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平穏を望む宮廷魔導師は、自由気ままに暮らしたい  作者: nene
第1章 春風の街、フィオーレ

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第2話 旅立ちの日


 エリアス・レインフォードが長期休暇を取る。


 その知らせが王立魔導院に広まったのは、国王から正式な許可が下りた翌朝のことだった。


「一年だって?」


「いや、半年になるかもしれないらしい」


「どちらにしても長すぎるだろう。第三研究室の結界調整はどうするんだ?」


「それより、来月の魔導会議は?」


「古代術式の研究は誰が引き継ぐんだ……?」


 朝から研究室のあちこちで、そんな会話が交わされていた。


 もちろん、エリアス自身はその騒ぎを知らない。


 彼は自室の机に向かい、旅に必要なものを書き出しているところだった。


「着替え、筆記具、財布……」


 紙の上には、整った文字が並んでいる。


 昨日、オスカーから教えられたことも忘れていない。


 着替えは、きちんと一番上に書いた。


「本は……現地でも買えますね」


 そう呟いて、一度書いた『魔法理論大全』の文字に線を引く。


 旅先でまで仕事をするつもりはない。


 今回の目的は、あくまでも普通の暮らしを楽しむことなのだから。


 もっとも、魔法の研究を仕事だと考えたことがほとんどないエリアスにとって、その線引きは少々難しかった。


 しばらく考えた末、小さな手帳と筆記具だけは持っていくことにした。


 珍しい植物や魔道具を見つけたとき、記録するものがなければ困る。


 これは研究ではなく、旅の思い出を書き留めるためだ。


「……これくらいでしょうか」


 満足して筆を置いたところで、扉が叩かれた。


「エリアス様、オスカーです」


「どうぞ」


 入ってきたオスカーは、机の上の紙を見て足を止めた。


「旅支度をされていたのですね」


「ええ。忘れ物がないようにと思いまして」


「それは何よりです」


 オスカーは少し安心したように頷き、一覧表を覗き込んだ。


 そして、数秒後。


「……エリアス様」


「はい?」


「食事代はどうされるおつもりですか?」


「財布を持っていきますよ」


「現金は?」


「……現金?」


 エリアスは瞬きをした。


「必要なのですか?」


 オスカーは静かに目を閉じた。


 嫌な予感はしていた。


「当然です。地方の宿や市場では、王都のように魔法決済が普及しているとは限りません」


「なるほど」


 エリアスは感心したように頷いた。


「確かに、魔力認証の設備がなければ使えませんね」


「はい」


「では、金貨を何枚か用意しておきましょう」


「何枚かでは足りません。長期滞在なのですから、ある程度まとまった額が必要です」


「そうなのですか?」


「そうなのです」


 オスカーは机の向かいに腰を下ろした。


「失礼ですが、最後にご自分で買い物をされたのはいつでしょう?」


「買い物、ですか」


 エリアスは記憶を辿った。


「去年、研究用の鉱石を購入しました」


「それは研究費での購入では?」


「はい」


「ご自分のお金を使った買い物です」


「……」


 少し長い沈黙が落ちた。


「十六歳の頃に、古書を一冊」


「八年前ですか」


「ええ。良い本でしたよ。今でも書庫に置いてあります」


「本の感想は聞いておりません」


 オスカーはため息をついた。


 エリアスの給与は、宮廷魔導師の中でも相当に高い。


 王都を救った功績による報奨金も含めれば、普通の貴族が驚くほどの資産を持っている。


 しかし当の本人は、金銭にほとんど興味がなかった。


 必要な生活用品は王宮側が手配してくれるため、使う機会もなかったのだ。


「せっかくですから、今日の午後は城下へ行きませんか?」


 オスカーは提案した。


