第1話 宮廷魔導師、休暇を願い出る。
王都アルフェリスの朝は、いつも鐘の音とともに始まる。
白亜の王城を囲むように広がる街並みには、朝日を受けて輝く尖塔や、整然と並ぶ赤い屋根が連なっていた。
城下の市場では商人たちが店を開き、焼きたてのパンの香りが通りを満たしている。
そんな穏やかな朝。
王城の北棟に位置する王立魔導院では、ひとつの騒動が起きていた。
「……エリアス様」
「はい?」
「これは、どういうことでしょうか」
差し出された書類に目を落とし、エリアス・レインフォードは不思議そうに首を傾げた。
「見てのとおり、修復報告書ですが」
「いえ、それはわかっております」
目の前に立つ青年は、ひどく疲れた顔をしていた。
彼の名はオスカー・リード。
二十七歳。王立魔導院に所属する上級魔導師であり、エリアスの補佐を務めている。
几帳面で真面目な性格の彼は、日々エリアスの研究や業務の管理に追われていた。
「私がお聞きしたいのは、なぜ昨日まで修復不可能とされていた古代魔道具が、今朝になって完全に直っているのかということです」
「ああ、そのことですか」
エリアスは納得したように頷いた。
「昨夜、少し時間があったので」
「少し?」
「ええ。夕食のあとに」
「……夕食のあと」
「内部の術式が一部損傷していただけでしたから、組み直しておきました。問題なく動いていると思いますよ」
オスカーは黙り込んだ。
問題は大いにあった。
机の上に置かれた小さな銀色の箱。
それは、およそ三百年前に製造されたとされる古代魔道具だった。
内部には現代の魔法理論では解明されていない複雑な術式が刻まれており、魔導院の研究者たちが半年以上かけて調査を続けていた代物である。
それを、目の前の青年は一晩で修復したという。
しかも、夕食のあとに少し時間があったから、という理由で。
「……エリアス様」
「はい」
「以前も申し上げましたが、古代術式はそう簡単に組み直せるものではありません」
「そうでしょうか」
「そうです」
「ですが、基本構造は現在の複合術式とそれほど変わりませんよ。魔力の流れを少し変えれば……」
「少しではありません」
オスカーは即座に言い切った。
エリアスは一度瞬きをする。
それから、困ったように微笑んだ。
「そうですか。説明が足りませんでしたね」
「説明の問題ではないのですが……」
「では、あとで図にまとめておきます」
「いえ、そういうことでもなく……いえ、図はぜひお願いします」
反射的にそう答えてしまった自分に、オスカーは小さくため息をついた。
エリアスは、そんな彼の様子に気づくことなく、手元の書類を整えている。
その姿は、どこからどう見ても穏やかな青年だった。
灰がかった柔らかな茶髪に、淡い青灰色の瞳。
整った顔立ちと、落ち着いた物腰。
白いシャツに濃紺の上着を身につけ、胸元には宮廷魔導師を示す銀の徽章が輝いている。
まだ二十四歳。
しかし、彼は王国でもっとも優秀な魔導師の一人として知られていた。
十八歳という異例の若さで宮廷魔導師となり、二十一歳のときには王都全域を巻き込む大規模な魔力災害を防いだ人物。
そのときの功績から与えられた二つ名は、『静謐の魔導師』。
王国内だけでなく、隣国の魔導師たちにもその名は知られている。
もっとも、本人はその呼び名をあまり気に入っていなかった。
理由を尋ねられた際には、
「少し大げさではありませんか? 静かな場所は好きですが」
と答え、周囲を困惑させたという。
「それより、オスカー」
「はい」
「今日の予定を確認してもいいですか?」
「本日は午前中に魔道具研究部との会議が一件。午後からは第三結界塔の定期点検です。その後、魔導院長との面談が予定されております」
「そうでしたね」
エリアスは机上の予定表に目を向けた。
「では、夕方には時間ができそうですね」
「……何かご予定でも?」
「少し出かけようかと」
「珍しいですね。どちらへ?」
「城下の書店です」
オスカーは思わず顔を上げた。
「書店、ですか?」
「ええ。以前から気になっていた本がありまして」
「必要でしたら、私が手配いたしますが」
「いえ、自分で行ってみたいんです」
エリアスは微笑んだ。
「実は、城下の書店にはほとんど行ったことがなくて」
「……そうなのですか?」
「ええ。欲しい本は、いつも誰かが届けてくれましたから」
オスカーは言葉を失った。
確かに、エリアスは幼い頃から王立魔導院で学び、宮廷魔導師になってからも、その大半を王城で過ごしている。
