方の言い伝え。
夕暮れ時、丘の向こうに沈んでいく太陽。
どれも、王城で過ごしていた頃には得られなかった経験だった。
特に気に入っているのは、旅先での食事だ。
同じ料理でも、土地によって使う香草や調味料が違う。
その違いを知るのが面白く、立ち寄った宿ではできるだけ地元の料理を注文するようにしていた。
昨夜は、山菜と白身魚を煮込んだ料理を食べた。
少し酸味のある香草が使われており、初めて口にする味だった。
料理人に名前を尋ねると、山の斜面で採れる野草だという。
エリアスはその特徴を手帳に書き留めておいた。
もっとも、料理人から「育てるのが難しい草なんですよ」と聞いた際に、
「土壌の魔力循環を調整すれば育てられると思いますよ」
と答えてしまい、相手を困惑させたことは、少々反省している。
親切のつもりだったのだが、どうやら説明が足りなかったらしい。
「お客さん、そろそろフィオーレが見えてきますよ」
御者の声に、エリアスは顔を上げた。
「本当ですか?」
「ええ。あの丘を越えたところです」
エリアスは本を鞄へしまい、窓の外へ身を寄せた。
馬車は緩やかな坂道を上っていく。
車輪が小石を踏む音に混じって、鳥のさえずりが聞こえた。
やがて丘の頂上を越えたとき、視界が大きく開けた。
「……これは」
思わず声が漏れた。
眼下に広がっていたのは、緑に抱かれた美しい街だった。
淡い色の石造りの建物が並び、赤茶色の屋根が午後の日差しに輝いている。
街の中央には小さな鐘楼があり、その向こうには森が広がっていた。
さらに遠くには、陽光を映して銀色にきらめく大きな湖が見える。
街を囲む城壁は低く、王都のような威圧感はない。
代わりに、道沿いや建物の窓辺には色とりどりの花が植えられていた。
「春は花がきれいでしょう?」
御者が得意げに言った。
「この辺りは昔から花の栽培が盛んでね。フィオーレは花の街とも呼ばれているんですよ」
「なるほど。素敵な街ですね」
「気に入ってもらえたなら何よりです」
エリアスはしばらく景色を眺めていた。
旅行記に描かれていた挿絵と、確かに似ている。
けれど、実際に目にする街は、本の中のどんな絵よりも生き生きとしていた。
◇
フィオーレの南門に到着したのは、昼を少し過ぎた頃だった。
馬車を降りると、柔らかな風が頬を撫でた。
王都とは違う、草木の香りを含んだ風だ。
「お客さん、荷物はこれだけで?」
御者がエリアスの旅行鞄を見て尋ねた。
「はい」
「ずいぶん身軽ですな。しばらく滞在するんでしょう?」
「そのつもりです」
「それなら、荷物が少なくて正解かもしれませんね。ここの道は石畳が多いですから」
「そうなのですね。参考になります」
エリアスは丁寧に礼を述べた。
鞄の中には、着替えや書物、魔法研究に必要な道具などが収納されている。
容量は小さな倉庫ほどあるが、外見は普通の革鞄だ。
王都を出る前、オスカーから「普通の旅行鞄に空間拡張魔法を施す方は、ほとんどいません」と言われたことを思い出す。
あれから少し考えたが、やはり荷物は軽い方が便利だった。
見た目も変わらないのだから、特に問題はないだろう。
そう結論づけたエリアスは、鞄を手に門へ向かった。
門の脇には、衛兵が二人立っていた。
「こんにちは。旅の方ですか?」
「はい。王都から来ました」
「身分証を確認してもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
エリアスは外套の内側に手を入れた。
そして、銀色の徽章を取り出しかけて止まる。
宮廷魔導師の身分を示す徽章。
王国の正式な身分証明として使えるものだが、今回の旅ではできるだけ目立たずに過ごしたい。
そのため、出発前に一般の旅行者用の身分証も用意していた。
「こちらでお願いします」
差し出されたカードを、衛兵が確認する。
「エリアス・レインフォードさんですね。滞在の目的は?」