「旅に必要なものを、一緒に買い揃えましょう」


「いいのですか?」


「もちろんです」


「それは助かります。実は、以前から市場にも行ってみたかったんです」


 エリアスは嬉しそうに微笑んだ。


 その様子を見て、オスカーは少しだけ肩の力を抜いた。


 普段、何を任せても完璧にこなす青年が、街へ出かけるというだけでこんなに楽しそうにしている。


 それが、どこか新鮮だった。


「では、午後の予定を空けておきます」


「ありがとうございます、オスカー」


「ただし、ひとつ約束してください」


「何でしょう?」


「途中で珍しい魔道具を見つけても、勝手に分解しないでください」


 エリアスは不思議そうに首を傾げた。


「お店のものを勝手に分解したりしませんよ」


「……そうですね」


 オスカーは頷いた。


 その返答に、ひとまず安心した。


 もっとも、壊れている魔道具を見つけたときに何が起こるかまでは、まだ考えが及んでいなかった。


     ◇


 午後の王都は、春の陽気に包まれていた。


 王城の正門を出ると、石畳の広い通りが城下へと続いている。


 道の両側には街路樹が並び、その枝には淡い緑色の若葉が揺れていた。


 エリアスは足を止め、ゆっくりと辺りを見回した。


「……思っていたより、賑やかですね」


「今日は市の日ですから」


 隣を歩くオスカーが答える。


「広場には地方から来た商人も集まっています。旅支度にはちょうどよいでしょう」


「そうなのですね」


 エリアスは興味深そうに通りの先へ目を向けた。


 焼き菓子を並べる店。


 色鮮やかな布を吊るした商人。


 籠いっぱいの果物を運ぶ子供たち。


 王宮の窓から眺める景色とは、まるで違っていた。


 すぐそばを馬車が通り過ぎ、車輪が石畳を鳴らす。


 通りの向こうでは、花売りの女性が客と笑いながら話していた。


「オスカー」


「はい」


「あの丸いパンは何でしょう?」


 エリアスが指差した先には、小さな屋台があった。


 鉄板の上で、丸い生地がこんがりと焼かれている。


「あれは蜂蜜焼きですね。中に果実の蜜が入っているんです」


「おいしそうですね」


「召し上がりますか?」


「いいのですか?」


「もちろんです。普通に買えますよ」


「……そうでした」


 エリアスは少し照れたように笑った。


 二人で屋台へ向かうと、店主の女性が明るく声をかけてきた。


「いらっしゃい! 焼きたてだよ!」


「二つお願いします」


 オスカーがそう言いかけたとき、エリアスが一歩前に出た。


「私が買ってみてもいいですか?」


「ええ、どうぞ」


 エリアスは財布を取り出した。


 今朝、オスカーに言われて用意したばかりのものだ。


「二ついただけますか?」


「あいよ。銅貨六枚ね」


「銅貨六枚……」


 エリアスは財布の中を確認した。


 しばらくして、金色の硬貨を一枚取り出す。


「こちらで足りますか?」


 店主の手が止まった。


「……お兄さん、それ金貨だよ」


「はい」


「いや、はいじゃなくてね。お釣りが出せないよ」


「そうなのですか?」


 エリアスは困ったように硬貨を見つめた。


 金貨一枚が銅貨何枚分なのか。


 知識としては当然知っている。


 ただ、実際に買い物をするとなると、どの硬貨を使うのが適切なのかまでは考えていなかった。


「エリアス様」


 オスカーが横から銀貨を取り出した。


「こちらでお願いします」


「ああ、助かるよ」


 店主は笑いながらお釣りを用意した。


 エリアスはその様子をじっと見つめていた。


「……なるほど」


「何がでしょう?」


「お釣りというのは、相手が用意できる範囲も考える必要があるのですね」


「そうですね」


「勉強になります」


 あまりにも真剣な口調だったため、店主が思わず吹き出した。


「お兄さん、ずいぶん育ちがいいんだねえ」


「いえ、そんなことは」


「ははっ。まあ、いいさ。ほら、熱いから気をつけなよ」