外出といえば研究施設への視察か、王命による遠征。
私人として街を歩く姿など、オスカーも見たことがなかった。
「城下でしたら、ご案内しましょうか」
「ありがとうございます。でも、今回は一人で歩いてみたいんです」
そう言って、エリアスは少し楽しそうに目を細めた。
「道に迷うのも、たまには面白いかもしれませんから」
「……エリアス様」
「はい?」
「道に迷う前提で出かけないでください」
「もちろん、迷わないよう努力はしますよ」
その返答がひどく頼りなく聞こえたのは、オスカーの気のせいではないだろう。
彼は額に手を当てた。
この人は、王都を覆う巨大結界を一人で維持できるというのに、城下の道案内を必要とするかもしれないのだ。
世の中とは、なんとも不思議なものである。
◇
午前中の会議は、予定より早く終わった。
正確には、三時間を予定していた議題を、エリアスが三十分ほどで解決してしまったためだった。
王城南部で使用されている魔力供給装置の効率が低下している。
その原因を調査するために集められた研究者たちは、数日前から議論を重ねていたらしい。
エリアスは資料を一通り確認すると、ひとつの術式を指差した。
「ここですね」
「……はい?」
「この部分です。魔力の循環経路が二重になっているので、不要な負荷がかかっています」
居並ぶ研究者たちは、揃って資料に目を落とした。
「しかし、そこは古くから採用されている構造で……」
「ええ。安定性を優先したのでしょうね。ただ、今の魔力供給量でしたら、こちらの術式に変更した方が効率的です」
さらさらと紙に描かれていく魔法陣。
その筆先を、研究者たちは食い入るように見つめていた。
「これで、おそらく三割ほど改善すると思います」
「さ、三割……?」
「はい。もう少し調整すれば四割も可能ですが、既存の設備との兼ね合いがありますから」
そこでエリアスは顔を上げた。
「何か問題がありますか?」
誰も答えなかった。
王国屈指の研究者たちが数日間頭を悩ませていた問題は、わずか三十分で解決されてしまった。
それも、本人は特別なことをしたつもりがまったくないらしい。
「では、試験運転の結果を確認してから正式に採用しましょう。ほかに議題がなければ、今日はここまででよろしいですか?」
研究部長が力なく頷いた。
エリアスは満足そうに微笑んだ。
「予定より早く終わってよかったですね」
その言葉に、何人かの研究者が遠い目をした。
◇
午後の第三結界塔の点検も、滞りなく終了した。
王城を守る結界塔は全部で七基。
それぞれが王都の魔力網とつながり、外部からの魔法攻撃や魔物の侵入を防いでいる。
エリアスは最上階の制御室で最後の術式を確認すると、小さく頷いた。
「これで大丈夫ですね」
「ありがとうございます、レインフォード卿」
塔の管理責任者が深々と頭を下げる。
「近頃、結界の反応が不安定だったのですが、これで安心できます」
「いえ。古い術式が少し疲れていただけですよ」
「……術式が、疲れるのでしょうか?」
「長く使っていれば、継ぎ目に負担がかかるものですから。道具と同じですね」
エリアスは穏やかに答えた。
管理責任者は、何かを理解しようとするように眉を寄せたが、結局、礼を述べるにとどめた。
その後、エリアスは魔導院長の執務室へと向かった。
重厚な扉を二度叩くと、中から低い声が返ってくる。
「入れ」
「失礼いたします」
室内には、書棚に囲まれた大きな執務机と、窓際に置かれた応接用の椅子があった。
机に向かっていたのは、白髪交じりの男性。
王立魔導院長、グレゴール・ハインツ。
六十二歳になる彼は、四十年以上にわたって魔法研究に携わってきた人物だった。
「来たか、エリアス」
「お時間をいただき、ありがとうございます」
「構わん。ちょうど話しておきたいこともあった」
グレゴールは書類を置き、向かいの椅子を指した。
「座りなさい」
「失礼します」
エリアスが腰を下ろすと、老魔導師は一枚の報告書を取り出した。
「今朝、研究部から妙な報告が届いてな」
「妙な報告ですか?」
「三百年前の古代魔道具が修復されたそうだ」
「ああ、はい。昨日直しました」
「……そうか」
グレゴールは額を押さえた。
「念のため聞くが、なぜ修復できた?」
「壊れていたからです」
「それはわかっておる!」
思わず声を荒らげた院長に、エリアスは驚いたように瞬きをした。
「申し訳ありません。質問の意味を取り違えましたか?」
「……いや、もうよい」
グレゴールは深いため息をついた。
