第49話 古い決断と、湖へ向かう切符
エリアスがセドリックの執務室を訪ねたとき、机の上には見覚えのある地図が広げられていた。
フィオーレの北東に位置する緩やかな斜面。テレサが地盤の変化を指摘した場所だ。
「お忙しいところ、申し訳ありません」
「いえ。ちょうどこちらからもお話ししたいと思っていました」
セドリックは椅子を勧めた。
窓際には、春の風を通すために少しだけ開けられた窓がある。執務室の棚には土地台帳が並び、その脇には小さな花瓶が置かれていた。
「テレサから報告を受けました。七十年前に流路を変更したという記録が見つかったそうですね」
「はい。レオンハルトさんが、工事の帳簿を見つけてくださいました」
エリアスは持参した書類を渡した。
セドリックは目を通し、途中で手を止めた。
「……新設点検口、十一基」
「ええ。既存の設備だけでは、管理が難しくなっていたのかもしれません」
「それで、住宅地にまで点検口を増やしたのでしょうか」
「その可能性はあります。ただ、どうして流路を変更する必要があったのかは、まだわかりません」
セドリックは地図を見つめた。
「実は、その件で気になることがありまして」
彼は引き出しから一枚の古い記録を取り出した。
「領地の土地管理記録を調べていたところ、同じ時期に行われた別の工事が見つかったんです」
エリアスは紙を受け取った。
そこには、七十年前の日付とともに、短い工事内容が記されていた。
『北東斜面補強工事。地下水路の一部を閉鎖し、地盤保全を優先する。』
「……水路の閉鎖」
エリアスは文字を読み直した。
「ええ。しかも、こちらは王立魔導院ではなく、領地の判断で行われた工事です」
「では、先に地盤を守るための工事が行われていたのですね」
セドリックは頷いた。
「日付を見る限り、ヴェルナーの改修計画より少し前になります」
エリアスは二枚の記録を並べた。
先に、地盤を守るための水路閉鎖。
その後、地下流路の変位を受けた点検口の増設。
それならば、ひとつ考えられることがあった。
「……地上の水路を塞いだことで、地下の魔力流路にも影響が出たのでしょうか」
「私もそこが気になっています」
セドリックは慎重に答えた。
「ただ、当時の工事担当者が地下の魔法設備を把握していたかどうかは不明です」
エリアスは頷いた。
悪意があって何かを壊したのではなく、街を守るために必要な工事だった可能性もある。
それが、思いがけず古い仕組みに影響したのだとすれば。
「……ヴェルナーは、地盤の工事が終わったあとに、流路の変化を調べ始めたのかもしれませんね」
エリアスが言うと、セドリックは少し考えた。
「それなら、なぜ補修を続けられなかったのでしょう」
「そこは、まだわかりません」
エリアスは記録へ目を落とした。
ヴェルナーは、中央調整部との接続を申請している。
しかし、承認された記録はない。
そして、王立魔導院の再審査も途中で止まっていた。
何かが危険だったのか。
それとも、安全を確かめる手段が足りなかったのか。
今の資料だけでは、結論を出すことはできなかった。
「……ひとまず、この斜面の安全確認を優先した方がよさそうですね」
エリアスが言うと、セドリックは頷いた。
「ええ。テレサには、追加の地盤調査を依頼しています」
「ありがとうございます」
「こちらこそ。古い記録だけでは気づけなかった問題ですから」
セドリックは書類を重ねた。
「それから、以前お話しした食事の件ですが」
エリアスは顔を上げた。
「はい」
「その後、料理の練習はいかがですか?」
「野菜のスープは、少し上手になりました」
「それは楽しみですね」
「ただ、まだ肉料理は教わっていませんので……」
エリアスは少し申し訳なさそうに言った。
「もう少し練習してから、お招きできればと思っています」
セドリックは笑った。
「急ぎませんよ。楽しみに待っています」
エリアスも、ほっとしたように微笑んだ。
◇
昼過ぎ、エリアスは中央広場でカイルと待ち合わせていた。
今日はセレーネへの馬車と宿を予約する予定だった。
広場の端にある旅行案内所には、各地の街を紹介する看板が並んでいる。
湖畔都市セレーネ。
山岳都市ヴェルト。
南の港町リディア。
王都へ続く主要街道。
エリアスはその看板を、ひとつずつ眺めていた。
「……ずいぶん楽しそうだな」
背後から声がした。
振り返ると、カイルが笑っている。