「ありがとうございます」


 受け取った蜂蜜焼きは、手のひらに収まるほどの大きさだった。


 薄く焼かれた生地から甘い香りが漂っている。


 一口かじると、温かな果実の蜜が口いっぱいに広がった。


「……おいしい」


 思わず漏れた言葉に、店主が嬉しそうに笑った。


「そうだろう? うちの自慢なんだよ」


「とてもおいしいです。生地に少し香草が入っていますか?」


「おや、よくわかったね。ほんの少しだけ入れてるんだ」


「やはり。甘さが引き立ちますね」


「嬉しいこと言ってくれるじゃないか」


 店主は機嫌よく、もうひとつ小さな焼き菓子を紙袋に入れた。


「これはおまけ。旅の途中で食べな」


「よろしいのですか?」


「いいのいいの。また来ておくれ」


 エリアスは丁寧に礼を述べた。


 屋台を離れてからも、手の中の紙袋を眺めている。


「……面白いですね」


「何がですか?」


「お菓子を買いに来ただけなのに、いろいろお話ができました」


 その言葉に、オスカーは少し驚いた。


 エリアスにとって、人と話すこと自体は珍しくない。


 王宮では国王や貴族、研究者たちと日常的に会話を交わしている。


 けれど、今のように何の役職も関係なく、初めて会った相手と他愛のない話をする機会は、確かに少なかったのだろう。


「地方へ行けば、もっといろいろな方と知り合えると思いますよ」


「それは楽しみです」


 エリアスは微笑んだ。


 その表情は、研究で新しい発見をしたときとよく似ていた。


     ◇


 旅に必要な品を揃え終わる頃には、陽が少し傾き始めていた。


 着替えを入れる旅行鞄。


 丈夫な歩き靴。


 雨具に、携帯用の水筒。


 それから、街道の地図。


 エリアスは一つひとつの品を興味深そうに眺めていた。


「この鞄は便利ですね」


「収納魔法を使えば、荷物はほとんど必要ないのでは?」


「それはそうですが、せっかくですから」


 エリアスは革製の旅行鞄を手に取った。


「普通の旅人らしくしてみたいんです」


「……なるほど」


 オスカーは納得した。


 が、次の瞬間。


「では、この鞄の内部を少し拡張して……」


「エリアス様」


「はい?」


「普通の旅人は、鞄の内側に空間魔法を施したりしません」


「……そうなのですか?」


「はい」


 エリアスは鞄を見下ろした。


「でも、荷物が増えても重くならない方が便利ですよね」


「それは間違いありませんが」


「では、目立たないようにしておきます」


「……」


 オスカーは口を開きかけたが、結局何も言わなかった。


 確かに、外見からはわからない。


 実際、旅をするうえでは非常に便利な魔法だ。


 ただし、鞄の内部空間を自在に拡張できる魔導師など、王国中を探しても片手で数えられるほどしかいない。


 それを生活の工夫程度に考えていることが、問題なのだ。


「ところで、オスカー」


「はい」


「鞄の大きさは、これくらいでいいでしょうか?」


「そうですね。少し大きいですが、問題ないと思います」


「よかった」


 エリアスは満足そうに頷いた。


 内部には、すでに小さな倉庫ほどの空間が作られている。


 オスカーは、あえて確認しないことにした。


     ◇


 旅立ちは、それから三日後に決まった。


 その間、エリアスは研究の引き継ぎを進め、必要な書類を整理し、長年使ってきた研究室を片づけた。


 ただし、本人が整理したつもりの書類には、研究者たちが理解できない術式や計算式が大量に含まれていた。


 結局、オスカーが解説を書き加えることになり、引き継ぎ作業は予想以上に時間がかかった。


 そして、出発前日の夕方。


 エリアスが研究室を訪れると、そこには数人の魔導師が集まっていた。


「……皆さん?」


 扉を開けたエリアスは、少し驚いた。


 机の上には焼き菓子と紅茶が用意されている。


 研究部長をはじめ、普段から交流のある魔導師たちが顔を揃えていた。