「休暇です」
「休暇?」
「ええ。しばらくのんびり暮らしてみようかと」
衛兵は少し意外そうな顔をした。
整った身なりから、商家の若旦那か、貴族の関係者だと思ったのだろう。
「それはいいですね。フィオーレは静かで過ごしやすい街ですよ」
「楽しみにしています」
「宿は決まっていますか?」
「いえ、まだです」
「でしたら、中央広場の近くにある鈴蘭亭がおすすめです。食事がうまくて、女将さんも親切ですよ」
「鈴蘭亭、ですね」
エリアスは手帳を取り出し、名前を書き留めた。
「ありがとうございます」
「いえいえ。良い滞在を」
身分証を返してもらい、エリアスは門をくぐった。
その背中を見送りながら、若い衛兵が同僚に呟く。
「礼儀正しい人だったな」
「ああ。王都の人らしいけど、貴族か何かかな」
「さあ。でも、感じのいい人だった」
二人はそれ以上、気に留めなかった。
まさか、今通した青年が王国最高峰の宮廷魔導師だとは、夢にも思わなかったのである。
◇
街へ入って最初に驚いたのは、花の多さだった。
建物の窓辺には小さな鉢植えが並び、店の軒先には吊り下げられた花籠が揺れている。
通りの一角には花売りの屋台があり、色鮮やかな花束が並べられていた。
石畳の道はきれいに整えられ、歩いているだけでも気持ちがいい。
エリアスはゆっくりと通りを進んだ。
王都の大通りほど広くはないが、人々の表情は明るい。
店先で立ち話をする女性たち。
荷車を押す商人。
焼き菓子を手に走っていく子供たち。
どこからか、鐘の音が響いてきた。
「……いい街ですね」
自然と口元が緩んだ。
しばらく歩いていると、小さな広場に出た。
中央には石造りの噴水があり、その周囲にいくつかのベンチが置かれている。
エリアスは空いているベンチを見つけ、腰を下ろした。
少し休憩しながら、これからの予定を考えよう。
まずは宿を探して、荷物を置く。
そのあと街を散策して、夕食を取る。
明日は市場や書店を見て回るのもよさそうだ。
そんなことを考えていると、不意に足元で小さな声がした。
「にゃあ」
「……?」
視線を下ろすと、茶色い猫が一匹、こちらを見上げていた。
丸い目をした、少し太めの猫だ。
「こんにちは」
エリアスが声をかけると、猫はもう一度鳴いた。
「この街の子ですか?」
「にゃあ」
「そうですか。住み心地はどうです?」
猫は答える代わりに、エリアスの靴へ体を擦りつけた。
エリアスはしばらくその様子を眺め、それから小さく笑った。
「なるほど。悪くなさそうですね」
そっと手を伸ばすと、猫は嫌がることなく頭を預けてきた。
柔らかな毛並みを撫でながら、エリアスは周囲を見回した。
噴水の音。
人々の話し声。
春の風。
何も急ぐ必要のない午後。
こんな時間を過ごすのは、いつ以来だろう。
「……贅沢ですね」
ぽつりと呟いた、そのときだった。
「お兄ちゃん!」
少し離れたところから、幼い声が響いた。
振り返ると、七、八歳くらいの少女がこちらへ駆け寄ってくる。
両手には、小さな籠を抱えていた。
「あっ、クロ!」
少女はエリアスの足元にいる猫を見て、ぱっと顔を輝かせた。
「こんなところにいた!」
猫は少女の声に反応し、ゆっくりと立ち上がった。
「あなたの猫ですか?」
エリアスが尋ねると、少女は大きく頷いた。
「うん! 朝からいなくなっちゃって、ずっと探してたの!」
「それは心配でしたね」
「うん。でも、見つかってよかった!」
少女は猫を抱き上げた。
クロという名前らしい。
茶色い猫なのに、なぜクロなのだろう。
エリアスは少し気になったが、名前にはそれぞれ理由があるのだろうと思い直した。
「お兄ちゃん、ありがとう!」
「いえ、私は何もしていませんよ」
「でも、一緒にいてくれたでしょ?」
「そうですね。少しお話をしていました」
「……お話?」
少女は不思議そうに首を傾げた。
「猫と?」
「ええ」
「何を?」