この青年と知り合って十年以上になる。
天才であることは疑いようもない。
だが、その才能以上に厄介なのが、本人の常識と周囲の常識があまりにもかけ離れていることだった。
「それで、今日は何の用だ?」
「実は、お願いがありまして」
「ほう。珍しいな」
グレゴールは椅子に深く腰掛けた。
エリアスが自分から何かを要求することは、滅多にない。
研究に必要な資料や設備でさえ、使えるものがあればそれで十分だと言うような青年である。
「新しい研究施設か? それとも古代文献の閲覧許可か?」
「いえ、そういうことではなく」
「では、何だ?」
エリアスは姿勢を正した。
そして、いつもと変わらない穏やかな声で告げた。
「しばらく休暇をいただきたいのです」
「……休暇?」
「はい」
「何日ほどだ?」
「そうですね……」
エリアスは少し考え込んだ。
「ひとまず、一年ほどでしょうか」
室内が静まり返った。
窓の外では、小鳥が軽やかな声で鳴いている。
グレゴールはゆっくりと瞬きをした。
「……一年?」
「はい。少し長いでしょうか」
「長いに決まっておるだろう!」
執務室に怒声が響いた。
しかし、エリアスは特に動じた様子もない。
「そうですか。では、半年ほどでも」
「そういう問題ではない!」
「なるほど……」
エリアスは真剣な表情で頷いた。
「期間ではなく、申請方法に問題がありましたか?」
「違う!」
グレゴールは思わず立ち上がった。
「お前は自分がどれほど重要な立場にいるのかわかっておるのか!?」
「はい。宮廷魔導師ですね」
「そういう意味ではない!」
「……?」
エリアスは首を傾げた。
その様子を見て、グレゴールはゆっくりと椅子に座り直した。
これ以上声を張り上げても、疲れるだけだ。
「……理由を聞こう」
その声は、先ほどよりも落ち着いていた。
「なぜ、急に休暇などと言い出した?」
エリアスはしばらく黙っていた。
窓の外へ視線を向ける。
遠くに、王都の街並みが見えた。
赤い屋根。
白い石畳。
行き交う馬車と、人々の姿。
「……少し、外の世界を見てみたくなったんです」
静かな声だった。
「外の世界?」
「はい。考えてみれば、私は十歳で魔導院に入り、それからずっと魔法の研究を続けてきました」
「そうだな」
「王宮以外の場所へ出向くこともありましたが、どれも仕事でしたから」
エリアスは小さく笑った。
「街を歩いたり、好きな店に立ち寄ったり。そういうことを、ほとんどしたことがないんです」
グレゴールは黙って耳を傾けた。
「先日、書庫で地方の旅行記を見つけまして」
「旅行記?」
「ええ。湖のほとりにある街や、花の咲く丘、森の中の小さな宿などが紹介されていました」
その本には、魔法についての難しい記述などひとつもなかった。
載っていたのは、地方の風景と、そこで暮らす人々の何気ない日常。
朝市で売られる焼き菓子。
春になると咲き誇る花々。
小さな宿の食堂で交わされる会話。
そんなものばかりだった。
「読んでいるうちに、少し羨ましくなりまして」
「羨ましい?」
「はい。自分の知らない場所が、こんなにもあるのだなと」
エリアスは膝の上で手を重ねた。
「一度くらい、普通の暮らしをしてみたいと思ったんです」
その言葉に、グレゴールは目を細めた。
目の前の青年は、十歳の頃から魔法とともに生きてきた。
誰よりも早く学び、誰よりも多くの術式を理解し、人々が不可能だと諦めたことを次々に実現してきた。
その才能は王国にとって、かけがえのないものだった。
だからこそ、周囲は彼に期待した。
次の研究を。
新たな魔法を。
王国の未来を支える力を。
けれど、誰かがこの青年に尋ねたことはあっただろうか。
お前は何がしたいのか、と。
「……そうか」
グレゴールは静かに呟いた。
「普通の暮らし、か」
「はい」
「しかし、お前は宮廷魔導師だ。それも、ただの宮廷魔導師ではない」
「承知しています」
「本当にわかっておるのか?」
「もちろんです」
エリアスは真面目な顔で頷いた。
「ですから、休暇中も緊急時には連絡をいただいて構いません。遠距離転移も使えますので、必要でしたらすぐ戻れます」
グレゴールは思わず苦笑した。
「……そういうところだぞ、お前は」
「はい?」
「いや、何でもない」
老魔導師は椅子の背に体を預けた。
窓から差し込む陽光が、机の上の書類を照らしている。
「行きたい場所は決まっているのか?」
「いくつか候補があります」
「ほう」
