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平穏を望む宮廷魔導師は、自由気ままに暮らしたい  作者: nene
第2章 花咲く家と、森の古い約束

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第48話 湖の街への準備と、七十年前の忘れ物


 セレーネへ行くことになった。


 正確には、まだ宿も馬車も決まっていない。それでもエリアスにとっては、初めて自分の意思で計画する旅行だった。


 王都にいた頃も、仕事で遠方へ出向くことはあった。


 魔導院の調査に同行したり、地方の結界を確認したり。珍しい土地を訪れる機会は、それなりにあったと思う。


 ただ、どこへ行っても決められた仕事があり、日程には余裕がなかった。宿へ戻れば報告書を書き、帰りの馬車では次の仕事の資料を読んでいた。


 目的のない時間を楽しむために街を訪れる。


 そんな旅は、これまで一度も経験していなかった。


「……何を持っていけばよいのでしょう」


 エリアスは寝台の上に鞄を広げ、腕を組んだ。


 着替えは必要だ。


 財布もいる。


 リュカの食事と、旅先で使う小さな食器も用意したい。


 それから、念のため魔導具の修理道具と、筆記具と、古代文字の辞典を一冊。


 そこまで考えて、エリアスは手を止めた。


 旅行は来月である。


 まだ出発まで何週間も残っていた。


「……少し、早かったでしょうか」


 背後でリュカが鳴いた。


 振り返ると、白い獣が鞄の中へ入り込んでいた。


 柔らかな布の上に丸まり、すっかり落ち着いている。


「リュカ。そこは寝床ではありませんよ」


 抱き上げようとすると、リュカは鞄の縁に顎を載せた。


 出てくる気配はない。


 エリアスはしばらく考えた。


「……あなた用の敷物も必要ですね」


 そう言って手帳へ書き加える。


 その頃には、旅行の荷物を考えていたはずが、いつの間にかリュカの持ち物ばかり増えていた。


     ◇


 昼前、カイルが家を訪ねてきた。


 門を開けると、彼は片手に紙袋を提げていた。


「おう。これ、鈴蘭亭で焼きたてだったから買ってきた」


「ありがとうございます」


 袋の中には、小さな丸いパンが四つ入っている。


 エリアスが居間へ案内すると、カイルは椅子へ腰を下ろし、机の上に開かれた手帳へ目を向けた。


「……何だ、それ」


「旅行の準備です」


「もう?」


 カイルは目を丸くした。


「出発まで、まだ結構あるぞ」


「はい。ですから、忘れ物のないようにしようと思いまして」


「なるほどな」


 カイルは手帳を覗き込んだ。


 着替え、財布、身分証、雨具。


 そこまでは普通だった。


 しかし、その下へ進むにつれて、少しずつ表情が変わっていく。


「……リュカの食器、敷物、毛を拭く布。うん、これはわかる」


「はい」


「古代文字の辞典?」


「珍しい碑文があったときに、確認できるようにと思いまして」


「休暇だろ?」


「ええ」


「旅行だよな?」


「はい」


 カイルは手帳を置いた。


「……まあ、いいか」


 エリアスは首を傾げた。


「何か問題がありましたか?」


「いや。お前が楽しみにしてるのはよくわかった」


 カイルは笑ってパンをひとつ取った。


「それより、宿の話だ」


 エリアスは背筋を伸ばした。


「見つかりましたか?」


「ああ。昔の仲間が、湖沿いの宿をいくつか教えてくれた」


 カイルは三枚の紙を取り出した。


 それぞれに、宿の名前と簡単な説明が書かれている。


「リュカも泊まれるところを探してもらったんだ。小動物を連れてる旅人もいるらしくてな」


「それは助かります」


「ただ、祭りの期間は混むから、早めに決めた方がいいってさ」


 エリアスは紙を受け取った。


 一軒目は、大通りに面した大きな宿。


 二軒目は、湖の近くにある小さな宿。


 三軒目は、少し離れた静かな住宅街にある宿だった。


「……こちらが、よさそうですね」