「こんにちは」
「おう。何見てたんだ?」
「各地の案内です。行ったことのない街が、たくさんありますね」
「そりゃそうだろ。王国は広いからな」
カイルは看板を見上げた。
「セレーネが気に入ったら、次は別の街にも行けばいいさ」
「……そうですね」
エリアスは少し笑った。
以前なら、仕事でもないのに遠くへ出かけることなど、考えもしなかった。
けれど、今は違う。
行きたいと思えば、自分で予定を立てられる。
そのことが、まだ少し不思議だった。
「じゃあ、さっそく予約しようぜ」
「はい」
二人は案内所へ入った。
◇
受付にいた女性は、祭りの時期のため混雑が予想されることを説明した。
「湖灯祭の前後は、宿も馬車も早めの予約をおすすめしております」
カイルは持参した案内を広げた。
「この宿を考えてるんだけど、空いてるかな?」
女性は帳簿を確認した。
「湖畔の宿『水鳥亭』ですね。少々お待ちください」
エリアスは隣で静かに待った。
やがて、女性が顔を上げた。
「祭りの前日から三泊でしたら、二部屋ご用意できます」
「お、よかった」
カイルが言う。
エリアスも安心した。
「それから、小動物の同伴について伺いたいのですが」
受付の女性が頷いた。
「事前にお申し出いただければ、お部屋を調整できます。種類を教えていただけますか?」
「白い狐に似た、小さな魔法生物です」
女性は少し驚いたようだったが、すぐに帳簿を確認した。
「おとなしい子でしょうか?」
「はい。人を傷つけることはありません。ただ、知らない方には少し慎重です」
「それでしたら、宿へ確認しておきますね。お部屋での過ごし方について、いくつかお願いがあるかもしれません」
「承知しました」
エリアスは頷いた。
カイルが横から口を挟む。
「食べ物には目がないんですけどね」
「……カイル」
「本当だろ?」
カイルは笑った。
受付の女性も、つられて笑みを浮かべた。
「それでしたら、お食事の保管にはお気をつけください」
「はい。気をつけます」
エリアスは真面目に答えた。
馬車の便と宿泊日程を決め、必要な手続きを終える。
宿側の同伴確認が取れ次第、予約が確定することになった。
案内所を出た頃には、二人とも少し上機嫌だった。
「いやあ、楽しみだな」
カイルが言った。
「ええ。本当に」
エリアスは手元の案内を見つめた。
湖畔の宿、水鳥亭。
祭りの夜には、窓から湖に浮かぶ灯りが見えるという。
「……湖灯祭では、どんな催しがあるのでしょう」
「船の行列とか、音楽とか、露店もたくさん出るらしいぜ」
「船にも乗れるのですか?」
「ああ。遊覧船が出るって聞いた」
エリアスは少し考えた。
「……リュカは、船に乗ったことがありません」
「そりゃそうだろうな」
「驚いてしまうでしょうか」
「どうだろうな。まずは湖の近くを歩いて、様子を見てからでもいいんじゃないか?」
「そうですね」
エリアスは頷いた。
初めての旅。
初めての湖灯祭。
初めての船。
楽しみなことが、またひとつ増えた。
◇
その頃、王都の王宮では、オスカーが記録管理官とともに古い保管庫を調べていた。
七十年前の資料に記されていた「第三室」。
現在では別の用途に使われている場所だったが、古い見取り図と照合した結果、地下の一角に当たることがわかった。
長い廊下の先に、分厚い扉がある。
管理官が鍵を差し込み、慎重に開いた。
「こちらです」
オスカーは中を覗いた。
部屋には古い書類箱や木棚が並んでいる。
長い間使われていなかったらしく、空気には乾いた紙の匂いが漂っていた。
「……かなり古い資料が残っていますね」
「はい。大規模な移管の際、保管場所だけが変更されたものもございます」
管理官は棚の端を指差した。
「七十年前の記録でしたら、こちらの区画かと」
オスカーは頷いた。
ひとつずつ箱の番号を確認する。
古い税務記録。
領地との往復書簡。
王宮の備品管理帳。
関係のないものばかりだった。
しばらくして、管理官が一冊の薄い台帳を見つけた。
「……オスカー様」
「何かありましたか?」
「こちらに、該当する保管番号がございます」
オスカーは台帳を受け取った。
そこには、見覚えのある番号が記されている。
ヴェルナーの再審査申請に添付された補足資料。
その移管番号と一致していた。
「……確かに、これですね」
台帳の記録によれば、資料は第三室の奥にある小型の書類箱へ収められていたらしい。
