第45話 雨の日にだけ聞こえる音
エリアスが鈴蘭亭の厨房へ顔を出すと、ノアはちょうど焼き上がったパンを取り出しているところだった。
「おはようございます」
「あ、エリアスさん! 来ましたね」
ノアは天板を置き、嬉しそうに振り返った。
「例のスープ、持ってきてくれました?」
「はい。こちらに」
エリアスは手にしていた籠を持ち上げた。
中には、蓋のついた小さな鍋が入っている。
ミラから借りた大鍋で作ったものを、今朝、必要な分だけ移してきたのだ。
ノアは鍋を受け取り、蓋を開けた。
「おっ、いい匂い」
「昨日、少し温め直したので、野菜は柔らかくなっていると思います」
「じゃあ、さっそく味見しましょう」
ノアは小皿へ取り分け、少し冷ましてから口へ運んだ。
エリアスはその様子を見守った。
宮廷で術式の審査を受けたときより、なぜか落ち着かない。
ノアは二口ほど食べ、顔を上げた。
「……おいしいですよ」
「本当ですか?」
「はい。ちゃんと野菜の味が出てますし、塩加減もちょうどいいです」
エリアスはほっと息をついた。
「よかったです」
「ただ、じゃが芋はもう少し後から入れてもいいかもしれませんね。ほら、ここが少し崩れてるでしょう?」
ノアは皿の端を指差した。
「煮込みすぎると形がなくなっちゃうんです」
「次は気をつけます」
「でも、最初に比べたらすごく上手になりましたよ」
ノアは笑った。
「今度は肉料理もやってみます?」
「ぜひお願いします」
そこへミラが厨房へ入ってきた。
「何だい、二人して楽しそうに」
「母さん、エリアスさんのスープだよ」
「ああ、持ってきてくれたのかい」
ミラも小皿へ少し取り、味を確かめた。
「……うん。おいしいじゃないか」
「ありがとうございます」
「これなら家で困ることもないね」
エリアスは少し考えた。
「ただ、量を間違えなければ、ですが」
ミラは声を立てて笑った。
「それは何度か作れば覚えるよ。うちだって、客の人数を読み違えて余らせることはあるんだから」
「母さんの場合は、足りなくなる方が多いけどね」
ノアが言うと、ミラは振り返った。
「それなら、あんたがちゃんと人数を数えておくれ」
「はいはい」
「返事は一回!」
エリアスは思わず笑った。
こんな何気ないやり取りを聞いているだけで、朝から気持ちが明るくなる。
王都で暮らしていた頃には、知らなかった時間だった。
◇
テレサの仕事場は、南の職人街にあった。
低い石造りの建物で、入口には測量用の棒や縄が立てかけられている。
エリアスが扉を叩くと、中から返事が聞こえた。
「開いてるわよ!」
中へ入ると、壁一面に地図が掛けられていた。
机の上にも紙が広がり、棚には大小さまざまな測量器具が並んでいる。
奥ではテレサが、大きな紙を机に固定していた。
「いらっしゃい。ちょうど準備できたところよ」
「こんにちは。お忙しいところ、ありがとうございます」
「気にしないで。私も確認しておきたかったから」
テレサは椅子を勧めた。
エリアスが腰を下ろすと、彼女は二枚の地図を並べた。
一枚は現在の地形図。
もう一枚は、数十年前の地盤調査記録だった。
「昨日の続きなんだけどね」
テレサは古い地図を指差した。
「この辺り、昔から雨のあとに地面が沈みやすかったらしいの」
「旧林道の東側ですね」
「そう。それで、何度か補修工事をしてるんだけど、妙なのはここからなのよ」
彼女はさらに古い記録を取り出した。
紙は黄ばんでいたが、文字はまだ読める。
『地下空洞確認。石造構造物あり。埋戻し不要。』
エリアスはその最後の言葉に目を留めた。
「……埋め戻しは不要?」
「普通なら、地面が沈む原因になる空洞は補強するでしょう?」
「そうですね」
「でも、この記録では、わざわざ残しておくよう指示されているのよ」
テレサは腕を組んだ。
「しかも、理由が書いてない」
エリアスは記録を見つめた。
地下に古い水路があるのなら、その空間を塞いでしまえば魔力の流れに影響が出る。
けれど、当時の工事担当者がそれを理解していたのかどうかはわからない。
「……誰が指示を出したか、記録は残っていますか?」
「それがね」
テレサは別の欄を指差した。
そこには、担当者の名前が記されていた。
『技術監修 アルノルト・ヴェルナー』
エリアスは目を見開いた。
「……ヴェルナー?」
「知ってる人?」
「はい。七十年前に、北の森の古い結界を調べていた方です」
テレサは驚いたように顔を上げた。
「へえ。地盤の記録にも名前が残ってたなんて」
エリアスは日付を確かめた。
補修工事が中止されたとされる時期より、少し前だった。
その頃、ヴェルナーはすでに地下の流路について調べていたらしい。