「海辺の街も素敵でしたし、北方の雪景色も気になります。ただ、最初は静かな場所がいいかと思いまして」
「静かな場所?」
「ええ。緑が多くて、食事がおいしくて、できれば本屋がある街が理想ですね」
グレゴールはしばらく考えた。
「……リュネリア地方はどうだ?」
「リュネリア?」
「王都から馬車で十日ほどの場所にある辺境だ。森と湖に囲まれた土地でな。確か、フィオーレという街があったはずだ」
「フィオーレ……」
「大きな街ではないが、交易路に面しておるから生活には困らんだろう。古い遺跡や精霊の伝承も多い土地だ」
その言葉に、エリアスの瞳がわずかに輝いた。
「古い遺跡があるのですか?」
「……そこに食いつくのか」
「いえ、もちろん街にも興味があります」
「本当か?」
「はい。とても」
にこりと微笑む青年を見て、グレゴールは再びため息をついた。
どうやら、休暇先でも研究に似たことを始めそうである。
「まあ、よい。休暇については陛下に相談してみよう」
「ありがとうございます」
「ただし、まだ許可が下りたわけではないからな」
「もちろんです」
エリアスは嬉しそうに頷いた。
「では、旅支度を始めてもよろしいでしょうか」
「話を聞いておったか!?」
◇
翌日の午後。
王城の謁見室には、妙な緊張感が漂っていた。
玉座に腰掛けたアルフェリス国王、アルベルト三世。
その傍らには宰相と王立魔導院長が並び、少し離れた場所にエリアスが立っている。
「……エリアス」
「はい、陛下」
「長期休暇を取りたいそうだな」
「はい」
国王は顎に手を当てた。
「理由は聞いている。普通の暮らしをしてみたい、と」
「そのとおりです」
「……普通、か」
アルベルトは困ったように笑った。
「お前が望む普通とは、どのようなものなのだ?」
エリアスは少し考えた。
「そうですね。朝はゆっくり起きて、庭の植物に水をあげたり、街を散歩したり……」
「うむ」
「昼には気に入った店で食事をして、午後は読書などを楽しみたいです」
「なるほど」
「それから、時々は近くの森へ出かけたり、古い遺跡を見に行ったりできれば」
そこで宰相が口を開いた。
「レインフォード卿。遺跡の調査となりますと、休暇ではなく仕事に近いのでは?」
「そうでしょうか?」
「少なくとも、一般的な休暇とは異なるかと」
「ですが、私にとっては趣味のようなものですから」
エリアスは穏やかに答えた。
「それに、何か危険なものがあれば片づけておきますので」
「……片づける?」
「はい。封印されている魔物などがいれば、近隣の方々も困るでしょうし」
宰相は口を閉じた。
国王は額を押さえた。
グレゴールは天井を見上げた。
三人の反応に、エリアスは不思議そうな表情を浮かべる。
「……何か、おかしなことを申し上げましたか?」
「いや」
国王はゆっくりと首を横に振った。
「お前らしいと思っただけだ」
「そうですか」
エリアスは安心したように微笑んだ。
その様子を見て、アルベルトは小さく息を吐いた。
エリアス・レインフォード。
王国が誇る稀代の魔導師。
これまで数え切れないほどの功績を残しながら、報酬や地位に執着したことは一度もない。
王都を救った際でさえ、望みを聞かれて、
「では、魔導院の書庫を少し広くしていただけると助かります」
と答えた青年だった。
そんな彼が、初めて自分のために願い出たこと。
それが、普通の暮らしをしてみたいという、あまりにもささやかな望みなのだ。
「……よかろう」
国王が口を開いた。
「エリアス・レインフォード。お前に特別休暇を与える」
エリアスは顔を上げた。
「本当ですか?」
「ああ。ただし、宮廷魔導師としての地位はそのまま残す。給与や研究施設の使用権についても、これまでどおりだ」
「そこまでしていただかなくても……」
「これは王命だ」
国王はにやりと笑った。
「お前に辞められては困るからな」
「……なるほど」
エリアスは納得したように頷いた。
「では、ありがたくお受けいたします」
「それと、何かあればすぐに連絡を入れること。無理なことはせず、困ったときは周囲を頼りなさい」
「はい」
「……本当にわかっているのだろうな?」
「もちろんです、陛下」
迷いのない返答だった。
その場にいた三人は、誰一人として安心できなかった。
◇
謁見を終えたエリアスは、王城の廊下をゆっくりと歩いていた。
磨き上げられた大理石の床に、午後の日差しが長い影を落としている。
窓の外には、王城の庭園が広がっていた。
春を迎えた花壇には色とりどりの花が咲き、噴水の水音が微かに聞こえてくる。