管理官が棚を確認する。
やがて、古い木箱を取り出した。
蓋には、かすれた文字が残っている。
『北方境界術式 補足調査』
オスカーは静かに息を吐いた。
「……見つかりましたね」
管理官は頷いた。
「ただし、開封には確認が必要です。現在の保管規定では、王宮の許可を得る必要がございます」
「わかっています」
オスカーは木箱へ目を向けた。
七十年前に提出された追加資料。
そこには、改修計画が止まった理由について何か残されているかもしれない。
けれど、今ここで急いで開く必要はなかった。
「陛下へご報告します。そのうえで、正式に確認しましょう」
「承知いたしました」
管理官は木箱を丁寧に元の場所へ戻した。
オスカーは台帳の番号を書き留めた。
長い間所在がわからなかった資料が、ようやく見つかった。
それだけでも、今日の調査には十分な意味があった。
◇
夕方、オスカーはアルベルト三世の執務室を訪れた。
国王は窓際の机で書類を読んでいたが、オスカーの姿を見ると顔を上げた。
「どうした?」
「先日お話しした、ヴェルナーの追加資料についてですが」
オスカーは台帳の写しを差し出した。
「王宮の旧保管庫で、該当する書類箱が見つかりました」
アルベルトは眉を上げた。
「本当か」
「はい。ただし、まだ中身は確認しておりません」
「なるほど」
国王は写しへ目を落とした。
「……七十年前の資料が、王宮に残っていたとはな」
「移管の理由については、まだ確認できておりません」
アルベルトは少し考えた。
「当時の王宮が、安全性の確認に関わっていたのかもしれんな」
「その可能性はございます」
「ならば、確認しておくべきだろう」
国王は写しを机へ置いた。
「正式な手続きを進めてくれ。中身を調べるときは、魔導院の専門家にも立ち会わせよう」
「承知いたしました」
オスカーは頭を下げた。
アルベルトは椅子へ深く腰を下ろした。
「……それにしても、七十年か」
彼は小さく息を吐いた。
「人が代わり、部署が変われば、昔の判断の理由もわからなくなるものだな」
「はい」
「だからこそ、記録を残すのだろうが」
オスカーは静かに頷いた。
アルベルトはしばらく黙っていたが、やがて尋ねた。
「エリアスからは、その後何か?」
「いえ。先日のお手紙以降は、まだ」
「そうか」
国王の表情が少し和らいだ。
「元気にしているなら、それでいい」
「はい」
「こちらの件は、まず我々で調べよう」
オスカーは頭を下げた。
陛下の考えは、変わっていない。
エリアスの休暇を尊重し、確かな理由がない限り、王都の仕事を持ち込まない。
オスカーも、その方針に異存はなかった。
◇
フィオーレへ戻ったエリアスは、夕食を済ませたあと、庭の椅子に腰を下ろしていた。
空には、まだ夕暮れの明るさが残っている。
リュカは椅子の下で丸くなり、ときおり尾を動かしていた。
エリアスは手帳を開いた。
今日、カイルと決めた旅行の予定が書かれている。
セレーネ。
湖灯祭。
水鳥亭。
湖沿いの市場。
そして、遊覧船。
どれも、まだ行ったことのない場所ばかりだった。
「……楽しみですね」
エリアスが呟くと、リュカが顔を上げた。
「あなたも、きっと気に入ると思いますよ」
リュカは短く鳴いた。
エリアスは笑った。
そのとき、隣の庭からマルタの声が聞こえた。
「あら、今日は外でお茶?」
「はい。少し涼しくなってきたので」
「いいわねえ。ちゃんと椅子を使ってるのね」
「とても座り心地がいいんです」
マルタは満足そうに頷いた。
「それはよかった」
それから、ふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、ルーヴェルさんから返事はまだ?」
「はい。まだ届いていません」
「そう。まあ、もう少しかかるでしょうね」
「ええ。気長に待とうと思います」
マルタは笑った。
「それがいいわ」
エリアスは頷いた。
庭の下に残された古い仕組み。
七十年前の研究。
そして、まだ届いていない手紙。
気になることは多い。
けれど、今はそれだけではなかった。
来月には、セレーネへの旅行がある。
少しずつ準備をして、その日を楽しみに待つ。
そんな時間も、今のエリアスにとっては大切なものだった。
彼は手帳を閉じ、夕暮れの空を見上げた。
遠くで、街の鐘が鳴っている。
フィオーレの一日が、穏やかに終わろうとしていた。




