第44話 地図に描かれなかった水路
エリアスが鈴蘭亭を訪ねたのは、昼食の混雑が落ち着いた頃だった。
食堂にはまだ二組ほど客が残っていたが、窓際の席は空いている。ノアが食器を片づける姿を見つけ、エリアスは声をかけた。
「こんにちは、ノア」
「あ、エリアスさん。今日はお食事ですか?」
「ええ。それと、少し相談がありまして」
「相談?」
ノアは手にしていた皿を重ねた。
「僕でわかることなら、何でも聞いてください」
「実は、スープを作りすぎてしまったんです」
「……スープ?」
「ミラさんにお借りした鍋で作ったのですが、野菜の量を間違えたようで」
ノアはしばらくエリアスを見つめ、それから吹き出した。
「どれくらい作ったんですか?」
「三日分ほどでしょうか。もう少しあるかもしれません」
「一人暮らしですよね?」
「はい」
「それは多いですねえ」
笑いながらも、ノアは少し考えた。
「冷めてから小分けにしておくといいですよ。あと、じゃが芋は煮崩れやすいので、温め直すときは気をつけてください」
「なるほど。ありがとうございます」
「でも、そんなにたくさん作ったなら、今度持ってきてくださいよ。味見します」
エリアスは顔を上げた。
「よろしいのですか?」
「もちろんです。僕が教えたんですから、ちゃんと上達したか確かめたいですし」
「それでは、明日お持ちします」
「楽しみにしてます!」
そこへ厨房からミラが出てきた。
「何をそんなに笑ってるんだい?」
「エリアスさん、スープを三日分も作ったんだって」
「あらまあ」
ミラは目を丸くしたが、すぐに笑った。
「最初はそんなものさ。うちの鍋は大きいからね」
「お借りして助かりました。ただ、もう少し量を考えるべきでした」
「次は半分にすればいいよ」
ミラはあっさり言った。
「それより、ちゃんとおいしくできたのかい?」
「はい。自分では、なかなかよくできたと思っています」
「だったら上出来じゃないか」
その言葉に、エリアスは少し嬉しくなった。
王都では、何かを作れば正確さや効率を求められることが多かった。
けれど、ここでは少しくらい失敗しても、笑い話になる。
そんな違いが、今は心地よかった。
◇
食事を終えて古書店へ向かうと、店先に見慣れない荷車が止まっていた。
積まれているのは、本ではなく細長い木箱だった。
「……測量道具でしょうか」
エリアスが覗き込んでいると、店の中からテレサが出てきた。
「あら、ちょうどいいところに」
「こんにちは、テレサさん」
「あなたに見てもらいたいものがあるのよ」
彼女は木箱を軽く叩いた。
「昨日の観測記録を見ていたら、どうにも気になることがあってね」
エリアスは顔を上げた。
「魔力の反応についてですか?」
「それもあるけど、どちらかというと地面の方ね」
テレサは店の奥へ顎を向けた。
「レオンハルトさんにも地図を借りてるところなの。一緒に見てくれる?」
「もちろんです」
店内へ入ると、レオンハルトが奥の机を片づけていた。
古い地図が三枚、重ねて置かれている。
「来たか、エリアス」
「はい。何か見つかったのですか?」
「俺も今、話を聞いていたところだ」
テレサは地図の前へ立った。
「昨日、三つの観測所で反応が出たでしょう?」
「ええ」
「そのとき、地盤の計測器にも小さな変化があったのよ」
エリアスは驚いた。
「地盤にも、ですか?」
「正確には、地中の振動ね。人が歩いたとか、荷車が通ったとか、そういう揺れとは少し違う」
テレサは木箱から細長い記録紙を取り出した。
紙には細かな線が並んでいる。
「これ、旧林道の高台で測ったものよ」
エリアスは身を乗り出した。
記録の途中に、ごく小さな波が現れている。
時刻を確かめると、観測器が弱い追加信号を受け取った時刻とほとんど一致していた。
「……同じ時間ですね」
「そうなの」
テレサは頷いた。
「最初は偶然だと思ったんだけど、気になって東側の測量員にも確認してもらったのよ」
彼女は二枚目の記録紙を広げた。
そこにも、似た形の波が残っていた。
「……東側にも」
「ええ。ただ、こちらは旧林道より少し遅れてる」
エリアスは時刻を見比べた。
ほんのわずかな差だった。
それでも、確かに順番がある。
「南側はどうだったのでしょう?」
エリアスが尋ねると、テレサは首を振った。
「残念だけど、あっちは地盤の測定器を置いてなかったの。石工組合の倉庫だから、許可を取ってからになるわね」
レオンハルトが地図へ目を向けた。
「だが、二か所で同じ現象が出たのなら、調べる価値はある」
「そうでしょう?」
テレサは少し得意げに笑った。
「それで、古い水路の図面を見せてもらってたのよ」
彼女は二枚の地図を重ねた。
一枚は百年以上前の街の測量図。
もう一枚は、現在の地盤調査で作成されたものだった。
「ここ、見て」
指先が止まったのは、旧林道と東側の観測施設の間だった。