 エリアスが指差したのは、湖の近くにある小さな宿だった。


「お、そこか」


「はい。朝食がついているそうですし、窓から湖が見えるお部屋もあるようです」


「確かに、いい宿らしいぞ」


 カイルは頷いた。


「ただ、少し値段は高い」


「そうなのですか」


 エリアスは金額を確認した。


 王都の高級宿と比べれば、ずっと手頃な値段だった。


「……問題ありません」


 あっさり答えると、カイルは少し笑った。


「そういや、お前、金にはあんまり困ってないんだったな」


「生活費は、きちんと管理しているつもりです」


「そうなのか?」


「はい。毎月、必要なものを書き出しています」


 カイルは少し意外そうな顔をした。


「へえ。堅実なんだな」


「ただ、今月は椅子を買ってしまいました」


 エリアスが真面目に言うと、カイルは吹き出した。


「椅子くらい買っていいだろ!」


「ですが、予定にはなかった出費ですので」


「お前、普段あれだけ難しい魔法を扱えるのに、妙なところで慎重だよな」


 エリアスは首を傾げた。


 難しい魔法と家計の管理には、特に関係がないように思えた。


 そのことを説明しようとしたが、カイルがまだ笑っていたので、やめておいた。


     ◇


 午後、エリアスはレオンハルトを訪ねた。


 先日見せてもらった石材の図面について、テレサへ写しを渡すことになっていたからだ。


 古書店へ入ると、レオンハルトは珍しく店の奥で荷造りをしていた。


 木箱の中へ、古い本を一冊ずつ並べている。


「こんにちは」


「……来たか」


 レオンハルトは顔を上げた。


「ちょうどいい。これを持っていってくれ」


 彼は薄い封筒を差し出した。


 中には、石材の図面を写した紙が入っている。


「ありがとうございます。テレサさんへお渡しします」


「ああ。それと、こっちも見てほしい」


 レオンハルトは机の上へ一冊の古い帳簿を置いた。


「以前話していた、三十二基の石枠についてだ」


 エリアスは椅子へ腰を下ろした。


「何かわかったのですか?」


「少しだけな」


 レオンハルトは帳簿を開いた。


 そこには、古い工事の記録が細かく書かれている。


「三十二基という数が妙だと思っていたが、どうやら全部が新しく作られたわけではないらしい」


「……そうなのですか?」


「ああ。半分以上は、既存の石枠を補修したものだった」


 エリアスは記録を読み進めた。


『既設点検口補修 二十一基』


『新設点検口 十一基』


 合計三十二基。


「……なるほど」


 エリアスは頷いた。


「では、もともと二十一か所に点検口があったのですね」


「少なくとも、七十年前にはそうだったらしい」


 レオンハルトは続けた。


「しかも、新設された十一か所のうち、いくつかは街の住宅地にある」


 エリアスは顔を上げた。


「住宅地ですか?」


「ああ。ほら、ここだ」


 レオンハルトは古い地図を広げた。


 そこには、現在のフィオーレとは少し違う街並みが描かれている。


 小さな丸印が、いくつも記されていた。


 その中のひとつは、エリアスの家の近くにある。


「……これ」


「お前の家の北側だろう」


「はい」


 エリアスは地図を見つめた。


 マルタが話していた石の蓋。


 テレサの測定で確認された、地下の硬い構造物。


 それらが、この点検口に当たる可能性があった。


「……場所が、ほぼ一致していますね」


「そうだな」


 レオンハルトは頷いた。


「ただ、七十年前の地図だからな。今の土地の境界とは違う可能性もある」


「ええ。テレサさんにも確認していただきます」


 エリアスは手帳へ記録した。


 それから、ふと疑問が浮かんだ。


「……どうして、わざわざ住宅地に新しく点検口を作ったのでしょう」


 レオンハルトは少し考えた。


「流路を維持するために必要だったのかもしれない」


「……なるほど」


「ただ、それだけなら、既存の施設を補修すれば済むはずだ」


