42.三つの信号と、王都からの知らせ
朝の台所に、香ばしい匂いが広がっていた。
エリアスは鍋の中を覗き込み、木べらでそっと卵を寄せた。以前は火を通しすぎて固くしてしまったが、今日は表面がまだ柔らかいうちに火から下ろす。
皿へ移すと、卵はふんわりとした形を保っていた。
「……できました」
思わず声が出た。
見た目は、ノアが作ってくれたものに近い。
ひと口食べてみる。
少し塩が足りない気もしたが、悪くない出来だった。
足元では、リュカが朝食を終え、満足そうに毛づくろいをしている。
「今日は、うまく焼けましたよ」
エリアスが皿を見せると、リュカはちらりと目を向けた。
しかし、すぐに顔を背けてしまった。
「……興味がありませんか」
それもそうだろう。
リュカにとっては、卵の焼き加減より、鶏肉が十分に用意されているかどうかの方が大切らしい。
エリアスは小さく笑い、残りの朝食を食べた。
食器を片づけたあと、庭へ出る。
花壇には小さな芽が増え、昨日よりも緑が目立つようになっていた。
白い花をつけた木の下には、ベネット工房で買った椅子が置かれている。
エリアスはそこへ腰を下ろした。
膝の上には、昨日の調査記録をまとめた手帳がある。
南側の製粉小屋で見つけた、三つ目の観測施設。
その信号が、銀色のランプにも届いていた。
ただ、気になることがひとつあった。
「……同じ場所からの信号なのでしょうか」
旧林道の帰還観測施設では、基本の周期に短い一度が加わっていた。
南側の照合観測施設では、短い二度。
東側の分岐観測施設では、最初から異なる反応が現れていた。
そして昨夜、ランプが受け取ったのは、南側の施設と同じ信号だった。
ランプは、どの観測点の情報を受け取っているのだろう。
それとも、複数の信号が重なっているのだろうか。
考え始めると、いくらでも疑問が出てくる。
エリアスは手帳を閉じた。
今日は、レオンハルトとセドリックに記録を見せる予定だった。
自分ひとりで考えるより、三人で検討した方が早いだろう。
そう思ったところで、リュカが椅子の下から顔を出した。
「……どうしました?」
白い獣は前脚で、エリアスの靴を軽く叩いた。
それから、庭の奥へ歩いていく。
花壇の縁で立ち止まり、振り返った。
「そちらですか?」
エリアスは椅子から立ち上がった。
リュカが示したのは、北側の塀に近い場所だった。
以前から、地下の魔力が薄くなっていると感じていた一角である。
エリアスは少し離れた石畳へしゃがんだ。
地面を掘り返さず、魔力の流れだけを確かめる。
昨夜までと同じ、弱い反応があった。
けれど、その奥にもうひとつ、異なる流れがある。
北から南へ。
そして、南から北へ。
二つの細い流れが、時間をずらして行き来していた。
「……戻ってきていますね」
エリアスは呟いた。
街の地下にある古い流路。
それは、魔力を一方へ運ぶだけの仕組みではないのかもしれない。
リュカは隣に座り、エリアスの顔を見上げていた。
「教えてくれたのですか?」
そう尋ねると、小さく鳴いた。
エリアスはその頭を撫でた。
「ありがとうございます」
けれど、それ以上は調べなかった。
庭の下に何があるとしても、今はまだ触れるべきではない。
彼は立ち上がり、朝の道具を片づけた。
◇
クロイス古書店を訪れると、すでにセドリックが来ていた。
奥の机には大きな地図が広げられ、その周囲に資料が並べられている。
「おはようございます」
エリアスが声をかけると、セドリックが顔を上げた。
「おはようございます、エリアス殿」
レオンハルトも椅子から立ち上がった。
「ちょうど始めようとしていたところだ」
「間に合ってよかったです」
エリアスは鞄から手帳を取り出した。
机の上には、三つの観測施設の位置が記された地図がある。
北の旧林道。
東側の高台近く。
そして、南の製粉小屋。
それらを線で結ぶと、古い街の周囲に大きな弧が描かれた。
「……こうして見ると、かなり広い範囲ですね」
セドリックが言った。
「ええ。祭殿だけで完結する仕組みではなかったのでしょう」
エリアスは頷いた。
レオンハルトが古い図面を指差す。
「まず、信号について整理しよう」
彼は三枚の紙を並べた。
それぞれに、観測された反応が書き込まれている。
「旧林道の施設では、三、二、一。そのあと短く一度」
「はい」
「南の施設では、三、二、一。そのあと短く二度」
レオンハルトは東側の記録へ視線を移した。
「だが、東の施設では、最初から一、一、長く一度だった」
セドリックが腕を組んだ。
「……単純な番号とは考えにくいですね」
「そうなんです」
エリアスは手帳を開いた。