「この街の住み心地について、少し」
少女は目を丸くした。
そして、次の瞬間。
「あははは!」
楽しそうな笑い声が広場に響いた。
「お兄ちゃん、変なの!」
「……そうでしょうか?」
「だって、クロは猫だよ!」
「そうですね」
「猫はお話できないよ?」
エリアスは少し考えた。
確かに、人間の言葉で会話を交わしたわけではない。
ただ、猫の機嫌や感情は、魔力の微かな揺らぎから何となく伝わってくる。
けれど、それを説明するには少々長くなりそうだった。
「そうですね。私が一方的に話していただけかもしれません」
そう答えると、少女はまた笑った。
「お兄ちゃん、面白いね!」
「ありがとうございます」
「褒めてないよ?」
少女は首を傾げながらも、嬉しそうだった。
「じゃあね! クロがまた逃げないうちに帰る!」
「はい。気をつけて」
少女は猫を抱え、広場の向こうへ駆けていった。
その背中を見送り、エリアスは静かに微笑んだ。
初めて来た街で、初めて交わした何気ない会話。
それだけのことが、妙に嬉しかった。
◇
中央広場を出てしばらく歩くと、通りの角に小さな店が見えた。
木製の看板には、鈴蘭の花が描かれている。
その下には、丁寧な文字で『鈴蘭亭』と書かれていた。
「……ここですね」
エリアスは足を止めた。
三階建ての建物で、一階には食堂が併設されているようだ。
窓からは温かな明かりが漏れ、焼きたてのパンと香草のいい香りが漂ってくる。
入口の脇には白い花が植えられ、風に揺れていた。
派手さはないが、手入れの行き届いた宿だった。
エリアスは少しだけ胸を弾ませながら、扉を開けた。
からん、と軽やかな鈴の音が響く。
「いらっしゃいませ!」
明るい声が返ってきた。
カウンターの向こうに立っていたのは、柔らかな金髪の青年だった。
二十歳くらいだろうか。
白いシャツに茶色い前掛けを身につけ、親しみやすい笑顔を浮かべている。
「お泊まりですか?」
「はい。部屋は空いていますか?」
「もちろんです! 一泊ですか?」
「そうですね……」
エリアスは少し考えた。
この街にどれほど滞在するかは、まだ決めていない。
しばらく暮らしてみたいとは思っているが、具体的な予定はなかった。
「ひとまず、十日ほどお願いできますか?」
「十日ですね。少々お待ちください」
青年は帳簿を確認し、頷いた。
「大丈夫です。二階の部屋をご案内できますよ」
「ありがとうございます」
「お名前を伺ってもよろしいですか?」
「エリアス・レインフォードです」
「レインフォードさんですね。僕はノア・ベルティスです。この宿を家族でやっています」
ノアは人懐っこく笑った。
「何か困ったことがあったら、遠慮なく言ってくださいね」
「ありがとうございます、ノアさん」
「そんな、さん付けじゃなくていいですよ。ノアで大丈夫です」
「では、私のこともエリアスと呼んでください」
「えっ、いいんですか?」
「もちろんです」
ノアは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、エリアスさん。お部屋に案内しますね!」
結局、さん付けのままだった。
エリアスは特に気にすることなく、ノアの後について階段を上った。
◇
二階の部屋は、想像していたよりも広かった。
窓際には小さな机と椅子が置かれ、壁には木製の棚が取り付けられている。
寝台には清潔な白い布が敷かれ、枕元には花を飾った小さな花瓶があった。
「こちらのお部屋になります」
ノアが窓を開けると、柔らかな風が入り込んだ。
「窓から広場が見えるんですよ。朝は鐘の音が聞こえます」
エリアスは窓辺へ近づいた。
眼下には石畳の通りが続き、その先には先ほどの噴水広場が見えた。
さらに遠くには、緑に覆われた森が広がっている。
「……素敵ですね」
「気に入ってもらえました?」
「ええ、とても」
エリアスは振り返り、穏やかに微笑んだ。