 エリアスは顔を上げた。


「では、何か理由があったのでしょうか」


「おそらくな」


 レオンハルトは帳簿の別の行を指差した。


 そこには、短い注記が残されていた。


『北方流路の変位に伴い、補助点検口を追加。』


 エリアスはその文字を読み直した。


「……流路の変位?」


「そう書かれている」


 レオンハルトは頷いた。


「七十年前、地下の流れが変わったのかもしれない」


 エリアスは考え込んだ。


 水の流れか。


 魔力の流れか。


 あるいは、その両方か。


 今の段階では判断できない。


 ただ、ヴェルナーが点検口を増やした理由が、少し見えてきた。


「……重要な記録ですね」


 エリアスが言うと、レオンハルトは小さく頷いた。


「ああ。これまでの資料より、現地の状態に近い話だ」


 エリアスは帳簿を見つめた。


 七十年前の研究者は、単に古い結界を動かそうとしていたのではない。


 すでに変化し始めていた地下の流路を、何とか維持しようとしていたのかもしれなかった。


     ◇


 夕方、エリアスはテレサの仕事場へ立ち寄った。


 図面の写しを渡すと、彼女はすぐに机へ広げた。


「……これが例の石枠ね」


「はい。レオンハルトさんが見つけてくださいました」


 テレサは図面を覗き込んだ。


「なるほど。思っていたよりしっかりした構造ね」


 彼女は側面の溝を指差した。


「ここ、わかる?」


「はい」


「石枠の周りに、水が溜まらないようにしてあるのよ」


 エリアスは目を凝らした。


 確かに、外側へ水を逃がすための小さな溝が刻まれている。


「……では、点検口そのものを水から守るための仕組みですね」


「そういうこと」


 テレサは頷いた。


「しかも、下側の空間には直接水が入らないようになってる」


 エリアスは考え込んだ。


 雨の日に聞こえた音。


 庭の下を通る二つの流れ。


 そして、石枠の周囲へ設けられた排水用の溝。


 すべてが、少しずつつながってきていた。


「……この構造なら、雨水が増えても下の流路を守れるのでしょうか」


「少なくとも、そういう設計には見えるわ」


 テレサは図面を机へ置いた。


「ただ、七十年も経ってるなら、今も同じように働くとは限らないわね」


「そうですね」


「それに、流路が変わったって記録もあるんでしょう?」


「はい」


 エリアスは帳簿の写しを差し出した。


 テレサはそれを読み、眉を寄せた。


「……変位、ね」


 彼女はしばらく考えていたが、やがて古い地盤図を取り出した。


「これ、少し気になるわ」


 エリアスは隣へ立った。


 テレサが指差したのは、エリアスの家から北へ離れた場所だった。


 そこには、細い線が二本描かれている。


「昔の地下流路は、こっちを通っていたらしいの」


 彼女は一本目の線をなぞった。


「でも、七十年前の補修後の記録では、少し東へずれている」


 もう一本の線を指差す。


 エリアスは目を凝らした。


「……本当ですね」


「たぶん、地盤の変化で元の流路が使いにくくなったんでしょうね」


「それで、新しく点検口を作ったのでしょうか」


「その可能性はあるわ」


 テレサは頷いた。


「ただ、問題はここからよ」


 彼女は二本の線が交わる場所を指差した。


「この辺り、今も地盤が少し不安定なの」


 エリアスは地図を見つめた。


 街の北東側。


 住宅地と林道の間にある、緩やかな斜面だった。


「……危険な状態でしょうか」


「今すぐ崩れるような場所じゃないわ。でも、雨が続くと地面が緩みやすい」


 テレサは少し考えた。


「一度、セドリック様にも相談した方がいいわね」


「はい。私からもご連絡します」


「お願い」


 テレサは図面を丁寧に畳んだ。


「それにしても、ヴェルナーって人、ずいぶん細かく調べてたのね」


「ええ」


 エリアスは頷いた。


「記録を見る限り、現地の状況をよく理解していた方だったようです」


「だったら、途中で仕事をやめたのには理由があるんでしょうね」