「レインフォード卿。ささやかですが、送別の茶会をと思いまして」


「送別、ですか?」


「ええ。長い休暇に入られると聞きましたので」


 エリアスは少し困ったように笑った。


「ありがとうございます。でも、退職するわけではありませんよ?」


「もちろん存じております」


 研究部長も笑った。


「それでも、しばらくお会いできなくなりますから」


 エリアスは改めて室内を見回した。


 いつも研究の話ばかりしていた同僚たち。


 ときには夜遅くまで議論を交わし、失敗した実験の原因を一緒に考えた人々。


 そんな彼らが、自分のために集まってくれている。


「……嬉しいですね」


 自然と、そんな言葉がこぼれた。


 研究部長が穏やかに微笑む。


「どうか、良い休暇を」


「はい。ありがとうございます」


 茶会は、終始和やかな雰囲気で進んだ。


 研究の話も出たが、それ以上に旅先の話題で盛り上がった。


 北方出身の魔導師は、雪の季節に訪れるべき温泉地を教えてくれた。


 南部出身の研究者は、港町で食べられる魚料理を勧めた。


 年配の魔導師は、若い頃に旅した山岳都市の思い出を語った。


 エリアスは、そのどれもを楽しそうに聞いていた。


「……世界は広いですね」


 ふと、そう呟く。


「今さら何をおっしゃるのですか」


 研究部長が笑った。


「レインフォード卿ほど、各地の魔法や歴史に詳しい方もいないでしょうに」


「知識としては、そうかもしれません」


 エリアスは紅茶のカップを置いた。


「でも、実際に見たことがないものばかりですから」


 窓の外には、夕暮れの王都が広がっていた。


「今度は、自分の目で見てみたいんです」


 その言葉を聞いて、誰かが静かに頷いた。


 それから、年配の魔導師が笑って言った。


「それなら、たくさん旅をしてきなさい。戻ってきたら、土産話を聞かせてください」


「はい。約束します」


     ◇


 旅立ちの日は、よく晴れていた。


 朝の王城には、まだ少し冷たい空気が残っている。


 エリアスは旅行鞄を手に、北門へと向かっていた。


 今日から、長い休暇が始まる。


 白いシャツに濃紺の外套。


 足元には新しく買った歩き靴。


 宮廷魔導師の徽章は、外套の内側に大切にしまってある。


 目立たず、普通の旅人として過ごすためだった。


「エリアス様!」


 門の近くまで来たところで、聞き慣れた声が響いた。


 振り返ると、オスカーが立っていた。


「おはようございます、オスカー」


「おはようございます。出発前にお渡ししたいものがありまして」


 差し出されたのは、小さな革の手帳だった。


「これは?」


「私がまとめた旅の手引きです。地方での買い物や宿の取り方、街道を利用するときの注意点などを書いてあります」


 エリアスは目を丸くした。


「わざわざ作ってくださったのですか?」


「ええ。少しでもお役に立てればと思いまして」


 手帳を開くと、整った文字が並んでいた。


 宿泊費の目安。


 各地の通貨の扱い。


 旅先での注意事項。


 さらには、『困ったことがあれば、必ず誰かに相談すること』という項目まである。


 エリアスは思わず笑ってしまった。


「……ありがとうございます。とても助かります」


「それならよかったです」


 オスカーは、ほっとしたように笑った。


「それと、もうひとつ」


「はい?」


「どうか、無理をなさらないでください」


 その声は、いつもより少し真剣だった。


「エリアス様は、何か問題があればご自分で解決しようとなさいます。ですが、今回は休暇なのですから」


「……そうですね」


「誰かに頼ることも、覚えてください」


 エリアスは手帳を閉じた。


 そして、静かに頷いた。


「わかりました。気をつけます」


 オスカーはしばらく彼を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……本当に、気をつけてくださいね」