「こちらにしてよかったです」
その言葉に、ノアは嬉しそうに頷いた。
「よかった! 夕食は一階の食堂で食べられますからね。今日のおすすめは、白身魚の香草焼きです」
「それはおいしそうですね」
「うちの母さんが作るんですけど、評判いいんですよ」
「ぜひいただきたいです」
「じゃあ、一人分用意しておきますね!」
ノアはそう言って、部屋を出ようとした。
そこで、ふと思い出したように振り返る。
「あ、そうだ。エリアスさんって、どこから来たんですか?」
「王都です」
「王都! 遠かったでしょう?」
「そうですね。馬車で九日ほどかかりました」
「へえ……。王都では何をしていたんですか?」
エリアスは少し考えた。
宮廷魔導師だと名乗れば、必要以上に気を遣わせてしまうかもしれない。
今回の旅では、できるだけ普通に過ごしたかった。
とはいえ、嘘をつく必要もない。
「魔法関係の仕事をしていました」
「魔法関係?」
「ええ。魔道具を調べたり、術式を考えたりする仕事です」
「ああ、魔導師さんなんですね!」
「はい」
ノアは感心したように頷いた。
「すごいなあ。僕、魔法はあんまり得意じゃなくて」
「そうなのですか?」
「簡単な生活魔法くらいなら使えるんですけど、難しいのはさっぱりです」
「なるほど」
エリアスは少し考え、穏やかに微笑んだ。
「でも、料理がお得意なのですよね?」
「え? あ、はい。料理なら、まあ」
「それは素晴らしいですね」
ノアは目を丸くした。
「……そうですか?」
「ええ。私は料理が苦手なので、尊敬します」
「魔導師さんなのに?」
「魔法と料理は、あまり関係がありませんから」
エリアスは真面目に答えた。
ノアは一瞬ぽかんとしたあと、声を上げて笑った。
「あはは! 確かにそうですね!」
その笑い声につられ、エリアスも小さく笑った。
「じゃあ、夕食は楽しみにしててください。腕によりをかけて作りますから!」
「ありがとうございます。楽しみにしています」
ノアは軽く手を振り、部屋を出ていった。
扉が閉まると、室内は静かになった。
◇
エリアスは旅行鞄を机の上に置き、窓辺の椅子に腰掛けた。
王都を離れて九日。
初めての街。
初めての宿。
そして、今日出会った人々。
門の衛兵。
広場で出会った少女。
鈴蘭亭のノア。
どの人も、彼が宮廷魔導師だとは知らない。
けれど、そんなことは関係なく、自然に接してくれた。
そのことが、エリアスには嬉しかった。
窓の外では、夕暮れの街が柔らかな橙色に染まり始めている。
遠くの鐘楼から、時を告げる音が響いた。
エリアスは鞄から小さな手帳を取り出した。
王都を出る際、オスカーから渡されたものだ。
最後のページには、旅の記録を書き留められるように、何枚か白紙が残されていた。
エリアスは筆を取り、今日の日付を書き込む。
『フィオーレに到着。
花の多い、美しい街。
人々は親切で、食べ物もおいしそうだ。
広場で猫と話をしたところ、少し変わった人だと言われた。
何が変わっていたのかは、よくわからない。
宿の青年は料理が得意らしい。
夕食が楽しみだ。』
そこまで書いて、エリアスは筆を止めた。
しばらく考え、最後に一文を書き加える。
『ここでの暮らしは、きっと楽しいものになるだろう。』
手帳を閉じる。
窓から入り込む風が、カーテンを静かに揺らした。
王宮で過ごしていた頃とは違う、何の予定にも追われない時間。
エリアスは椅子の背に体を預け、目を細めた。
「……さて」
小さく呟く。
「夕食まで、少し本でも読みましょうか」
こうして、元宮廷魔導師の辺境での暮らしが始まった。
彼が望んでいた、穏やかで普通の毎日。
その願いがどこまで叶うのかは、まだ誰にもわからない。
ただひとつ確かなのは、この街には、彼の知らないものがたくさんあるということだった。
そして、それはエリアスにとって、何よりも魅力的なことだった。