「……では、空洞を残す必要があると、彼はわかっていたのでしょうか」
エリアスが呟くと、テレサは首を傾げた。
「かもしれないわ。でも、これだけじゃ何とも言えないわね」
「そうですね」
エリアスは頷いた。
記録に名前が残されているからといって、すべてを理解していたとは限らない。
当時、ヴェルナー自身も何かを確かめようとしていたのかもしれなかった。
テレサは地図の端を叩いた。
「それと、もうひとつ気になることがあるの」
「何でしょう?」
「この空洞、昔は水路だと思われていたみたいだけど、途中から水が流れた形跡がないのよ」
「……途中から?」
「そう。上の層には水が通った跡がある。でも、その下にある細い空間には、水で削られた跡がないらしい」
エリアスは昨日の観測結果を思い出した。
魔力の流れと、地中の振動が逆方向へ伝わっていたこと。
鈴蘭亭の床下に、二つの溝が重なっていたという話。
それらが、少しずつつながり始めていた。
「……水を通す場所と、魔力を通す場所が分かれていたのかもしれませんね」
テレサは頷いた。
「私はそう考えてる。ただ、確かめるにはもう少し資料が必要ね」
彼女は引き出しから古い紙束を取り出した。
「それで、今度はこれを調べようと思ってるの」
「何の記録でしょう?」
「昔の井戸の調査記録よ」
エリアスは顔を上げた。
「……井戸ですか?」
「ええ。フィオーレには、使われなくなった古い井戸がいくつもあるの。今は塞がれている場所も多いけどね」
テレサは地図へ小さな丸をいくつか書き込んだ。
「その位置を並べると、古い水路の線にかなり近いのよ」
エリアスは地図を見つめた。
北の旧林道。
東側の住宅地。
南の製粉小屋。
そして、街の中に点在する古い井戸。
それらは、一本の線ではなく、緩やかな弧を描いていた。
「……これほど広い範囲に、同じ仕組みが残されているのでしょうか」
「さあね」
テレサは笑った。
「でも、調べてみる価値はあるでしょう?」
「はい」
エリアスは頷いた。
「ぜひ、お手伝いさせてください」
◇
仕事場を出る頃には、空が少し暗くなっていた。
風が湿り気を帯び、遠くの山の上には灰色の雲が広がっている。
エリアスは空を見上げた。
「……雨になりそうですね」
テレサも外へ出てきた。
「そうね。夕方には降るかもしれないわ」
「では、早めに帰った方がよさそうです」
「ええ。足元に気をつけて」
エリアスは礼を述べ、通りへ出た。
職人街を抜け、中央広場へ向かう。
人々は空を見上げながら、少し足早に歩いていた。
露店の商人たちも、商品を片づけ始めている。
エリアスは市場でパンと野菜を買い、新しい家へ戻った。
玄関を開けると、リュカが迎えに出てきた。
「ただいま戻りました」
白い獣は足元を一周し、いつものように居間へ向かう。
エリアスは買ってきたものを台所へ置いた。
窓の外では、ぽつりぽつりと雨が降り始めている。
「……ちょうど間に合いましたね」
そう言った途端、雨脚が少し強くなった。
庭の葉が濡れ、白い花が風に揺れる。
エリアスは窓を閉め、台所で夕食の準備を始めた。
◇
雨が本格的に降り始めたのは、夕食を終えた頃だった。
屋根を叩く音が、静かな家の中に響いている。
エリアスは書斎で本を読んでいたが、ふと顔を上げた。
何かが聞こえた気がした。
雨音とは少し違う。
規則的で、硬いものを軽く叩くような音。
エリアスは本を閉じた。
「……?」
耳を澄ませる。
しばらくすると、また聞こえた。
こつん。
少し間を置いて、こつん。
それから、短く二度。
エリアスは立ち上がった。
音は、庭の方から聞こえているようだった。
窓へ近づき、外を覗く。
雨に濡れた庭には、誰もいない。
花壇も、木も、いつもと変わらなかった。
けれど、音は続いている。
「……もしかして」
エリアスはマルタの話を思い出した。
以前、この家に住んでいたルーヴェルが、雨の日に庭の下から音がすると気にしていたこと。
そして、ベネットも似た話をしていた。
石を叩くような音。
今、聞こえているものとよく似ている。
エリアスは机から小さな観測器を取り出した。
だが、すぐに窓を開けることはしなかった。
雨が強い。
庭へ出るには、あまりよい状況ではなかった。
彼は窓際の床へ観測器を置き、少量の魔力を流した。
水晶の内部が淡く光る。
しばらくして、細い光が北から南へ伸び始めた。
そして、戻ってくるように、もうひとつの光が現れた。
南から北へ。
エリアスは息を呑んだ。
「……やはり、戻っていますね」
以前から感じていた、ごく弱い反応だった。
けれど、今日は少し違う。
戻ってくる光が、いつもよりはっきりしている。