「昔の地図には、この辺りに水路が描かれてる。でも、今の地図にはないのよ」
エリアスは地図を見比べた。
確かに、古い地図では一本の線が続いている。
ところが現在の地図では、その途中に緩やかな丘が描かれていた。
「……地形が変わったのでしょうか」
「それもある。でもね、もっと妙なの」
テレサは地盤調査の記録を取り出した。
「この丘の下、周囲より地面が硬いのよ。普通なら石の層があると考えるところなんだけど、近くの地質と合わない」
「……人工的に作られたものですか?」
「私は、そう考えてる」
テレサは地図を指でなぞった。
「古い石造りの水路か、地下の通路。何かそういうものが残っているんじゃないかしら」
エリアスはしばらく黙っていた。
地下に残る古い魔力の流れ。
地図に描かれなくなった水路。
そして、観測施設の信号とほぼ同じ時刻に生じた振動。
魔力だけを調べていては気づけなかったことだった。
「……それなら、魔力の流れに合わせて、地中の何かが動いているのでしょうか」
「そこまではわからないわ」
テレサは肩をすくめた。
「水の流れが変わってるのかもしれないし、古い石が微かに震えてるだけかもしれない。まずは何があるのか調べないと」
レオンハルトが頷いた。
「観測施設そのものではなく、流路の途中を調べる必要があるわけだな」
「そういうこと」
テレサは満足そうに笑った。
「魔法は詳しくないけど、地面の下なら私にも調べられるからね」
エリアスは顔を上げた。
「……ありがとうございます、テレサさん」
「何よ、急に」
「私だけでは、この変化に気づけなかったと思います」
彼女は一瞬きょとんとしたあと、照れくさそうに笑った。
「だったら、お互い様ね。私はあの光る道具の意味がさっぱりだもの」
レオンハルトが二人を見て言った。
「それで、次はどこを調べる?」
テレサは地図の一点を指した。
「まずはここ。地面が硬くなっている場所よ。ただし、掘るつもりはないわ」
「地表から調べるのですか?」
「ええ。振動の伝わり方と、地中の密度を測る。昔の水路が本当にあるなら、何か違いが出るはずよ」
エリアスは頷いた。
「ぜひ、同行させてください」
「もちろん。そのつもりで来たんだから」
◇
数日後、エリアスはテレサとカイルに同行し、旧林道の東側へ向かった。
今回は観測施設を直接調べるわけではない。
目的は、古い地図にだけ描かれていた水路の位置を確かめることだった。
周囲はなだらかな草地で、ところどころに低い木が生えている。
遠くにはフィオーレの屋根が見えた。
「……この辺りですね」
テレサは測量棒を地面へ立てた。
「昔の地図だと、ちょうどこの下を水路が通っているはずなの」
カイルは周囲を見回した。
「何にもないな」
「地面の下にあるんだから、当たり前でしょう」
テレサが答える。
「いや、そうだけどさ」
カイルは苦笑した。
エリアスは鞄から観測器を取り出した。
テレサは別の道具を地面へ置いている。
細長い金属板と、振動を記録するための小さな針がついた装置だった。
「……それは、どう使うのですか?」
エリアスが尋ねると、テレサは少し嬉しそうに説明を始めた。
「地面に弱い振動を与えて、その戻り方を測るの。下に空洞があるか、硬い石があるかで、反応が違うのよ」
「なるほど」
「ただし、今日は強い振動は使わないわ。古い構造物があるなら、壊したくないもの」
彼女は慎重に装置を調整した。
エリアスも観測器を起動する。
水晶の内部へ、淡い光が灯った。
しばらくして、細い光が北から南へ伸び始めた。
「……流れがありますね」
エリアスが呟く。
テレサは記録針を見つめていた。
最初はほとんど動かなかった針が、わずかに揺れ始める。
「……来たわ」
彼女が言った。
「地中に、周囲とは違う硬い層がある」
エリアスは顔を上げた。
「水路でしょうか」
「まだ何とも言えないけど、少なくとも自然の岩盤とは違いそうね」
テレサは測定位置を少し変えた。
もう一度、弱い振動を送る。
今度は、針が異なる動きをした。
「……あら?」
テレサは眉を寄せた。
「どうされました?」
「少し待って」
彼女は地図を取り出し、測定地点の位置を確かめた。
それから、エリアスの観測器へ目を向ける。
「魔力の流れ、今も北から南?」
「はい」
「……変ね」
テレサは記録紙を見せた。
「こっちの振動は、南側から伝わってきてるの」
エリアスは目を瞬かせた。
「……逆方向ですか?」
「そう」
テレサは頷いた。
「もし古い水路の中を何かが流れているなら、少なくとも地面へ伝わる振動は、南から北へ向かっているみたい」
エリアスは観測器を見つめた。
魔力は北から南へ。
振動は南から北へ。
同じ場所で、二つの異なる向きが確認された。
エリアスはふと、自宅の庭で感じた魔力の動きを思い出した。
北から南へ伸びる流れ。
そして、南から北へ戻る、ごく弱い反応。