「私も昨日、記録を見直していました。最初は観測施設ごとの識別番号だと思ったのですが、それだけでは説明できないんです」
レオンハルトは頷いた。
「おそらく、信号には二つの役割がある」
「二つ、ですか?」
セドリックが尋ねる。
「施設そのものを識別する部分と、観測結果を伝える部分だ」
レオンハルトは紙へ簡単な図を描いた。
「たとえば、同じ施設でも状態が変われば、送る信号が変化する。そういう仕組みなら、これまでの反応にも説明がつく」
エリアスは図を見つめた。
「……なるほど。では、旧林道と南の施設で共通している部分は、同じ情報を受け取っていることを示しているのかもしれませんね」
「そうだ。逆に、東側だけ反応が違うのは、別の状態を観測しているからとも考えられる」
セドリックは少し考えた。
「それなら、信号の意味を調べるには、三か所の反応を同時に記録する必要がありますね」
「ええ」
エリアスは頷いた。
「一か所だけでは、どの部分が変化しているのかわかりませんから」
レオンハルトは地図を見た。
「問題は、距離だな」
旧林道と南の製粉小屋では、かなり離れている。
同じ時刻に観測するには、それぞれ人員が必要だった。
「……観測器を設置しておけば、記録は取れます」
エリアスが言った。
「ただし、設置場所の許可と、安全確認が必要ですね」
セドリックは頷いた。
「こちらで手配しましょう。石工組合にも改めて確認を取ります」
「ありがとうございます」
「旧林道の方は、ギルドの協力が必要になりそうですね」
レオンハルトが言う。
「では、エマさんに相談してみます」
エリアスは手帳へ書き留めた。
そのとき、セドリックがふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、エリアス殿。庭の方はいかがですか?」
「順調です。今朝も芽が増えていました」
「それはよかった」
「それから、椅子も届きました」
「椅子?」
「ええ。庭で本を読むためのものです」
セドリックは少し笑った。
「それは、ずいぶん休暇らしいですね」
エリアスも笑った。
「自分でも、そう思います」
レオンハルトが何気なく言った。
「なら、次の観測が始まるまで、少しゆっくりしておけ」
「……そうですね」
エリアスは素直に頷いた。
すると、レオンハルトは少し驚いたような顔をした。
「……珍しいな」
「何がでしょう?」
「いや。以前なら、すぐ次の調査へ行くと言い出していただろうと思ってな」
セドリックが笑った。
エリアスは少し考え、それから小さく肩をすくめた。
「……最近、庭の方も気になるものですから」
その返答に、二人は顔を見合わせて笑った。
◇
午後、エリアスは鈴蘭亭へ立ち寄った。
昼食の時間は過ぎていたが、食堂にはまだ数人の客が残っている。
ノアは厨房で野菜を切っていた。
「あ、エリアスさん!」
「こんにちは」
「今日は早いですね」
「調べ物が少し早く終わりまして」
「じゃあ、何か食べます?」
エリアスは少し考えた。
「軽いものをいただければ」
「わかりました!」
ノアは嬉しそうに頷いた。
しばらくして運ばれてきたのは、小さな焼き菓子と温かい紅茶だった。
「今日はこれ、試しに作ってみたんです」
焼き菓子には、細かく砕いた胡桃が混ぜ込まれている。
「……おいしそうですね」
「ぜひ食べてみてください」
エリアスはひと口食べた。
表面はさっくりとしていて、中は少し柔らかい。
胡桃の香りが広がった。
「……とてもおいしいです」
ノアは安心したように笑った。
「よかった!」
エリアスは紅茶を飲みながら、窓の外を眺めた。
通りには買い物帰りの人々が行き交い、子供たちが楽しそうに走っている。
穏やかな午後だった。
そこへ、ミラが厨房から出てきた。
「エリアスさん、ちょっといいかい?」
「はい」
「この前の物置のことで、ひとつ思い出したことがあってね」
エリアスは顔を上げた。
「何でしょう?」
「昔、あの石の溝を見つけたとき、父さんが言ってたんだよ」
ミラは少し考えながら続けた。
「水路の下に、もう一本、細い溝があるみたいだって」
「……もう一本?」
「ああ。私も詳しく見たわけじゃないんだけどね。石の下に、別の石が重なってるように見えたらしい」
エリアスは考え込んだ。
鈴蘭亭の床下で見つけた古い水路。
その下に、さらに別の溝がある。
もし本当なら、水を流す部分と魔力を流す部分が分かれていた可能性がある。
「……そのお話、以前の記録には残っていませんか?」
「どうだろうねえ。古い修理帳があったかもしれないけど」
ミラは首を傾げた。