 テレサは何気なく言った。


 エリアスは少し考えた。


 七十年前、ヴェルナーは何を見つけたのだろう。


 そして、なぜ改修計画は延期されたのか。


 まだ答えは出ていない。


 けれど、少しずつ、その当時の人々が何をしようとしていたのかが見え始めていた。


     ◇


 夜、新しい家へ戻ると、リュカが玄関まで迎えに出てきた。


「ただいま戻りました」


 白い獣は足元を一周し、エリアスの鞄へ鼻先を近づけた。


「……何か気になりますか?」


 リュカは短く鳴いた。


 エリアスは鞄を開いた。


 中には、昼間カイルと相談した旅行の宿の案内が入っている。


「……これでしょうか」


 紙を取り出すと、リュカは少し興味を失ったように離れていった。


 どうやら、食べ物ではないとわかったらしい。


 エリアスは笑いながら居間へ向かった。


 夕食を済ませたあと、書斎の机へ座る。


 今日の調査記録を整理し、セドリックへ送るための短い報告書を書く。


 地盤の変位。


 新しく設けられた点検口。


 そして、北東側の斜面についての注意事項。


 必要なことだけをまとめ、明日届けることにした。


 それから、旅行の宿の案内を広げる。


 湖の見える小さな宿。


 朝食つき。


 リュカの同行も相談できる。


 エリアスはしばらく眺めたあと、手帳へ書き込んだ。


『セレーネの宿――カイルに相談して予約する。』


 書き終えると、自然に笑みがこぼれた。


 研究のことも、街のことも、まだ調べたいことは多い。


 けれど、それとは別に、これから楽しみにしている予定がある。


 そのことが、何より嬉しかった。


 エリアスは椅子から立ち上がった。


 窓の外では、庭の木が静かに揺れている。


 明日は、セドリックへ報告書を届けよう。


 それから、鈴蘭亭でノアに次の料理を教わるのもいい。


 旅のことは、カイルともう少し相談したい。


 やりたいことが増えていく。


 それは、宮廷にいた頃の忙しさとは違うものだった。


 エリアスはリュカを抱き上げ、書斎の明かりを落とした。


 フィオーレでの暮らしは、少しずつ、彼自身のものになり始めていた。


     ◇


 一方、王都の王宮では、オスカーが七十年前の再審査申請について調べていた。


 ヴェルナーが提出した、安全性確認のための申請書。


 その末尾には、追加資料の提出を求める記録が残されていた。


 しかし、その後の書類は見つかっていなかった。


 オスカーは王宮の記録管理官へ、当時の行政文書の確認を依頼していた。


 夕方になって、ようやく返事が届く。


 書類の束の中に、一枚だけ古い写しがあった。


『北方境界術式改修計画――補足資料受領記録』


 オスカーは目を留めた。


 日付は、再審査申請から二週間後。


 つまり、ヴェルナーは求められた追加資料を、きちんと提出していたことになる。


 オスカーは記録を読み進めた。


 受領者の署名。


 保管番号。


 そして、移管先。


 最後の欄には、短くこう記されていた。


『王宮保管庫第三室へ移管。』


 オスカーは眉を寄せた。


 王立魔導院ではなく、王宮の保管庫。


 なぜ研究資料が、そこへ移されたのだろう。


 ただ、正式な移管記録がある以上、何かの手続きが行われたことは確かだった。


 彼は紙を置き、しばらく考えた。


「……第三室、ですか」


 王宮の古い保管庫は、何度も改修されている。


 七十年前の第三室が、現在どこに当たるのかは、すぐにはわからない。


 オスカーは机の引き出しから、王宮の古い見取り図を取り出した。


 明日、管理官と確認してみよう。


 そう決め、書類をまとめた。


 失われたと思われていた報告書は、もしかすると王宮のどこかに残されているのかもしれない。


 まだ確かなことはわからない。


 けれど、調べるべき場所は、ようやく絞られてきた。


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