43.三つの観測点と、古い仕組みの綻び
鈴蘭亭から借りてきた鍋は、エリアスの台所には少し大きかった。
昨夜、ミラが「一人分ずつ作るより、まとめて煮た方が楽だよ」と貸してくれたものだ。
確かに便利そうではある。
ただ、野菜を切って鍋へ入れていくうちに、思った以上の量になってしまった。
「……これは、三日分くらいありますね」
エリアスは鍋の中を見つめた。
人参、じゃが芋、玉葱。
ノアに教わったとおり、野菜の大きさを揃えて切ったつもりだったが、じゃが芋だけ少し大きい。
火の通り方を考えると、もう少し煮込んだ方がよさそうだった。
彼は蓋を戻し、火を弱めた。
床では、リュカが陽の当たる場所に寝そべっている。
「今日は少し時間がかかりそうですよ」
声をかけると、リュカは片耳だけ動かした。
自分の朝食はすでに済ませているため、特に急ぐ理由もないらしい。
エリアスは鍋の様子を確かめながら、窓の外を見た。
庭の花壇には小さな芽が増え、白い花をつけた木の下には、ベネット工房で買った椅子が置かれている。
今日は調査の予定がある。
三つの観測施設から、同じ時間帯の魔力の変化を記録するのだ。
先日レオンハルトたちと話し合い、それぞれに簡易観測器を設置することになった。
ただし、設置場所はすべて安全な場所に限る。
旧林道では地盤調査員のテレサが同行し、崩れた施設には近づかない。
東側の観測点も高台からの測定とし、南側の製粉小屋では石工組合の許可を得て、倉庫の外に観測器を置くことになっていた。
調査というより、測量の仕事に近いかもしれない。
それでもエリアスは楽しみにしていた。
鍋から湯気が上がる。
蓋を開け、じゃが芋へ串を刺してみると、抵抗なく通った。
「……よさそうですね」
味を確かめ、少しだけ塩を足す。
ようやく朝食の完成だった。
◇
午前中、エリアスは冒険者ギルドを訪れた。
受付の奥にある小さな会議室には、すでに関係者が集まっていた。
カイル、レオンハルト、セドリック。
それに、地盤調査員のテレサもいる。
「おはようございます」
エリアスが入ると、カイルが手を挙げた。
「おう、来たな」
「道具は揃ったか?」
レオンハルトが尋ねる。
「はい。昨夜、三台とも確認しました」
エリアスは鞄から小さな箱を取り出した。
中には、銅板と水晶片を組み合わせた観測器が三つ並んでいる。
どれも手のひらに収まるほどの大きさだった。
テレサが興味深そうに覗き込む。
「これ、全部あなたが作ったの?」
「ええ。簡単なものですが」
「簡単って言うけど、ずいぶん細かい仕事ね」
彼女は水晶片を指差した。
「こんなに小さくても、記録が残るの?」
「はい。魔力の強弱を光の変化として記録する仕組みです」
「へえ」
テレサは感心したように頷いた。
「私たちの測量器にも、こういうのが欲しいわ」
「用途によっては使えると思いますよ」
「本当?」
「ええ。地中の魔力による影響を調べることもできますから」
テレサは少し考え、それから笑った。
「じゃあ、今度相談に乗ってもらおうかしら」
「もちろんです」
セドリックが机の上へ地図を広げた。
「では、今日の配置を確認しましょう」
旧林道の帰還観測施設には、エリアスとカイル、テレサが向かう。
東側の分岐観測施設には、領地の魔導技師が測量員とともに配置される。
南側の照合観測施設は、レオンハルトが石工組合のダリオと協力して記録を取る。
セドリックは各地点からの報告を取りまとめる役割だった。
「観測器はそれぞれ、同じ時刻に作動させます」
エリアスが説明すると、カイルが首を傾げた。
「離れた場所で、どうやって時間を合わせるんだ?」
「事前に鐘の時刻を基準にします。作動させるのは、昼の鐘が鳴ってから十分後です」
「なるほどな」
カイルは頷いた。
「じゃあ、遅れないようにしないとな」
「ええ。記録自体はその後も続きますので、多少ずれても比較はできますが、できるだけ揃えたいですね」
セドリックが書類を確認した。
「観測時間は一時間。異常があれば即座に中止。施設そのものには触れない、ということでよろしいですね」
「はい」
全員が頷いた。
調査の準備は整った。
◇
旧林道へ向かう道は、前回より歩きやすくなっていた。
雨で濡れていた地面が乾き、草地には春の花が咲いている。
カイルは先頭を歩きながら、時折足元を確かめていた。