その直後、庭の下から再び音がした。
こつん。
こつん。
短く二度。
エリアスは観測器の光と、音の間隔を確かめた。
完全に一致しているわけではない。
しかし、光が強まる少し前に、地中の音が聞こえているようだった。
彼は手帳を開き、時刻を書き留めた。
そのとき、リュカが書斎へ入ってきた。
白い獣は窓の方へ歩き、静かに座った。
「……リュカも、気になりますか?」
エリアスが尋ねると、リュカは小さく鳴いた。
けれど、いつものように魔力を使おうとはしない。
ただ、庭の方を見つめている。
エリアスはその隣へしゃがんだ。
「大丈夫ですよ。今夜は、様子を見るだけにしましょう」
リュカは顔を上げた。
エリアスはその頭を撫でた。
雨音が窓を叩き続けている。
庭の地下では、古い仕組みが今も動いていた。
◇
翌朝、雨は上がっていた。
エリアスは庭へ出て、北側の塀を確かめた。
地面は湿っていたが、目立った沈み込みはない。
花壇の芽も、雨に負けずに立っている。
リュカは濡れた土を避けるように、石畳の上を歩いていた。
「……昨日の音は、もう聞こえませんね」
エリアスは塀の近くへしゃがんだ。
地面を掘らず、手のひらを少し離して魔力の流れを確かめる。
北から南へ。
そして、弱く南から北へ。
二つの流れは残っていた。
ただ、昨夜ほど強くはない。
エリアスは考え込んだ。
雨が降ると、地下の水量が変わる。
その影響で、古い流路の一部が反応しているのかもしれない。
そう考えると、ルーヴェルが雨の日だけ音を聞いていたことにも説明がつく。
けれど、まだ確かな証拠はなかった。
エリアスは手帳へ記録した。
それから、ふと思いついて家の壁を見上げた。
二階の書斎。
その窓の下に、雨樋が通っている。
雨水は庭の北側へ流れるようになっていた。
「……雨樋、ですか」
エリアスは目を細めた。
もし雨水が地下へ流れ込んでいるなら、その水が古い石の溝へ伝わっている可能性もある。
ただし、勝手に庭を掘り返すわけにはいかない。
テレサに相談した方がよさそうだった。
そう考えたところで、隣の庭からマルタが声をかけた。
「おはよう、エリアスさん」
「おはようございます」
「昨日の雨、すごかったわね」
「ええ。かなり降りましたね」
マルタは北側の塀を見た。
「……あら、そこを見てたの?」
「はい。少し気になることがありまして」
「ルーヴェルさんも、よくそこを見てたわ」
エリアスは顔を上げた。
「……そうなのですか?」
「ええ。雨が降った翌朝になると、決まって庭へ出てたのよ」
マルタは懐かしそうに笑った。
「何を見てるのか聞いたら、地下の水の音が変わるんだって言ってたわ」
「……音が、変わる?」
「そう。雨が多い日と少ない日で、音の聞こえ方が違うって」
エリアスは昨夜の記録を思い出した。
地中から聞こえた、規則的な音。
そして、魔力の流れの変化。
「……ルーヴェルさんは、その理由を調べていたのでしょうか」
「そうみたい。でも、結局はわからなかったんじゃないかしら」
マルタは少し考えた。
「ただ、ひとつだけ覚えてることがあるわ」
「何でしょう?」
「ある日、ルーヴェルさんが言ったのよ」
マルタは庭の木へ目を向けた。
「この家の下には、水が通っているだけじゃないのかもしれないって」
エリアスは静かに息を吸った。
それは、今の自分が考えていることと同じだった。
「……そうおっしゃっていたのですね」
「ええ。でも、それ以上は聞かなかったわ。難しいことはよくわからなかったから」
マルタは少し笑った。
「あなたなら、何かわかるかもしれないわね」
エリアスは庭を見渡した。
白い花をつけた木。
新しく芽を出した花壇。
そして、北側の古い塀。
この家には、まだ知らないことが残されている。
けれど、それを急いで明らかにする必要はない。
少しずつ、確かめていけばいい。
「……まずは、地面のことに詳しい方へ相談してみます」
エリアスが言うと、マルタは頷いた。
「それがいいわ。無理に掘ったりしないでね」
「はい。もちろんです」
彼は微笑んだ。
庭の木から、雨の雫がひとつ落ちた。
リュカはそれを避けるように、小さく横へ跳んだ。
エリアスは思わず笑った。
「……濡れるのが嫌なのですね」
リュカは何事もなかったように、石畳の上へ戻った。
朝の光が、濡れた庭を少しずつ乾かしていく。
エリアスは家の中へ戻り、テレサに見せるための記録を整理し始めた。
昨夜の音が何だったのか。
まだ答えは出ていない。
ただ、七十年前の研究者だけでなく、この家に暮らしていた一人の老人も、同じ地下の仕組みに気づいていたのだ。
その事実が、エリアスには不思議と心強く感じられた。