「……休暇、ですか」
エリアスは小さく呟いた。
自分から願い出ておきながら、まだ少し不思議な気分だった。
これからは、朝から晩まで研究室に籠もる必要もない。
決められた時間に会議へ出席することも、王宮から届く大量の書類に目を通すこともない。
気になる場所へ出かけて、好きなものを食べて、好きな時間に本を読む。
ただ、それだけ。
けれど、今のエリアスには、それがひどく贅沢なことに思えた。
「エリアス様!」
背後から声がした。
振り返ると、オスカーが早足で近づいてくる。
「お話は聞きました! 本当に休暇を取られるのですか!?」
「ええ。陛下から許可をいただきました」
「……そうですか」
オスカーは足を止めた。
何か言いたげに口を開き、それから閉じる。
エリアスは少し首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「いえ、その……」
オスカーは一度息を吐いた。
「正直に申し上げますと、驚いております」
「そうでしょうか」
「はい。エリアス様がご自分から休暇を希望されるとは思っておりませんでしたので」
「私も、少し驚いています」
「……ご自分でもですか?」
「ええ。これまで、あまり考えたことがありませんでしたから」
エリアスは窓の外を見た。
「でも、楽しみなんです」
その声は、いつもより少しだけ弾んでいた。
「まだ知らない街を歩いて、知らない人と話して、知らないものを見つける。そういうことをしてみたくて」
オスカーは、しばらく黙って彼を見つめていた。
やがて、小さく微笑んだ。
「……それは、よろしいですね」
「はい」
「どうか、良い休暇をお過ごしください」
「ありがとうございます」
エリアスも微笑み返した。
すると、オスカーはふと思い出したように尋ねる。
「ところで、旅支度はどこまで進んでいるのですか?」
「まだ何も」
「……何も?」
「はい。今日許可をいただいたばかりですから」
「では、まず必要なものを揃えなくてはなりませんね」
「そうですね。書物と筆記具、それから研究用の道具をいくつか……」
「お待ちください」
「はい?」
「まさか、それだけではありませんよね?」
エリアスは不思議そうに首を傾げた。
「ほかに必要なものがありますか?」
オスカーは目を閉じた。
しばらくして、静かに口を開く。
「……エリアス様」
「はい」
「旅には、着替えというものが必要なのです」
「……ああ」
エリアスは、心底感心したように頷いた。
「確かにそうですね」
オスカーは天を仰いだ。
王国最強の魔導師。
その旅立ちには、どうやら想像以上の準備が必要らしい。
◇
その日の夕暮れ。
エリアスは自室の机に、一冊の旅行記を広げていた。
古びた革の表紙には、金色の文字が刻まれている。
『エルヴェリア地方紀行』
何度も読み返したその本を、エリアスはゆっくりとめくった。
やがて、一枚の挿絵の前で指を止める。
緑豊かな丘。
その向こうに広がる森。
穏やかな湖のほとりには、小さな街が描かれていた。
リュネリア地方、フィオーレ。
古くから精霊の伝承が残る、花と緑に囲まれた街。
「……ここが、いいかもしれませんね」
窓の外では、夕日が王都の屋根を赤く染めていた。
エリアスは立ち上がり、窓辺へと歩み寄る。
十歳で魔導院に入ってから、十四年。
ずっと慣れ親しんできた王城の景色。
そこを離れることに、少しの寂しさはあった。
けれど、それ以上に胸を満たしているのは、まだ知らない世界への期待だった。
「……さて」
エリアスは小さく微笑んだ。
「まずは、何から準備しましょうか」
その言葉に答える者はいない。
机の上には、開かれた旅行記と、真新しい旅支度の一覧表。
その一番上には、丁寧な文字でこう書かれていた。
『着替えを忘れないこと』
オスカーが、わざわざ書き残していったものだった。
エリアスはその文字を眺め、少しだけ笑った。
「……忘れませんよ、オスカー」
そう呟いてから、ふと思い出す。
「そういえば、旅先の宿はどうやって予約するのでしょう?」
静かな部屋に、彼の声が響いた。
王国最高峰の宮廷魔導師でありながら、旅の常識には少々疎い青年。
そんな彼の、初めての長い休暇。
それが、やがて多くの人々との出会いと、思いがけない冒険につながっていくことを、このときのエリアスはまだ知らない。
もっとも。
彼が望む『普通の暮らし』が、本当に普通であるかどうかは――。
また、別の話である。