テレサは測量棒を使い、危険な場所がないか調べている。
「この前より土が締まってるわね」
テレサが言った。
「ただ、空洞がある場所は別よ。表面が乾いていても、下が崩れることはあるから」
「了解」
カイルは頷いた。
エリアスも慎重に歩いた。
しばらくして、林の奥に古い石造りの建物が見えてきた。
屋根は崩れ、壁の一部も草に覆われている。
以前と変わらない姿だった。
「……あそこだな」
カイルが足を止めた。
テレサは周囲を確認し、少し離れた高台を指差した。
「観測器を置くなら、あの辺がいいと思うわ。地盤が安定してるし、施設からも十分近い」
「ありがとうございます」
エリアスは高台へ向かった。
平らな石の上に観測器を置き、水平を確かめる。
水晶片はまだ光っていない。
昼の鐘が鳴るまで、少し時間があった。
カイルは近くの木へ寄りかかり、水筒を取り出した。
「しかし、こうして見ると不思議だよな」
「何がですか?」
「ただの古い建物だと思ってたのに、実は森の結界とつながってるんだろ?」
エリアスは建物へ目を向けた。
「そうですね。少なくとも、同じ観測網の一部だった可能性は高いです」
「昔の人は、よくこんなの作ったな」
カイルは感心したように言った。
「しかも、何百年も残ってるんだろ?」
「ええ。補修はされているようですが、基礎となる仕組みはかなり古いものです」
テレサが横から口を挟んだ。
「建物は何度も直してるんでしょうけどね。石の組み方を見ると、古い部分と新しい部分が混ざってる」
「そうなんですか?」
エリアスが尋ねる。
「ええ。あの入口の周りは、後から積み直してるわ。石の大きさが揃ってないでしょう?」
エリアスは目を凝らした。
確かに、入口付近だけ石の形が少し違っている。
「……ヴェルナーの補修でしょうか」
「誰が直したかまではわからないけどね」
テレサは肩をすくめた。
「ただ、古い建物って、使われなくなってからの方が傷みやすいのよ」
「そうなのですか?」
「手入れする人がいなくなるからね。小さなひびも、そのままになる」
エリアスは建物を見つめた。
使われなくなった設備。
残された観測術式。
そして、今も地下を流れ続ける魔力。
古い仕組みが完全に止まらずに残っていること自体が、奇妙なことなのかもしれなかった。
◇
昼の鐘が遠くから聞こえてきた。
エリアスは懐中時計を取り出し、時刻を確かめる。
「……あと十分ですね」
カイルは周囲を見回した。
「こっちは準備できてるぞ」
テレサも頷いた。
「足場も問題なし。観測が終わるまでは、ここから動かない方がいいわね」
エリアスは観測器の前へしゃがんだ。
約束の時刻になり、水晶へ少量の魔力を流す。
淡い光が灯った。
しばらくして、光が一定の間隔で揺れ始める。
三度。
二度。
一度。
そのあと、短く一度。
以前から続いていた信号だった。
「……変わりありませんね」
エリアスは手帳へ記録した。
そのまま観測を続ける。
数分後、信号がもう一度現れた。
三度。
二度。
一度。
短く一度。
周期は安定している。
しかし、その次の反応で、わずかな違いが生じた。
三度。
二度。
一度。
短く一度。
そして、ほとんど消えかけるほど弱い光が、もう一度だけ揺れた。
エリアスは手を止めた。
「……今のは」
カイルが顔を上げる。
「どうした?」
「最後に、もうひとつ反応がありました」
「前にもあったやつか?」
「いえ。これまでの記録にはありません」
エリアスは水晶を見つめた。
弱い光は、すぐに消えてしまった。
もう一度確認できるかと思ったが、その後は元の周期へ戻っている。
テレサが首を傾げた。
「……測定器の誤差じゃないの?」
「その可能性もあります」
エリアスは頷いた。
「ですから、今の段階では判断できません」
彼は記録へ印をつけた。
観測器の異常なのか。
施設からの反応なのか。
あるいは、別の場所から届いた信号が重なったのか。
確かめるには、ほかの二か所の記録が必要だった。
「……とりあえず、予定どおり続けましょう」
エリアスが言うと、カイルとテレサは頷いた。
◇
一時間後、観測は予定どおり終了した。
エリアスは水晶の記録を封じ、観測器を箱へ戻した。
特に危険な反応はなく、魔力の流れも安定している。
ただ、途中で現れた弱い光だけが気になっていた。
「……これで終わりか?」
カイルが尋ねる。