「はい」


「あと、食事はきちんと取ってください」


「はい」


「睡眠も」


「はい」


「珍しい魔道具を見つけても、無理に調べたりせず……」


「オスカー」


「はい?」


 エリアスは少し笑った。


「あなたは、私の母親のようですね」


 オスカーは一瞬固まった。


 それから、心底疲れたような顔になった。


「……誰のせいだと思っているのですか」


 その言葉に、エリアスはまた笑った。


 長い付き合いの中で、二人は何度もこんな会話を交わしてきた。


 いつも仕事に追われていた日々。


 けれど、振り返れば悪い思い出ばかりではなかった。


「オスカー」


「はい」


「これまで、本当にありがとうございました」


 エリアスは丁寧に頭を下げた。


「あなたがいてくれたから、安心して研究に集中できました」


 オスカーは驚いたように目を見開いた。


 それから、少し照れくさそうに視線を逸らす。


「……こちらこそ、たくさんのことを学ばせていただきました」


「戻ってきたら、また一緒に仕事をしましょう」


「ええ。お待ちしております」


 二人は微笑み合った。


 やがて、遠くから馬車の到着を知らせる声が聞こえてきた。


 街道を走る定期馬車だ。


 エリアスは旅行鞄を持ち直した。


「それでは、行ってきます」


「はい。どうか、お気をつけて」


 門を出て、石畳の道を歩いていく。


 振り返ると、オスカーがまだそこに立っていた。


 エリアスは軽く手を振る。


 オスカーも、小さく手を上げた。


 それから青年は、春の陽光が降り注ぐ街道へと足を踏み出した。


     ◇


 馬車の窓から、王都の城壁が少しずつ遠ざかっていく。


 エリアスは座席に腰掛け、窓の外を眺めていた。


 遠くには緑の丘が広がり、その向こうには薄青い山並みが見える。


 道端には小さな白い花が咲き、風に揺れていた。


 向かいの席では、商人らしい中年の男性が荷物を整理している。


 隣には、幼い子供を連れた女性が座っていた。


 馬車が大きく揺れると、子供が楽しそうに声を上げた。


「お母さん、見て! お花!」


「本当ね。きれいねえ」


 エリアスはそのやり取りを、穏やかな気持ちで聞いていた。


 王宮では、誰もが彼を宮廷魔導師として扱った。


 礼儀正しく接し、敬意を払い、時には畏れるような視線を向ける。


 けれど、ここでは違う。


 誰も彼の名前を知らない。


 ただの旅人として、同じ馬車に乗っている。


 そのことが、妙に心地よかった。


「お兄さんも、旅行かい?」


 向かいの商人が声をかけてきた。


「ええ。少し遠くまで」


「ほう。どちらへ?」


「リュネリア地方のフィオーレという街です」


「フィオーレか。いいところだよ」


 商人は懐かしそうに笑った。


「昔、仕事で何度か行ったことがある。花のきれいな街でね。春は特にいい」


「そうなのですね」


「湖の近くには、古い遺跡もあるんだ。まあ、あまり人は近づかないけどね」


「遺跡が?」


 エリアスは思わず身を乗り出した。


「どのような遺跡なのでしょう?」


「さあなあ。ずいぶん昔のものらしいが、詳しいことは知らないね」


「そうですか……」


 少し残念そうに呟いたあと、エリアスは微笑んだ。


「ありがとうございます。楽しみが増えました」


「ははっ。若いのに遺跡に興味があるのかい」


「ええ。古いものを見るのが好きなんです」


 商人は楽しそうに笑った。


「変わったお兄さんだねえ」


 エリアスも笑った。


 変わっていると言われたのは、初めてではない。


 けれど、こんなふうに気軽に言われるのは、少し新鮮だった。


 馬車はゆっくりと街道を進んでいく。


 王都の喧騒は、もう遠くなっていた。


 エリアスは鞄からオスカーの手帳を取り出し、最初のページを開いた。


 そこには、丁寧な文字で一文が記されていた。


『どうか、ご自分のために楽しい時間をお過ごしください』


 エリアスはしばらくその文字を見つめていた。


 やがて手帳を閉じ、窓の外へと視線を戻す。


 風に揺れる草原。


 遠くを飛ぶ鳥の群れ。


 どこまでも続いているような青い空。


「……ええ」


 小さく呟く。


「そうさせてもらいます」


 誰に聞かせるでもない言葉は、馬車の車輪が奏でる音に溶けていった。


 春風が、開いた窓からそっと吹き込む。


 エリアス・レインフォード、二十四歳。


 王国最高峰の宮廷魔導師。


 その肩書きをひととき置いて、彼の新しい日々が始まろうとしていた。

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