「探してみようか?」
「よろしいのでしょうか」
「構わないよ。どうせ今度、物置の続きを片づけるつもりだから」
ノアが横から言った。
「また片づけですか?」
「当然だよ。まだ半分も終わってないんだから」
「……そうだった」
ノアは少し肩を落とした。
エリアスは笑いながら言った。
「次も、お手伝いしますよ」
「助かるよ」
ミラは満足そうに頷いた。
「じゃあ、今度の休業日にね」
エリアスも頷いた。
こうして、またひとつ予定が増えた。
◇
その日の夕方、王都の王宮では、オスカーがアルベルト三世の執務室を訪れていた。
机の上には、王立魔導院から届いた新しい報告書が広げられている。
「……三つの観測施設が、独立して信号を送る仕組みか」
アルベルトは文章を読みながら呟いた。
「はい。魔導院の説明では、そのようです」
オスカーは頷いた。
「ただし、中央調整部が機能していない場合、信号がどのように処理されるかは不明とのことです」
アルベルトは報告書を閉じた。
「……七十年前の研究は、なぜ中止されたのだろうな」
「最終報告書は、まだ見つかっておりません」
「そうか」
国王はしばらく考え込んだ。
「……ヴェルナーという人物については、何かわかったか?」
「はい。北方の結界調査に携わっていた魔導技師で、当時の研究では高い評価を受けていたようです」
「その男が、途中で研究を放棄したとは考えにくいな」
「私も、そう思います」
アルベルトは窓の外へ目を向けた。
「……何か事情があったのだろう」
オスカーは静かに頷いた。
「陛下、ひとつ気になることがございます」
「何だ?」
「ヴェルナーの報告書が失われた時期と、当時の魔導院で研究部門の再編が行われた時期が重なっているのです」
アルベルトは顔を上げた。
「再編?」
「はい。七十年前、古代術式の研究部門が統合され、一部の資料が別の保管庫へ移された記録がございます」
「……なるほど」
国王は腕を組んだ。
「単なる移管なら、記録が残っているはずだな」
「ええ。ただ、移管先の記録が一部欠けています」
アルベルトはしばらく黙った。
やがて、静かに言った。
「……その欠けた記録を調べてくれ」
「承知いたしました」
「ただし、あまり大ごとにはするな。まだ、何か問題があったと決まったわけではない」
「はい」
オスカーは頭を下げた。
それから、少し迷ったように口を開いた。
「……陛下」
「何だ?」
「この件、エリアス様にもお知らせした方がよろしいのでしょうか」
アルベルトは少し考えた。
「……まだ早いだろう」
「そうでございますか」
「あいつは休暇中だ。確かなことがわかるまでは、余計な仕事を増やしてやるな」
オスカーは頷いた。
「承知いたしました」
ただ、彼の胸には小さな疑問が残っていた。
エリアスは古代術式に詳しい。
もしこの資料を見れば、何か気づくことがあるかもしれない。
けれど、国王の言うことも理解できた。
せっかくの休暇を、また王宮の仕事で埋めてしまうわけにはいかない。
オスカーは報告書を閉じた。
今は、もう少し自分たちで調べてみよう。
◇
夜、新しい家へ戻ったエリアスは、書斎で今日の記録を整理していた。
机の上には三つの観測施設の位置を示した地図がある。
旧林道。
東側。
南側。
それぞれを結ぶ線は、古い街を囲むように伸びていた。
エリアスは手帳へ、今日の話し合いの内容を書き留めた。
『信号には、観測施設の識別と、状態を伝える二つの役割がある可能性。』
続けて、別の一文を書く。
『三か所同時の観測が必要。』
筆を置き、窓の外へ目を向けた。
庭では、月明かりに照らされた白い花が静かに揺れている。
椅子の下には、リュカが丸くなって眠っていた。
エリアスは少し笑った。
「……そちらが気に入りましたか」
窓を開け、リュカを抱き上げる。
白い獣は眠そうに目を開け、すぐにエリアスの腕へ顔を埋めた。
そのまま書斎へ戻ると、机の端に置いた銀色のランプが目に入った。
古い観測器。
昨夜は、南側の施設と同じ信号を受け取っていた。
今夜も確認してみようかと考えたが、やめた。
明日から、三か所同時の観測準備が始まる。
今日は十分に休んでおいた方がいい。
エリアスはランプに触れず、書斎の明かりを落とした。
そして、リュカを抱いたまま寝室へ向かった。
王都では、七十年前の研究について、新しい調査が進められている。
フィオーレでは、古い観測施設が少しずつ反応を取り戻していた。
それぞれの場所で、同じ仕組みを調べる人々がいる。
けれど、そのことを、エリアスもオスカーもまだ知らない。
今夜も、二つの街には静かな時間が流れていた。