「はい。あとは、ほかの施設の記録と比べてみます」
「じゃあ、戻ろうぜ。腹減ったし」
テレサが笑った。
「あなた、朝からずっとそれ言ってるわね」
「歩くと腹が減るんだよ」
「さっきパン食べてたでしょう」
「それとこれとは別だろ」
カイルは平然と答えた。
エリアスは笑いながら、道具を鞄へしまった。
三人は林を出て、街へ戻る道を歩き始めた。
途中、テレサがふと尋ねた。
「……ねえ、レインフォードさん」
「はい?」
「あなた、どうしてこんな古い仕組みを調べてるの?」
エリアスは少し考えた。
「最初は、森で起きていた魔力の異常が気になったからです」
「それだけ?」
「ええ。調べているうちに、街の暮らしにも関係していることがわかりまして」
テレサは頷いた。
「なるほどね」
エリアスは続けた。
「今は、できるだけ安全な形で、問題を減らせればと思っています」
「……立派なことね」
「いえ。皆さんにも助けていただいていますから」
テレサは少し笑った。
「それなら、これからも遠慮なく頼ってちょうだい」
「ありがとうございます」
エリアスは頭を下げた。
カイルが横から言った。
「ほらな。エリアスは何でも自分でやろうとするから、俺たちが見てないと駄目なんだよ」
「……そんなことは」
言いかけたところで、エリアスは思い直した。
確かに、王都にいた頃は一人で解決しようとしていたことが多かった。
「……気をつけます」
カイルは満足そうに笑った。
「よし!」
◇
夕方、クロイス古書店には三か所の観測記録が集められていた。
机の上には、それぞれの水晶から写し取った光の変化が並んでいる。
エリアス、レオンハルト、セドリック。
そして、カイルとテレサも同席していた。
「……まず、旧林道の記録から見よう」
レオンハルトが言った。
彼は紙の上に、観測した時刻と反応を書き込んだ。
「ここだな。弱い信号が一度だけ加わっている」
「はい」
エリアスは頷いた。
「観測開始から、およそ二十分後です」
「東側の記録は?」
セドリックが別の紙を広げた。
「こちらです」
エリアスは身を乗り出した。
東側の施設でも、ほぼ同じ時刻に弱い反応が確認されていた。
ただし、こちらでは光が二度揺れている。
「……一致していますね」
エリアスが呟く。
レオンハルトは頷いた。
「少なくとも、偶然とは考えにくい」
「南側はどうでしょう」
セドリックが三枚目の記録を広げた。
そこには、さらに興味深い反応が残されていた。
ほかの二か所で弱い信号が現れた直後。
南側の観測器には、短い光が三度記録されていた。
「……三度」
エリアスは目を細めた。
旧林道では一度。
東側では二度。
南側では三度。
しかも、反応が現れた順番も、その並びになっている。
レオンハルトは机の上へ地図を広げた。
「……これは、観測施設同士で情報を送っているのかもしれないな」
「互いに、ですか?」
セドリックが尋ねる。
「ああ。ひとつ目が反応し、次が受け取り、最後にまとめて返す。そんな仕組みなら、この順番にも説明がつく」
エリアスは記録を見比べた。
「……ただ、今の反応だけでは断定できませんね」
「そうだな」
レオンハルトは頷いた。
「少なくとも、三か所が別々に動いているわけではなさそうだ」
エリアスは手帳へ書き留めた。
それぞれの観測施設が、独立した装置ではなく、ひとつの仕組みとして働いている可能性。
そのことが、ようやく記録によって確かめられ始めていた。
「……次はどうするんだ?」
カイルが尋ねた。
エリアスは少し考えた。
「同じ観測を、もう一度行いたいと思います」
「また三か所で?」
「ええ。今回と同じ反応が現れるか確認したいんです」
レオンハルトも頷いた。
「一度だけでは、まだ足りないからな」
セドリックが口を開いた。
「では、数日後に改めて観測しましょう。それまでに、今日の記録を詳しく分析しておきます」
全員が頷いた。
調査は、少しずつ進んでいた。
◇
その夜、王都の王宮では、オスカーが一通の手紙を受け取っていた。
差出人の名前を見て、思わず口元が緩む。
エリアス・レインフォード。
フィオーレから届いた手紙だった。
オスカーは執務室の机に腰を下ろし、封を開けた。
そこには、新しい家へ引っ越したことや、料理を始めたこと、庭に花を植えたことなどが書かれていた。
以前の手紙よりも、ずいぶん日常の話が多い。