「……二つ、あるのでしょうか」
思わず呟く。
カイルが隣から覗き込んだ。
「何が?」
「流路です。ひとつではなく、別々の道が重なっているのかもしれません」
テレサが顔を上げた。
「……ああ」
彼女は何か思い当たったように、地図を広げた。
「それなら、説明がつくかもしれない」
指差したのは、古い水路の線だった。
「昔の水路が、今の地面の下で二層になっているとしたら?」
エリアスは考え込んだ。
鈴蘭亭の床下で見つかった石の溝。
ミラが話していた、さらにその下にあるという細い溝。
同じ構造が、街の外まで続いている可能性がある。
「……上と下で、役割が違うのかもしれませんね」
エリアスが言うと、テレサは頷いた。
「そう。片方が水を通して、もう片方が別のものを通すために作られていたとか」
カイルが腕を組んだ。
「……昔の人、ずいぶん凝ったものを作ったんだな」
「必要があったんでしょうね」
テレサは答えた。
エリアスは地面へ目を向けた。
何もないように見える草地の下に、古い仕組みが眠っている。
それも、想像していたより複雑なものが。
「……今日は、ここまでにしましょう」
エリアスが言うと、テレサは頷いた。
「そうね。これ以上は資料を調べてからの方がよさそう」
カイルはほっとしたように笑った。
「じゃあ、帰るか。そろそろ腹減ったし」
「あなたは本当に、そればっかりね」
テレサが笑う。
「歩くと腹が減るんだって」
カイルは平然と答えた。
三人は道具を片づけ、フィオーレへ戻る道を歩き始めた。
◇
その日の夕方、王都の王立魔導院では、古い研究記録の整理が続けられていた。
研究員の机には、七十年前の図面が広げられている。
その中に、一枚だけ他とは異なるものがあった。
古い水路の断面図だった。
上下に二本の細い通路が描かれ、それぞれに異なる符号がつけられている。
若い研究員が尋ねた。
「……先生、これは水路でしょうか」
年配の研究員は図面を覗き込んだ。
「そう見えるな」
「ですが、上側には水量を示す記号があるのに、下側にはありません」
年配の研究員は目を細めた。
確かに、下側の通路には水量を示す記号がない。
代わりに、古代術式で使われる小さな印が描かれていた。
『帰還』
若い研究員が呟く。
「……魔力を戻すための流路でしょうか」
「その可能性はある」
年配の研究員は図面の端へ目を向けた。
そこには、アルノルト・ヴェルナーの筆跡と思われる短い注記が残されていた。
『水路の閉鎖は、魔力流路の停止を意味しない。』
研究員はしばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「……なるほど。だから地上の施設を閉じても、地下の仕組みは残ったのか」
若い研究員は顔を上げた。
「では、今も動いている可能性が?」
「わからん。七十年も前の設備だ」
年配の研究員は慎重に答えた。
「だが、もし残っているなら、単純に再起動させればいいという話ではないな」
「……どういうことでしょう」
「水路と魔力流路が別々なら、片方だけを動かしても、もう片方の状態によって影響が変わる」
研究員は図面を閉じた。
「中央調整部を動かす前に、流路全体を調べる必要があるということだ」
若い研究員は頷いた。
七十年前に中止された改修計画。
その理由が、少しだけ見えてきた気がした。
◇
夜、フィオーレの新しい家では、エリアスが台所に立っていた。
朝作ったスープを温め直し、パンを薄く切る。
リュカは椅子の下で、すでに夕食を終えていた。
エリアスは食卓へ腰を下ろし、温かなスープを飲んだ。
「……昨日より、おいしくなっていますね」
野菜の味がよく馴染んでいる。
少し大きく切りすぎたじゃが芋も、柔らかく煮えていた。
夕食を終えたあと、エリアスは書斎へ向かった。
机の上には、今日の地盤調査の記録が置かれている。
魔力は北から南へ。
振動は南から北へ。
同じ場所で、異なる向きの反応が確認された。
そして、鈴蘭亭の床下には、二層になった石の溝があるかもしれない。
エリアスは手帳へ短く書き留めた。
『流路は単一ではない可能性。地盤調査との照合を継続。』
筆を置き、窓の外を見た。
庭の木が、夜風に揺れている。
明日は、テレサが地盤調査の記録をもう少し詳しく見せてくれることになっていた。
それから、鈴蘭亭へスープを持っていく約束もある。
どちらも楽しみだった。
「……明日は、少し忙しくなりそうですね」
エリアスは小さく笑った。
足元では、リュカが眠そうに目を細めている。
彼は手帳を閉じ、書斎の明かりを落とした。
窓の外には、フィオーレの穏やかな夜が広がっていた。
街の下を通る古い流路は、今も静かに働き続けている。
その仕組みが何のために作られたのか、エリアスはまだ知らない。
ただ、少しずつ、その輪郭が見え始めていた。