『今朝は卵を焼いたのですが、思ったより難しいものですね。』
その一文を読んで、オスカーは小さく笑った。
「……エリアス様らしい」
さらに読み進める。
友人たちが引っ越しを手伝ってくれたこと。
街の人々に親切にしてもらっていること。
そして、仕事を終える時間を自分で決められるのが嬉しいという言葉。
オスカーはしばらく便箋を眺めていた。
休暇を願い出たときのエリアスは、どこか疲れていた。
今の手紙からは、その頃とは違う穏やかさが伝わってくる。
「……よかった」
思わず呟いた。
そのとき、執務室の扉が叩かれた。
「オスカー、いるか」
アルベルト三世だった。
オスカーは立ち上がった。
「陛下」
「何を読んでいた?」
「エリアス様からのお手紙です」
アルベルトの表情が少し和らいだ。
「おお、届いたか」
「はい」
「元気にしているか?」
「ええ。新しい家へ引っ越され、料理や庭仕事を楽しまれているようです」
「料理?」
国王は目を瞬かせた。
「……あのエリアスが?」
「はい」
アルベルトは声を立てて笑った。
「それは面白い。何を作ったんだ?」
「卵料理だそうです」
「うまくできたのか?」
「少し焼きすぎたと書かれております」
アルベルトはしばらく笑っていた。
「……そうか。それはよかった」
オスカーは微笑んだ。
しかし、国王はやがて真面目な表情へ戻った。
「……ところで、例の資料についてだが」
「はい」
「魔導院から、新しい説明が届いた」
アルベルトは一枚の報告書を差し出した。
オスカーは受け取り、内容を確認する。
そこには、七十年前のヴェルナーの研究について、新しい記述があった。
『補助観測施設は、中央調整部へ一方的に情報を送るものではなく、複数の施設間で信号を照合する仕組みを持つ。』
オスカーは目を留めた。
「……観測施設同士で、情報をやり取りするのですか」
「そうらしい」
アルベルトは頷いた。
「だが、肝心の中央調整部については、まだ不明な点が多い」
オスカーは報告書を読み進めた。
最後に、短い一文が記されていた。
『中央調整部が不完全な状態でも、補助観測網のみが再起動する場合がある。』
オスカーは眉を寄せた。
「……もし、現在もその仕組みが残っていたら」
アルベルトは静かに答えた。
「何かが動き始めている可能性はあるな」
オスカーはしばらく考え込んだ。
エリアスから届いた手紙。
そこには、穏やかな辺境の暮らしが綴られている。
一方、王都では古い研究記録が再び調べられ始めていた。
この二つが関係しているなど、今のオスカーには想像もできなかった。
ただ、報告書に記された地名が気になった。
『北方辺境 リュネリア地方』
オスカーは顔を上げた。
「……陛下」
「何だ?」
「この研究が行われた場所は、リュネリア地方なのですね」
「ああ。そのようだ」
「……エリアス様が滞在されているのも、同じ地方です」
アルベルトはしばらく黙った。
それから、静かに言った。
「……偶然かもしれん」
「はい」
「だが、調べておいた方がよさそうだな」
オスカーは頷いた。
「承知いたしました」
アルベルトは窓の外へ目を向けた。
王都の夜景が、遠くまで広がっている。
「……エリアスには、まだ知らせるな」
「はい」
「今は、あいつの暮らしを邪魔したくない」
オスカーは手元の便箋へ目を落とした。
そこには、卵料理の失敗について、少し照れくさそうな文章が書かれていた。
彼は静かに頷いた。
「……私も、そう思います」
◇
フィオーレの新しい家では、エリアスが書斎の机を片づけていた。
今日の観測で、三つの施設が互いに関係している可能性が見えてきた。
けれど、まだ結論を出すには早い。
もう一度観測を行い、同じ反応が現れるか確かめる必要がある。
エリアスは手帳を閉じた。
窓の外では、庭の木が夜風に揺れている。
ベネット工房で買った椅子は、軒下へ移してあった。
明日の朝は、そこで本を読もう。
そのあと、庭の芽を確かめて、昼には鈴蘭亭へ行くつもりだった。
リュカが足元へ寄ってきた。
「……もう寝る時間ですね」
エリアスは白い獣を抱き上げた。
その柔らかな毛へ頬を寄せる。
静かな夜だった。
王都で自分の手紙が読まれていることも、古い研究が再び注目されていることも、今のエリアスは知らない。
ただ、今夜はよく眠れそうだった。




